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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

教科書的な読書

2019年06月13日 18時48分21秒 | 読書
 「絵を見る技術 名画の構造を読み解く」(秋田麻早子、朝日出版社)をようやく半分ほど読み終わった。じっくり読んでいるので、なかなか進まない。教科書を読んでいるつもりで行きつ戻りつしながら。

 ハウツーもの、ノウハウものは出来るだけ避けてきたのだが、やはり最低限の知識は必要かと思い直して購入した。今年のはじめに読み始めた「エイミー・E・ハーマンの「観察力を磨く 名画読解」よりは読み易い。「観察力を磨く」が観察力そのものを高めるというか、社会生活をより安全に送る上での観察力向上という視点が強いのに比べると、こちらの本の方が入るかに絵画鑑賞のための本となっており、私には有難い。

 優れた画家の優れていると思われる作品の構図的な鑑賞方法を身につけることを主とした内容である。作品を作った画家が意識していたか、無意識であったか、そこは問わずに解明するというところに注意が必要だ。作品をどう鑑賞し、どのように受け止めるかというところとは当然にもズレがある。これを踏まえないと単なる技術論に陥ってしまう。
 くわばらくわばら、気をつけたい。

本日は夏日

2019年06月13日 10時27分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今日は最高気温の予想は26℃。昨日までとはちがい、夏日、外に出るときは半袖のシャツで十分になった。ズボンも夏用の短いもので十分であろう。午前中は団地の管理組合の仕事を少しだけ。役員の任期は切れたので、あくまでもお手伝いの範疇として、市役所に届ける書類の作成。

 歩いて15分ほどのところに、ランチで540円のカレーを出す喫茶店を見つけた。看板ではそのような値段だったと記憶している。本日確かめにもう一度前を通ってみる予定。昼前に出かけることができれば、入店してみる。

 午後は、家電量販店で写真の印刷を少々。夕方には眼科で視野検査と点眼薬の処方をしてもらうつもりである。緑内障が進行していないことを願いたい。


梅雨の星

2019年06月12日 23時54分11秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 先ほど軽くウォーキングに出かけた。西の空は雲が多かったが、あっという間に雲がなくなっていき、30分後にはほとんど雲が消えていた。月も鮮明で、星もよく見えた。ちょうど正面に木星とさそり座、土星を見ながら帰宅。

★梅雨の星齢といふも茫々と       廣瀬直人
★水底の石にこもりし梅雨の星      伊藤敬子
★電報の文字は「ユルセヨ」梅雨の星   西東三鬼


 第1句、何か身につまされる句である。梅雨の季節になると切実に気になる。ただし茫々と。
 第2句、これは本当の景かとちょっと疑ってみたが、でも都市の川では流れに星が映ることは想像は出来ない。蛍のことでもないであろう。私がもう忘れてしまって想像できなくなった景だろうか。
 第3句、想像の幅が大きすぎる句である。ドラマの物語的。私のイメージでは、俳句であることのギリギリの際のような気がする。私自身の俳句の世界をもっと広げないといけないかもしれない。

梅雨の月

2019年06月12日 21時55分18秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 今夜の雨の確立は60%で、夕方に少しだけばらついた。今は降っていない。一昨日が上弦の半月、月齢9の月が雲の向こうに透けて見えている。なかなかいい月である。星はまったく見えない。

★梅雨の月金(きん)のべて海はなやぎぬ    原 裕

 作者の詳しい経歴・句の履歴はわからないので、どういう時代に詠まれた句なのかはまったくわからない。しかしそういうことはさておいて、絵画的に美しい句である。梅雨の晴間に見た海に月が照り、月あかりが海に金色の光の帯が移っているのであろう。「金のべて」がちょっと理解しずらい言葉遣いであるが、「のべて」(多分「展べる」という漢字が相応しいと思う) がポイントであるのかもしれない。そして「はなやぎぬ」が 「一瞬の美しさ」を感じさせる。梅雨の晴間のほんの一瞬の美しさに惹かれる。
 広い浜辺から見た月でもいいが、都会に住む私は港に映る月の光がまず目に浮かんだ。人工物の中で、雲の間から見える月と波だけが自然の景物というのがいい。


