『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.21(通算第71回)(3)

2020-07-10 14:18:53 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.21(通算第71回) (3)

 

【付属資料】

 


●第1パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

 〈支払いが相殺されるかぎりでは、貨幣は消え去りゆく形態として、交換される価値の大きさをはかる、単なる観念的な、つまり表象されているだけの尺度として現われるにすぎない。生身の貨幣が介在するのは、相対的に小さい貸借残高を清算することに限られている。一般的支払手段としての貨幣は、より高度な流通、つまり媒介された、自分のうちに曲げ戻された〔in sich zurückgebogen〕、それ自体すでに社会に統御されている流通--こうした流通においては、単純な金属流通の基礎上で、たとえば本来の貨幣蓄蔵において、貨幣だけがもっている排他的な重要性は、止揚されている--が発展してゆくのと手をたずさえて発展してゆく。〉(草稿集③38頁)

《経済学批判》

  〈貨幣が貨幣蓄蔵によって抽象的社会的富の定在として、素材的富の物質的代理者として展開されるやいなや、それは貨幣としてのこの規定性において、流通過程の内部で独自の機能をもつことになる。貨幣がたんなる流通手段として、それゆえに購買手段として流通する場合には、商品と貨幣とが同時に対立しているということ、したがって同じ大きさの価値が二重に現存していること、一方の極では売り手の手にある商品として、他方の極では買い手の手にある貨幣として現存していることが前提されている。二つの等価物が相対立する両極にこのように同時に存在することと、それらの同時的な位置転換、つまりそれらの交互的外化とは、それとしてまた、売り手と買い手とが現存する等価物の所有者としてだけ互いに関係しあうということを前提している。〉(全集第13巻117頁)
  〈国内流通の内部では、貨幣は観念化されて、ただの紙片が金の代理者として貨幣の機能を果たすのであるが、それと同様に、この同じ過程は、貨幣または商品のたんなる代理者として流通にはいってくる買い手または売り手に、すなわち将来の貨幣または将来の商品を代理する買い手または売り手に、現実の売り手または買い手の効力をあたえる。
  金が貨幣として発展して獲得するすべての形態規定性は、商品の変態のうちにふくまれている諸規定の展開にほかならない。だがこれらの諸規定は、単純な貨幣流通では、貨幣の鋳貨としての登場、つまり過程的統一としての運動W-G-Wでは、独立の姿にまで分離されなかったし、あるいはまた、たとえば商品の変態の中断のように、たんなる可能性として現われただけであった。すでに見たように、W-Gの過程では、現実的な使用価値であり観念的な交換価値である商品が、現実的な交換価値でありただ観念的な使用価値であるにすぎない貨幣と関係した。売り手は使用価値としての商品を譲渡することによって、商品自身の交換価値と貨幣の使用価値とを実現した。逆に買い手は、交換価値としての貨幣を譲渡することによって、貨幣の使用価値と商品の価格とを実現した。それに応じて商品と貨幣との位置転換がおこなわれた。この二面的な対極的対立の生きた過程は、いまやその実現にさいしてふたたび分裂する。売り手は商品を実際に譲渡するが、さしあたってはその価格をまたもやただ観念的に実現するだけである。彼は商品をその価格で売ったのであるが、その価格はこれからさきのある決められた時点にはじめて実現される。売り手は現在の商品の所有者として売るのに、買い手は将来の貨幣の代理者として買うのである。売り手の側では、商品は価格としては実際に実現されないのに、使用価値としては実際に譲渡される。買い手の側では、貨幣は交換価値としては実際に譲渡されないのに、商品の使用価値で実際に実現される。まえには価値章標が貨幣を象徴的に代理したのに、ここでは買い手自身が貨幣を象徴的に代理する。だがまえには、価値章標の一般的象徴性が国家の保証と強制通用力とをよびおこしたように、いまは買い手の人格的象徴性が商品所有者間の法律的強制力ある私的契約をよびおこすのである。〉(全集第13巻117-118頁)
 〈販売の両極が時間的に分離されているこのような掛売りが、単純な商品流通から自然発生的に生じるということは、なんら詳細な証明を必要としない。まず流通の発展にともなって同じ商品所有者たちが互いに売り手と買い手として交互に登場することがくりかえされるようになる。この反復される登場は、たんなる偶然にとどまることなく、商品がたとえば将来のある期日に引き渡されて支払われるということで、注文される。この場合には、販売は観念的に、つまりここでは法律上完了されたのであって、商品と貨幣とはその現身で現われることはない。流通手段および支払手段としての貨幣の二つの形態は、ここではまだ一致している。というのは、一方では商品と貨幣とが同時に位置を転換し、他方では貨幣は商品を買うのではなく、まえに売られた商品の価格を実現するからである。さらにまた、一連の使用価値は、その性質上、商品の実際の引渡しとともにではなく、ただ一定の期間それをゆだねることによってはじめて現実に譲渡されるということになる。たとえば家屋の使用が1ヵ月だけ売られるとすると、その家屋は月のはじめにその持ち手を変えるけれども、その使用価値は1ヵ月が経過したあとではじめて引渡しずみとなる。この場合には、使用価値を事実上ゆだねることと、その現実の外化(譲渡--引用者)とは、時間的にくいちがっているから、その価格の実現も同じくその位置転換より遅れておこなわれる。しかし最後に、いろいろな商品が生産される期間と時期には違いがあるので、ある人は売り手として登場するのに、他の人はまだ買い手として登場できないということが生じる。そして同じ商品所有者たちのあいだで売買がますます頻繁にくりかえされるほど、販売の二つの契機は、彼らの商品の生産諸条件におうじて分離してくる。こうして商品所有者たちのあいだに債権者と債務者との関係が成立する。この関係はたしかに信用制度の原生的基礎をなしているが、信用制度が存在するよりも以前に、十分に発展していることがありうる。それでも、信用制度の成熟、したがってまたブルジョア的生産一般の成熟とともに、支払手段としての貨幣の機能が、購買手段としての貨幣の機能を縮小させることによって、またそれ以上に貨幣蓄蔵の要素としてのその機能を縮小させることによって拡張されることは明らかである。たとえばイギリスでは、鋳貨としての貨幣は、ほとんどもっぱら生産者と消費者とのあいだの小売取引や小口取引の領域に封じこめられているのに、支払手段としての貨幣は、大口の商取引の領域を支配している。〉(全集第13巻120-121頁)

