『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.25(通算第75回)(5)

2021-07-30 19:16:48 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.25(通算第75回) (5)

 

【付属資料】(続き)

●第6パラグラフ(の続き)

《経済学批判》

  〈商品流通W-G-Wは、その単純な形態では、貨幣が買い手の手から売り手の手に、買い手となった売り手の手から新しい売り手に移るということでおこなわれる。これでもって商品の変態は終わり、したがって貨幣の運動も、それがこの変態の表現であるかぎりでは終わる。だが、たえず新しい使用価値が商品として生産され、したがってたえずあらたに流通に投じられなければならないのだから、W-G-Wは、同じ商品所有者の側からくりかえされ、更新される。商品所有者が買い手として支出した貨幣は、彼があたに商品の売り手として現われるやいなや、その手にもどってくる。こうして、商品流通の不断の更新は、貨幣がある人の手から他の人の手へとブルジョア社会の全表面にわたって、たえず転々とするばかりでなく、同時に多数のさまざまな小さな循環を描き、限りなく違った点から出発して同じ点にもどりながら、あらたに同じ運動をくりかえす、ということに反映される。
  商品の形態転換が貨幣のたんなる位置転換として現われ、流通運動の連続性がまったく貨幣の側に帰するのは、商品はいつも貨幣と反対の方向に一歩だけ進むが、貨幣はたえず商品に代わって第二歩を進めて、商品がAと言った場所でBと言うことのためであるが、そうなると、販売のさいに商品が貨幣をその位置から引き寄せ、したがって貨幣を流通させることは、購買のさいに商品が貨幣によって流通させられるのと同様であるにもかかわらず、全運動が貨幣から出発するように見える。さらに貨幣は、いつも購買手段としての同一の関係で商品に相対するのであるが、購買手段としては、ただ商品価格の実現によって商品を運動させるだけだから、流通の全運動は、同時にならんで進行する特殊な流通行為においてにせよ、同じ貨幣片がいろいろな商品価格を順次に実現することによって、つぎつぎとおこなわれるにせよ、貨幣が商品の価格を実現することによって商品と位置を換えるというように現われる。たとえばW-G-W'-G-W"-G-W'"等々う、現実の流通過程では認められなくなる質的契機を顧慮せずに考察してみると、同じ単調な操作だけが現われる。GはWの価格を実現したのちに、順々にW'-W"等々の価格を実現し、商品W'-W"-W'"等々は、いつも貨幣の去った位置に出てくる。だから貨幣が商品の価格を実現することによって商品を流通させるように見える。価格の実現というこの機能で、貨幣はあるときはただ一回だけ位置を換え、あるときは流通の弧を通過し、あるときは出発点と復帰点とが一致する小円周を描きながら、それ自身たえず流通するのである。流通手段としては、貨幣はそれ自身の流通をもつ。だから過程を経過する諸商品の形態運動は、それ自身では運動しない諸商品の交換を媒介する貨幣自身の運動として現われる。だから諸商品の流通過程の運動は、流通手段としての貨幣の運動で--貨幣流通で--あらわされる。〉(全集第13巻81-82頁)
 〈W-G-Wの形態の流通過程の結果である鋳貨と区別した貨幣は、G-W-G、すなわち商品を貨幣と交換するために貨幣を商品と交換するという形態の流通過程の出発点をなしている。W-G-Wの形態では商品が、G-W-Gの形態では貨幣が、運動の出発点と終点とをなしている。はじめの形態では貨幣が商品交換を媒介し、あとの形態では貨幣が貨幣になるのを商品が媒介している。はじめの形態では流通のたんなる手段として現われる貨幣は、あとの形態では流通の終極目的として現われ、他方、はじめの形態で終極目的として現われる商品は、第二の形態ではたんなる手段として現われる。貨幣そのものがすでに流通W-G-Wの結果なのであるから、G-W-Gの形態では、流通の結果が同時にその出発点として現われる。W-G-Wでは物質代謝が現実的内容をなしているのに、この第一の過程から生じた商品の形態定在そのものが、第二の過程G-W-Gの現実的内容をなしている。
  W-G-Wの形態では、両極は同じ大きさの価値の商品であるが、同時にまた質的に違う使用価値である。それらの交換W-Wは、現実の物質代謝である。これにたいしてG-W-Gの形態では、両極は金であり、同時にまた同じ大きさの価値の金である。商品を金と交換するために金を商品と交換すること、またはその結果であるG-Gを見れば、金を金と交換することは、ばかげたことのように見える。しかしもしG-W-Gを、媒介する運動をつうじて金を金と交換することを意味するにほかならない売るために買うという公式に翻訳するならば、ただちにブルジョア的生産の支配的形態が認められる。けれども、実際には、売るために買うのではなくて、高く売るために安く買うのである。貨幣が商品と交換されるのは、その同じ商品をふたたびもっと大きい量の貨幣と交換するためであるから、両極のGとGとは質的には違っていなくても、量的には違っている。商品と貨幣は、そのものとしては商品自体の対立的諸形態、つまり同じ大きさの価値の相異なる存在様式にすぎないのに、このような量的区別は非等価物の交換を前提している。だから循環G-W-Gは、貨幣と商品という形態のもとに、いっそう発展した生産関係をひそめているのであって、単純流通の内部では、いっそう高度の運動の反映であるにすぎない。だからわれわれは、流通手段とは区別した貨幣を、商品流通の直接的形態であるW-G-Wから展開しなければならない。〉(全集第13巻102-103頁)

