『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.21(通算第71回)(2)

2020-07-10 14:45:25 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.21(通算第71回)(2)

 

◎原注97

【原注97】〈(97) (イ)18世紀のはじめのイギリス商人のあいだの債務者と債権者との関係について次のように言われている。(ロ)「このイギリスで商人のあいだで支配している残酷な精神というものは、ほかのどんな人類社会でも、世界じゅうのほかのどんな国でも、見られないほどのものである。」(『信用および破産法に関する一論』、ロンドン、1707年、2ページ。)〉

  (イ) 18世紀のはじめのイギリス商人のあいだの債務者と債権者との関係について、次のように言われています。

    この原注は本文の〈とはいえ、対立は、いまではその性質上あまり気持ちのよくないものに見え、また、いっそう結晶しやすいものである〉という部分に対するものです。だからこれは商品流通における債権・債務関係について述べているものといえます。しかしすでに18世紀のはじめにおいてイギリス商人の残酷な精神が言われいたということです。

  (ロ) 「このイギリスで商人のあいだで支配している残酷な精神というものは、ほかのどんな人類社会でも、世界じゅうのほかのどんな国でも、見られないほどのものである。」(『信用および破産法に関する一論』、ロンドン、1707年、2ページ。) 

    マルクスは『61-63草稿』ではこの抜粋の前に〈資本の残忍さ〉(草稿集⑨665頁)という表題をつけています。『経済学批判』からも紹介しておきましょう。

  〈売り手と買い手は、債権者と債務者になる。商品所有者は、まえに蓄蔵貨幣の保管者として三枚目の役を演じたのに、こんどは彼は、自分ではなくその隣人を一定の貨幣額の定在と考え、自分ではなくこの隣人を交換価値の殉教者にするので、恐ろしいものとなる。彼は信心家から債権者となり、宗教から法学に転落する。
  「証文どおりに願います!」
〔"I stay here on my bond!”〕〉 (全集第13巻119頁)

    この〈「証文どおりに願います!〉という一文はシェークスピアの『ヴェニスの商人』から採られたものです。


◎第3パラグラフ(流通過程を一般的商品として独立に閉じる支払手段、貨幣は販売の自己目的になる)

【3】〈(イ)商品流通の部面に帰ろう。(ロ)商品と貨幣という二つの等価物が売りの過程の両極に同時に現われることはなくなつた。(ハ)いまや貨幣は、第一には、売られる商品の価格決定において価値尺度として機能する。(ニ)契約によって確定されたその商品の価格は、買い手の債務、すなわち定められた期限に彼が支払わなければならない貨幣額の大きさを示す。(ホ)貨幣は、第二には、観念的な購買手段として機能する。(ヘ)それはただ買い手の貨幣約束のうちに存在するだけだとはいえ、商品の持ち手変換をひき起こす。(ト)支払期限がきたときはじめて支払手段が現実に流通にはいってくる。(チ)すなわち買い手から売り手に移る。(リ)流通手段は蓄蔵貨幣に転化した。(ヌ)というのは、流通過程が第一段階で中断したからであり、言いかえれば、商品の転化した姿が流通から引きあげられたからである。(ル)支払手段は流通にはいってくるが、しかし、それは商品がすでに流通から出て行ってからのことである。(ヲ)貨幣はもはや過程を媒介しない。(ワ)貨幣は、交換価値の絶対的定在または一般的商品として、過程を独立に閉じる。(カ)売り手が商品を貨幣に転化させたのは、貨幣によって或る欲望を満足させるためであり、貨幣蓄蔵者がそうしたのは、商品を貨幣形態で保存するためであり、債務を負った買い手がそうしたのは、支払ができるようになるためだった。(ヨ)もし彼が支払わなければ、彼の持ち物の強制売却が行なわれる。(タ)つまり、商品の価値姿態、貨幣は、いまでは、流通過程そのものの諸関係から発生する社会的必然によって、売りの自己目的になるのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 商品流通の部面に戻りましょう。商品と貨幣という二つの等価物が販売過程の両極に同時に現われることはなくなりました。いまでは貨幣は、第一に、売られる商品の価格を決めるときに価値尺度として機能します。契約によって確定されたその商品の価格は、買い手の債務を、すなわち、定められた期限に彼が支払わなければならない貨幣額を計ります。

