『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(5)

2022-02-13 13:06:04 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(5)

 

◎原注49

【原注49】〈49 「すべて労働は、それがすんだあとで代価を支払われる。」(『近時マルサス氏の主張する需要の性質…… に関する原理の研究』、104ページ。)「商人的信用は、生産の第一の創造者である労働者が、彼の節約によって、彼の労働の報酬を1週間とか2週間とか1か月とか4半期とかなどの末まで待てるようになった瞬間に、始まったにちがいない。」(C・ガニル『経済学の諸体系について』、第2版、パリ、1821年、第2巻、150ぺージ。)〉

  これは〈しかし、このような商品、すなわち売りによる使用価値の形式的譲渡と買い手へのその現実の引き渡しとが時間的に離れている商品の場合には(49)、買い手の貨幣はたいていは支払手段として機能する〉という本文につけられた原注です。
  この原注では匿名の著書とガニルの著書から二つの引用が行われています。最初の引用はまあよいとして、あとの方の引用は〈商人的信用は〉、労賃が週賃金などになった瞬間に〈始まったにちがいない〉というのですが、これは正しいとは言えません。ただマルクスは、こうした週賃金などの形態が商業信用の一関係であることを見抜いていることに注目しているのではないでしょうか。
  ガニルについて『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  〈ガニール Charles Ganilh(l758~1836)フランスの経済学者・金融評論家で,新重商主義者.……,マルクスは‘復活した重商主義'とよび,彼を重商主義の‘近代的な蒸しかえし屋'あるいはフェリエとともに‘帝政時代の経済学者'と評価した.
  批判は,まずガニールが,富は交換価値からなり,貨幣--貨幣たるかぎりの商品--だとして,商品の価値を交換の生産物と考えた重商主義的見解に向けられ,それは商品の価値形態から逆に価値が生ずるとする誤れる見方であり,けっきょく,価値の実体を見ることなく,価値のうちにただ商品経済の社会的形態のみを,あるいは実体なきその仮象のみを見るものとした(KⅠ-66.87.98;青木1-164-155.185,203;岩波1-121-122,158.181.MW1第4章第8項). なお富は交換価値からなるという見方に関連して,『剰余価値学史』では,ガニールが,生産的・不生産的労働の区別をも交換によって判断し.労賃の支払われる労働は,非物質的生産に従事する労働や召使などの労働といえども,すべて生産的労働であるとして,スミスの生産的・不生産的労働の区別を論破しようとしたことを,ガルニエ, ローダデールの説と同様,'まったくくだらない話'であり,'大衆文芸的論議",'教養ある饒舌にすぎない'としている(MWI第4章第8項および262:青木2-285-300,428-429),……なお,資料的には,『資本論』第1巻第4章で,労賃の後払いが可能になった瞬間に,商業信用が始まったとする彼の文章を引用している(KI-182:青木2-325・岩波2-58-59).〉(480頁)


◎原注50

【原注50】〈50 「労働者は自分の勤勉を貸す」が、しかし、とシュトルヒは抜けめなくつけ加える、彼は「自分の賃金を失うこと」のほかには「なにも賭けてはいない。……労働者は物質的なものはなにも引き渡しはしない。」(シュトルヒ『経済学講義』ペテルブルグ、1815年、第2巻、36、37ページ。)〉

  これは〈この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損失が時おり生ずるということによってだけではなく(50)〉という本文につけられた原注です。

  シュトルヒは労働者が労働力の使用価値を信用貸しすることを認めながら、さらには賃金を失うこともありうることをも認めていますが、それは物質的なものではないということから、たいしたものではないかに主張して、資本家を弁護しているようです。
  シュトルヒについて『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  〈シュトルヒ Heinrich Friedrich von Storch (17166~1835)ロシアの経済学者.……マルクスの彼にかんする叙述は,つぎの二点に要約される.第一点は社会的総生産物と社会的収入とを区別しようとした人としてである.……(以下、略)……
  第二点はアダム・スミスの生産的労働と不生産的労働の区別づけにかんする倫争におけるもっとも署名な人としてである.……(略)
  その他『資本論』には,むしろマルタス自身の見解を確認するためにシュトルヒの文章を挙げているつぎのような箇所が見られる.第1巻では,本来的原料をmatièreとよぴ補助材料をmatèriauxとよんで両者を区別した人として(KI-I90:青木2-336;岩波2-73). また,賃金が労働期間後に支払われ,その間労働者の信用貸となることに関連して,シュトルヒが労働者は勤労を貸すのであってなんら物質的なものを渡きないのだから賃銀を失うこと以外になんの危険もないと指摘していること(K1-182 :青木2-325;岩波2-59).……(以下・略)〉(499-500頁)