《61-63草稿》

 〈さしあたり、形態G-W-G--貨幣を商品と交換したのち、すなわち購買したのち、その商品をふたたび貨幣と交換する、すなわち販売すること--を考察しよう。すでに以前に述べたように、流通の形態W-G-Wではその極W、Wは、ともに等しい価値量ではあるが質的には異なっており、だからこそこの形態では現実の素材変換が行なわれる(異なった使用価値が互いに交換される)のであり、したがってその結果であるW-W--商品と商品との交換、事実上、使用価値相互の交換--は、自明の目的をもっている。これにたいして形態G-W-G(買ったのちに売ること)では、両極G、Gは、質的に同じもの、すなわち貨幣である。そこで、もし私が、G(貨幣)をW(商品)と交換したのち、その商品(W) をふたたびG(貨幣)と変換するのなら、つまり買ったのちに売るのであれば、その結果は、私は貨幣を貨幣と交換した、ということである。じっさい、流通G-W-G(買ったのちに売ること)は、次の行為に分かれる。第1に、G-W、すなわち貨幣を商品と交換すること、すなわち買うこと。第2に、W-G、すなわち商品を貨幣と交換すること、すなわち売ること。そして、この両行為の統一、言い換えれば、両段階の経過であるG-W-G、貨幣を商品と交換したのち商品を貨幣と交換すること、買ったのちに売ること。しかし、この過程の結果は、G-G、すなわち貨幣と貨幣との交換である。もし私が1OOターレルで綿花を買い、そしてその綿花をふたたび1OOターレルで売るならば、この過程の終りに私がもっているのは、その始めと同じく1OOターレルであって、全運動は、私は購買によって1OOターレルを支出し、そして販売によってふたたび1OOターレルを受け取る、ということである。つまりその結果はG-Gであり、実際には、私は1OOターレルを1OOターレルと交換した、ということである。しかしこのような操作は、無目的なもの、したがってまた、ばかげたものに思われる*〔erscheinen〕。過程の終りに私がもっているのは、その始めと同じく、貨幣であり、質的に同一の商品であり、量的に同一の価値量である。過程(運動)の出発点と終点は貨幣である。同一人物が、買い手として貨幣を支出したのちに、売り手として貨幣を取り戻す。この運動で貨幣が出発する点は、貨幣が復帰する点と同じ点である。買ったのちにふたたび売るという過程であるG-W-Gでは、その極G、Gは質的に同じなのであるから、この過程が内容と目的とをもつことができるのは、ただ、この両極が量的に異なっている場合だけである。もし私が、1OOターレルで綿花を買い、そしてその同じ綿花を11Oターレルで売れば、実際には私は、1OOターレルを11Oターレルと交換したのであり、言い換えれば1OOターレルで11Oターレルを買ったのである。つまり、買ったのちに売るという流通形態G-W-Gが内容をもつのは、その極G、Gが、質的には同じもの・貨幣・であっても、第2のGが第1のGよりも高い価値量、より大きな価値額を表わすのでそれらが量的には異なっている、ということによってである。商品が買われるのは、そのあとでもっと高く売るためであり、言い換えればそれは、売られるよりも安く買われるのである。
  *このように思うのはまったく正しい。にもかかわらず、この形態は現に存在する(そしてこの場合には、目的はどうでもよいこととなる)。たとえば買い手は商品を、買ったときよりも高く売ることができないかもしれない。彼はそれを、買ったときよりも安く売らざるをえないかもしれない。どちらの場合にも、操作の結果は操作の目的と矛盾している。けれどもこのことは、このような操作も目的にかなった操作と共通にG-W-Gという形態をもっている、ということを妨げるものではない。〉(草稿集④5-7頁)

《初版》

 〈G-W-Gという流通を、もっと詳しく見てみよう。それは、単純な商品流通の過程と同じに、二つの対立する諸段階を通過してそれらの統一を形成している過程である。第1の段階、G-W、購買では、貨幣が商品に転化される。第2の段階、W-G、販売では、商品が貨幣に再転化される。だが、両段階の統一である総運動は、次のように表現される。すなわち、貨幣を商品と交換し、同じ商品を再び貨幣と交換するということ、商品を売るために買うか、あるいは、購買と販売との形態上の差異を無視すれば、貨幣で商品を買い商品で貨幣を買う(2)、ということ。ところが、この過程の結果はどうかと言えば、この結果は、貨幣と貨幣との交換、G-Gに消えてゆく。私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、その2000ポンドの綿花を110ポンド・スターリングで転売すれば、私は結局、100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと、貨幣を貨幣と、交換したわけである。〉(江夏訳144頁)

《フランス語版》  フランス語版では、二つのパラグラフに分かれて、あいだに原注(2)が入っている。ここでは別途紹介する原注を除いて紹介しておく。

 〈A-M-A の流通をもっと詳しく考察しよう。それは単純な流通と同じように、2つの対立する諸段階を通過する。購買という第1段階 A-M では、貨幣が商品に転化する。販売という第2段階 M-A では、商品が貨幣に転化する。これら両段階の全体は、貨幣を商品と交換し同じ商品を再び貨幣と交換するという運動、売るために買うということ、によって表現されるか、あるいは、購買と販売との形態的な差異を無視すれば貨幣で商品を買い商品で貨幣を買うということ、によって表現されている(2)。
  この運動は貨幣と貨幣との交換 A-A に帰着する。私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、次いでこの2000ポンドの綿花を110ポンド・スターリングで売れば、私は結局100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと、貨幣を貨幣と交換したわけである。〉(江夏・上杉訳130頁)

《『資本論』第2巻》

  〈資本がわれわれの前に現われた最初の現象形態(第一部第四章第一節)G-W-G' (これは(1)G-W1と(2)W1-G'とに分解される)では同じ商品が二度現われる。第一の段階で貨幣がそれに転化する商品も、第二の段階でより多くの貨幣に再転化する商品も、どちらも同じ商品である。二つの流通のこのような本質的な相違にもかかわらず、両方に共通な点は、その第一段階では貨幣が商品に転化し、第二段階では商品が貨幣に転化するということ、つまり第一段階で支出された貨幣が第二段階で再び還流するということである。二つの流通には、一方ではこのように貨幣がその出発点に還流してくることが共通であり、他方ではまた還流してくる貨幣が前貸しされた貨幣を超過しているということが共通である。そのかぎりでは、G-W…W'-G'も一般的な定式G-W-G'のうちに含まれて現われるのである。〉(全集第24巻65頁)

●原注2

《初版》

 〈(2) 「貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買う。」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的な秩序』、543ページ。〉〉(江夏訳144頁)

《フランス語版》

 〈(2) 「貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買う」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的な秩序』、543ページ)。〉(江夏・上杉訳130頁)