    これはその前のパラグラフの後半で古代や中世における債権者と債務者との関係の話をしていたので、そこから本来の商品流通の関係としての債権者と債務者との関係の話に戻ろうということだと思います。
    債権者と債務者の関係では、商品と貨幣という二つの等価物が販売過程(W-G)の両極(買い手と売り手)に同時に現われることはなくなりました。以前のW-Gでは、貨幣は購買手段として、そして流通手段として機能したのでした。しかし今回の場合、貨幣はどういう役割を果すのでしょうか。
    第一に、貨幣は売られる商品の価格を決める時に価値尺度として機能します。しかしこれまでの価値尺度というのは、商品の価値をただ観念的な貨幣で表示しただけでした。しかし今回の価値尺度というのは、そうした観念的なものに留まっていません。なぜなら、この価格というのは流通当事者の合意にもとづいて値決めされた価格だからです。それは商品所持者(販売者)のただ頭のなかに思い浮かべられたものだけではないのです。それは流通当事者の契約によって決められたものなのです。
    だからその商品の価格は、買い手の債務を、つまり彼が定められた期間の後には支払わねばならない貨幣額を表しているわけです。『経済学批判』には次のような説明があります。

   〈だから、商品が現存し貨幣がただ代理されているにすぎない変化した形態のW-Gでは、貨幣はまず価値の尺度として機能する。商品の交換価値は、その尺度としての貨幣で評価される。だが価格は契約上測られた交換価値として、ただ売り手の頭のなかに実在するだけでなく、同時に買い手の義務の尺度としても実在する。〉 (全集第13巻119頁)

  (ホ)(ヘ) 貨幣は、第二に、観念的な購買手段として機能します。それは、ただ買い手の貨幣支払約束のうちに存在するだけですが、商品の持ち手変換をもたらします。

    第二に、貨幣は観念的な購買手段として機能します。貨幣は現実には存在せず、ただ購買者の支払約束として存在するだけです。しかしその購買者の支払約束が商品の譲渡を引き起こすわけですから、貨幣は観念的な(なぜなら貨幣は現実には存在せず、流通当事者の合意を中にしかないのだから)購買手段として機能したのです(現実に商品の譲渡を引き起こしたから)。同じく『経済学批判』の一文を紹介しておきます。

   〈貨幣は、第二には、観念的な購買手段として機能する。それは、買い手の貨幣支払約束のうちにしか存在しないとはいえ、商品の持ち手変換をひき起こす。〉 (全集第13巻119頁)

  (ト)(チ) 支払期限がくると、はじめて支払手段が現実に流通にはいります。すなわちそれが買い手の手から売り手の手に移ります。

  そして約束された支払期限がきますと、購買者は貨幣を支払いますが、それはすでに商品が譲渡されたあとの支払手段としてです。現実の貨幣がここではじめて購買者から販売者の手に移ります。この貨幣の性格をもう少し詳しく見て行きましょう。同じように『批判』の関連する部分を紹介しておきましょう(以下、同じ)。

  〈契約履行の期限が来れば、貨幣は流通にはいっていく。なぜならば、貨幣は位置を転換して、過去の買い手の手から過去の売り手の手に移ってゆくからである。〉

  (リ)(ヌ) さきほど見ましたように、流通手段は蓄蔵貨幣に転化したのは、流通過程が第一段階で中断したからであり、言いかえれば、商品の転化した姿が流通から引きあげられたからでした。

    支払手段とは流通のなかに出て行きますが、しかしそれは流通手段としてではありません(なぜならそれは商品の価値を一時的に代表するようなものではないからです)。また購買手段としてでもないのです(なぜならこの貨幣の支払によって商品の譲渡が生じたのではなく、譲渡はすでに以前に済んでいるからです)。それは貨幣としての貨幣という、価値の現実の姿として流通に入っていくのです。以前、貨幣としての貨幣の蓄蔵貨幣というのは、流通手段がその流通を停止し、流通から引き上げられることによって生じたのでした。支払手段も蓄蔵貨幣と同じ貨幣としての貨幣、本来の貨幣なのですが、それはまた違った形態規定を持っています。

  〈だが貨幣は、流通手段または購買手段として流通にはいるのではない。貨幣がそういうものとして機能したのは、それがそこにある以前のことであり、貨幣が現われるのは、そういうものとして機能することをやめたあとのことである。〉

