Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ふたたび強い雨

2019年10月19日 01時24分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 弱い雨が続いていたが、いつの間にか強い雨に変わって、雨の音が絶え間なく続いている。時間雨量に換算して20ミリほどの雨である。  いったん弱まったが、再び強く降りだした。長い時間降り続く雨である。

 台風19号の復旧も端緒についたばかりで、強い雨が降ることが予想されている。あれだけの雨の後である。土砂災害が心配されている。山の斜面の新たな崩落、堤防の決壊などの要人も必要と思われる。それ以上に家屋の被害が拡大する可能性も大きい。

 今晩から寝間着も長袖に。夏の装いや夏ならではのものが次第に遠ざかっていく。夏の大量の汗を拭くハンカチは一回り小さくした。例年のことであるが、最後に残る夏物は掛け布団。これは私にとっては秋から冬にかけての定番でもある。真夏には薄いタオルケット1枚。


彼岸花萎れる

2019年10月18日 23時14分02秒 | 俳句・短歌・詩等関連

★彼岸花しおれて土のなお黒く      藤森 順
★むらがりていよいよ寂しひがんばな   日野草城
★天上も戦の有りや天蓋花        酒田晴彦

 もう先週のことであったが、彼岸花がしおれていた。しおれると赤い彼岸花も黒ずんでくる。まるで流れた血が黒く変色するようだ。そして花弁は消えゆくように細くなる。
 だから曼殊沙華は淋しい花である。

 畔でも土手でも、赤く、白く、それなりの大きさで咲く。これが薄い紫であったり、もっと小さな花であれば、多分可憐な花として愛でられたかもしれない。あるいは目立たず、ひとしれず咲いて人知れず消えてゆくものとして人口に膾炙することも無かったろう。
 下手に目立ち、そして彼岸という時期に必ず咲くものとして見つけられてしまった花である。強いられた咲き方、強いられて認知のされ方は花自体に責任はないが、人間が勝手に思い入れをしてしまっている。それも不吉な意味合いの花として。

 


ぎんなん

2019年10月18日 20時09分36秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 本日も予報に反して20℃には届かず、最高気温は18℃台になりそう。雨の区域は横浜市域をギリギリ避けるように神奈川県西部を北上していた。
 しかし19時を過ぎたあたりから横浜市域にも雨の区域がかかり始め、今は本降り。10ミリ程度の雨となった。

★ぎんなんのさみどりふたつ消さず酌む  堀 葦男

 16日に市民病院に行ったとき、近くの拾い公園では、台風で落ちたぎんなんを拾っている人が数人いた。私も以前にはずいぶん拾ったが、処理はしてもらってばかりであった。いつも美味しい成果品だけを貰っていた。
 今でもぎんなんを焼いて食べるのは好きである。あの半透明に見える緑色がいい。いろいろな角度からのぞいてみるのも楽しいが、手に取ってすかしたり、裏返してみたり、転がしてみたりしながら食べてみるのもいい。
 この句はひとりで飲んでいる人の句である。集団で飲んでいてはこのようにはならない。食べることより会話に重点が置かれたら、銀杏(ぎんなん)の美しい「さみどり」には眼は吸い寄せられることはない。
 ぎんなんを肴に飲んでみたが、残り二つが惜しくてこの二つを見ながら飲んでいる。よほどお酒が好きなのだろう。これは日本酒でないと似合わない句である。

 俳句には古酒、新酒という季語もある。どちらも秋の季語で。古酒は昨年の米で今年の初め頃までに出来た酒、新酒は今年収穫して初めてできた酒。
 さてこのぎんなんを前にした飲んべの作者は、古酒・新酒どちらを飲んでいるのやら。「さみどり」に今年実ったぎんなんの新しい生命の息吹を感じているのだろうか。

 お酒はひとりで飲むのがいい。いろいろなことが新鮮に感じられる。


急用で外出

2019年10月18日 13時56分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午前中は新聞の編集作業。午後は横浜駅まで出向いてコーヒータイムと考えていたら、急用で出かけなくてはならなくなった。
 所用はすぐに片付く予定。

 外は今にも降り出しそうな天気で薄暗い。正午の段階で18℃にとどいていない。小さなガスストーブを妻が出した。夜になるとストーブが欲しくなったとのこと。私も昨晩22時過ぎになってから少し寒く感じていた。

 つい先日までは暑かったわうな気がするが、あっという間に秋が深まってきた。確かに銀杏が公園や街路樹の下に転がり、銀杏の葉も黄色くなりかけている。ケヤキの葉も台風以降黄色くなりはじめた。早い木では散りはじめている。