《初版》

  〈これまでに考察してきた商品流通の直接的形態では、同じ大きさの価値が、一方の極には商品、反対の極には貨幣というように、いつでも二重に存在していた。だから、商品所持者たちは、相互に対面しあっている諸等価物の代表者として、接触していたにすぎない。ところが、商品流通が発展するにつれて、商品の譲渡が商品価格の実現から時間的に分離されるという事情が、発展することになる。ここでは、これらの事情のうち最も単純なものを示唆するだけで充分である。一方の商品種類はその生産により長い時間を必要とし、他方の商品種類はその生産により短い時間を必要とする。商品がちがえば、それらの生産はまちまちな季節に結びつけられる。一方の商品は、それの市場所在地で生まれるが、他方の商品は、遠隔の市場に旅しなければならない。だから、一方の商品所持者は、他方の商品所持者が買い手として現われる以前に、売り手として現われることがありうる。同じ取引が同じ人々のあいだで不断に繰り返されるばあいには、商品の販売条件は、商品の生産条件に応じて規制される。一方の商品所持者は手持ちの商品を売り、他方の商品所持者は、貨幣の単なる代表者として買う、あるいは、将来の貨幣の代表者として買う。売り手が債権者になり、買い手が債務者になる。ここでは、商品の変態すなわち商品の価値形態の展開が変わるので、貨幣もまた別の一機能を受け取る。貨幣は支払手段になる(79)。〉(江夏訳130頁)