●第7パラグラフ

《初版》

 〈ところで、回り道をして、同じ貨幣価値を同じ貨幣価値と、つまり、たとえば100ポンド・スターリングを1OOポンド・スターリングと交換しようとすれば、流通過程G-W-Gが馬鹿げて無内容であることは、全く明白である。100ポンド・スターリングを流通の危険にさらさずにしっかりともっている貨幣蓄蔵者のやり方のほうが、はるかに簡単で確実であろう。他方、商人が、100ポンド・スターリングで買った綿花を110ポンド・スターリングで転売しようと、または、それを100ポンド・スターリングで、また50ポンド・スターリングでさえ、たたき売りせざるをえなかろうと、ともあれ、いつでも、彼の貨幣は独自な特異の運動を描いたのであって、この運動は、彼の貨幣が単純な商品流通のなかで描く運動、たとえば穀物を売り、こうして手に入れた貨幣で衣服を買う農民の手のなかで描く運動とは、全くちがう。だから、循環 G-W-G と循環 W-G-W との形態差異の特徴づけが、まずもって肝要である。そうすれば、この形態差異の背後にひそんでいる内容上の差異も、同時に明らかになるであろう。〉(江夏訳144-145頁)

《フランス語版》

 〈もしそのような回り道を通って、等価の貨幣額、たとえば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換しようとすれば、A-M-A の流通が奇怪な過程であることは、いうまでもない。自分の100ポンド・スターリングを流通の危険にさらすかわりに、それをしっかりと取っておく貨幣蓄蔵者の方法のほうが、まだましである。だが他方、商人が、100ポンド・スターリングで買った綿花を110ポンド・スターリングで再び売ろうと、それを100ポンド・スターリングで、また50ポンド・スターリングでさえ引き渡さざるをえなかろうと、どちらのばあいにも、彼の貨幣は特殊的、独創的運動をいつも描くのであって、たとえば小麦を売って上衣を買う農民の貨幣が通過する運動とは、全くちがう。したがって、われわれはまず、二つの流通形態である A-M-A と M-A-Mとの特徴的な差異を確証しなければならない。われわれはそれと同時に、この形態的な差異の背後にどんな現実的な差異が隠れているかを、示すであろう。〉(江夏・上杉訳130-131頁)


●第8パラグラフ

《61-63草稿》

 〈さしあたり、形態G-W-G(買ったのちに売ること)を考察し、それを、以前に考察した流通形態W-G-W(売ったのちに買うこと)と比較しよう。第1に、流通G-W-Gは、流通W-G-Wと同じく、異なった二つの交換行為に分かれるのであって、それらの統一が、流通G-W-Gである。つまり、G-W、貨幣を商品と交換すること、すなわち購買。この交換行為では、1人の買い手と1人の売り手とが相対している。第2に、W-G、販売、商品を貨幣と交換すること。この行為でも、同じく2人の人物が、買い手と売り手とが相対している。買い手は、ある人から買い、別の人に売る。この運動を始める買い手は、この両方の行為をなし終える。彼はまず買い、次に売る。言い換えれば、彼の貨幣は2つの段階を経過する。それは第1段階では出発点として現われ、第2段階では結果として現われる。これにたいして、彼の交換の相手となる2人の人物は、それぞれただ1つの交換行為を行なうだけである。1人は商品を売る、--これは彼が最初に交換する相手である。もう1人は商品を買う、すなわちこちらは、彼が最後に交換する相手である。つまり、1人が売る商品と、もう1人が買うさいの貨幣とは、どちらも流通の2つの対立する局面を通り終えるのではなく、それぞれただ1つの行為をなし遂げるだけなのである。この2人の人物がなし遂げる、販売と購買というこの2つの一面的な行為は、どちらもわれわれになんの新たな現象をも示さないのであるが、この過程を始める買い手が経過する総過程はそうではない。われわれはまえのものに対比して、買い手--彼はふたたび売ることになる--あるいは貨幣--これをもって彼は操作を始める--が経過する総運動を考察しよう。〉(草稿集④7-8頁)

《初版》

 〈まず、両方の形態に共通なものを見てみよう。
  両方の循環は、同じ対立的な二つの段階、販売であるW-Gと購買であるG-Wとに、分かれる。これらの段階のどちらも、それ自体として考察すれば、なんらの差異も認められない。この過程にはいり込む要素は、両方の形態において、同じもの、商品と貨幣とである。両方の循環のどの部分でも、買い手と売り手という同じ経済的仮装が向かいあっている。双方の過程において3人の契約当事者が登場するが、1人の契約当事者だけが、交互に買い手および売り手としていつも現われるのに、他の二人の契約当事者のうち、一方は売るだけ他方は買うだけである。両方の循環は、結局、同じ対立的な諸段階の統一である。〉(江夏訳145頁)

《フランス語版》

 〈まず、両形態に共通であるものを考察しよう。
  両運動とも、同じ2つの対立する諸段階、M-A である販売と A-M である購買とに分解される。両段階のどちらにおいても、2人の人物が買い手と売り手という同じ経済的仮面をつけて相対するのと同じように、商品と貨幣という2つの同じ物的要素が相対する。それぞれの運動は、同じ対立する諸段階である購買と販売との統一であって、どちらのばあいも3人の契約当事者の参加によって果たされるが、このうちの1人は売るだけ、他の1人は買うだけであるのに、第3の当事者はかわるがわる買ったり売ったりする。〉(江夏・上杉訳131頁)


●第9パラグラフ

《初版》

 〈過程 W-G-W と過程 G-W-G との形態差異は、両方の過程を構成しているこつの段階を比較せずに、これら二つの段階の全経過を比較するやいなや、初めて明白になる。両方の過程を最初から区別しているものは、同じ対立的な流通諸段階の順序が逆なことである。単純な商品流通は、販売で始まり購買で終わり、資本としての貨幣の流通は、購買で始まり販売で終わる。前のばあいには商品が、後のばあいには貨幣が、運動の出発点および終点になっている。第一の形態では貨幣が、他方の形態では逆に商品が、全経過の仲介者として機能している。〉(江夏訳145-146頁)