 出かける支度がようやく出来た。これより外出。

 


読書を再開したが・・・

2019年10月17日 22時55分37秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 夜のウォーキングに出かけようとしたら雨は上がっていなかった。本日は残念ながら断念。

 そして本日より読書を再開。「酒井抱一」(岩波新書)から。しかし活字が二重に見えるのがつらい。疲れてすぐに眼を閉じたくなった。
 このブログの記事を書いているパソコンの画面も同じように二重に見えている。こちらは自分が書いている文章なので、だいたいは読める上に活字は少し大きく拡大している。

 本の方は自分が書いているのではないので、次の活字が何の活字かは想定できない。活字が同じ大きさであれば、人の文章の方が当然にも読みにくいものである。
 読んでいる活字、パソコンの活字、いづれもこれまで以上に二重に見える。これまでは霞んでいたのでくっきりと二重には見えなかったが、今回、霞がなくなってくっきりと二重に見える。白内障由来の霞がなくなったのは嬉しいが、これまでは細い二本の線の間が何となく黒く見え、ゴシック体のように線が太く見えていた。今は二本線がはっきりと見える。間は黒くは見えない。線の間は紙の色である。こちらの方が読みにくい。
 遠くは見やすくなったが、このように近くが見にくい。

 新聞の編集作業で疲れた目でいっそう活字を追うのが難しい。すぐに疲れて眠くなる。

 早くに左右両方の手術が終了し、眼鏡を新調して鮮明に見えるようになりたい。何とか年内に解決したいものである。


「怖い」と思う感覚

2019年10月17日 20時05分31秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 16時過ぎになって微かに雨が降り始めた。もうしばらくはは1ミリ程度の雨が降るらしい。気温も20℃を超える予想であったが、今のところ14時過ぎの18.2℃という気温が最高気温になっている。
 長袖のポロシャツの上に木綿の薄いジャンパーを着て夕方に出かけた。眼鏡を書き忘れて横浜駅まで往復。これまでよりは視力がよく成っているので意外と不便は感じなかった。ただし車のライトは乱視の影響で前照灯が4つに見えるので車道を横断するときは、信号がある交差点であっても怖い。車のこないコース、歩道の広いコースを歩いて往復した。
 また不意に横から飛び出したり蛇行するスマホ歩きの人、不意に方向転換したり止まったりする人は怖かった。緑内障の人間には走り回る子供も怖い。視野の欠損部分に不意に入り込んだりそこから飛び出して来る。

 眼が心もとなかったり、杖を突いた親と歩いたりすると、いわゆる「交通弱者」の視点で周囲を見ることになる。やはりとても怖い。
 50歳の頃、長期入院後には二週間ほど杖を突いて歩いたのだが、その時よりも怖いと思う。数年前の坐骨神経痛のときも杖を突いて歩いた。その時は周りの怖さよりも痛みに耐えることばかりが頭の中を駆け巡っていて、周囲に気を配るゆとりがなかったと思う。
 この二つの場面では、歩くところの物理的な段差などが気になった。しかし同じに歩いている人が怖いとはあまり意識しなかったことになる。

 人は肉体的な衰え、五感の衰え方、身体のつらい箇所、庇うべき人等々によって、怖いと思うことが変化する、ということが少しだけわかったような気がする。


秋寒し

2019年10月17日 11時47分23秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 昨日は20℃を下回ったという。本日はかろうじて20℃を超えるらしい。しかし10月の平年値が18℃ということなので、昨日の気温のほうが平年価に近い。

 昨日は医師から洗髪も洗顔も解禁となったことを告げられ、頭と目の周囲をきれいに洗った。一昨日も洗髪したけれど、おそるおそる右目から遠いところを洗っただけだった。昨日はいつものように洗うことができた。実にさっぱりとした。

 しかしとても眠い。キーボードの前で寝てしまいそうである。

★秋寒し此頃あるゝ海の色        夏目漱石
★秋寒しわが脳中の砂時計        庄司たけし
★うそ寒の身をしつける机かな      渡辺水巴

 秋寒、そぞろ寒、やや寒、うそ寒は秋に感じる寒さ。「そぞろ」は「それとなく」、「うそ」は「薄い」からの変化らしい。
 第1句、荒れた海、ではなく海の色が荒れているという。むろん「荒れたさま」という意味もあるが、具体的に「色」となると思い浮かばない。まだまだ大型の強い台風が来るのだから海水温は高いのであろう。人は大気の温度で季節を実感する。