◎原注51

【原注51】〈51 一つの実例。ロンドンには二種類のパン屋がある。パンをその価値どおりに売る「フル・プライスド」と、この価値よりも安く売る「アンダーセラーズ」とである。あとのほうの部類はパン屋の総数の4分の3以上を占めている。(『製パン職人の苦情』に関する政府委員H・S・トリメンヒーアの『報告書』、ロンドン、1862年、XXXIIページ。)(ヘ)このアンダーセラーズが売っているパンは、ほとんど例外なく、明馨やせっけんや粗製炭酸カリや石灰やダービシャ石粉やその他類似の好ましい栄養のある衛生的な成分の混入によって不純にされてある。(前に引用した青書を見よ。また、「パンの不純製造に関する1855年の委員会」の報告、およびドクター・ハッスルの『摘発された不純製品』、第2版、ロンドン、1861年、を見よ。)サー・ジョン・ゴードンは1855年の委員会で次のように言明した。「この不純製造によって、毎日2ポンドのパンで暮らしている貧民は、いまでは実際には栄養素の4分の1も受け取ってはいないのである。彼の健康への有害な影響は別としても。」なぜ、「労働者階級の非常に大きい部分が、不純製造について十分によく知っていながら、しかもなお明馨や石粉などまでいっしょに買いこむのか」ということの理由として、トリメンヒーア(同前、XLVIIIページ)は、彼らにとっては「パン屋や雑貨屋がよこすパンを文句なしに受け取るのはやむをえないことである」ということをあげている。彼らは1労働週間が終わってからはじめて支払を受けるのだから、彼らもまた「彼らの家族が1週間に消費したパンの代価をやっと週末に支払う」ことができるのである。そして、トリメンヒーアは証言を引用しながらつけ加えて次のように言っている。「このような混ぜものをしたパンが特にこの種の客のためにつくられるということは、隠れもないことである。」〔"It is notorious that bread composed of those mixtures,is made expressly for sale in this manner."〕「イングランドの多くの農業地方では」(だがスコットランドの農業地方ではもっと広く)「労賃は2週間ごとに、また1か月ごとにさえ、支払われる。この長い支払間隔のために農業労働者はその商品を掛けで買わなければならない。……彼は、普通より高い価格を支払わなければならないし、実際上、借りのある店に縛られている。こうして、たとえば賃金の月払いが行なわれているウィルトシャのホーニングシャムでは、農業労働者は、よそでは1ストーン当たり1シリング10ペンスで買える小麦粉に2シリング4ペンスも支払うのである。」(『公衆衛生』に関する『枢密院医務官』の『第6次報告書』、1864年、264ぺージ。)「ぺーズリとキルマーノック」(西スコットランド)「のサラサ捺染工は1853年にストライキによって支払期間の1か月から2週間への短縮をかちとった。」(『工場監督官報告書。1853年10月31日』、34ページ。)そのほかにも、労働者が資本家に与える信用のおもしろい発展としては、イギリスの多くの炭鉱所有者の用いる方法をあげることができる。これによれば、労働者は月末になってからはじめて支払を受け、それまでのあいだ資本家から前貸しを受けるのであるが、前貸しはしばしば商品で行なわれ、これにたいして彼はその市場価格よりも高く支払わなければならないのである(現物支給制度〔Trucksystem〕)。「炭鉱主たちのあいだでは、彼らの労働者に月に1回支払い、その中間の各週末に現金を前貸しするのが、普通の習慣である。この現金は店」(すなわちトミーショップ〔tommy-shop〕、つまり炭鉱主自身のもちものである雑貨店)「で与えられる。労働者はそれを一方で受け取り他方で支払うのである。」 (『児童労働調査委員会。第3次報告書。ロンドン、1864年』、38ページ、第192号。)〉