《フランス語版》

 〈けれども、M-A-M と A-M-A との運動を最初に区別するものは、同じ対立する諸段階の順序が逆なことである。単純な流通は、販売をもって始まり、購買をもって終わる。資本としての貨幣の流通は、購買をもって始まり、販売をもって終わる。出発点と復帰点をなすものが、前者では商品であり、後者では貨幣である。媒介者として役立つものが、第一の形態では貨幣であり、第二の形態では商品である。〉(江夏・上杉訳131頁)


●第10パラグラフ

《61-63草稿》

 〈形態G-W-Gの最初の行為、すなわちG-W、購買は、形態W-G-Wの最後の行為、すなわち同じくG-Wである。しかし、この最後の行為で商品が買われ、貨幣が商品に転化されるのは、その商品を使用価値として消費するためである。貨幣は支出されるのである。これにたいしてG-W-Gの最初の段階としてのG-Wで、貨幣が商品に転化され、商品と交換されるのは、ただ、商品をふたたび貨幣に転化するためであり、貨幣を取り戻すため、商品を媒介にしてふたたび流通から取り出すためである。したがって貨幣は、復帰するためにだけ支出されるものとして現われ、商品を媒介にしてふたたび流通から取り出されるためにだけ流通に投じられるものとして現われる。したがって、貨幣はただ、前貸しされているにすぎない。〉(草稿集④16頁)

《初版》

 〈流通 W-G-W では貨幣は最後には、使用価値として役立つ商品に転化する。したがって、貨幣は、最終的に支出されている。これに反して、逆の形態であるG-W-Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を収得するためである。彼は商品を買うさいに貨幣を流通のなかに投ずるが、そうするのは、ほかならぬこの商品の販売によって貨幣を流通から引き戻すためである。彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れようというたくらみのある意図があってのことにほかならない。だから、貨幣は前貸しされるだけである(3)。〉(江夏訳146頁)

《マルクスのエンゲルスへの書簡(1868年5月23日)》

  〈テユルゴは次のように言っている。あらゆる種類の事業家たちは「売るために買うということを共通にしている。…… 彼らの買い前貸しであって、この前貸しは彼らの手にふたたび帰ってくる」と。これは、じっさい、貨幣が資本として機能するところの取引であり、貨幣の出発点への貨幣の還流を条件とする取引であって、貨幣がたんに通貨として機能することを必要とするだけの、買うために売るという取引に対立するものである。売りと買いという行為の順序の相違が貨幣にごつの違った流通運動を押しつけるのである。その背後に潜んでいるものは、貨幣形態で表わされている価値そのものの違った行為なのである。〉(全集第32巻77-78頁)

《フランス語版》

 〈M-A-M の流通では、貨幣は最後には、使用価値として役立つ商品に変えられる。したがって、貨幣は終局的に支出される。これと逆の形態である A-M-A では、買い手は自分の貨幣を、売り手として取り戻すために与える。彼は、商品の購買によって貨幣を流通のなかに投じ、次いで、同じ商品の販売によってこの貨幣を流通から回収する。彼が貨幣を手放すにしても、それはただ、この貨幣を取り戻すという二心のある底意があってのことだ。したがって、この貨幣はたんに前貸しされるだけである(3)。〉(江夏・上杉訳131-132頁)


●原注3

《61-63草稿》

 〈「ある物がふたたび売られるために買われる場合には、使用される金額は、前貸しされた貨幣と呼ばれる。それがふたたび売られるためにではなくて買われる場合には、使用された金額は、支出される、と言われてよい」〈ジェイムズ・ステューアト『経済学原理の研究』、所収、『著作集』、その子サー・ジェイムズ・ステューアト将軍編、ロンドン、18O5年、第1巻、274ページ)。〉(草稿集④16-17頁)

《初版》

 〈(3)「ある物が転売されるために買われるばあいには、充用される金額は、前貸しされた貨幣と呼ばれる。それが売られるためでなく買われるばあいには、その金額は支出されたと言ってかまわない。」(ジェームズ・ステュアート『著作集』、その息子サー・ジェームズ・ステュアート将軍編、ロンドン、1801年、第1巻、274ページ。)〉(江夏訳146頁)

《フランス語版》

 〈(3) 「ある物が後で売られるために買われるぱあい、購買に使用される金額は、前貸しされた貨幣と言われる。ある物が売られるためにではなく買われたのであれば、その金額は支出されたと言ってよい」(ジェームズ・ステュアート『著作集』、彼の息子サー・ジェームズ・ステユアート将軍編、ロンドン、1805年、第1巻、274ぺージ)。〉(江夏・上杉訳132頁)


●第11パラグラフ

《初版》

 〈形態W-G-Wでは、同じ貨幣片が二度位置を変える。売り手はこれを買い手から受け取って、もう一人の売り手に支払ってしまう。商品と引き換えに貨幣を受け取ることで始まる総過程は、商品と引き換えに貨幣を譲り渡すことで終わる。形態G-W-Gでは、これと逆である。ここでは、同じ貨幣片ではなく同じ商品が二度位置を変える。買い手はこの商品を売り手の手もとから受け取って、これをもう一人の買い手の手もとに譲り渡す。単純な商品流通では、一方の手もとから他方の手もとへの同じ貨幣片の最終的な移行が、その貨幣片の二度にわたる位置変換によってひき起こされるが、それと同じように、ここでは、自己の最初の出発点への貨幣の還流が、同じ商品の二度にわたる位置変換によってひき起こされる。〉(江夏訳146頁)

《フランス語版》

 〈M-A-M の形態では、同じ貨幣片が二度位置を変える。売り手はこれを買い手から受け取って、別の売り手に渡す。運動は、商品と引き換えに貨幣を受け取ることで始まり、商品と引き換えに貨幣を引き渡すことで終わる。A-M-A の形態では、これと逆のことが生ずる。このばあい二度位置を変えるのは、同じ貨幣片ではなく、同じ商品である。買い手はこれを売り手の手もとから受け取って、別の買い手に譲り渡す。単純な流通では、同じ貨幣片の二度にわたる位置変換は、この貨幣片が一方の手から他方の手に終局的に移行することをもたらすが、それと同じように、同じ商品の二度にわたる位置変換は、このばあい、貨幣が自己の最初の出発点に還流することをもたらすのである。〉(江夏・上杉訳132頁)


