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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「荘司福・荘司貴和子展」感想3

2019年06月09日 14時30分48秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 荘司福の晩年の作品では「春雪」(1991)が私には好ましかった。とくに右上の月が白く、山の雪と呼応して、山から湧き出たように浮かんでいる様が印象的であった。これと対角線上の左下に枯れた白い樹木がこの作品の眼目のようにピントが合ったようにくっきりと描かれている。月の浮力と、くぼ地を表す黒い遠景を後ろにした白い木が、大地の重さを支点に釣りあったように見える。白はその力を象徴したものと感じた。

 以前にもこのブログで取り上げた「春律」(1986)、「到春賦」(1987)以降、白を基調とした画面から色彩の厳しさ、鮮烈さ、緊張感が一気に希薄になってしまうように感じた。この「春雪」は1991年の作品であるがこれを除いて、画面には白の彩色が効果的に現われているものの、私には緊張感が抜け落ちていないだろうか。



 「山響」(1990)は、仙台市内の秋保大滝の5月若葉の頃の情景であるらしい。具体的な場所の特定は別として、若葉の緑としては旺盛な生命力の発露を画面に受けとめる、というよりも調和と安住が眼目に思えた。私の素人のとぼしい知識による思い違いかもしれない。それとも60代末で気力に難のある私がいうのは、失礼であろうか。そればかりか、80歳を超えて「春雪」を描いた荘司福の気力にまずは敬意を評さなくてはいけないのだろう。でも少し寂しい気がしたことは確かだ。緊張感ばかりを作品に求める私の精神に問題があるのだろうか。



 今回の展示では、荘司福の息子の妻となった荘司貴和子(1939~1978)の作品も数多く展示されている。ともに旅先で作品を描いたようだが、彼女は40歳に満たずに亡くなっている。抽象画といわれるのであろうが、「玄海の月」(1976)が図録の表紙にも取り上げられており、代表作というのであろう。私にも共感するところがあった。
 青は海、左下の黒い塊は岩礁、黄色の月はその影を青く海に映している。白い帯状の形象は波であろうか。このように具象的に見てしまうのは良くないとはわかっていても、つい対応関係を求めてしまう。右上の白い帯はなんの象徴になるのか。そのような詮索はせずに、純粋に色と形態のリズムを楽しんだ方がいいのかもしれない。しかし丸い影のような青も印象的である。
 月の下に描かれた折れ点のある白い帯状の形象は他の作品にも表れ、印象深い形態である。そしてこの「白」に荘司貴和子もこだわりを見せている。
 短い帯状の白い形態が繰り返されたり、白い形態の下塗りの模様などが浮かび上がるように縫っていたり、荘司福との何かしらのつながりを感じた。
 荘司福は「彼女の澄んだ感覚が自由に伸びて展開して行ったらどの様な仕事になるか大変興味深かっく思い‥」と述べている。

齢抱くごとく熟柿をすすりけり(齋藤玄)

2019年06月09日 12時09分16秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨日ネットで偶然に、齋藤玄という俳人の句を見かけた。印象深く、とても惹かれた。
★齢(よわい)抱くごとく熟柿をすすりけり

 年譜を調べると、以下のようになる。私なりに並べてみた。
1914(大正三)年8月、函館市青柳町に生れる。本名俊彦。
1937(昭和一二)年、早稲田大学在学中、新興俳句に惹かれ「京大俳句」に入り西東三鬼に師事する。
1938(昭和一三)年、北海道銀行に就職、翌年留守節子と結婚。
1940(昭和一五)年、壷俳句会を興し、俳誌「壷」を創刊。
1940(昭和一八)年、石田波郷を知り、波郷の主宰誌「鶴」に初投句し、巻頭を飾る。翌年、空爆下の東京勤務を避けるため銀行を退職する。
1951(昭和二六)年、新設の北海道銀行に入行。多忙な生活などから俳句は一時休眠。
1967(昭和四二)年銀行を退職し、道央信組の専務理事に就任する。翌年、個人誌「丹精」を発行。妻の癌死を詠んだ「クルーケンベルヒ氏ヒ腫瘍と妻」を連載して俳壇に注目される。後に川端康成、波郷の絶賛を受ける。
1978(昭和五三)年、直腸ガンで入院。旭川に転居。
1979(昭和五四)年、第五句集「雁道」により蛇笏賞を受賞。
1980(昭和五五)年、癌との闘いの末、旭川で死去。66歳。
当初のモダニズムの傾向から伝統的韻文形式を経て、第二次世界大戦後は根源俳句の影響を受けた。後、妻の死や自身の病を得てからは死を見つめる透徹した句を発表。