  (ル)(ヲ)(ワ) これに対して、支払手段は流通にはいりますが、しかしそれは、商品がすでに流通から出て行ったのちのことです。ここでは貨幣は、もはや過程を仲立ちするのではありません。貨幣は、交換価値の絶対的存在または一般的商品として、自立的に過程を閉じるのです。

    というのは、蓄蔵貨幣は流通から引き上げられて本来の貨幣になったのに、支払手段は流通に本来の貨幣として入っていくからです。しかし支払手段としての貨幣は、流通手段のように流通過程の仲立ちをするわけではありません。むしろそれは本来の貨幣として、価値の唯一適合的な存在として、交換価値の絶対的存在あるいは一般的商品として、さらには諸商品の使用価値に対立するものとして、過程を閉じるものとして流通に入るのです。
                      
   〈それはむしろ、商品にとっての唯一の十全な等価物として、交換価値の絶対的定在として、交換過程の最後のことばとして、要するに貨幣として、しかも一般的支払手段としての一定の機能における貨幣として流通にはいるのである。支払手段としてのこの機能では、貨幣は絶対的商品として現われるが、しかし蓄蔵貨幣のように流通の外部にではなく、流通そのものの内部に現われるのである。〉

   ここで〈過程を独立に閉じる〉という部分の理解について、昔の「学ぶ会ニュース」№45(2000.8.30)では次のように論じています。参考のために紹介しておきます。

   【ところでこれは学習会では問題として出されなかったのですが、ここで「自立的に閉じる」とありますが、「自立的に閉じる」とはそもそもどういうことなのでしょうか? なぜ「自立的」なのか、それが問題です。それはその先に述べている「貨幣は、もはや、この過程を媒介するのではない」ということと関連しているように思えます。ここでは明らかに債務者から債権者に貨幣が流通していくのですが、しかしそれはいうまでもなく流通手段、つまり鋳貨としてではありません。ここでの貨幣は、「交換価値の絶対的定在または一般的商品として」とあるように、債務者が債権者に価値そのものを引き渡すための形態ですから、もともとは、本来の貨幣のみが果たすことの出来る機能なのです(しかし本来の貨幣に代わりうる銀行券等々の貨幣形態が発展すると、そうした代理物も支払手段として流通することができるようになります)。しかもすでに商品は流通してしまっているのですから、貨幣はただ一方的に債務者から債権者に渡されるだけであって、それによっては何も媒介するわけではないのです。「自立的に」というのはそうした事態を述べているのではないかと思います。つまり何の媒介もなしにという意味で「自立的」だということです。そして債権・債務が最終的に決済されるという点でこの取引(=この過程)は「閉じている」わけです。】

  (カ) 売り手が商品を貨幣に転化させたのは、貨幣によってある欲求を満すためであり、貨幣蓄蔵者がそうしたのは、商品を貨幣形態で保存するためでしたが、債務を負った買い手がそうするのは、支払ができるようになるためです。

    こうした支払手段としての貨幣は、債務者にとっては法的な支払義務として彼を縛ります。だから彼は支払手段として貨幣を入手するために販売(W-G)をしなければならなくなるのです。それまでの単純な商品流通における販売(W-G)は、商品の所持者が入手した貨幣で自分の欲求を満たす商品を購買するためでした。あるいはその次の貨幣蓄蔵者が行なった販売(W-G)は、商品を貨幣形態で保存するためでした。しかし債務者が行なう販売(W-G)は、彼の債務を支払うためです。つまり彼の法的義務を果すためなのです。それは法的に義務づけられた、強制された販売なのです。

   〈はじめ流通のなかに生産物の貨幣への転化が現われるのは、商品所有者にとっての個人的必要としてにすぎないのであって、それは彼の生産物が彼にとっては使用価値ではなく、その外化によって(譲渡によって--引用者)はじめて使用価値となるべきものであるかぎりにおいてのことである。ところが、契約期限に支払うためには、彼はあらかじめ商品を売っていなければならない。だから販売は、彼の個人的欲望とはまったく無関係に、流通過程の運動によって彼にとってひとつの社会的必然に転化される。ある商品の過去の買い手として彼は、購買手段としての貨幣ではなく、支払手段としての貨幣、交換価値の絶対的形態としての貨幣を手に入れるために、よんどころなく他の商品の売り手となるのである。完結行為としての商品の貨幣への転化、つまり自己目的としての商品の第一の変態は、貨幣蓄蔵では商品所有者の気まぐれに見えた変態は、いまや一つの経済的機能になってしまっている。支払をするための販売の動機と内容とは、流通過程そのものから発生する販売の内容である。〉 (全集第13巻120頁)