《フランス語版》

  〈これまで考察してきた商品流通の直接的形態では、同じ価値が、一方の極には商品、他方の極には貨幣というように、いつでもつねに二重に現われる。生産者=交換者たちは、すでに相互に対面しあっている等価物の代理人として関係する。ところが、流通が発展するにつれて、商品の譲渡と商品の価格の実現とを、時間の間隔をおいて分離しようとする諸事情もまた発展する。ここでは、最も単純な事例で充分である。ある種の商品はその生産により長い時間を必要とし・他種の商品はより短い時聞を必要とする。生産の季節は、種々の商品にとって同じではない。ある商品はその市場と同じ場所で発生するが、他の商品は旅をして遠隔の市場に赴かなければならない。したがって、交換者の一方は、他方の交換者がまだ買うことができないのに、売る準備のできていることがある。同じ取引が同じ人々のあいだで不断に更新されるばあいには、商品の売買条件は商品の生産条件にしたがってしだいに規制されるであろう。他方では、ある種の商品たとえば家屋の使用は、ある期間を定めて譲渡されるが、この期限満了後にはじめて、買い手は約定の使用価値を実際に受け取ったことになる。したがって、彼は支払う以前に買うのである。交換者の一方は現存する商品を売り、他方は将来の貨幣の代表者として買う。売り手は債権者になり、買い手は債務者になる。商品の変態がここでは新たな姿態をとるので、貨幣もまた新たな機能を得る。貨幣は支払手段になる。〉(江夏・上杉訳116頁)


●原注96

 《1861-1863年草稿》

  〈「もし、あなたパルツァーがミカエル祭の日までにこの100グルデンを私に返さないのに、私のほうには買いものがあって、私自身や私の子供たちのために、庭とか、畑とか、家とか、私に大きな利益や食料をもたらすであろう原因になるようなものを私は買うことができるかもしれないとすれば、私はそれを断念するよりほかはなく、あなたは、あなたの怠慢と居眠りで私に損失と妨害を加え、私がもはやそのような買いものをすることができないようにするわけである。私はあなたにそれを貸した。そのために、あなたは、私がこちらでは支払ができず、あちらでは買うことができず、したがって両方で損をしなければならないという二重の損害を私に与えている。つまり、起きた損害と逃げた利得という二重の損失というものである。」(マルティン・ルター『牧師諸氏へ、高利に反対して、戒め』、ヴィッテンベルク、1540年。)〉(草稿集⑦533頁

《初版》

  〈(79) ルターは、購買手段としての貨幣と支払手段としての貨幣とを区別している。「汝は私に、私がここでは支払うことができずあそこでは買うことができないという二重の損害を与えている。」(マルチン・ルター『高利に反対して牧師に与う、ヴイツテンベルク、154O年』。〉〉(江夏訳130頁)

《資本論第3巻》

  〈「私はあなたにそれ(100グルデン) を貸した。それによってあなたは、私がこちらでは支払ができず、あちらでは買うことができず、したがって両方で損をしなけれぽならないという二重の損害を私に与えている。つまり、起きた損害と逃げた利得という二重の損失というものである。……(以下略)…… 」(マルティーン・ルター 『牧師諸氏へ、高利に反対して』、ヴィッテンベルク、1540年。)〉(全集第25a巻494頁)