●第12パラグラフ

《61-63草稿》

 〈第1。まずG-W-Gを、第2のGが第1のGよりも大きな価値量であるという事情は度外視して、その形態の面から考察しよう。価値はまず貨幣として、次には商品として、次にはふたたび貨幣として、存在する。それはこれらの形態を変換するなかで自己を維持し、これらの形態からそれのもとの形態に復帰する。それは2つの形態変化を通り終えるが、これらの形態変化のなかで自己を維持するのであり、したがってそれはこれらの形態変化の主体として現われる。したがってこれらの形態の変換は、価値自身の過程として現われる。言い換えれば、ここで述べられている価値は、過程を進みつつある価値であり、過程の主体である。〉(草稿集④11頁)
 〈このG-W-Gが、労働者と資本家とのあいだにおける貨幣--資本家が労賃に支出した貨幣--の還流を表現するにすぎない場合には、それ自体としてはなんら再生産過程を表わさず、ただ、買い手が同じ相手にたいしあらためて売り手になることを表わすだけである。それはまた、資本としての貨幣、すなわち、G-W-G'〔の場合のよう附に〕第二のG'が最初のGよりも大きい貨幣額、したがってGは自己増殖する価値(資本)であるというような、資本としての貨幣、を表わすものでもない。むしろそれは、同一貨幣額(しばしばさらにより少ない貨幣額)がその出発点に形式的に還流するととの表現でしかない。(ここで資本家と言っているのは、もちろん、資本家階級のことである。) だから、私が第一冊で(『経済学批判』全集第13巻101-102頁--引用者)、形態G-W-GはどうしてもG-W-G'でなければならないと言ったのは、まちがいであった。この形態が貨幣還流の単なる形態を表現しうるのは、私がそこでもすでに示唆しておいたように(『経済学批判』全集第13巻80-81頁--引用者)、貨幣のその同じ出発点への回流は、買い手があらためて売り手となるということによって説明されるからである。資本家が富裕になるのはこうした還流によってではない。彼は、たとえば10シリングを労賃として支払った。この1Oシリングで労働者は資本家から商品を買う。資本家は労働者にその労働能力の代価として、1Oシリング分の商品を与えたのである。もし彼が労働者に、1Oシリングの価格の生活手段を現物で与えたとすれば、貨幣流通はまったく生ぜず、したがってまた貨幣の還流も生じないであろう。だから、この還流という現象は資本家の致富とは無関係であり、資本家が富裕になるということは、ただ、彼が賃金として支出したものよりも多くの労働を生産過程自体において取得するということにのみ、それゆえ彼の生産物はその生産費よりも大きいけれども他方彼が労働者に支払う貨幣は労働者が彼から商品を買うための貨幣よりもけっして大きくはないということにのみ、由来しているのである。この場合、この形式的な還流は致富とは関係がなく、したがって資本としてのGを表現しない、それは、ちょうど、地代、利子および租税に支出された貨幣の、地代や利子や租税の支払者への還流のうちに、価値の増加または補塡が含まれていないのと同じである。〉(草稿集⑤495-496頁)

《初版》

 〈自己の出発点への貨幣の還流は、商品が買われたときよりも高く売れるか売れないかには、かかわりがない。こういった事情から影響を受けるのは、還流する貨幣額の大きさだけである。買われた商品が転売されるやいなや、つまり、循環G-W-Gが完全に描かれるやいなや、還流という現象自体が生ずる。したがって、これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としての貨幣の流通との、感覚的に知覚することができる差異なのである。〉(江夏訳146-147頁)

《フランス語版》

 〈貨幣の自己の出発点への還流は、商品が買われたときよりも高価に売られるかどうかにかかわりがない。この事情は、戻ってくる金額の大きさに影響するだけだ。買われた商品が再び売られるやいなや、すなわち A-M-A の循環が完全に描かれるやいなや、還流という現象自体が生ずる。これこそが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としての貨幣の流通との、感覚的に知ることのできる差異なのだ。〉(江夏・上杉訳132頁)


●第13パラグラフ

《61-63草稿》

 〈形態W-G-W--売ったのちに買うこと--では使用価値が、したがってまた欲望の充足が究極の目的であって、この形態そのものにはこの過程が経過したのちの過程更新の条件は直接にはない。商品は貨幣に媒介されて他の商品と交換されたのであり、いまや使用価値として流通の外に落ちる。これで運動は終りである。これにたいして形態G-W-Gの場合には、このG-W-Gという運動の、単なる形態のなかにすでに、この運動には終りがなく、その終りはすでにその更新の原理と衝動とを含んでいる、ということがあるのである。というのは、次のようなわけである。貨幣、抽象的富、交換価値が、運動の出発点であり、そしてその倍加が目的だから、また、結果も出発点も質的に同じもの、ある貨幣額あるいは価値額であり、その量的限界が過程の始めにおけるのと同様に〔W-GのGにおいても〕ふたたびそれの一般的概念の制限として現われるのだから--というのは、交換価値あるいは貨幣は、その量が増大させられればさせられるほど、その概念に相応するからであり(貨幣それ自体はあらゆる富、あらゆる商品と交換可能であるが、しかしそれが交換可能である限度は、それ自身の量、つまり価値量にかかっている)、自己増殖は、過程を開始した貨幣にとってそうであるのと同様に、過程から出てきた貨幣にとっても必要な活動だからである--、運動の終りとともに、またもやすでに、この運動の再開始の原理が与えられている、というわけなのである。貨幣は終りにもまたふたたび、それが始めにそこにあったものとして、同じ形態にある同じ運動の前提として、出てくる。このこと--富をその一般的形態で手に入れようとするこの絶対的な致富衡--こそ、この運動が貨幣蓄蔵と共通にもっているものである。〉(草稿集④20-21頁)