 第2句、夏の大気は湿度が高く、肌には粘っこい感覚を与える。無機質のさらさらとした砂が脳中に少しずつ溜まってくるような感覚に私は共感した。脳細胞が老化してしまいには砂にすべて入れ替わる時が迫ってきている。

 第3句、本日のように寒さを感じたとき、人は何かに身を押し付けるものらいい。それは金属ではなく多分木製の家具である。机やタンスや柱などである。私もそうだ。不思議な感覚である。それらか体温で少し暖まるとますます離れられなくなる。母体へのあこがれ、甘えの感覚に繋がる。


新聞の編集作業

2019年10月16日 23時28分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 先ほどいつもの夜のウォーキングに出かけた。家を出たときは居待月が雲がほとんどない空を占領していたが、15分もしないうちに全天雲が覆ってしまった。月がすっかり雲に隠れて見えなくなった。驚くほどの雲の進出の速さに驚いた。地上では風は吹いてない。
 層積雲と思われるので、1000m位の高さしかない。はじめは調度天頂付近に月があり、月をときどきみながらのウォーキングかと期待したが、残念であった。

 本日から退職者会ニュースの編集を本格化。昨日は記事の一覧をつくり、来週月曜の幹事会前の編集会議の資料を作成。記事は表と裏でおおむね12本。
 本日は版下の枠組みと写真の整理をはじめた。明日からは利用する写真の明るさなどの補正と、概略の割り付け作業。
 編集期間は来週の水曜までに完了したい。

 


白内障のこれからの展開

2019年10月16日 17時39分22秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 市民病院で左目の白内障手術について見解を聞いたところ、緑内障もあるのですぐに実施するのは芳しくない、とのこと。半年まではかからないがしばらく様子を見たいとのことであった。なんとなくいなされた感じがしないでもない。
 次回の診察は二週間後、ということなのでその時に再度聞いてみることにした。これまで3種の点眼薬を一日13回であったが、3種類とも一日3回計9回ということになった。毎食後とすれば管理は楽になった。

 問題は左目の手術をするまでの眼鏡をどうするか。これは聞きそびれてしまった。これも二週間後に再確認するしかない。  右目の検眼をしたら、確かに右目の視力はよく成っている。かすみが消えただけでなく、0.1がやっとだった視力が0.3位までには回復してるようだ。ただし白内障特有のかすみは左目は継続している。そして二重に見える乱視の症状が際立つようになった。

 当分はまな板の上の鯉、の状態。自分の体なのに自分に処分権がないような気分でる。


モクセイの香り

2019年10月16日 09時20分21秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 モクセイがさかんに匂っているらしい。妻に匂っているといわれてもほとんど匂わない。微かにそれらしき匂いはするようだが、眼で見て確認するだけである。

★木犀や同棲二年目の畳         高柳克弘
★木犀をみごもるまでに深く吸ふ     文挾夫佐恵
★夜霧とも木犀の香の行方とも      中村汀女

 モクセイの句は匂いで読まれる。その花の形状や根もとにうずたかく重なって落ちている花を詠んだ句は私は知らない。第3句も「匂い」で詠んでいる。
 残念ながら私は匂いでは句づくりに挑戦できない。それでも過去に匂ったことはある。その匂いの印象は強烈である。

 匂いというのは艶めかしさをともなって脳内に印象付けられるみたいである。第1句、第2句はそのことを物語っている。


明日は市民病院

2019年10月15日 23時40分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 明日は朝から市民病院へ白内障手術の経過の診察。左目の手術の時期や緑内障の治療、かかりつけの眼科との関係など今後の方向について医師と相談したいと思っている。朝は7時半には起きなくてはいけない。
 私の思考回路とうまくかみ合わない医師なので、どう話を進めるか、先週からいろいろと悩んでいる。うまい対話の方法が見つからないので、出たとこ勝負で話をするしかなさそうである。

 明日までは顔や頭を洗ってはいけないといわれていたが、髭も剃らないわけにはいかず、顔は眼に水や石鹸が入らないように気をつけながらすでに洗っている。
 頭も汗でべとつくような気がして、気が滅入っている。本日のタオルで目を保護しながら洗ってしまうつもりでいる。10日に手術をしてから6日、もう限界である。