  これは〈この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損失が時おり生ずるということによってだけではなく(50)、多くのもっと持続的な結果によっても示されている(51)〉という本文につけらた原注ですが、〈この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということ〉が、〈多くのもっと持続的な結果によっても示されている〉ことの説明になっています。
  長い原注ですが、かなりの部分が引用からなっており、文節ごとに細かく検討していく必要はないと考えます。
  まずマルクスは一つの実例として、ロンドンには二種類のパン屋がある話から始めています。一つは通常のパン屋、もう一つは安売りのパン屋です。そして後者のパン屋が売っているパンは粗悪な品物で、さまざまな人体に有害な混ぜ物がなされて、増量されており、そのために安いのでもありますが、しかしそのような有害なパンを労働者が買わざる得ない理由として、労賃の支払が週賃金とか2週間末に支払われるという賃金の支払形態にあることを指摘しています。彼らは1週間か2週間働いたあとになってやっと賃金を受け取るので、それまでの間はパンをツケで買わざるをえず、だからそうした有害なパンでもとにかく信用で売ってくれるパン屋で買わざるを得ないのだというのです。
  またスコットランドの農業地方では、賃金の支払いの間隔がもっと長く、そのあいだ労働者は信用で生活手段を購入せざるを得ず、だからツケで買える店に彼らは縛られており、そのために高い料金でもやむを得ず支払わされているのだと指摘されています。これも賃金の支払形態からくる労働者への搾取の強化の一形態です。
  このように賃金の支払が後払いになることによって、特にその支払が遅くなればなるほど労働者の不利益が大きくなるので、西スコットランドの捺染工たちはストライキに訴えて、支払期間を1カ月から2週間に短縮することを勝ち取ったことが例としてあげられています。
  さらに賃金の支払形態の特徴を生かした資本家による搾取の強化について、マルクスはイギリスの炭鉱労働者の例を挙げています。労働者は月末に支払をうけるので、それまでの生活手段を炭鉱主から前借りするのですが、それは事実上の現物支給であり、その場合の前借りする生活手段はその通常の市場価格よりも高いことが指摘されています。彼らは炭鉱主が経営する店でその前借りをするので、そんな高い商品でも買わざる得ないわけです。彼らへの支払いは月末に1回行われますが、それまでの間の彼らの生活のためには各週末ごとに炭鉱主の店で現金が前貸しされるので、労働者は受け取った現金をそのままその店の商品の購入に当てるので、受け取ったものを、そのまま支払うことになるというのです。


◎第19パラグラフ(流通過程から生産過程へ、貨殖の秘密があばき出される)

【19】〈(イ)いま、われわれは、労働力というこの独特な商品の所持者に貨幣所持者から支払われる価値の規定の仕方を知った。(ロ)この価値と引き換えに貨幣所持者のほうが受け取る使用価値は、現実の使用で、すなわち労働力の消費過程で、はじめて現われる。(ハ)この過程に必要なすべての物、原料その他を、貨幣所持者は商品市場で買い、それらに十分な価格を支払う。(ニ)労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である。(ホ)労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部面の外で行なわれる。(ヘ)そこで、われわれも、このそうぞうしい、表面で大騒ぎをしていてだれの目にもつきやすい部面を、貨幣所持者や労働力所持者といっしょに立ち去って、この二人について、隠れた生産の場所に、無用の者は立ち入るな〔No admittance except on business〕と入り口に書いてあるその場所に、行くことにしよう。(ト)ここでは、どのようにして資本が生産するかということだけではなく、どのようにして資本そのものが生産されるかということもわかるであろう。(チ)貨殖の秘密もついにあばき出されるにちがいない。〉

  (イ)(ロ) 私たちは、すでに労働力というこの独特な商品の所持者に貨幣所持者から支払われる価値の規定の仕方を知りました。この価値と引き換えに貨幣所持者のほうが受け取る使用価値は、現実の使用で、すなわち労働力の消費過程で、はじめて現われます。

 このパラグラフはこれまでの考察を踏まえたまとめであり、次の第5章への移行を、つまり流通過程から生産過程への移行を示すもののように思えます。まずフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈労働力というこの独創的な商品の所有者に支払われる価値が、どのような様式と方法できめられるかは、いまではわかっている。労働力の所有者が交換において買い手に与える使用価値は、彼の労働力の使用そのものにおいて、すなわちその消費において、はじめて現われる。〉 (江夏・上杉訳164頁)

  まず私たちは、これまでの考察によって、労働力商品の独自性とその商品に特有な支払いの仕方を知りました。この独特の商品の価値の支払いが特有なものになるのは、その使用価値の実現の独自性から生まれます。その使用価値とは労働力の発現、すなわち労働そのもののことです。