 ネットでとりあげられている句の内、印象に残ったものを順不同で並べてみる。
★晩鐘は鈴蘭の野を出でず消ゆ
★たましひの繭となるまで吹雪きけり
★明日死ぬ妻が明日の炎天嘆くなり
★死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒
★癌の妻風の白鷺胸に飼ふ
★睡りては人を離るる霧の中
★流氷を待ち風邪人となりゆけり
★残る生(よ)へ一枝走らせ枯芙蓉作
★残る生のおほよそ見ゆる鰯雲
★晩年の不意に親しや秋の暮
★晩年の過ぎゐる枯野ふりむくな
★冬の日と余生の息とさしちがふ


 表題の「齢抱くごとく熟柿をすすりけり」は、弱った体調と、少しの力を加えるだけで崩れてしまう熟柿とが並んでいる。熟柿のような自己、という認識が61歳の作者の老いの認識である。このような認識、諦念に私は驚嘆し脱帽した。齢(よわい)というからには身体だけでなく精神も含んで「熟柿」のような自己と認識しているのである。妻の病、自己の病と向き合った人の精神を垣間見ることができる。
 最後の句「冬の日と余生の息とさしちがふ」は、北海道の冬の日、生命の衰えを象徴するような冬の陽射しに向って、作者が「余生の息」を吹きかける。たぶん冬の弱った陽射しであっても、体調の弱った人の息は押し戻されてしまうであろう。それでもその冬の陽射しと刺し違えるように、余生の力をみなぎらせる、そんな意志の力を感じさせる句であると解釈してみた。三年後に作者は癌との闘いを経て亡くなる。

 句集を手に入れてみたいと思った。



歩き方がおかしかった

2019年06月08日 23時19分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 ゆっくりとしたペースで夜のウォーキングを40分ばかり。内また気味で歩いているという指摘を受けて、いつものとおりほんの少しガニ股気味を意識して歩いた。確かに以前は靴底の外側が減っていたが、今回の運動靴は両方内側が少し減っている。靴紐があまりに緩すぎて両方の外側のくるぶしにマメができ、それを庇って歩くうちに内またになっていたようだ。それで両足の筋肉に負担がかかり、疲労が溜まっていた可能性がある。
 本日も下り坂になるとマメの有った部分が痛くて、庇うために内また気味になることがわかった。マメの跡の疵を直すことと、ゆっくりとこれまでの歩き方に戻すことが大切と思われる。

陶器市(大通り公園)

2019年06月08日 21時07分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
   

 午後から雷雨の予想であったが、思い切って二人で出かけてみた。横浜駅まで歩き、関内駅まではJR。大通り公園で開催している陶器市で来客用のご飯を盛る椀を2客購入。
 私はもっぱらぐい呑みの高価なものをながめて歩いた。購入はとてもできないので、手触りとデザインを楽しむ。高いもので数万円、これは欲しいとは思うがもともと手が出ない。一つ5千円から8千円くらいで欲しいと思うものがあると、何となくほしくなる。家には20数個のぐい呑みがあるが、やはり家にないデザインや手触りのものが欲しくなる。無理すれば購入できないことはないが、のちのちのことを考えると購入するわけにはいかない。
 数百円のものはもう購入する必要性はない。
 この大陶器市、すでに過去に3回ほど訪れている。我が家の食器のいくつかはここで購入済みである。以前に伊万里焼の魚を盛り付ける皿を購入した記憶がある。ぐい呑みは残念ながらいつも手が出なかった。
 全体をみてあるいてから、椀の波佐見焼の藍色の模様のものを2客だけ購入した。
 帰り際に横浜スタジアムが賑やかなので、ライオンズとベイスターズ戦の最終回の攻防をスタジアムの出入り口にあるモニターテレビで見た。久しぶりにベイスターズが勝ち、妻はご満悦。夕食は早めだったが中華街で、済ませた。妻は焼きそば、私はマーボー豆腐のそれぞれセットメニュー。800円と850円でいくつかの副菜とスープ、杏仁豆腐もついてとても安かった。