秋の果物

2019年10月15日 19時48分24秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 横浜駅まで一家3人で外出。人通りは少なく、昼食を喫茶店で摂り、何とか駅の繁華街とスーパーを一巡できた。
 いったん帰宅の後、わたしだけ再度出かけた。近くの私鉄の駅までの往復と若干の追加の買い物。
 ほとんどの人は長袖と長ズボン。中にはコートを着ている人もいた。ポロシャツ1枚では確かに少々寒い。上着があってもよかったかもしれない。

 一応スーパーでは秋の果物がたくさん置いてあった。野菜も豊富に置いてあった。高いのか安いのかはわからないが、量だけで判断する限り、台風の影響はとりあえずは感じなかった。

★がま口に妻の愚痴詰め秋の道      庄司たけし
★葡萄食ふ一語一語のごとくにて     中村草田男


後の更衣

2019年10月15日 10時37分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨日は日中どんどん気温が下がり、16℃前後で推移した。本日は若干気温は高く現在は19℃。
 本日から私は衣更え、長袖のポロシャツを昨日の夜に出してくれた。スボンも短いズボンは洗濯。長袖・長ズボンが私の基本となる。妻は先月すでに長袖に変わっているが、暑がりの私はこの時期になった。

 11時に親の付き添いで近くの病院へ、帰りには思い切って妻と3人で横浜駅まで出向いてみることにした。平日なので昼間は少し人出が少ないことを期待している。人混みの多いところは避けて周辺を歩いてみる。
 昼食と喫茶店での急速語、どのようにして帰宅するかはその時の状況次第。タクシーにするか、再度バスにするか。私の目のリハビリも兼ねるようなものである。

 親はすでにリハビリ病院での退院直前には、杖をついてバスの条項、スーパーでの買い物等の体験を済ませている。たぶん問題はないはずである。私の白内障手術前にも3人で、ごく短時間だったけれど横浜駅を歩いた。そのときはスマホ歩きの人がとても怖かった。今回もこれには注意を払わないといけない。


日常生活を取り戻す

2019年10月14日 20時43分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は寒いくらいだ。最高気温は20.8℃、それも昨晩の午前0時10分の記録である。それ以降気温が下がりっぱなしということである。この時間、半袖では風邪をひきそう。長袖の上に一枚羽織りたい気分である。

 浸水被害などのあったところの傍に住んでいる友人に連絡を取ってみた。本人からはとりあえずは無事という連絡を貰った。しかしまだ返信のない友人もいる。心配である。

 明日は親の病院に付き添い、その後妻と3人で横浜駅まで出向いてみる予定。少しずつ行動範囲を広げていきたい。  そして明日からは私も退職者会のニュースの来月号の編集作業を始めたい。日常生活というか普段の生活に戻す努力をしていきたい。

 「日常生活を取り戻す」ということをよく聞く。日常の活動を継続していくということの大切さが、歳とともにわかるようになってきたと思う。


眼鏡がないと不安

2019年10月14日 17時19分18秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 夕方にかけて妻と横浜駅まで行ってみた。途中まで一緒に歩き、半分ほど来たところで妻は私鉄に乗り先にデパートに行って買い物。私はそのまま歩いて横浜駅まで。喫茶店で落ち合ったのち、スーパーへ。
 横浜駅は人でごった返していた。三連休にもかかわらず、台風で多くの人が出かけることも出来ずに家に閉じこもっていたのであろう。特に子どもはイライラしていたに違いない。また住宅地のスーパーでは品薄のところもあるようで、横浜駅まで出向いて日用品、食料品の買出しを強いられているらしい会話も聞こえた。
 私はやはりまだ人混みは少し怖かったので、妻の後ろについて歩いた。基本的には眼鏡をはずして歩くことに少しずつ慣れている。それでも54年ほど眼鏡をはずしたことがないので、それだけで不安が先に立つ。
 右目は50センチの近点に焦点が合っているが、乱視なので二重にものが見える。しかし霞んではいない。視界は明るいので、事前に考えていた以上に遠くまで見ることはできる。だが、左目はいじっていない。左目だけに限っていえば無理して眼鏡をはずしていることになる。以前から右目が効き目なので、左目ではあまりものを見ていない。今はかえって右目にさらに負担がかかっている。左から迫ってくる車や人が怖いのである。

 54年もかけ続けている眼鏡、今は掛けるよりも外した方がものは見やすいのだが、掛けないと心理的な不安に陥る。いつの間にか眼鏡を探してポケットをまさぐったり、頭の上にずらしていないか探ったりしている。
 日程調整の上、早めに左目の白内障手術も行い、必要な眼鏡を処方したいものである。