 《フランス語版》  フランス語版にはこの注はない。


●第2パラグラフ

《経済学批判》

 〈それでも、貨幣のさまざまな形態規定性をつくりだす諸商品の変態の過程は、商品所有者たちをも変態させる。つまり商品所有者たちが互いに現われあう社会的性格を変化させる。商品の変態の過程では商品の保管者は、商品が移動するたびごとに、あるいは貨幣が新しい形態をとるたびごとに、その皮膚を変える。こうして商品所有者たちは、はじめはただ商品所有者としてだけ相対していたが、ついで一方は売り手に、他方は買い手になり、それから、どちらもかわるがわる買い手と売り手になり、ついでまた貨幣蓄蔵者になり、ついには金持になった。このように商品所有者たちは、彼らが流通過程にはいったままの姿ではそこから出てこない。じっさい、貨幣が流通過程で得るさまざまな形態規定性は、商品そのものの形態転換の結晶にほかならないが、この形態転換はまたそれとして、商品所有者たちが彼らの物質代謝をおこなうさいの変化する社会関係の対象的な表現にほかならない。流通過程のなかで新しい取引関係が発生し、この変化した関係の担い手として商品所有者たちは新しい経済的性格をもつようになる。〉(全集第13巻117頁)
  〈売り手と買い手は、債権者と債務者になる。商品所有者は、まえに蓄蔵貨幣の保管者として三枚目の役を演じたのに、こんどは彼は、自分ではなくその隣人を一定の貨幣額の定在と考え、自分ではなくこの隣人を交換価値の殉教者にするので、恐ろしいものとなる。彼は信心家から債権者となり、宗教から法学に転落する。
  「証文どおりに願います!」
〔"I stay here on my bond!”〕〉(全集第13巻119頁)

《初版》

  〈債権者または債務者という役柄は、ここでは、単純な商品流通から生じている。この商品流通の形態変化が、売り手と買い手とに、この新たな刻印を押すわけである。だから、それらは、さしあたり、売り手や買い手という役割と同じように、同じ流通当事者たちによってかわるがわるに演じられる束の間の役割である。とはいえ、この対立は、いまでは、生来あまり気持ちのよくないものに見えるし、また、いっそう結晶しやすい(80)。だがまた、これらの役柄は、商品流通にかかわりなく現われることもありうる。たとえば、古代世界の階級闘争は主として、債権者と債務者のあいだの闘争という形態で進行し、ローマでは平民債務者の没落で終わり、この債務者は奴隷に置き換えられた。中世には、闘争は封建的債務者の没落で終わり、この債務者は彼の政治権力をその経済的基盤とともに失った。とはいっても、貨幣形態--ところで、債権者と債務者との関係は貨幣関係という形態をとっている--は、ここでは、もっと深く根ざしている経済的生活諸条件の敵対性を反映しているにすぎない。〉(江夏訳131頁)

《フランス語版》

  〈債権者と債務者の性格は、ここでは単純な流通から生ずる。単純な流通の形態変化が、売り手と買い手に彼らの新たな極印を押すわけだ。したがって、当初この新たな役割は、もとの役割と同じく一時的であり、同じ役者たちによって交互に演ぜられるが、もはやそれほどお人好しの外観をもたず、彼らの対立は、凝固する性質をいっそう帯びやすくなる(46)。同じ性格は、商品流通にかかわりなく現われることもある。階級闘争の運動は、古代世界では、とりわけ、債権者と債務者とのあいだでつねに更新される戦闘という形態をとり、ローマでは、奴隷によって置き換えられる平民債務者の敗北と滅亡をもって終わる。中世では、闘争は封建的債務者の滅亡をもって終わる。この債務者は、彼の支柱になっていた経済的基盤が崩れるやいなや、政治権力を失う。とはいうものの、債務者にたいする債権者のこの貨幣関係は、この両時代では、もっと深い敵対関係を表面上反映しているにすぎない。〉(江夏・上杉訳116-117頁)


●原注97

《1861-1863年草稿》

  〈{資本の残忍さ
  「ここイングランドにおいては、商業に従事する人々のあいだて、他のいかなる人々の集団においても、また世界中の他のいかなる国においてもお目にかかれないような、残忍な精神がまかり通っている。」(2ページ。)(『信用と破産法に関する一論……』、ロンドン、17O7年。債務者と債権者のところでこれを引用すること。)}〉(草稿集⑨665頁)