「星の文学館」 3 読了

2019年06月12日 12時47分28秒 | 読書
 「星の文学館 銀河も彗星も」(和田博文編、ちくま文庫)の「1.天の川と七夕」「2.ハレー彗星と日蝕」を読み、全編に目を通したことになる。
 ハレー彗星は1910年に地球に接近し、日本の社会にも大きな影響(混乱)を遺した。76年後の1986年も大きな関心を持たれたが、これは天体ショーとして楽しんだことが私は記憶に残っている。しかし混乱を煽り、それを生活の糧にした者も、それに乗じたものもいる。この76年の天文学の発展と社会の受容の差と、そして同質であったこと、これを冷静に見極めるのも大切であろう。

 森繁久彌の「ハレー彗星」が江戸時代、1910年、1986年の3回の社会を皮肉をこめて簡潔に記していた。

 山口誓子、石田波郷の文章には七夕にまつわる次の句が記載されている。

★蛍獲て少年の指みどりなり    山口誓子
★脂粉なき少女とともに蛍狩    山口誓子
★七夕竹惜命の文字かくれなし   石田波郷


 波郷の句、惜命(しゃくみょう)は波郷の句集の名。戦時中の結核の療養所での体験にもとづく句。当時法華経由来の「不惜身命」を大日本帝国軍人の間では、「天皇、お国のため、この命を惜しみなく捧げよう」と盛んに使われた。むろん誤用なのだが、それが当然のようにまかり通った時代である。にもかかわらず結核療養所で七夕竹の短冊に「惜命」という文字が書かれていたことに波郷は眼を止めたのである。生死のせめぎ合う療養所での体験が、込められている。私は強烈な社会批評の句と捉えた。本来ならば「不惜身命」は仏道修行の為ならば、という句なのであるが、果たして貴乃花はこの言葉を「仏道」のかわりに「相撲道」を置き換えたのだが、果たしてこの誤用の歴史を踏まえていたのか、と思うと同時に、「惜命」の方が私には大切なことと思っていることは記しておきたい。

 安藤次男の芭蕉の句「文月や六日も常の夜には似ず」とこれに続く「荒海や佐渡に横とう天の川」の句を、七夕伝説との関係で読み解いている。まだ人に解説できるほど読み解けていない。じっくりと考えなくてはいけないと思っている。宿題である。

「この句(荒海や)の雄大なる趣向は、年に一度の流人の恋路は雨夜の荒海を漕ぎ渡るしかない、と言っているようにも読める。‥それとも荒海を渡るすべもない流人たちにむかって、一夜の銀河を渡れとか。いずれとも解することができるが、これは一嘱目の句などではあるまい。芭蕉の使嗾(しそう)、あるいは共犯参加の句だろう。佐渡という怨念の島の名もそこに活きてくる。」(安藤次男、「七夕幻想」)

 なかなか難しい。


「梅雨寒」のイメージ

2019年06月11日 22時28分28秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★イエスの足ニワトリの足梅雨寒し    大畑 等

 何とも不思議な句である。イエスの足とニワトリの足、どこに共通点があるのか、そしてそれらはどうして梅雨寒しと結びつくのか。考えるのが楽しいのか、苦痛なのか。楽しいといい句で、苦痛なら良くない句というものなのか。
 思いつくままに述べてみる。十字架に彫られるキリストの足の甲には釘が刺さり十字架やそれに固定された小さな台上に打ち付けられている。その身体は極端に痩せ、足も実に細く作られている。それは骨と皮だけのニワトリの足のようでもある。この細さは少なくとも共通している。キリストは人間全体の救済のために十字架に掛けられ、ニワトリは人間の飢えを解消するために足で吊るされる。その様が生気を失って見えれば、それはひょっとしたら季節外れの寒気をもたらすのかもしれない。ふと、生の裏側にひそむ死を連想し、背筋が寒気を感じたのだろうか。
 果たして私の解釈は的を射ているのだろうか。