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈さてわれわれは、自分の貨幣を資本に転化しようとしている・したがってまた労働能力を買う・貨幣所有者が労働者に支払うものはなにか、ということは実際に知っている。そして貨幣所有者が労働者に支払うものは、じつは、労働者の労働能力の、たとえば日々の価値であり、労働能力の日々の価値と一致する価格あるいは日賃銀であって、彼はこの支払いを、労働能力の日々の維持に必要な生活手段の価値に等しい貨幣額を労働者に支払うことによって行なうのである。この貨幣額は、これらの生活手段の生産のために、したがって労働能力の日々の再生産のために必要である労働時間と、ちょうど同じだけの労働時間を表示しているものである。われわれはまだ、買い手のほうがなにを入手するのか、ということは知らない。販売のあとに行なわれる諸操作が独自な本性のものであり、したがってまた特別に考察されねばならないということは、労働能力というこの商品の独自な本性、ならびに、買い手によってそれが買われるさいの独自な目的--すなわち、自分が、自己自身を増殖する価値の代表者であることを実証しようという、買い手の目的--と関連している。さらに--しかもこのことは本質的なことであるが--、この商品の特殊的な使用価値とこの使用価値の使用価値としての実現とが、経済的関係、経済的形態規定性そのものに関係しており、したがってまたわれわれの考察の範囲にはいる、ということがつけ加わる。ここでは付随的に、使用価値ははじめは、どれでもよいなにか一つの任意の素材的前提として現われるのだ、ということに注意を喚起しておいてもよい。〉 (草稿集④81-82頁) 

  (ハ) この消費過程に必要なすべての物、原料その他を、貨幣所持者は商品市場で買い、それらに十分な価格を支払います。

  だから貨幣所持者は労働力商品の消費過程に必要な、つまり労働者が彼の労働を対象化するのに必要なもの、すなわち原料その他を商品市場で購入して、その価格を支払います。ここまでは商品の流通過程における操作です。

  (ニ) 労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程です。

  そして労働力の消費過程というのは、労働力の使用価値を実現する過程、すなわち労働過程であり、同時に商品の生産過程であり、またそこで剰余価値も生産されるわけです。

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈貨幣所有者は、労働能力を買った--自分の貨幣を労働能力と交換した(支払いはあとでやっと行なわれるとしても、購買は相互の合意をもって完了している)--のちに、こんどはそれを使用価値として使用し、それを消費する。だが、労働能力の実現、それの現実の使用は、生きた労働そのものである。つまり、労働者が売るこの独自な商品の消費過程労働過程と重なり合う、あるいはむしろ、それは労働過程そのものである。労働は労働者の活動そのもの、彼自身の労働能力の実現であるから、そこで彼は労働する人格として、労働者としてこの過程にはいるのであるが、しかし買い手にとっては、この過程のなかにある労働者は、自己を実証しつつある労働能力という定在以外の定在をもたない。したがって彼は、労働している一つの人格ではなくて、労働者として人格化された、活動している〔aktiv〕労働能力である。イングランドで労働者たちが、それによって彼らの労働能力が実証されるところの主要な器官によつて、つまり彼ら自身の手によつて、handsと呼ばれていることは、特徴的である。〉 (草稿集④83頁)

  (ホ)(ヘ) 労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部面の外で行なわれます。そこで、わたしたちも、このそうぞうしい、表面で大騒ぎをしていてだれの目にもつきやすい部面を、貨幣所持者や労働力所持者といっしょに立ち去って、この二人について、隠れた生産の場所に、無用の者は立ち入るな〔No admittance except on business〕と入り口に書いてあるその場所に、行くことにしましよう。

  この部分のフランス語版をまず紹介しておきましょう。

  〈労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じように、市場すなわち流通部面の外部で行なわれる。われわれは貨幣所有者や労働力の所有者と一緒に、すべてが表面で、しかも誰の目にも見えるところで起こるような、この騒々しい部面を立ち去り、入ロに無用の者入るべからずと書いてある生産の秘密の実験室の中まで、この二人の後について行こう。〉 (江夏・上杉訳164頁)

  だから労働力の消費は、他のどの商品もそうですが、市場の外で、すなわち流通過程の外部の生産過程で行われます。だから私たちも、このすでに買われた労働力とそれを買った貨幣所持者のあとに付いて、流通過程から生産過程に行くことにしましょう。流通過程は資本主義的生産の表面に現れていて、直接目につくものですが、生産過程はその背後にあって私たちには隠されています。そして「無用のもの立ち入るべからず」という看板がその門に掲げられ、一般人の入門を拒んでいますが、しかし私たちは資本の生産の秘密を探るためにそこに入っていかねばなりません。

  (ト)(チ) ここでは、どのようにして資本が生産するかということだけではなく、どのようにして資本そのものが生産されるかということもわかるでしょう。貨殖の秘密もついにあばき出されるにちがいないのです。