《初版》

  〈(80) 18世紀初めのイギリス商人のあいだの債務者と債権者との関係については、次のように言われている。「このイギリスでは、商人たちのあいだで、ほかのどんな人間社会でも世界中のほかのどんな国でも出会えないような残忍な精神が、支配している。」(『信用と破産法にかんする一論、ロンドン、17O7年』、2ページ。)〉(江夏訳131頁)

《フランス語版》

  〈(46) 18世紀初めのイギリスの債権者と債務者との関係は、次のとおりである。「ここイギリスでは、商人たちのあいだに、ほかのどんな人間社会でも世界中のほかのどんな国でもこれと同じものには出会えないような残忍な精神が、支配している」(『信用と破産法にかんする一論』、ロンドン、1707年、2ページ)。〉(江夏・上杉訳117頁)


●第3パラグラフ

《経済学批判》

  〈だから、商品が現存し貨幣がただ代理されているにすぎない変化した形態のW-Gでは、貨幣はまず価値の尺度として機能する。商品の交換価値は、その尺度としての貨幣で評価される。だが価格は契約上測られた交換価値として、ただ売り手の頭のなかに実在するだけでなく、同時に買い手の義務の尺度としても実在する。第二に、この場合貨幣は、ただ自分の将来の定在の影を投げかけているだけであるとはいえ、購買手段として機能する。すなわち、貨幣は商品をその場所から、つまり売り手の手から買い手の手へと引き出す。契約履行の期限が来れぽ、貨幣は流通にはいっていく。なぜならば、貨幣は位置を転換して、過去の買い手の手から過去の売り手の手に移ってゆくからである。だが貨幣は、流通手段または購買手段として流通にはいるのではない。貨幣がそういうものとして機能したのは、それがそこにある以前のことであり、貨幣が現われるのは、そういうものとして機能することをやめたあとのことである。それはむしろ、商品にとっての唯一の十全な等価物として、交換価値の絶対的定在として、交換過程の最後のことばとして、要するに貨幣として、しかも一般的支払手段としての一定の機能における貨幣として流通にはいるのである。支払手段としてのこの機能では、貨幣は絶対的商品として現われるが、しかし蓄蔵貨幣のように流通の外部にではなく、流通そのものの内部に現われるのである。購買手段と支払手段との区別は、商業恐慌の時期には、きわめて不愉快に目だってくる。〉(全集第13巻119-120頁)
  〈はじめ流通のなかに生産物の貨幣への転化が現われるのは、商品所有者にとっての個人的必要としてにすぎないのであって、それは彼の生産物が彼にとっては使用価値ではなく、その外化によって(譲渡によって--引用者)はじめて使用価値となるべきものであるかぎりにおいてのことである。ところが、契約期限に支払うためには、彼はあらかじめ商品を売っていなければならない。だから販売は、彼の個人的欲望とはまったく無関係に、流通過程の運動によって彼にとってひとつの社会的必然に転化される。ある商品の過去の買い手として彼は、購買手段としての貨幣ではなく、支払手段としての貨幣、交換価値の絶対的形態としての貨幣を手に入れるために、よんどころなく他の商品の売り手となるのである。完結行為としての商品の貨幣への転化、つまり自己目的としての商品の第一の変態は、貨幣蓄蔵では商品所有者の気まぐれに見えた変態は、いまや一つの経済的機能になってしまっている。支払をするための販売の動機と内容とは、流通過程そのものから発生する販売の内容である。〉(全集第13巻120頁)