★辞する背に消さる門灯梅雨寒      後藤雅夫

 これはなかなか身につまされる。友人宅か仕事で訪れた家であろう。家の人に歓迎されざる人として扱われたのであろうか。すぐに門灯を消されてしまった。現在のマンションの家で言えば、玄関扉を出てすぐに扉の鍵をガチャリと閉められてしまうことにも似ている。
 家の人はそこまでは考えていないかもしれない。一呼吸あけて、他意はなく消したかもしれないが、訪れた人はどこかに後ろめたさを持っていたための感想かも知れない。
 こんな機微にオロオロする気の小さい自分に愛想がつきかねない。この句、あまりに小事にこだわり過ぎている、という批判もあるやもしれぬ。それがいかにも梅雨寒の季節の感慨らしいのだ。


「星の文学館」 2

2019年06月11日 18時18分32秒 | 読書
 本日は「星の文学館 銀河も彗星も」(和田博文編、ちくま文庫)の「3.太陽系の惑星」を喫茶店で読んでいた。



 茨木のり子の「水の星」と阿部謹也の「中世の星の下で」は二回目。

 「太陽がすごすぎ&美しくって」(川上未映子)にはちょっと違和感。
「そら昔の人じゃなくても太陽こそが神であると、心底そう感じて礼拝するのも納得ですよなというしんしんとした気持ちになった。」

 いやいや違うよ、というのが最初の感想。太陽を礼拝(崇拝)した結果として、太陽が「神」に転化し、そして「神」が言葉を介して人と人の社会を支配するのではないか。初めから太陽が神になるのではない。人はついこのように錯覚してしまいがちではある。
 「しんしんとした気持ちになった」の「しんしん」の感覚が新しいのだろうか。言葉が奇をてらって独り歩きしているといのうのか、それを新感覚というのだろうか。

 円山薫の「月と土星」の次の一節は頷いた。
「(望遠鏡が星をとらえると)私達だけが地球上の誰よりも天体に近く/かがやいた地表の一角に佇つているような/そんな錯覚と歓喜の鼓動が/からだたじゆうを駆けめぐりはじめたのだつた」
「(望遠鏡から目をはなすと)瞬間 つい眼の前に在つた空間と時間とが/ふたたび いつさんに 遥かな未来へと駆け戻つてゆのを感じた/この私を 苦しい現在に置き去りにして-」


 この一節で私が中学生になって望遠鏡を手に入れてはじめて庭から月や土星や木星を覗いた時の感覚を思い出した。こん感覚は忘れられない。

 茨木のり子の「水の星」は次のフレーズで終わる。

「ノアの箱船の伝説が生まれたのだろうけれど/善良な者たちたげが選ばれて摘まれた船であったのに/子々孫々のていたらくをみれば この言い伝えもいたって怪しい//軌道を逸れることもなく いまだ死の星にもならず/いのちの豊穣を抱えながら/どこかさびしげな 水の星/極小の一分子でもある人間が ゆえなくさびしいのもあたりまえで//あたりまえすぎることは言わないほうがいいのでしょう」

 そう、「神」は反省をしない。そして忘却するのが得意である。「神」は人の観念の産物であるから。人間をつくったということから何も学んでいない。世界中のどの「神」も。

 ただし、阿部謹也「中世の星の下で」は忘れずにいたい。

 「星辰の世界は、天文学の普及によって月が死せる星であることが明らかになった現代よりも人びとの生活に密接なかかわりをもつものとしてうけとられていたのである。このような考え方が非科学的でることはいうまでもないが、それをあげつらうだけでなく中世から近代まで多くの人びとを支配したこのような宇宙観と世界観の実態をみておく必要もあるだろう。」