  フランス語版を紹介しておきます。

  〈われわれはそこでは、どのようにして資本が生産するかということばかりでなく、さらになお、どのようにして資本自体が生産されるかをも、見ることになる。剰余価値の製造という、近代社会のこの重大な秘密が、ついに暴露されることになる。〉 (江夏・上杉訳164-165頁)

  この隠れた生産の場所では、どのようにして資本が生産をするのかだけではなくて、どのようにして資本そのものが生産されるのか、すなわち剰余価値が形成されるのかということも、分かるに違いありません。ついに貨殖の秘密が解きあかされるのです。


◎第20パラグラフ(流通過程は自由・平等・所有・利己主義の基礎)

【20】〈(イ)労働力の売買が、その限界のなかで行なわれる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦の人権のほんとうの楽園だった。(ロ)ここで支配しているのは、ただ、自由、平等、所有、そしてベンサムである。(ハ)自由! なぜならば、ある一つの商品たとえば労働力の買い手も売り手も、ただ彼らの自由な意志によって規定されているだけだから。(ニ)彼らは、自由な、法的に対等な人として契約する。(ホ)契約は、彼らの意志がそれにおいて一つの共通な法的表現を与えられる最終結果である。(ヘ)平等! なぜならば、彼らは、ただ商品所持者として互いに関係し合い、等価物と等価物とを交換するのだから。(ト)所有! なぜならば、どちらもただ自分のものを処分するだけだから。(チ)ベンサム! なぜならば、両者のどちらにとっても、かかわるところはただ自分のことだけだから。(リ)彼らをいっしょにして一つの関係のなかに置くただ一つの力は、彼らの自利の、彼らの個別的利益の、彼らの私的利害の力だけである。(ヌ)そして、このように各人がただ自分のことだけを考え、だれも他人のことは考えないからこそ、みなが、事物の予定調和の結果として、またはまったく抜けめのない摂理のおかげで、ただ彼らの相互の利益の、公益の、全体の利益の、事業をなしとげるのである。〉

  (イ)(ロ) 労働力の売買が、その限界のなかで行なわれる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦の人権のほんとうの楽園でした。ここで支配しているのは、ただ、自由、平等、所有、そしてベンサムです。

  ここから最後の二つのパラグラフはいわば補足というべきものでしょう。最初にフランス語版を紹介しておきます。

 〈労働力の販売と購買が行なわれる商品流通の部面は、実際、天賦の人権と市民権との真の楽園である。そこでひとり支配するものは、自由、平等、所有、そしてベンサムである。〉 (江夏・上杉訳165頁)

  すでに私たちは資本の秘密を探るために、生産過程に行くことを前のパラグラフで宣言したのですが、しかし振り返ってみれば、あの流通過程というのは、これから進むであろう生産過程に比べると何と天賦人権の花園だったことでしょう、というのは、ここで支配しているのは、ただ自由であり、平等であり、所有であり、そしてベンサム(利己主義)だったからです。

  ここで〈天賦の人権のほんとうの楽園〉というのは天がすべての人に対して平等に、分かち与えた権利のほんとうの楽園ということになりますが、これはキリスト教の旧約聖書に出てくるアダムとイブが神から追放される前のエデンの園を意味すると説明している文献もありますが、よく分かりません。

  (ハ)(ニ)(ホ) 自由! というのは、ある一つの商品たとえば労働力の買い手も売り手も、ただ彼らの自由な意志によって規定されているだけでしたから。彼らは、自由な、法的に対等な人として契約します。契約は、彼らの意志がそれにおいて一つの共通な法的表現を与えられる最終結果です。

  まずフランス語版です。

  自由! 一商品の買い手も売り手も強制によって行動せず、むしろ自分たちの自由意志によってのみ、規定されているからである。彼らは、同じ権利をもつ自由な人間として、ともに契約を結ぶ。契約とは、彼らの意志が共通の法的表現をそのなかで与えられているところの、自由な産物である。〉 (江夏・上杉訳165頁)

