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裁判員制度えの疑問

2014年07月14日 | 日記

  鳴り物入りで始められた《裁判員制度》、筆者の個人的意見を言わせてもらえば、これも『高級官僚』に有りがちな責任の分散、或いは当初から《死刑判決》への《逆恨みへの拡散》だと思っていた。

  もし仮に《冤罪》で《死刑判決》を受けたら、あるいは、冤罪でなくてもその判決に一点の曇り(疑義)でもあれば、親兄弟あるいは親戚一族が生きているうちに恨み晴らすマジ、或いは世代が変わっても、そう縁族が思い続けるのは当然の事であろう・・・ 。

  それが《肉親の情》であろうし、その情念が社会を成り立たせている≪最小の単位≫の基本であろうことは、疑う余地がないことは多くの人が認めるところではなかろうか・・・ 。  そういう気持ちが無かったら、≪絆≫が分断されて国民一人ひとりは、奴隷のごとく扱われるのは、歴史を振り返って見るまでもない。


  筆者は常々、他人のブログを読ませて頂く場合、その様なブログを書きたいと思う目標に近いものが、何点か有る。  しかしながら、基礎学問と見識の広さ、深さを比ぶればとても及びも着かなく、幾年過ぎたらこの様な文章が書けるのだろうかと、途方にくれてしまう事が多い。

  どういう訳か、楽しみにしているのに投稿日付のみの記載だけで、その新規ブログの文章が表示されない場合が、よく見受けられる。
『NHK』や『大手新聞』と違い、しがない『弱小プロバイダ』或はサイトでは、スポンサーとも言うべき出資者のご機嫌を損ねないような配慮がなされているであろうとは思うが、そのサイトの開設者の『初心』は、何処へ置き忘れてきたのかと、腹立たしく思うこともしばしばである。(Windows.8だけが表示されないのかも・・?) 

  最終的には、そのような軽薄な『カネ』の為に主義主張を引っ込めるようなプロバイダは、失せて無くなるのだろうとは思うのだが・・・ 。
そのブログ、《ウィンドウズ8》では読む事が出来ないが、今の所、旧のWindowsO .S.では、読める・・・・かも 。

  これまでも、何回かそのブログを引用してきたが、今日も少し長めに引用してみたい。

  ***  以下引用 下記URL ***
   http://homepage2.nifty.com/kamitsuki/
 
  ― 裁判員制度、馬脚を露す・・・ ―

 大阪の寝屋川市で起きた両親による当時1歳の三女に対する傷害致死事件で、1審の裁判員裁判は検察の求刑よりも5年も重い懲役15年を言い渡しました。
2審も同じで、被告側が上告し、26日、上告審弁論が最高裁でありました。 弁論が開かれたことは判決が見直される可能性が高いとされています。

 被告側が「過去の同種事件の量刑傾向から逸脱し、違法」と主張したことに対し、検事側は「市民感覚を生かせば刑の相場が幅広くなるのも当然」「裁判員の判断は尊重されるべきだ」などと反論しているそうですが、これが気になります。 裁判員制度の導入以後、求刑を超える判決の割合は制度が始まる前の10倍に増えているそうです。


 裁判員裁判では量刑の振れ幅が大きくなることは当初から予想されていました。 検事側はそれを市民感覚が生かされているからだとしていますが、そうではなく、6人の裁判員集団の個性のバラつきによるものと考えるべきです。
無作為な素人の集まりですから直情的な人が多数を占めることもあれば、一面的な理解しかできない人が多数を占めることも、あるいは寛大な人が多数を占めることもあります。  僅か6人で平均的な市民感覚を期待するほうが無理というものです。 
これで市民感覚を代表できるというなら、世論調査なども6人で足りるということになります。 これは統計学を持ち出すまでもなく誰でもわかることです。

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 求刑を超える判決の急増は制度の不安定さを示すだけのもので、これを市民感覚が生かされた結果だというのは詭弁というほかありません。
裁判員制度の意義は国民主権を司法の場にも実現することとされていますが、裁判の機能よりも形式を重視するという倒錯した態度を見ることができます。

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  *** 以上引用  終  ***


  恐らく、貴方の『O.S.』が『ウィンドウズ8』の場合、上記URLは表示されないと思いますが、最も自由闊達な意見があふれていると思われる、ネットでもこのような作為的な操作が行われているという事を、理解していただくだけでも今日の書き込みは、意義のあることではないかと思っています。