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病院代がかさむ

2019年06月11日 09時42分43秒 | 天気と自然災害
 昨日に出ていた注意報は洪水・雷注意報が解除になった。21時前にようやく大雨・強風・波浪注意報に切り替わった。気温は低いままである。
 私の澄んでいる団地付近では、細かい雨が上がり雲も薄くなったのは24時近くであった。もう降らないかと思っていたら、3時頃再び風雨が強まり、目が覚めてしまった。
 明け方には風雨はおさまり、明るい陽射しを受けて気持ちのいい目覚めとなった。
 しかし最高気温の予報は昨日とほとんど変らず21℃で、曇りの予報である。風が北風で少々強め。陽射しだけを見ると、昨日よりもだいぶ暖かくなりそうな予感がする。

 本日午前中は足と腰のマッサージの2回目。もう数回は通ってみようと思う。1500円で1時間ほどマッサージ、鍼、灸をしてくれる。
 ただし今週は眼科にも行かなければ点眼薬がなくなる。しかも視野検査をするといわれている。いつも薬代も含めて5000円を超えるが、視野検査となると7000円くらいになると記憶している。緑内障の点眼薬、ジェネリックしかないので安くならないのである。
 さらに来週17日は市民病院でCTの検査である。これは1万円を超える。考えると憂鬱になる。

病院代がかさむ

2019年06月11日 00時05分42秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨日に出ていた注意報は洪水・雷注意報が解除になった。21時前にようやく大雨・強風・波浪注意報に切り替わった。
 私の澄んでいる団地付近では、細かい雨が上がり雲も薄くなったのは24時近くであった。気温はまだ低い。

 本日は雨の予想であったが、昨晩の天気予報から曇に変わり、気温も最高気温が22℃となった。昨日よりもすこし暖かい予報である。

 本日午前中は足と腰のマッサージの2回目。もう数回は通ってみようと思う。1500円で1時間ほどマッサージ、鍼、灸をしてくれる。
 ただし今週は眼科にも行かなければ点眼薬がなくなる。しかも視野検査をするといわれている。いつも薬代も含めて5000円を超えるが、視野検査となると7000円くらいになると記憶している。緑内障の点眼薬、ジェネリックしかないので安くならないのである。
 さらに来週17日は市民病院でCTの検査である。これは1万円を超える。考えると憂鬱になる。


「星の文学館」

2019年06月10日 23時33分24秒 | 読書
 本日は家にほぼ閉じこもり、ウトウトしたり、起き出して読書をしたりとのんびりと過ごした。何事もしないと時間の経つのは早い。あっという間に23時を過ぎてしまった。

   

 本日読んでいた本は「星の文学館 銀河も彗星も」(和田博文編、ちくま文庫)の「4.天体観測と星座」「5.宇宙の深淵」。
 埴谷雄高と谷川俊太郎、宮沢賢治以外は初めて読んだ作品ばかり。三浦しをん、中村紘子、岡本かの子、尾崎喜八は読むことも初めて。埴谷雄高の文章は少なくとも3回はこれまで目にした。

 岡本かの子の文章はなかなかいい文章だと感じた。冒頭から引き込まれた。
「大洋を後悔してゐるとき闇夜の海上の彼方から一点の光がこちらに向かつて近づいてくる。何であろうと一心にそれを見守つてゐると、突然のその光の下に黒々とした山のやうな巨船の姿を見出してびつくりしたことがある。星を見つめてゐると何か判らない巨大なものがその星を乗せてこちらに迫つて来るやうな気がする時もある。さういふ錯覚は一種の恐怖に似て神秘的な楽しさである。星の瞬きは太古から人間にいろいろな暗示や空想を与へてゐる。」

 巨大なものが星を乗せて迫ってくる、という感覚は私も共通な感覚であった。小学校に入ッタばかりの頃の私の場合は、巨大なものが巨大な虚無、果てしなく深い尺度の時間と空間を抱えて私を飲み込んでしまうのではないか、という恐怖であった。それは中学生になるまで続いた。