《初版》

 〈もちろん、W-G-Wでも自己の出発点への貨幣の還流は生じうるが、このことは、全過程の更新あるいは反覆に依拠するものであって、貨幣自身という契機の進行に依拠するものではない。私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売り、この同じ3ポンド・スターリングで衣服を買えば、この3ポンド・スターリングは、私にとっては、終局的に支出されている。私はもはや、この3ポンド・スターリングとはなんの関係もない。この3ポンド・スターリングは衣服商人のものである。そこで、私が第2の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私に還涜してくるが、それは第1の取引の結果ではなく、この取引の反覆の結果でしかない。この貨幣は、私が第2の取引を終えてあらためて買うと、すぐさま私から再び離れてゆく。だから、流通W-G-Wでは、貨幣の支出は、貨幣の還流となんの関係もない。これに反して、G-W-Gでは、貨幣の還涜が、貨幣の支出のやり方そのものによってひき起こされている。この還流がなければ、操作が失敗した、すなわち、過程が中断されてまだ完了していないのである。というのは、過程の第2段階、購買を補足して完結する販売が、欠けているからである。〉(江夏訳147頁)

《フランス語版》

 〈ある商品の販売が貨幣をもたらし、別の商品の購買がこの貨幣を持ち去るやいなや、M-A-M の循環が完結する。そうであってもなお貨幣の還流がその後で起こるならば、それは、循環の全行程が再び描かれるからにほかならない。もし私が1一クォーターの小麦を3三ポンド・スターリングで売り、この貨幣で上衣を買えば、この3ポンド・スターリソグは私にとっては終局的に支出されている。その3ポンド・スターリソグはもはや私には関係がなくなり、上衣の商人が自分のボケヅトのなかにそれをもっている。私がもう一度1クォーターの小麦を売っても無駄であって、私の受け取る貨幣は最初の取引から生じたものではなく、最初の取引の更新から生じたものである。もし私が二度目の取引を終わりまでやりとげて再度買えば、その貨幣は再び私から遠ざかる。したがって、M-A-M の流通では、貨幣の支出はその復帰となんの共通性ももっていない。A-M-A の流通ではこれと全く逆である。A-M-A では、貨幣が還流しなければ操作は不成功に終わる。運動の第二段階、すなわち購買を補完する販売が欠けているために、この運動は中断される、すなわち完結されないわけである。〉(江夏・上杉訳132-133頁)


●第14パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

 〈流通は、商品の二つの規定から出発する、つまり、使用価値という規定、〔および〕交換価値という規定から出発する。第一の規定が支配的であるかぎりでは、流通は使用価値の自立化で終わる。つまり商品は消費の対象になる。第二の規定が支配的であるかぎりでは、流通は第二の規定で終わる、つまり交換価値の自立化で終わる。商品は貨幣になる。しかし後者の〔交換価値という〕規定において商品が生成するのは流通の過程を通ることによってはじめて起こることであるから、商品は相変わらず流通と関連しつづけている。商品が一般的労働時間の--その社会的形態において--対象化されたものであることがさらに展開されてゆくのは、この後者の規定においてである。したがって社会的労働--これは最初は商品の交換価値として現象し、つぎに貨幣として現象する--の規定をさらに展開してゆくのもまた、この後者の側面からでなければならない。交換価値は社会的形態そのものである。したがって交換価値の展開を先へすすめてゆくことは、商品をその表層に送りだす社会的過程をさらに展開すること、または〔流通という表層から〕この社会的過程のなかへ沈潜してゆくことなのである。〉(草稿集③168頁)

《61-63草稿》

 〈G-W-Gにおいては、交換価値は、流通の結果として現われるのと同様に、流通の前提としても現われる。
  ……
  G-W-Gでは、交換価値が流通の内容であり、自己目的である。売ったのちに買うこと〔では〕、使用価値が目的であり、買ったのちに売ること〔では〕、価値そのものが目的である。〉(草稿集④10頁)
 〈流通形態W-G-Wでは、商品は二つの変態を経過するが、その結果は、商品が使用価値としてあとに残る、ということである。この過程を経過するのは、商品--使用価値と交換価値との統一としての、あるいは使用価値としての--であって、交換価値はこの商品の単なる形態、すぐに消えてしまう〔vershwindend〕形態である。しかしG-W-Gでは、貨幣と商品とは、交換価値の異なった定在形態として現われるにすぎないのであって、交換価値は、あるときは貨幣としてその一般的な形態で、他のときは商品としてその特殊的な形態で現われ、同時に、統括するもの〔das Übergreifende〕および自己を主張するものとして、両形態のなかに現われるのである。貨幣はそれ自体〔an und fur sich〕交換価値の自立化した定在形態であるが、ここでは商品もまた、交換価値の体化物〔Inkorporation〕の担い手として現われるにすぎない。〉(草稿集④12頁)

《初版》

 〈循環 W-G-W は、ある商品の極から出発して他の一商品の極で終結し、後者の商品は流通から出て消費に帰する。したがって、消費、必要の充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。これに反して、循環 G-W-G は、貨幣の極から出発して、この循環の終点である同じ極に移動する。だから、この循環の主な動機も決定的な目的も、交換価値そのものである。〉(江夏訳147頁)

《フランス語版》

 〈M-A-M の循環はある商品を出発点とし他の商品を終着点とするが、後者はもはや流通しないで消費に入りこむ。したがって、必要の充足、使用価値が、この循環の終局目的である。これに反して、A-M-A の循環は貨幣を出発点とし、貨幣に立ち戻る。したがって、その動機、その決定的な目的は、交換価値である。〉(江夏・上杉訳133頁)