  (ヨ)(タ) もし彼が支払わなければ、彼の持ち物の強制売却が行なわれます。つまり、いまでは、流通過程そのものの諸関係から発生する社会的必然によって、貨幣という商品の価値姿態が販売の自己目的となるのです。

    だから彼が支払ができないなら、彼の持っているものが強制的に売却され、支払を強要されることになります。だから流通過程の諸関係から発生した社会的必然によって、いまではこうした法的強制力を呼び起こし、とにかく支払うための貨幣の入手のために、販売が自己目的になるのです。彼は通常の価値どおりでなくても、とにかく強制的な販売、投げ売りを余儀なくされることになります。

  〈購買手段と支払手段との区別は、商業恐慌の時期には、きわめて不愉快に目だってくる。……
  完結行為としての商品の貨幣への転化、つまり自己目的としての商品の第一の変態は、貨幣蓄蔵では商品所有者の気まぐれに見えた変態は、いまや一つの経済的機能になってしまっている。支払をするための販売の動機と内容とは、流通過程そのものから発生する販売の内容である。〉 (全集第13巻120頁)

   ついでにこの〈売りの自己目的になる〉という部分についても以前の「学ぶ会ニュース」№45(2000.8.30)から紹介しておきます。

  【ここで問題になったのは、最後の部分、「貨幣は、今や、……販売の目的そのものになる」とはどういうことか? という質問でした。これは議論のなかで解決したと思いますが、若干、補足しておきたいと思います。マルクスは『批判』で次のように述べています。

 まえには(流通手段の考察では--引用者)価値標章が貨幣を象徴的に代理したのであるが、ここでは貨幣を象徴的に代理するものは買手自身である。しかも、前には価値標章の一般的象徴性が国家の保証と通用強制とを呼び起こしたように、ここでは買手の人格的象徴性が、商品所有者間の法律的強制力を持つ私的契約を呼び起こすのである。》

 つまりこうした法的強制力をもって債務者は支払いを強制される。もし支払えなければ破産を宣告されて、彼の所有物の強制販売が行われるのです。だから債務者は破産を免れるためには、とにかく商品を捨て値ででも投げ売って支払手段を手に入れなければなりません。つまり貨幣そのものが販売の目的になるのです。

 ところで『批判』でマルクスは「ここでは貨幣を象徴的に代理するものは買手自身である」と述べています。つまり債務者自身が貨幣を象徴的に代理しているというのです。これなどは「腎臓を売ってでも金をつくれ」などと脅して取り立てたどこかの悪徳金融業者を思い出させる指摘といえないでしょうか。あの金融業者は貨幣を象徴的に代理している債務者の身体そのものを現実の貨幣に変えようとしたと言うことができます。】


◎第4パラグラフ(第一の商品変態〔W-G〕よりさきに第二の商品変態〔G-W〕を行なう)

【4】〈(イ)買い手は自分が商品を貨幣に転化させるまえに貨幣を商品に再転化させる。(ロ)すなわち、第一の商品変態よりもさきに第二の商品変態を行なう。(ハ)売り手の商品は流通するが、その価格をただ私法上の貨幣請求権に実現するだけである。(ニ)その商品は貨幣に転化するまえに使用価値に転化する。(ホ)その商品の第一の変態はあとからはじめて実行されるのである(98)。〉

  (イ)(ロ) 買い手は、自分の商品を貨幣に転化させるまえに、自分の貨幣を商品に再転化させます。言い換えれば、第一の商品変態のまえに、第二の商品変態を行ないます。

    もう一度、支払手段としての貨幣の機能について考えてみましょう。この場合、買い手は、自分の商品を販売した貨幣で購買者として市場に登場するわけではありません。彼は自分の商品を販売する以前に、貨幣を商品に転化するのです。しかし購買者の貨幣といってもそれが現実に存在するわけではありません。彼はまだ自分の商品を売っていないからです。だからそれは彼の支払の約束として存在するだけです。彼は商品流通W-G-WのうちW-Gより前にG-Wをやるのです。すなわち第一の商品変態よりもさきに第二の商品変態を行なうことになります。