 大江健三郎の「宇宙のへりの鷲」は大江の文学論として興味深く読んだ。
「宇宙論的な構想というように、極大のところから出発して架空の物語をつくり出そうとする場合(‥)、いったいその小説は、現にいまこの時代を生きている書き手の、状況にかかわっても、本質にさかのぼっても、決して他の人間といれかえ可能でない、その肉声をどうすれば響かせることができるのか?」

 この問いの前に多くの人はたじろいで書くことを断念するのである。

大雨・洪水・強風・雷・波浪注意報

2019年06月10日 18時18分14秒 | 天気と自然災害
 夕方になって雨が強くなってきた。私の住む地点でも時間雨量換算で30ミリの雨の区域が通り過ぎた。
 現在横浜市域には「大雨・洪水・強風・雷・波浪注意報」が出ている。県内では横須賀市・平塚市・小田原市などに大雨(土砂災害)警報も出ている。
 雨の区域は少しずつ南から北に移動しているが、伊豆半島と房総半島の南端から北側で雨の区域が発生しているようだ。
 風と雨の音はするが、雷の音も光も聞こえてこない。高台なので水が出る心配はないが、気温が昨日よりも低く、長袖でも寒く感じる。今のところ最高気温は17.4℃と4月初めころの気温らしい。

 このまま夜半まで雨と風が続くらしい。

 横浜気象台の天気概要が、17時過ぎに発表になった。

★天気概況★
令和元年6月10日17時24分 横浜地方気象台発表
 神奈川県では、10日夜遅くまで土砂災害に警戒してください。東部では、10日夜遅くまで河川の増水に警戒してください。
 日本の南には、梅雨前線が停滞しています。また、低気圧が伊豆諸島付近にあって、東北東へ進んでいます。
 神奈川県は、雨となっています。
 10日は、低気圧や北東からの湿った空気の影響により、雨で夜のはじめ頃まで雷を伴う所があるでしょう。
 11日は、関東の東海上の低気圧や日本海に発生する低気圧の影響により、曇りで朝晩を中心に雨の降る所があるでしょう。
 神奈川県の海上では、10日から11日にかけて波がやや高いでしょう。船舶は高波に注意してください。


 結局本日は団地から外に出ることはなかった。夜のウォーキングもまずは無理であろう。

「空間に線を引く」展

2019年06月10日 13時08分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 平塚市美術館では「正司福・荘司貴和子」展と同時に「空間に線を引く 彫刻とデッサン」展を開催していた。
 彫刻はなぜか苦手、物の質感に惹かれるということがあまりない。縄文土器・土偶、仏像なででは私なりに心をゆさぶられる「何か」を感ずるのであるが、彫刻一般は足が遠のいてしまう。
 今回は、彫刻作品のそれを制作する過程で描かれた彫刻家のデッサンが並べられているのが特徴の展示であった。

 美術館のホームページには次のような文章が掲載されていた。

 彫刻家は素材に働きかけ、何もない空間に作品を表します。彫刻を制作するにあたり、自身のイメージを定着させるためデッサンを描く場合があります。彼らが描いたデッサンは魅力に富んでおり、画家のデッサンにはない美しさがあります。この美しさはどこから来るのでしょうか。
 おおむね画家の絵は、三次元を二次元で表現します。一方、彫刻家のデッサンは二次元から三次元を目指します。対象が空間にどのように働きかけるかということが、常に彫刻家の念頭にあるからです。紙面は空間であり、いわば空間に線を引く感性です。これらの線は、対象の存在感、ものの粗密を表現しているように見えます。これを可能としているのは彫刻家の「手」(触覚)です。
 彫刻家にとって、まず重要なのは触覚です。彫刻は視覚以前に触覚にうったえかける芸術です。彫刻家は触覚に導かれて作品を手がけます。彼らの手は描く以前に「触れる手」なのです。このような手によって描かれたデッサンはおのずと画家によるものとは異なります。彫刻家は空間から対象をすくい出すかのように描きます。描くことがすなわち触れることであり、視覚と触覚の連動があります。これが彫刻家のデッサンの特異な点です。そこには、画家のデッサンにはない様々な要素が見出せることでしょう。
 本展はプロローグとして橋本平八から始め、具象、抽象の現代彫刻家19 人のデッサンと、それに関連する彫刻を展示し、その魅力と創作の秘密に迫るものです。