 結局家に帰りつくまで雨には降られずに済んだ。
 


梅雨に入る

2019年06月08日 13時55分14秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★水郷の水の暗さも梅雨に入る      井沢正江
★世を隔て人を隔てて梅雨に入る     高野素十
★梅雨寒し鬼の焦げたる鬼瓦       加藤楸邨
★梅雨寒や戦意のような石一個      千賀友子


 第三句、加藤楸邨の句、広島での1970年の作で「吹超」所収。おそらく原爆に焼けた鬼瓦のことではないだろうか。「寒し」の語感が拡がる。
 第四句、「戦意のような石」とは果たして何を喩えているのだろうか。固い意志、それも内に秘めている。しかし外には向かないベクトルを持っていないか。どんな戦意なのか、断定はできないが、想像を広げたくなる句である。

梅雨空

2019年06月08日 11時28分25秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 朝からどんよりした梅雨空。無風状態で昨晩に引続き肌寒く感じる。10時前の気温が20.4℃と表示された。予報では25℃まであがるようだが、なんとなく怪しい。昼以降は雷雨となっており、すでに横浜市域には雷注意報が出ている。湿度が95%と極めて高いけれど、気温が低いのでジメジメした感じではないのが救い。

 飯田蛇笏の句から
★患者運ぶ廓の明暗梅雨入りかな     「山蘆集」
★月いでて見えわたりたる梅雨入りかな  「山蘆集」
★つゆさむくすこしかたむく高嶺草    「心像」


 梅雨入り、は「ついり」と読む。俳句独特の読みである。音数を少なくする言い回しが多い。私としては俳句の世界でしか通用しない読みや言葉というのは避けたいが、つい使ってしまうことも多い。
 第2句、梅雨晴れの夜、空気は湿気が充満しているが、雲間からの月あかりがことのほか明るく、そして雲に反射して独特の情景を思い浮かぶ。雲の強調された遠近感や造形が心に残る。「見えわたりたる」が月の光が広がりを言い当てている。

夜まで雨、ウォーキングは中止

2019年06月07日 23時19分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 夜まで雨が続き、夜のウォーキングは中止。やはり夜になると両足の太腿の前後、脹脛・脛の筋肉がだるい。右の腰のあたりの筋肉もだるくなる。しばらくマッサージを続けないといけないようだ。
 再来週には市民病院でもう一度造影剤を注入してのCT検査もある。門脈の血栓症との関連がなければ問題はないのだが‥。

 明日も特に予定は入っていない。本日午後若干の読書タイムが取れたのだが、喫茶店の暖かさに誘われるようにまた寝てしまった。

 この時間も昨日とは違って少し肌寒さを感じている。もう暖房はとっくにしまい込んでいる。本を持ってベッドに入ると、また暖かさに誘われて気持ちよく寝入ってしまいそうである。




6月3日の横浜港

2019年06月07日 22時13分47秒 | 山行・旅行・散策
 6月3日に横浜港の構内クルーズ船に乗ったときの写真を少々。良く腫れたが、雲が不気味な日であった。朝のうち少し雨が降り、その後晴れたのだが、そり陽射しはかなり強かった。

                     

今さらながら歩き方を矯正

2019年06月07日 20時12分52秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は国民健康保険の無料健康診断を受けてきた。同時にいつもの高血圧の診断、ならびに両足の筋肉のマッサージと右の腰の違和感の解消のために、マッサージ治療を受けてきた。マッサージは数年前に脊椎管狭窄症・坐骨神経痛の治療をしてもらったところである。
 マッサージはいろいろと体の部位を触診したのち、前回も云われた通り「体が硬いですね」と「脹脛はだいぶ固い」と第一声。体の右側がかなり痛かった。靴の裏側も見たうえで、どうも歩き方に問題があるようで、「内また気味」といわれた。足先を外側に少し開いて親指で蹴って歩くことを意識した方がいいと指摘された。
 診断と針・灸・マッサージで2時間ほども見てくれた。保険適用で2500円に満たない金額で、びっくり。来週火曜日に予約を入れて、帰宅。