  自由というのは、労働力の売り手も、買い手も、彼らの自由意思にもとづいてその契約を結ぶからです。彼らは等価物同士の交換者として、同じ権利と自由を与えられています。契約はそうした彼らの共通の意志を法的に表現したものです。
 マルクスは『経済学批判・原初稿』で〈流通があらゆる側面からみて個人的自由の現実化であるとすれば、流通の過程は、そのものとしてみるならば……すなわち流通の過程を交換の経済的形態諸規定の点からみれば、それは社会的平等〔Gleichheit〕の完全な実現をなしている。〉(草稿集③126頁)と述べています。つまり自由と平等は内的に結びついたものなのです。『要綱』には〈経済的な形態すなわち交換が、あらゆる面からみて諸主体の平等を措定するとすれば、交換をうながす内容、すなわち個人的でもあれば物象的でもある素材は、自由を措定する。したがって平等と自由が、交換価値にもとづく交換で重んじられるだけではなく、諸交換価値の交換が、あらゆる平等自由の生産的で実在的な土台である。これらの平等と自由は、純粋な理念としてはこの交換の観念化された表現にすぎないし、法律的、政治的、社会的な諸関連において展開されたものとしては、この土台が別の位相で現われたものにすぎない。このことは歴史的にもたしかに確証されてきたことである。〉(草稿集①280頁)とあります。ただ〈自由という諸関連は交換の経済的形態諸規定に直接に関係するわけではなく、交換の法的形態に関係するか、あるいは交換の内容、つまり諸使用価値そのものまたは諸欲求そのものに関係するかのどちらかだ〉(草稿集③126頁)とも述べて、自由そのものは経済的形態規定性には直接関係しないとも述べています。〈自由と平等とは、純粋な理念としては、交換価値の過程のさまざまの契機の観念化きれた〔idealisirt〕表現であり、また法的、政治的および社会的な諸関連において展開されたものとしては、それらがただ〔経済とは〕別の展開位相〔Potenz〕において再生産〔再現〕されたものにすぎない〉(草稿集③134頁)のです。

  (ヘ) 平等! というのは、労働力の所持者も、貨幣の所持者も、ただ互いに商品所持者として関係し合い、等価物と等価物とを交換するのですから。彼らはその関係において平等なのです。

  『経済学批判・原初稿』から紹介しておきましょう。

  〈流通の諸主体としては、彼らはさしあたり交換を行う者であって、どの主体もこの規定において、したがって同一の規定において定立されているということが、まさに彼らの社会的規定をなしているのである。彼らは実際にはただ、主体化された交換価値〔subjektivirte Tauschwerthe〕として、すなわち生きた等価物として、つまり同等な者〔Gleichgeltend〕として対応しあっているにすぎない。彼らはそのような交換の諸主体としてただ平等であるというだけではない。そもそも彼ら相互のあいだにはなにひとつ差異がないのである。彼らが対応しあうのはもっぱら交換価値の占有者、および交換を必要としている者〔Tauschbedürftige〕としてであり、同一の、一般的で無差別の社会的労働の代理人〔Agent〕としてである。しかも彼らは等しい大きさの交換価値を交換する。というのは、等価物どうしが交換されるということが前提されているからである。各人の与えるものと受け取るものとが同等であるということが、ここでは過程それ自身の明示的な契機である。[彼らが]交換の諸主体としてどのように対応しあうかということは、交換行為において確証される。交換行為とは、そのものとしては、ただこの確証でしかない。彼らは交換を行なう者として、したがって同等なものとして定立され、彼らの商品(客体)は等価物として定立される。彼らが交換するものは等しい価値をもつものとしての彼らの対象的定在にほかならない。彼ら自身は等しい大きさの価値があるわけであるが、彼らが互いに同等で無差別のものとして確証されるのは、交換行為においてである。等価物はある主体が他の主体のために対象化したものである。すなわち等価物そのものは、等しい大きさの価値があるわけであるが、これらが互いに同等で無差別のものとして確証されるのは、交換行為においてなのである。諸主体は交換のなかで、ただ互いに相手に対する等価物を通してのみ同等な者として存在し、一方が他方に対して呈示する対象性の転換を通じて〔のみ〕、互いに同等なものとして確証されるのである。彼らは、ただ互いに相手に対して等価の主体としてのみ存在するのであるからこそ、同等であると同時に互いに無差別でもあるのである。彼らのそれ以外の区別は彼らには関係がない。彼らの個人的な特殊性は過程のなかには入ってこない。彼らの諸商品の使用価値の素材的な差異は、商品の価格としての観念的定在にあっては消えうせており、この素材的差異か交換の動因となっているかぎりでは、彼らは互いに相手の欲求であり(各々の主体が他の主体の欲求を代表する)、ただ等量の労働時間によって充足される欲求にすぎない。この自然的な差異こそ、彼らの社会的平等の根拠であり、彼らを交換の諸主体として定立するものなのである。かりにAの欲求がBの欲求と同一であり、かつAのもっている商品が充足する欲求とBのもっている商品が充足する欲求とが同一であったとすれば、経済的諸関連を問題とするかぎりでは(つまり彼らの生産の面からみれば)、両者のあいだにはまったくどのような関連も存在しないであろう。彼らの労働および彼らの商品の素材的差異を媒介にして彼らの諸欲求を互いに充足しあうことによってこそ、彼らの平等がひとつの社会的関連として成就され、彼らの特殊な労働が社会的労働一般のひとつの特殊な存在様式になるのである。〉 (草稿集③126-128頁)