●第15パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

 〈交換価値は、流通の前提であるとともに結果でもあるから、流通から出てきたのと同様に、ふたたび流通のなかに入ってゆかなければならない。
  貨幣の増大、貨幣の倍増こそが、価値が自己目的として行なうところの流通形態の唯一の過程としてあること、すなわち自立化させられて交換価値としての(さしあたりは貨幣としての)形態にある自分を保持してゆく価値は同時に価値の増大の過程でもあること、価値が自分を価値として保持してゆく運動は同時に価値が自分の量的制限をのり越えてゆく運動、価値量として価値を増大させてゆく運動でもあること、そして交換価値の自立化とはそれ以外の内容をもってはいないこと、こういうことをわれわれは、貨幣を論じたさいにすでに考察しておいたし、またこうした事態は貨幣蓄蔵において実際に現われもしたのである。流通を媒介として交換価値を保持してゆく運動そのものが同時に、交換価値の自己増大運動〔Sichvermehren〕として現われる。そしてこれこそ交換価値の自己増殖なのである。交換価値の自己増殖とは、交換価値が自分を価値を創造する価値--自分自身を再生産し、その過程において自分自身を保持してゆく価値であると同時に価値として、すなわち剰余価値として、自分を定立してゆく価値--として能動的に定立することである。貨幣蓄蔵においては、まだこの過程の形態だけが与えられたにすぎない。個人を念頭におくかぎりでは、この過程は、富をある有用な形態から無用な、しかも〔特殊な〕効用をもたないことを使命〔Bestimmung〕とする形態に換えてゆく無内容な運動として現われる。経済的過程の全体を念頭におけば、貨幣蓄蔵は、金属流通そのものの諸条件の一つとして役立つにすぎない。貨幣が蓄蔵貨幣にとどまるかぎりは、貨幣は交換価値としては機能しない、つまり貨幣は想像的なものにすぎない。他面では、〔価値の〕増大--自分を価値として定立すること、流通を通じて単に自分を保持するだけでなく、流通から自分を生み出しもする価値、つまり自分を剰余価値としても定立する価値--もまた〔貨幣蓄蔵においては〕想像的なものにすぎない。〔というのも〕以前には商品の形態で存在していたのと同じ価値の大きさが、今では貨幣の形態で存在しているだけなのだから。貨幣が貨幣の形態で貯蔵されるのは、商品の形態にある貨幣が断念されるからである。貨幣を実現しようとすれば、貨幣は消費のうちに消えうせてしまう。だから価値の保持と増大といっても、抽象的で形態的なものにすぎないのである。単純流通において定立されているものは、価値の保持と増大の形態だけなのである。〉(草稿集③176-177頁)

《61-63草稿》

 〈G-W-Gにおいては、交換価値は、流通の結果として現われるのと同様に、流通の前提としても現われる。
 流通から十全な〔adäquat〕交換価値(貨幣)として結実し、自立化するが、ふたたび流通にはいり、流通のなかで、流通を通じて自己を維持し、倍加する(大きくなる)価値(貨幣)は、資本である。
  G-W-Gでは、交換価値が流通の内容であり、自己目的である。売ったのちに買うこと〔では〕、使用価値が目的であり、買ったのちに売ること〔では〕、価値そのものが目的である
  ここで二つのことを強調しなければならない。第1に、G-W-Gは過程を進みつつある〔prozessierend〕価値であり、過程--すなわち、異なった交換行為あるいは流通段階を通って経過すると同時にそれらを統括する〔übergreifend〕ような過程--としての交換価値である。第2に、この過程のなかで価値は自己を維持するばかりでなく、それはその価値量を増加させ、自己を倍加し増加させるのであり、言い換えれば、それはこの運動のなかで剰余価値を創造するのである。このように、それは自己を維持するだけではなくて自己を増殖する価値であり、価値を生む〔setzen〕価値である。〉(草稿集④10-11頁)
 〈第2。けれどもすでに述べたように、もしもG-W-Gの質的に等しい極、G、Gが量的に異なっていなかったならば、つまり、この過程で或る価値額を貨幣として流通に投げ込んだあと、同じ価値額を貨幣の形態でふたたび流通から引き出し、かくして2重のかつ対立する交換行為を通してすべてをもとのまま、運動の出発点のままにしておくのであったならば、G-W-Gは一つの無内容な運動である。むしろ、この過程の特徴的な点は、両極G、Gが質的には等しくても量的には異なっている、というところにあるのであって、そもそも交換価値そのもの--そして貨幣のかたちで存在するのは交換価値そのものである--がその本性によってなしうる唯一のことが、量的な区別なのである。購買と販売という2つの行為、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化とによって、運動の終りには、より多くの貨幣、増大した貨幣額、つまり始めに流通に投げ込まれた価値と比べて倍加された価値、が流通から出てくる。たとえば、貨幣は最初、運動の始めでは1OOターレルであったのに、運動の終りではそれは11Oターレルである。つまり価値は、自らを維持しただけではなく、一つの新しい価値を、あるいは--それをわれわれはこう呼びたいと思うのだが--剰余価値(suplus value〕を、流通の内部で生んだ〔setzen〕のである。価値が価値を生産した。言い換えれば、価値はここではじめて、自分自身を増殖するものとして現われる。こうして、運動G-W-Gのなかで現われる価値は、流通から出てきて流通のなかにはいる、流通のなかで自らを維持する、そして自分自身を増殖し剰余価値を生む、価値である。そうしたものとしては、価値は資本である。〉(草稿集④18-19頁)

《初版》

 〈単純な商品流通では、両方の極には、同一の経済的な形態規定がそなわっている。両方の極はともに商品である。それらは同じ価値量の商品でもある。だが、それちは同時に、質的にちがいのある使用価値、たとえば穀物と衣服とでもある。生産物交換、すなわち、社会的労働を表現しているいろいろな素材の変換が、ここでは、運動の内容を成している。流通G-W-Gでは事情がちがう。それは、同義反覆であるから、一見したところ内容がないように見える。両極には、同一の経済的な形態規定がそなわっている。両方の極はともに貨幣である。それらはまた、使用価値として質的に区別されていない。なぜなら、貨幣はまさに、諸商品の転化した姿態であり、この姿態にあっては、諸商品の特殊な使用価値が消え去っているからである。まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次いでこの同じ綿花を再び1OOポンド・スターリングと交換すること、つまり回り道をして貨幣を貨幣と、同じものを同じものと交換することは、愚かでもあり無目的でもある操作のように見える(4)。ある貨幣額を他の貨幣額と区別できるのは、総じて、その大きさによるしかない。だから、過程G-W-Gは、両極の質的な差異によって内容をもっているわけではなく--なぜならば、これらの両極は双方とも貨幣であるから--、その量的な差異によってのみ内容をもっているわけである。最後には、最初に流通に投げ入れられたよりも多くの貨幣が、流通から引き上げられる。1OOポンド・スターリングで買われた綿花が、たとえば100+10ポンド・スターリング、すなわち110ポンド・スターリングで転売される。だから、この過程の完全な形態はG-W-G'であって、ここでは、G'=G+ΔG であり、すなわち、G' は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分、に等しい。この増加分、すなわち最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(suplus value)と呼ぶ。だから、最初に前貸しされた価値は、流通のなかで保持されるばかりでなく、この流通のなかで自己の価値量を変え剰余価値をつけ加える、すなわち自己増殖するのである。そして、この運動が、この価値を資本に転化させる。〉(江夏訳147-148頁)