《初版》

  〈商品流通の部面に立ち戻ろう。商品と貨幣という二つの等価物が、販売過程の両極に同時に現われなくなった。いまや貨幣は、第一には、売られる商品の価格決定における価値尺度として機能する。契約で確定されたその商品の価格が、買い手の債務を、すなわち、買い手が特定期日に借りている貨幣額を、測ることになる。貨幣は、第二には、観念的な購買手段として機能する。それは、買い手の貨幣支払約束のうちにしか存在しないとはいえ、商品の持ち手変換をひき起こす。満期の支払期限に初めて、支払手段が現実に流通のなかにはいってくる、すなわち、買い手の手から売り手の手に移る。流通手段が蓄蔵貨幣に転化したのだ。なぜならば、流通過程が第一段階で中断したからである、すなわち、商品の転化された姿態が、流通から引き上げられたからである。支払手段は流通のなかにはいってくるが、このことは、商品がすでに流通から出て行ったあとのことである。貨幣はもはや流通過程を媒介しない。貨幣は、交換価値の絶対的存在あるいは一般的商品として、一本立ちで流通過程を閉じる。売り手が商品を貨幣に転化させたのは、貨幣によってある必要をみたすためであり、貨幣蓄蔵者がそうしたのは、商品を貨幣形態で保存するためであり、債務を負った買い手がそうしたのは、支払いができるようになるためであった。彼が支払いをしなければ、彼の持ち物は強制的に売却される。だから、商品の価値姿態である貨幣が、いまでは、流通過程そのものの諸関係から発生する社会的必然によって、販売の自己目的になる。〉(江夏訳131-32頁)

《フランス語版》  フランス語版では、二つのパラグラフに分けられている。

  〈商品流通に立ち戻ろう。商品と貨幣という等価物が販売の両極に同時に出現しなくなった。いまや貨幣が、第一に、売られる商品の価格決定にあたって価値尺度として機能する。契約によってきめられたこの価格は、買い手の債務を、すなわち、買い手が一定期間借りている貨幣額を、測るわけである。
  次いで貨幣は、観念的な購買手段として機能する。貨幣は、買い手の約束のうちにしか存在しないが、それでもなお商品の移動をもたらす。支払期日にはじめて、貨幣は支払手段として流通に入る。すなわち、買い手の手から売り手の手に移る。流通運動がその前半で止められたために、流通手段が蓄蔵貨幣に転化した。支払手段は流通に入るが、それは商品が流通から脱出した後のことであるにすぎない。売り手は自分の必要をみたすために、貨幣蓄蔵者は商品を一般的等価形態のもとで保蔵するために、最後に、買い手=債務者は支払いをなしうるために、商品を貨幣に転化した。彼が支払わなければ、彼の財産の強制売却が行なわれる。商品がその価値姿態である貨幣に変換することは、このようにして、生産者=交換者の個人的な必要や空想にかかわりなく彼に課せられる社会的必然になる。〉(江夏・上杉訳117頁)


●第4パラグラフ

《経済学批判》

  〈この形態の販売では、商品はその位置転換をおこない、流通するが、他方、その第一の変態、その貨幣への転化は延期する。これに反して、買い手の側では、第一の変態がおこなわれないうちに第二の変態がおこなわれる。すなわち、商品が貨幣に転化されないうちに、貨幣が商品に再転化される。だからこの場合には、第一の変態が第二の変態よりもあとの時期に現われる。そしてそれとともに、第一の変態における商品の姿である貨幣は、新しい形態規定性を得る。貨幣、つまり交換価値の独立の展開は、もはや商品流通の媒介形態ではなくて、それを完結する形態である。〉(120頁)

《初版》

  〈買い手は、自分が商品を貨幣に転化させる以前に、貨幣を商品に再転化させている。すなわち、第一の商品変態よりも以前に第二の商品変態を行なう。売り手の商品は、流通するが、それの価格を私法上の貨幣請求権のうちにのみ実現している。その商品は、貨幣に転化する以前に使用価値に転化している。その商品の第一変態は、あとになって初めて行なわれるのである。〉(江夏訳132頁)