 ウォーキングは続けて構わない、といわれた。指摘された通りに少しガニ股気味に歩いたら、ずいぶん楽に歩けた。新しい運動靴を購入して、靴の紐の調整を放置し、ゆるゆるのまま歩いていたためにマメが出来たと思われるが、同時に痛みをこらえるためにこれまでの歩き方とは違って、変な癖をつけて歩いていた可能性がある。
 ちゃんとした歩き方を心がけたら、足のマメの付近の痛みもなく、とても楽に歩けた。

浅間山荘事件から47年

2019年06月06日 22時21分07秒 | 読書
 本日の飲み会はこれにて終了。家に何事もなくたどり着きたいもの。
横浜駅から歩いて帰るか、近くの私鉄の駅経由で帰るか、バスを利用するか、酔った頭で考えると面倒になる。
 明日は、少しでも読書タイムを確保したい。来週の予定であった降圧剤の処方を兼ねて、明日の7日は、無料でしてもらえる国民健康保険の健康診断を受けてみることにした。

 昨晩NHKのテレビで「連合赤軍47年後の告白」を見た。私は全共闘の追体験のような運動に参加してきたので、まったく予定をしていなかったが、テレビを最後まで見てしまった。あの「武装闘争」路線とは無縁な世界にいたので、私には何も語る資格も無いのだが、同時代を経たことは間違いがない。苦い、そして口の中が焼けるような嫌な思いが先に立つ。あってはならないこと、と思っていたことが現実に起きてしまった、ひょっとしたら自分は無縁だと思ってはいても、「もしかしたら自分だったかもしれない」という思いがゼロではない。
 私はそれぞれが自分の頭の中で勝手につくりあげてしまった「人民」や「革命」という観念に逆規定されることからは自由でありたい、と思って運動に参加した。既成左翼にはない新左翼の自由闊達さにあこがれたものでるが、そうではない人々がいることに運動の中でおおいに違和感を持ちながら、自分なりの開かれた運動を作ってきたつもりである。
 だから今さら、という気持ちも強かった。
 だが、同時代ということで、まったく自分が無関係だと、コメントを拒否することもしない。いつまでも引きづってどこかでこだわっていることは確かである。
 今はまだ、この程度を語るにしたままでいたい。いつか、もう少し語りたい、とは思っている。

鉄道事故

2019年06月06日 19時31分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
これより飲み会の二次会。市営地下鉄は朝の脱線事故で、終日折り返し運転。影響は取り敢えず最小限で済んでいる気配である。
大きな事故の場合、利用もしていないのに、駅まで見に行って混雑を助長している人がいるのだそうだ。先程の一次会での情報である。
私には理解できない人がいるものである。昔は怪我人が出たときに備え、救護で付近の人が活躍したというのは、よく聞いた。しかし物見というのはいただけない。

怖い話

2019年06月06日 14時14分55秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 ツイッターにこんな記事が載っていた。【⇒https://netallica.yahoo.co.jp/news/20190605-39607873-careercn
 内容は、「公園で見かけない男がスマホをいじっているので、盗撮だ、と警察に通報した女性のグループがおり、トラブルになった」との記事である。警察官が出動し、男が「自分は座っていただけ」と怒り、警察官が通報者に「公園で休憩するのに許可はいりませんので」となだめた、とのことである。
 この記事が実際にあったのかどうなのか、の検証はできないが、実際のことと頷けた。というのも私も現役のときには、公園管理の業務の第一線におり、似たようなことがたびたびあったからだ。
 最近このような事案が増えていて過敏で過剰な反応が多いのか、あるいは社会があまりに他者に不寛容になっているのか、どことなく今の社会の現状を象徴的に表しているようなとらえ方もあながちハズレてはいない。
 だが果たしてこのような通報が最近始まったのかというと、そうでもない。ただし数が増えたかどうかは、すでに8年も前に退職した私にはわからない。