《フランス語版》

 〈単純な流通では、二つの末端が同じ経済的形態をもっており、それらは双方とも商品である。それらは、同じ価値の商品でもある。ところが、それらは同時に、たとえば小麦と上衣という、異質の使用価値である。この運動は諸生産物の交換に、社会的労働がそのなかに現われているところのさまざまな物質代謝に、帰着する。これに反して、A-M-A の流通は、同義反復であるから、一見したところ無意味であるように見える。両端は同じ経済的形態をもっている。それらは双方とも貨幣である。それらは使用価値としては、質的に全然区別されない。貨幣は商品の転化した姿態であるし、この姿態のうちに商品の特殊な使用価値が消え失せているからである。100ポンド・スターリングを綿花と交換して同じ綿花を再び100ポンド・スターリングと交換すること、すなわち、回り道をして貨幣を貨幣と、同じ物を同じ物と交換すること、このような操作は愚かでもあり、無益でもあるように見える(4)。一方の貨幣額は、それが価値を表わすかぎり、その量によってしか他方の貨幣額と区別されえない。A-M-A の運動は、その両端が双方とも貨幣であるから両端のどんな質的差異からもその存在理由を引き出さず、たんにそれらの量的差異からのみその存在理由を引き出すのである。結局、流通に投ぜられたよりも多くの貨幣が、流通から引き出される。100ポンド・スターリングで買われた綿花が100+10、すなわち110ポンド・スターリングで再び売られる。したがって、この運動の完全な形態はA-M-A' であって、そこでは、A'=A+ΔA すなわち、最初に前貸しされた金額に超過分を加えたものに等しい。この超過分あるいはこの増加分を、私は剰余価値(英語ではsuplus value)と呼ぶ。したがって、前貸しされた価値は、たんに流通のなかで保存されるだけでなく、さらにそこでその量を変え、そこで追加分を付加し、いっそう価値を増加させるのであって、この運動が、この価値を資本に転化するのである。〉(江夏・上杉訳133-134頁)


●原注4

《初版》

 〈(4) 「人は貨幣を貨幣と交換しない」、とメルシエ・ド・ラ・リヴィエールは重商主義者に向かって叫ぶ。(前掲書、486ベージ。)「商業」と「投機」を職務上論じているある著書には、こう書かれている。「どの商業も、種類のちがう諸物の交換から成り立っている。そして、利益(商人にとっての?)は、まさにこのちがいから生じている。1ポンドのパンを1ポンドのパンと交換しても、なんの利益もないであろう。だから、商業と、貨幣と貨幣との交換でしかない賭博との、有益な対照。」(T・コービット『諸個人の富の原因と様式との研究、または、商業と投機との原理の説明、ロンドン、1841年』、5ページ。) コービットは、G-G、すなわち貨幣と貨幣を交換することは、たんに商業資本のだけではなくすべての資本の特徴的な流通形態である、ということがわかっていないにしても、少なくとも、この形態が、商業の一種である投機賭博とに共通である、ということは認めている。ところが、次にマカロックがやってきて、売るために買うことは投機することであり、したがって、投機と商業とのちがいはなくなってしまう、ということを見いだしている。「ある個人が転売するために生産物を買う取引はどれも、事実上は投機である。」(マカロック『商業の実用……辞典、ロンドン、1847年』、1056ページ。) アムステルダム取引所のピンダロス〔ギリシアの叙情詩人〕であるピントは、これよりはるかに素朴にこう言っている。「商業は賭博であり(この一句はロックから借用したもの)、乞食相手では儲けられない。もし人が長期にわたって皆の者からなにもかも巻きあげてしまえば、彼は、賭博を再開するためには、穏やかに話しあって、儲けの大部分を返してやらなければならないであろう。」(ピント『流通および信用論、アムステルダム、1771年』、231ぺージ。)〉(江夏訳148-149頁)

《フランス語版》

 〈(4) 「人は貨幣を貨幣と交換しない」と、メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは重商主義者に向かって叫ぶ(前掲書、486ページ)。商業投機職務上論じているある著書には、こう書かれてある。「どの商業も、種類のちがう物の交換から成っており、利益(商人にとっての?) はまさにこの相違から生ずる。1ポンドのパンを1ポンドのパンと交換しても、なんの利益もないであろう。……これが、商業と、貨幣と貨幣との交換でしかない賭博との、よいコントラストを説明するものだ」(T・コーベト『個人の富の原因と様式との研究、または、商業と投機との原理の説明』、ロンドン、1841年)。コーベトは、A-A.貨幣と貨幣との交換は、たんに商業資本だけのではなく、さらにすべての資本の特徴的な流通形態である、ということがわかっていないにしても、なおかつ彼は、商業の特殊な一種である投機の流通形態が賭博の流通形態であるということを認めている。ところが、次にマカロックがやってきて、売るために買うのは投機することであるということを見出し、したがって投機と商業との差異をどれもこれもうち倒す。「ある個人が再び売るために生産物を買う取引はどれも、実際には投機である」(マカロック『商業の……実用辞典』、ロンドン、1847年、1009ページ)。アムステルダム取引所のピンダロス〔ギリシアの叙情詩人〕であるピントは、もちろん、はるかにもっと素朴である。「商業は賭博である(ロックから借用の一句)。そして、乞食相手では儲けることができない。もし人が長い間に皆の者からなにもかも巻きあげてしまえば、彼は、賭博を再開するためには、穏やかに話し合って利益の最大部分を返してやらなければならないであろう」(ピント『流通・信用論』、アムステルダム、1771年、231ページ)。〉(江夏・上杉訳134頁)

 

 

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