《フランス語版》  フランス語版ではこのパラグラフは大幅に書き換えられている。

  〈農が織工から20メートルのリンネルを2ポンド・スターリングの価格--それは小麦1クォーターの価格でもある--で買い、1ヵ月後にその支払いをする、と仮定しよう。農民は自分の小麦を貨幣に転化してしまう以前に、これをリンネルに転化している。したがって、彼は、自分の商品の第一変態以前に、それの最終変態を果たしている。次いで彼は小麦を2ポンド・スターリングで売り、この2ポンド・スターリングをきまった期日に織工に渡す。実在の貨幣はもはやここでは、彼にたいして、リンネルを小麦に置き換える仲介者の役を果たさない。このことはすでに行なわれてしまった。それどころか、貨幣は彼にとっては、それが彼の提供しなければならない絶対的な価値形態、すなわち普遍的な商品であるかぎり、取引の最後の言葉なのである。織工について言えば、彼の商品は流通してその価格を実現したが、このことはただ、民法から生ずる請求権によるものでしかない。彼の商品は貨幣に転化される以前に、他人の消費に入りこまされる。したがって、彼のリンネルの第一変態は、一時停止されたままであり、後ほど、農民の債務の支払期日にはじめて果たされるわけである(47)。〉(江夏・上杉訳117-118頁)


●原注98

《経済学批判》

  〈これと反対にG-Wの過程では、貨幣の使用価値が実現されるまえに、つまり商品が譲渡されるまえに、貨幣が現実的購買手段として外化され(譲渡され--引用者)、こうして商品の価格が実現されることがありうる。これは、たとえば前払いという日常的形態でおこなわれている。あるいはまた、イギリスの政府がインドのライヤト(*)からアヘンを買う形態やロシアに定住する外国商人がロシアの国産品を大量に買う形態でおこなわれている。けれどもこういう場合には、貨幣はすでに知られている購買手段の形態で作用するだけであり、したがってなんらの新しい形態規定性をもとらない(*)。だからわれわれは、この場合についてはこれ以上述べないが、しかしG-WとW-Gという二つの過程がここで現われてくる転化された姿について、次の点を注意しておこう。すなわち、流通で直接に現われるような、購買と販売とのただ頭のなかで考えられた区別は、いまや現実的な区別となること、この区別は、一方の形態では商品だけが、他方の形態では貨幣だけが現存しており、しかもどちらの形態でも主導的にふるまう極だけが現存しているという点にあることである。そのうえこの二つの形態は、そのどちらにあっても一つの等価物はただ買い手と売り手との共通の意志のなかにだけ現存し、この意志は両者を拘束し、一定の法律的形態をとる、という共通点をもっている。

  (*) もちろん、資本は貨幣の形態でも前貸しされるのであり、前貸しされた貨幣は前貸しされた資本であるかもしれない。だが、この視点は単純流通の視野のなかにははいらない。
  (*) ライヤト--インドの小農で18世紀末に新地税法が実施されるまでは、村落共同体の完全な権利をもつ成員であった。1793年にいわゆるザミーンダーリー制度が実施されたベンガル、ビハール、オリッサ等の地方では、ライヤトはザミーンダールすなわち地主の小作人となった。ボンベイとマドラス管区ではライヤトは国有地を用益のために受け取って、その分与地にたいして、生産物のなかばにも及ぶ高率の地税を支払うことになった。〉(全集第13巻118-119頁)

《初版》 初版にはこの注はない。

《フランス語版》

  〈(47) 私の以前の著書である『経済学批判』、1859年、からの次の引用文は、なぜ私が本文で反対の形態を述べなかったか、その理由を示すものである。「逆に、A-Mという過程では、貨幣が購買手段として手放され、このようにして商品の価格が、貨幣の使用価値が実現される前に、あるいは、商品が譲渡される前に、実現されることがありうる。このことは、たとえぱ前払いの形態で毎日行なわれているし、このようにしてイギリス政府はインドで農夫から阿片を買っているのである。ところが、このばあい、貨幣はつねに購買手段として作用し、どんな新たな特殊形態をも得るわけではない。……もちろん、資本も貨幣形態で前貸しされるが、単純な流通の地平線上にはまだ現われてこない」(同上、119一120ページ)。〉(江夏・上杉訳118頁)

 

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