 私が現役のときに、この手の苦情で二つ印象に残っているものがある。
 ひとつは、「公園のペンチで『土方』が弁当を食べているので、子どもが遊べない」という電話を取った。私は「公園のベンチは誰でもが使えますし、お昼休みや休憩でベンチを使うのは問題ありません。子どもを追い出して大人がキャッチボールなどをしていれば注意しましょう」というふうに答えたが通報者は納得しない。
 ようするに作業服を着た知らない人がいるので、自分の子どもを遊ばせるのに不安だというのである。とりあえず「公園を見に行った上で回答」するので名前と電話を教えて欲しい、といっても匿名のままで電話を一方的に切られた。
 私も昼休みだったが、職場から歩いて10分ほどの住宅街にある狭い公園だったので行ってみた。公園のベンチ6つほどのベンチの3つほどを営業マンらしい人と、近くの建築現場の作業員らしい人あわせて5人ほどが弁当を食べ終わって雑談したり、居眠りをしていた。子どもはお昼時なのでだれもいない。
 雑談している作業員に「子ども連れの女性とトラブルになったのか」と聞いてみたが何もなかったようにキョトンとしていた。特に問題もないので、公園を一周し、周囲の家々も見回して戻ってきた。
 電話は一方的に切られたので、公園利用の原則などの説明できなかったのだが、要は「土方」という人を蔑む予断と偏見、見知らぬ人に対する漠然とした不信感、である。子どもの父親も、あるいは自分の親も、きっとどこかの公園でお昼のひとときにささやかな休息を取っているかもしれないことに思いが至らない人なのであろう。子どもの安全は気になると思うが、よくよく観察すれば、そのような人々ではないことはすぐにわかる状況であった。
 二つ目は、細長い公園について「公園の入り口の車止めが邪魔なので、自転車で公園が通過できない。朝の急ぐ時に駅まで公園を迂回しなくてはいけない、公園内を自転車が入れるようにしろ」という怒りの電話であった。
 当然にも「利用者、とくに子どもの安全の確保の観点から車止めは撤去できない」旨伝えたが、この電話主も怒鳴り散らして一方的に電話を切った。
 人は自分の利便性については、他者のことが頭から消えてしまいがちである。他者への配慮が出来なくなり、自分の意見を客観的に見直すことができなくなるようだ。自分や隣近所の子どもがこの公園を利用しているかもしれないという想像ができないのだ。
 多分のこの電話の主は、道路上でも危険な自転車の走行を繰り返しているのかな、と思ってしまう。あるいは電話だから怒鳴り散らしてしまい、意外と面と向かうとそうでもないのかもしれないなどと同僚と話をしたのを覚えている。

 このように先ほどのツィッターの記事のような事例は、繰り返しになるが残念ながら現役時代にも間違いなくあった。もっと昔からもあったと思われる。電話だとかなり強い口調で一方的にまくしたてられるが、実際に公園で市民を話をしていると、言葉の端々からそれとなく静かな口調であっても同じような要望が語られる。
 だが、多くの場合それらを文章にして「要望書として皆さんの意見をまとめてください」というとこのような意見や要望は消えて、建設的でよりよい公園にするための要望になって提出してもらえる。町内会、PTA、子供会、近所のグループ、保育園の保護者会などで意見を皆でこなすと、極端な意見や他者への配慮を欠いた意見や要望は消えることが多かった。
 個人の配慮を欠いた意見はそれなりに淘汰されて、社会の水面に躍り出ることは少なかった。

 だが、これまでもあったようなことが、あえて語られるのどういうことなのだろうか。ツィッターの記事は、スマホをしている人と周囲の状況を観察すれば、「不審」かどうかなどすぐにわかるものである。またさまざまな人と意見を述べあいながら結論を出していく、というよりも付和雷同的に同調圧力で流されていく危険も最近は強いのかな、と思う。