 私は「画家の絵は、三次元を二次元で表現します。一方、彫刻家のデッサンは二次元から三次元を目指します」という表現にびっくりした。私は彫刻とは「三次元の空間から三次元の空間」に移行させる行為だと思っていた。空間からある質感や存在感を切り取って、別の空間に再構成する。彫刻家自身の感じた質感を新たな空間の中に現出させる行為が彫刻なのではなかったのか、と。
 画家とは違う「彫刻家のデッサンの在り方、二次元というものの捉え方」、という視点で考えてみたいと思った。しかしこれはなかなかすぐには頭の整理は出来そうもない。

 とりあえずは、私なりに気に入った「彫刻」作品をあり上げて見た。デッサンもあったが、「比較」についてまだまだよくわからない。なお、図録は高価だったので残念ながら購入できなかった。

「若い女」 佐藤忠良
「午後三時の玩具」 砂澤ビッキ
「雲谷2018-1」「天蓋2018-2」 青木野枝

 青木野枝の鋼材を使った作品は会場の入り口の外に展示されていた。また青木野枝・若林奮のデッサンは二次元作品として惹かれるものがあった。特に「光のブランコ」(青木野枝)、「森のはずれ」(若林奮)。これらのデッサンと彫刻作品の関係までは私にはわからなかった。


「雨読」の日

2019年06月10日 11時59分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 雨の区域はほぼ南から北へ動いているように見えるが、相模湾の海上は降っていない。神奈川県で雨雲が発生している。しかし強い雨の区域は北関東方面に去っていった。今は5ミリ未満の雨の区域が残っている。

 終日雨の予想。このような天気で、気分的に外に出るのが億劫である。本日は小説でも読みながら休養日、ということになりそう。

本日は休肝・休養日

2019年06月09日 22時46分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は休養・休肝日。といっても団地の管理組合の残務を少々手がけた。いろいろとパソコンににらめっこしているうちに、時間が経ってしまった。
 残念ながら予想どおり雨が上がらないので、ウォーキングは中止。それでも横浜駅までの往復を歩いたし、地下街で書店や家電量販店をめぐったので、最低限の歩数は確保。

 明日も気温は本日と同じくらい、雨は一日降り続くらしい。梅雨の天候が続く。


雨が本降りとなる

2019年06月09日 20時13分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の最高気温は11時過ぎにかろうじて20℃を超えて20.1℃。「雨ときどき止む」という予報だったが、夕方までは降らなかった。17時過ぎから弱い雨が降り出し、現在ようやく本降りとなった。といっても時間雨量は5ミリ未満である。
 水曜日まで雨が続く、との予報になっている。

 夕方になって降り始めた頃に、横浜駅から自宅に向かって歩き始めた。家まで10分位のところで傘をリュックから出して差した。。
 自宅についてちょうど1万歩をクリア。しかしこの雨は夜中まで続きそうな気配があり、夜のウォーキングは断念せざるをえないようだ。

 横浜駅の地下街で、データのやり取りようにUSBメモリーを950円にて購入。メールだけではやはり大容量のデータの送受信は難しい。このUSBメモリーがいつも人に貸すのだが、戻って来なかったり、戻って来ても仕舞い忘れて、どこかに無くしてしまう。数年前に780円ほど安いUSBメモリーを三つほど購入した記憶があるが、ひとつも残っていない。私の責任が少なくとも50%はある。小さすぎるのも考えものである。かといってかさばるものも面倒くさい。

 私はいつも文章を作るのは一太郎に頼っている。使い慣れているし、私なりに使い込んでいろいろと複雑な文章が出来てしまうので重宝している。しかし他の方とは共通性がない場合が多く、データのやりとりが、ワードへの返還か、PDFのどちらかとなる。一太郎の画面からワード形式での保存も呼び出しもできるのだがついそれを忘れてしまう。