  (ハ)(ニ)(ホ) 売り手の商品は流通しますが、自分の価格をただ私法上の貨幣請求権のかたちで実現するだけです。その商品は、貨幣に転化するまえに、使用価値に転化します。その商品の第一の変態はあとになってやっと実行されるのです。

    さて、売り手の側から見たらどうでしょうか。売り手の商品は流通しますが、しかしその価格の実現形態としての貨幣を彼は入手するわけではありません。彼はただ買い手の支払約束にもとづいて商品を手放したのです。買い手の支払約束は売り手にとっては貨幣請求権です。つまり彼は貨幣請求権という形で彼の商品の価格をそのかぎりで実現したのです。しかしそれは商品の価格の最終的な実現でありません。この場合、商品はその価格を実現する(貨幣に転化する)前に、その使用価値を実現します(買い手の手のなかで)。その価格が実現するのは、すなわち第一変態(W-G)は、あとになって買い手の支払約束が果されて初めて実現するのです。この部分も『批判』の関連する部分を参考のために紹介しておきましょう。

  〈この形態の販売では、商品はその位置転換をおこない、流通するが、他方、その第一の変態、その貨幣への転化は延期する。これに反して、買い手の側では、第一の変態がおこなわれないうちに第二の変態がおこなわれる。すなわち、商品が貨幣に転化されないうちに、貨幣が商品に再転化される。だからこの場合には、第一の変態が第二の変態よりもあとの時期に現われる。そしてそれとともに、第一の変態における商品の姿である貨幣は、新しい形態規定性を得る。貨幣、つまり交換価値の独立の展開は、もはや商品流通の媒介形態ではなくて、それを完結する形態である。〉 (全集第13巻120頁)

  さて、このパラグラフはフランス語版では大幅に書き換えられています。その内容は分かりやすく書かれていますので、参考のために紹介しておきましょう。

  〈農民が織工から20メートルのリンネルを2ポンド・スターリングの価格--それは小麦1クォーターの価格でもある--で買い、1ヵ月後にその支払いをする、と仮定しよう。農民は自分の小麦を貨幣に転化してしまう以前に、これをリンネルに転化している。したがって、彼は、自分の商品の第一変態以前に、それの最終変態を果たしている。次いで彼は小麦を2ポンド・スターリングで売り、この2ポンド・スターリングをきまった期日に織工に渡す。実在の貨幣はもはやここでは、彼にたいして、リンネルを小麦に置き換える仲介者の役を果たさない。このことはすでに行なわれてしまった。それどころか、貨幣は彼にとっては、それが彼の提供しなければならない絶対的な価値形態、すなわち普遍的な商品であるかぎり、取引の最後の言葉なのである。織工について言えば、彼の商品は流通してその価格を実現したが、このことはただ、民法から生ずる請求権によるものでしかない。彼の商品は貨幣に転化される以前に、他人の消費に入りこまされる。したがって、彼のリンネルの第一変態は、一時停止されたままであり、後ほど、農民の債務の支払期日にはじめて果たされるわけである(47)。〉 (江夏・上杉訳117-118頁)


◎原注98

【原注98】〈(98) (イ)第2版への注。 (ロ)私が本文でこれと反対の形態を考慮に入れなかった理由は、1859年に刊行された私の著書からとった次の引用文によって明らかになるであろう。「(ハ)逆に、過程G-Wでは、貨幣が現実の購買手段として手放されて、商品の価格が、貨幣の使用価値が実現されるまえに、または商品が引き渡されるまえに、実現されることがありうる。(ニ)これは、たとえば日常見られる前払いという形で行なわれる。(ホ)またはイギリス政府がインドで農民の阿片を買う場合の形で……。(ヘ)だが、この場合には、貨幣は、ただ、購買手段というすでに知られている形態で働くだけである。……(ト)資本は、もちろん、貨幣の形態でも前貸しされる。……(チ)しかし、この観点は単純な流通の視野にははいってこないのである。」(カール・マルクス『経済学批判』、119、120ページ。〔本全集、第13巻、117(原)ページを見よ。〕)〉