  (ト) 所有! というのは、どちらもただ自分のものを処分するだけですから。

  『要綱』には次のような説明があります。

  〈単純流通そのもの(運動しつつある交換価値)においては、諸個人の相互的行動は、その内容からすれば、ただ彼らの諸必要を相互に利己的に満足させることにすぎず、その形態からすれば、交換すること、等しいもの(諸等価物)として措定することであるとすれば、ここでは所有〔Eigenthum〕もまたせいぜい、労働による労働の生産物の領有〔Appropriation〕として措定されているにすぎず、また自己の労働の生産物が他人の労働によって買われるかぎりで、自己の労働による他人の労働の生産物の領有として措定されているにすぎない。他人の労働の所有は自己の労働の等価物によって媒介されている。所有のこの形態は--自由と平等とまったく同様に--、この単純な関係のうちに措定されている。〉 (草稿集①271頁)

  また『経済学批判・原初稿』からも紹介しておきましょう。

  〈交換価値の過程に基づく所有と自由と平等との三位一体は、まず最初に17世紀と18世紀のイタリア、イギリスおよびフランスの経済学者たちによって理論的に定式化されたが、それだけではない。所有、自由、平等は、近代ブルジョア社会においてはじめて実現された。〉 (草稿集③134-135頁)
  〈交換価値の制度〔Tauschwerthsystem〕は、そしてそれ以上に貨幣制度は、実際には自由と平等の制度である。そしてより深く展開してゆくにつれて現われてくる諸矛盾は、この所有、自由および平等そのものに内在している諸矛盾、葛藤である。というのは、所有、自由および平等そのものが折あるごとにそれらの反対物に転変するからである。〉 (草稿集③136頁)

  (チ)(リ)(ヌ) ベンサム! というのは、両者のどちらにとっても、かかわるところはただ自分のことだけですから。彼らをいっしょにして一つの関係のなかに置くただ一つの力は、彼らの自利の、彼らの個別的利益の、彼らの私的利害の力だけです。そして、このように各人がただ自分のことだけを考え、だれも他人のことは考えないからこそ、みなが、事物の予定調和の結果として、またはまったく抜けめのない摂理のおかげで、ただ彼らの相互の利益の、公益の、全体の利益の、事業をなしとげるのです。

  まずフランス語版を紹介しておきましょう。

  ベンサム! 彼らのどちらにとっても、自分自身だけが問題だからである。彼らを対面させ、関係させる唯一の力は、彼らの利己主義の、彼らの個別的利益の、彼らの私益の、力である。各人は自分のことだけを考え、誰も他人のことを気にかけないのであって、まさにこのために、事物の予定調和によって、すなわち、全知の摂理の庇護のもとに、彼らはめいあい自分のために、めいめい自分の家で働きながら、同時に、全体の功利、共通の利益のためにも働くのである。〉 (江夏・上杉訳165頁)

  上記の『要綱』の一文のなかにも〈単純流通そのもの(運動しつつある交換価値)においては、諸個人の相互的行動は、その内容からすれば、ただ彼らの諸必要を相互に利己的に満足させることにすぎ〉ないと指摘されています。ただ自分の欲得にもとづいて、利己的な計算だけで、彼らは互いに交換者として関係し合うわけですから。そしてめいめいが自分のことだけを考えて行動することによって、諸関係のなかに内在する社会的な諸法則が自己を発現して、予定調和の摂理が働くことになるわけです。彼らは自分のことだけに関心を持って働きかけながら、その結果として他人の役にも立つのであり、社会全体の共通の利益にも寄与するのです。

  新日本新書版には〈事物の予定調和〉につぎのような訳注が付いています。

  〈〔世界を形成する実体はモナド(単子--1または単位の意)であるが、モナドからなる世界に秩序があるのは、神があらかじめモナド相互に調和をもたらすように定めたからであるとするドイツの哲学者ライプニッツの説にもとづく考え。普遍的調和ともいう。〉 (②301頁)

