昨日ネットで偶然に、齋藤玄という俳人の句を見かけた。印象深く、とても惹かれた。
★齢(よわい)抱くごとく熟柿をすすりけり
年譜を調べると、以下のようになる。私なりに並べてみた。
1914(大正三)年8月、函館市青柳町に生れる。本名俊彦。
1937(昭和一二)年、早稲田大学在学中、新興俳句に惹かれ「京大俳句」に入り西東三鬼に師事する。
1938(昭和一三)年、北海道銀行に就職、翌年留守節子と結婚。
1940(昭和一五)年、壷俳句会を興し、俳誌「壷」を創刊。
1940(昭和一八)年、石田波郷を知り、波郷の主宰誌「鶴」に初投句し、巻頭を飾る。翌年、空爆下の東京勤務を避けるため銀行を退職する。
1951(昭和二六)年、新設の北海道銀行に入行。多忙な生活などから俳句は一時休眠。
1967(昭和四二)年銀行を退職し、道央信組の専務理事に就任する。翌年、個人誌「丹精」を発行。妻の癌死を詠んだ「クルーケンベルヒ氏ヒ腫瘍と妻」を連載して俳壇に注目される。後に川端康成、波郷の絶賛を受ける。
1978(昭和五三)年、直腸ガンで入院。旭川に転居。
1979(昭和五四)年、第五句集「雁道」により蛇笏賞を受賞。
1980(昭和五五)年、癌との闘いの末、旭川で死去。66歳。
当初のモダニズムの傾向から伝統的韻文形式を経て、第二次世界大戦後は根源俳句の影響を受けた。後、妻の死や自身の病を得てからは死を見つめる透徹した句を発表。
ネットでとりあげられている句の内、印象に残ったものを順不同で並べてみる。
★晩鐘は鈴蘭の野を出でず消ゆ
★たましひの繭となるまで吹雪きけり
★明日死ぬ妻が明日の炎天嘆くなり
★死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒
★癌の妻風の白鷺胸に飼ふ
★睡りては人を離るる霧の中
★流氷を待ち風邪人となりゆけり
★残る生(よ)へ一枝走らせ枯芙蓉作
★残る生のおほよそ見ゆる鰯雲
★晩年の不意に親しや秋の暮
★晩年の過ぎゐる枯野ふりむくな
★冬の日と余生の息とさしちがふ
表題の「齢抱くごとく熟柿をすすりけり」は、弱った体調と、少しの力を加えるだけで崩れてしまう熟柿とが並んでいる。熟柿のような自己、という認識が61歳の作者の老いの認識である。このような認識、諦念に私は驚嘆し脱帽した。齢(よわい)というからには身体だけでなく精神も含んで「熟柿」のような自己と認識しているのである。妻の病、自己の病と向き合った人の精神を垣間見ることができる。
最後の句「冬の日と余生の息とさしちがふ」は、北海道の冬の日、生命の衰えを象徴するような冬の陽射しに向って、作者が「余生の息」を吹きかける。たぶん冬の弱った陽射しであっても、体調の弱った人の息は押し戻されてしまうであろう。それでもその冬の陽射しと刺し違えるように、余生の力をみなぎらせる、そんな意志の力を感じさせる句であると解釈してみた。三年後に作者は癌との闘いを経て亡くなる。
句集を手に入れてみたいと思った。
★齢(よわい)抱くごとく熟柿をすすりけり
年譜を調べると、以下のようになる。私なりに並べてみた。
1914(大正三)年8月、函館市青柳町に生れる。本名俊彦。
1937(昭和一二)年、早稲田大学在学中、新興俳句に惹かれ「京大俳句」に入り西東三鬼に師事する。
1938(昭和一三)年、北海道銀行に就職、翌年留守節子と結婚。
1940(昭和一五)年、壷俳句会を興し、俳誌「壷」を創刊。
1940(昭和一八)年、石田波郷を知り、波郷の主宰誌「鶴」に初投句し、巻頭を飾る。翌年、空爆下の東京勤務を避けるため銀行を退職する。
1951(昭和二六)年、新設の北海道銀行に入行。多忙な生活などから俳句は一時休眠。
1967(昭和四二)年銀行を退職し、道央信組の専務理事に就任する。翌年、個人誌「丹精」を発行。妻の癌死を詠んだ「クルーケンベルヒ氏ヒ腫瘍と妻」を連載して俳壇に注目される。後に川端康成、波郷の絶賛を受ける。
1978(昭和五三)年、直腸ガンで入院。旭川に転居。
1979(昭和五四)年、第五句集「雁道」により蛇笏賞を受賞。
1980(昭和五五)年、癌との闘いの末、旭川で死去。66歳。
当初のモダニズムの傾向から伝統的韻文形式を経て、第二次世界大戦後は根源俳句の影響を受けた。後、妻の死や自身の病を得てからは死を見つめる透徹した句を発表。
ネットでとりあげられている句の内、印象に残ったものを順不同で並べてみる。
★晩鐘は鈴蘭の野を出でず消ゆ
★たましひの繭となるまで吹雪きけり
★明日死ぬ妻が明日の炎天嘆くなり
★死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒
★癌の妻風の白鷺胸に飼ふ
★睡りては人を離るる霧の中
★流氷を待ち風邪人となりゆけり
★残る生(よ)へ一枝走らせ枯芙蓉作
★残る生のおほよそ見ゆる鰯雲
★晩年の不意に親しや秋の暮
★晩年の過ぎゐる枯野ふりむくな
★冬の日と余生の息とさしちがふ
表題の「齢抱くごとく熟柿をすすりけり」は、弱った体調と、少しの力を加えるだけで崩れてしまう熟柿とが並んでいる。熟柿のような自己、という認識が61歳の作者の老いの認識である。このような認識、諦念に私は驚嘆し脱帽した。齢(よわい)というからには身体だけでなく精神も含んで「熟柿」のような自己と認識しているのである。妻の病、自己の病と向き合った人の精神を垣間見ることができる。
最後の句「冬の日と余生の息とさしちがふ」は、北海道の冬の日、生命の衰えを象徴するような冬の陽射しに向って、作者が「余生の息」を吹きかける。たぶん冬の弱った陽射しであっても、体調の弱った人の息は押し戻されてしまうであろう。それでもその冬の陽射しと刺し違えるように、余生の力をみなぎらせる、そんな意志の力を感じさせる句であると解釈してみた。三年後に作者は癌との闘いを経て亡くなる。
句集を手に入れてみたいと思った。