 最近、「公益」を私物化して当然というような政治が横行する中、先ほどの記事が現代を映すシンボルのように語られるのだろうか。「公共・公益が自分のごく狭い範囲だけの論理・利害」で回ってしまっていないか。その弊害が社会全体を覆っていないか、という危惧のように。
 「利益を生まない時間・空間は無駄」として「限定された者だけを対象にした空間・時間」に変えられ、ひとびとの持つ多様性がどんどんそぎ落とされていく傾向に、私は危険を感じている。誰でもが享受できる空間・時間を提供する公園などを、利益を上げるためにテーマパークにして入園料を取ってしまうようになったり、と何とも息が詰まるような都市に変わりつつあると思う。
 公共・公益が利益を産ませる時空に変質し、一握りの人に握られる。そしてひとびとの多様性が許されなくなる。権力者や極端な富裕層が所有していた広大な庭園・住居などの空間を、都市全体の公共空間として解放してきた歴史を逆に回してしまっている。公園などの自由使用を基本とする公共空間は、排除の思想に支配されてはいけない。現在これが危うい。
 もしもそれが正しい直観ならば、現代の日本の社会は極めて危ない水準に至っているともいえる。国家としても社会としても極めて危険な水域ではないか。


 実は私の経験した一つ目の電話以来、私は定年まで昼当番の時は、職場の近くの別の小さな公園でわざと13時から昼休みの休憩を取ることにした。多くのサラリーマンや職人たちが利用している空間は、私にとっては好ましい公園に映った。むろん小さな子どもも遊び、親もいる。木々や草花も楽しめ、私には充実した1時間に感じられた。その数年間はその公園でトラブルなどなかった。


さそり座のアンタレス

2019年06月05日 23時33分07秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 先ほども記載したように本日は夜のウォーキングは中止。ただし歩いて10分ほどのドラッグストアに妻と買い物に出かけた。特に必要なものはなかったのだが、いくつかの食材の買い増しに出かけた。
 しかしサンダルで足のマメの痛みをこらえながらを引きづるように歩いていたら、腰のあたりの筋肉が痛み出した。時々妻の肩につかまりながら往復20分ほどをゆっくりと歩いた。結果として本日は1万歩を超えた。しかし明日もウォーキングを中止して、太ももと脹脛の筋肉の養生と、腰の違和感の解消に努めた方が良いみたいだ。

 頭上にはさそり座の傍にある木星がことのほか明るく輝いている。さそり座のアンタレスと並んでいるはずだが、夏の星の代名詞でもあるアンタレスが微かにしか見えなかった。

★ばら活けて器の満水に心足る      飯田蛇笏

芒種(ぼうしゅ)

2019年06月05日 21時12分18秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 夕食後、どうにか寝ないで起きているが、いつまで起きていられるだろうか。早めに眠れるのならば、それもいいかもしれない。あまり早すぎるのも困りものである。

★芒種早や丹沢山塊雲不穏        酒居誠二
★海に月しらじら映ゆる芒種かな     夏井いつき


 帽子は二十四節気の夏の三番目。稲などの穀物を播く時期のこと。今年は明日の6日である。田植えが始まり、梅雨めく時分である。

ひたすら眠い

2019年06月05日 20時10分58秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 どうしてこうも眠いのだろうか。どこかネジが緩んでしまったように眠い。15時に皮膚科の診察を受けた。運動靴を買い換えてから靴紐の調節を怠ったままウォーキングをしていたら、締め具合が緩すぎたようで、両足の外側のくるぶしと第4指にマメが出来た。4か所とも非常にいたく、そして皮膚がすっかり固くなってしまった。
 情けないことだが体の固い私は自分でこの皮膚を削ったりすることができない。皮膚科で硬いところを切り取ってもらい、化膿止を処方してもらった。
 診察を待つ間も、会計を待つ間も、薬局で待つ間もごく短時間なのだが、寝入ってしまった。5分という短い時間も起きているのがつらかった。ただひたすら眠いのである。

 薬局で支払いを済ませてから、あるいて15分ほど横浜駅まで歩いてみた。足先はまだ痛みがあったけれど、それほどの痛みはなかった。ただし太腿と脹脛の筋肉痛はあった。痛い足を庇って足を引きづりながらウォーキングをしたためだろうか。本日は無理はしない方が良いようなので、夜のウォーキングは中止することにした。

 横浜駅の喫茶店で読みかけの本を取り出して読み始めたものの、10分もしないうちに眠くなり、そして自分の寝息で目が覚めた。
 帰りはバスを選択したものの、座席に座って1分もしないうちに寝てしまい、危うく乗り過ごすところであった。

 この強い眠気、なんとも情けない1日である。