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《 TPP 》に必要な、民族としての境界線

2013年07月29日 | 日記
 
 これから上げるブログの主は、最高学府で国文学でも修められた方であろうか、言葉使いも感心させられる事が多いが、その文化的背景についても造詣が深く、とても筆者の様な中途半端な人間では、表現能力に追いつく事が出来ないと諦めている。

 今回のブログ、2点くらいは思い違いを指摘しても良いような気がするのだが、藪蛇になる可能性の方が大きいので、それは今回控えて置きたい。
言いたい事を、オブラートに包んだ上に、それを真綿で包んだような表現ばかりなので、その深層心理は推し量りがたいが、今回のブログでも含まれる要点は、3点くらいだろうか・・・。  読みようによっては、無数に指摘されていると自覚する人も居られるだろうが、細かいところを爪楊枝でつついても、本旨を見失うだけで、何も残らない事になってしまう。

 と云う事なので、今回は《TPP》を指摘していると思われるところだけ引用してみたい。
  ***  以下引用 下記URL ***
   http://turezurebana2009.blog62.fc2.com/
 
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 ある領域の周りに境界を築き守りを固めるのはその内側が栄えることを求めてである。 しかし一方のみの繁栄のために他方を拒絶しても虐げてもならない。 道理なき境界であればその内も外も栄えることはなく、ただ水を澱ませ血を穢す。 そして人の心に鬼を棲まわせ非道をさせる。

 質の違う二者が対峙すれば必ず境界が生まれる。 水と油の間には界面ができ、夜と朝の間には夜明けが横たわる。 民族が違えば言語も風習も相容れない。 人は自然の中にありながらそれとは一線を画して生きなければならない。 だから裸では歩けない、雨露をしのぐ家がいる、そして誰もがそれぞれの生まれに誇りを持って生きなければならない。 だからこそ外界に対し何らかの境界を持たないわけにはいかない。 この世の全ての境界を取り払い「自由」を求めるなどという考えはあまりに幼稚、そして不可能である。 語るべきはその境界が道理に従って置かれたかどうかであってその有無ではない。


 そこに境界があればその意図を、誰が何のために築いたのかを読まなければならない。 あるべきはずの境界が見当たらないときはそれを取り払ったのは誰か、何故かを探さなければならない。 悪い意図がはたらいているかを見抜かなければならない。 そうすれば、おのずと道理が浮き上がる。
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  ***   以上 引用  終  ***

   

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