  最後にベンサムについて『資本論辞典』の説明を見てみおきましょう。
   
  〈ベンサム Jeremy Bentham (1748-1832)イギリスの法学者・功利主義思想の代表者.……彼はエルヴェシゥスのフランス唯物論およびイギリス経験論哲学を学び,道徳・立法の基礎を個人の利益・快楽におき'最大多数の最大幸福'(The greatest happiness of the greatest number)という功利主義をもって市民社会の基礎原理とした.……『資本論』では,この功利主義思想がイギリス・ブルジョアジーの思想として痛烈な批判をあびせられている.(K1-184;青木2 -327-328;岩波2-62).〉(550頁)


◎第21パラグラフ(流通過程の自由・平等の関係から生産過程の資本と賃労働との対立の関係へ)

【21】〈(イ)この、単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのであり、また資本と賃労働との社会についての彼の判断の基準を取ってくるのであるが、いまこの部面を去るにあたって、われわれの登場人物たちの顔つきは、見受けるところ、すでにいくらか変わっている。(ロ)さっきの貨幣所持者は資本家として先に立ち、労働力所持者は彼の労働者としてあとについて行く。(ハ)一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮を売ってしまってもはや革になめされるよりほかにはなんの望みもない人のように。〉

  (イ)(ロ)(ハ) この、単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのです。また資本と賃労働との社会についての彼の判断の基準を取ってきます。
  しかしこの天賦人権の花園を去って、あの隠れた生産過程に私たちは行くのですが、すでに私たちの登場人物たちの顔つきは、見受けるところでは、すでにいくらか変わっています。
  これまでの貨幣所持者は資本家として先に立ち、労働力の所持者は労働力を買った資本家に属する労働者としてあとについて行きます。一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮を売ってしまってもはや革になめされるよりほかにはなんの望みもない人のようにです。

  最初にフランス語版を紹介しておきます。

  〈単純な流通のこの部面は、俗流自由貿易論者にたいして、資本と賃労働にかんする彼の観念、概念、観察方法、判断の基準を提供しているが、われわれがこの部面から離れる瞬間に、われわれの戯曲の登場人物の相貌のなかに、ある変化が起きているように思われる。以前のわれわれの貨幣所有者が先頭に立ち、資本家として最初に行進する。労働力の所有者は、資本家に属する労働者として、後からついて行く。前者は、嘲笑的なまなざし、尊大で忙しそうな様子。後者は、自分自身の皮を市場に運んだが、もはや鞣(ナメ)されるという一事しか期待できない人のように、おずおずと、ためらいがちで、進み渋っている。〉 (江夏・上杉訳165頁)

  このような単純流通や商品交換の部面は、ブルジョア民主主義の基礎となっていますが、そこから小ブルジョアジーたちのそれに対する幻想をもたらす一方で、ブルジョアジーたちが自分たちの利害の隠れ蓑に利用するということが生じてきます。

  『要綱』には次のような一文があります。

  〈単純につかまれた貨幣諸関係のなかでは、ブルジョア社会の内在的対立がすべて消し去られたようにみえ、またこの面からして、ブルジョア経済学者によって現存の経済的諸関係を弁護するための逃げ場とされる以上に(彼らはこのばあい少なくとも首尾一貫していて、交換価値と交換という、貨幣関係以上に単純な規定にさかのぼる)、ブルジョア民主主義によって、この貨幣関係がふたたび逃げ場に使われるのである。〉 (草稿集①275頁)

  しかしこうしたブルジョア社会の表面に現れている天賦人権の花園を去れば、そこには厳しい搾取の現実が待っています。そこでは平等や自由はすでになく、資本と賃労働との対立が待ち構えているのです。同じ『要綱』から紹介しておきます。

  〈現存のブルジョア社会の全体のなかでは、諸価格としてのこうした措定や諸価格の流通などは、表面的な過程として現われ、その深部においてはまったく別の諸過程が進行し、そこでは諸個人のこのような仮象的な〔scheinbar〕平等と自由は消失する。〉 (草稿集①285頁)

  新日本新書版には〈まるで自分の皮を売ってしまって〉に次のような訳者注が付いています。

  〈普通は「危険をしょい込む」「不快な結果に耐える」を意味する慣用句であるが、マルクスは語句どおりに用いて風刺している。〉 (②302)

  また山内清氏(『コメンタール資本論』貨幣・資本転化章)は、同じ部分に次のような説明を加えています。

  〈旧約聖書の「創世記」に、アダムとイブがエデンの園を追放されたとき神が「皮の長い衣」を与えたとある。〉 (284頁)


  (【付属資料】は(6)へ)

 

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