  (イ) 第2版への注。

   この原注は初版にはなく、第2版で新たに付けられたものです。これは第4パラグラフ全体に対する注というより、最後の文節〈その商品の第一の変態はあとからはじめて実行されるのである〉に対するものと考えることができます。

  (ロ) わたしが本文でこれとは反対の形態を考慮に入れなかった理由は、1859年に刊行された私の著書からの次の引用文からわかるでしょう。

  だから〈これと反対の形態〉というのは、商品の第一の変態があとからはじめて実行されることの反対ですから、商品の第一の変態、つまりW-Gが、商品の譲渡よりも先にその価値の実現が行なわれる形態ということです。そしてそれについては〈1859年に刊行された私の著書〉、すなわち『経済学批判』のなかで述べているということです。

  (ハ)(ニ) 「逆に、過程G-Wでは、貨幣が現実の購買手段として手放されて、貨幣の使用価値が実現されるまえに、または商品が引き渡されるまえに、商品の価格が実現されることがありえます。これは、たとえば日常見られる前払いという形で行なわれます。

    それは通常、「前払い」と言われているものだというのです。マルクスはここでは部分的に省略して引用していますが、以下、必要なかぎりで省略部分を補足してゆきます(なお全文は付属資料に紹介しています)。
   前払いの場合は、商品が引き渡される前に、その価格を支払うことです。確かにこの場合も商品の譲渡とその価格の実現とが時間的にずれるケースといえます。

  (ホ) あるいは、イギリス政府がインドでラヤト〔すなわち農民〕の阿片を買う場合の形で……行われます。

  『経済学批判』では次のようになっています。

  あるいはまた、イギリスの政府がインドのライヤト(*)からアヘンを買う形態やロシアに定住する外国商人がロシアの国産品を大量に買う形態でおこなわれている。

   (*) ライヤト--インドの小農で18世紀末に新地税法が実施されるまでは、村落共同体の完全な権利をもつ成員であった。1793年にいわゆるザミーンダーリー制度が実施されたベンガル、ビハール、オリッサ等の地方では、ライヤトはザミーンダールすなわち地主の小作人となった。ボンベイとマドラス管区ではライヤトは国有地を用益のために受け取って、その分与地にたいして、生産物のなかばにも及ぶ高率の地税を支払うことになった。〉 (全集第13巻118-119頁)

  (ヘ) だが、この場合には、貨幣は、ただ、購買手段というすでに知られている形態で働くだけです。……

  しかしこうした前払いの場合は、すでにわれわれが知っている購買手段として機能するだけであって、新しい別の機能を果すわけではないということです。『経済学批判』では次のようになっています。

  けれどもこういう場合には、貨幣はすでに知られている購買手段の形態で作用するだけであり、したがってなんらの新しい形態規定性をもとらない(*)。

  (*) もちろん、資本は貨幣の形態でも前貸しされるのであり、前貸しされた貨幣は前貸しされた資本であるかもしれない。だが、この視点は単純流通の視野のなかにははいらない。〉 (全集第13巻118-119頁)

  (ト)(チ) もちろん、資本もまた貨幣の形態で前貸しされる。……しかし、この観点は単純な流通の視野のなかにははいってきません。

    これについてはすでに前の文節( (ヘ))で紹介しましたように、『経済学批判』では注として付け加えられている一文です。ここでは先に紹介したあと部分を紹介しておきましょう。

  〈だからわれわれは、この場合についてはこれ以上述べないが、しかしG-WとW-Gという二つの過程がここで現われてくる転化された姿について、次の点を注意しておこう。すなわち、流通で直接に現われるような、購買と販売とのただ頭のなかで考えられた区別は、いまや現実的な区別となること、この区別は、一方の形態では商品だけが、他方の形態では貨幣だけが現存しており、しかもどちらの形態でも主導的にふるまう極だけが現存しているという点にあることである。そのうえこの二つの形態は、そのどちらにあっても一つの等価物はただ買い手と売り手との共通の意志のなかにだけ現存し、この意志は両者を拘束し、一定の法律的形態をとる、という共通点をもっている。〉 (全集第13巻119頁)

  なおここで〈一方の形態〉というのは「掛売り」のことであり、〈他方の形態〉というのは「前払い」のことです。

  (続く)【付属資料】は(3)へ

 

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