詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇342)Obra, Jose Manuel Belmonte Cortes

2023-04-16 15:23:03 | estoy loco por espana

Obra, Jose Manuel Belmonte Cortes

  Su perfile es muy similar. Casi un parecido perfecto. Uno pensó. Es el mismo perfil que vió por última vez aquel día. Pero las similitudes tienen sus diferencias. Aquel día, sus ojos miraban la habitación en el espejo del armario. Ahora sus ojos miran las arrugas de las sábanas reflejadas en la ventana por la noche. Miran algo diferente. Y sus ojos no lo mira a uno. Sus ojos miran hacia otro lado, consciente de que uno le miran a él. El movimiento de sus ojos es aún más parecido. Pero, ¿es la memoria la que se parece a la realidad o la realidad la que se parece a la memoria? ¿Por qué la memoria y la realidad existen juntas? Tras murmurar uno "se parece",  aparta la mirada.

 その横顔は、とても似ている。ほとんど完璧に似ている。ことばは、思った。あの日、最後に見た横顔そのものである。しかし、似ているものには何かしらの異なった部分がある。あの日、その目は洋服ダンスの内側の鏡に映った部屋を見ていた。いま、その目は、夜の窓に映るシーツの皺を見ている。違うものを見つめている。そして、ことばを見つめてはいない。ことばが見つめていることに気付き、顔をそらしている。その目の動きが、さらに似ている。だが、それは記憶が現実に似ているのか、現実が記憶に似ているのか。なぜ、記憶と現実はいっしょに存在するのか。「似ている」とつぶやいたあと、ことばは目をそらした。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎「かなしみ」ほか

2023-04-15 22:59:19 | 現代詩講座

谷川俊太郎「かなしみ」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年04月03日)

 受講生が持ち寄った著名人の詩を中心に読んだ。

花明り  東山魁夷

花は紺青に暮れた東山を背景に、
繚乱と咲き匂っている。
この一株のしだれ桜に、
京の春の豪華を聚め尽くしたかのように。
山の頂が明らむと、月がわずかに覗き出る。
丸い大きな月。
静かに古代紫の空に浮かび上がり、
花はいま月を見上げる。
月も花を見る。
これを巡り合わせというのだろうか。
これをいのちというのだろうか。

 日本的、古典的、格調高い……東山魁夷自身の絵を、もう一度、ことばで再現したような作品だ。「古代紫」「繚乱」ということばのほかに「聚め尽くした」という少し変わった文字遣いのことばもある。一種の「気取り」かもしれないが、こういうことばのつかい方は、詩にとっては大切なことである。つまり、「ふつうのことばとは違う」という印象をうむことばが。それが「豪華」というものだろう。
 この詩は、しかし、そうした「豪華」なことばのあとに、

これをいのちというのだろうか。

 という一行があることだろう。花(さくら)と月の「巡り合わせ」に同席する。それができるのは「いのち」があるからだ。生きているからだ。この「いのち」は生きていてしあわせという喜びだけではなく、「いのち」がつづいていく喜び、作者の「いのち」をこえて、花と月、宇宙が生きていくという発見が突き動かしたことばだと思う。
 最後の一行がなければ、美しいことばを組み立てた、美しい世界でおわっている。「いのち」ということばが、完結した世界を破壊し、押し広げている。

秋夜 算数  伊東信吉

終りコオロギらしい虫が鳴いている。
ひそひそ絶え絶え泣いている。

師走入りの前夜、十一月三十日の燈下に、
孫むすめと遊んでる。

七十余歳下のはるかな年齢(ところ)から来て。
掌(て)に包みこんだ、

玩具ふう計算器から、手軽に、
彼女が数え取る。

満九十三歳は正味九十二年です。
そう?
ここで、算用数字に字(じ)変(がわ)りします。

 1年365 日×92年=33.580日デス
 33.580日+閏年23回=33.603日デス

昔、聞いたどこぞの寺の小仏( こぼとけ) 数は三万三千三百三十三体だった。
あれより多いな。

え、計算まちがいじゃないな、
生きまちがいじゃないな、え。

たじろぐ私に、
苦もなく彼女は言う。
今年の分を合せてほぼ三万四千日です。

 老いて、孫娘と遊んでいる。生きてきた年月を日数に換算して、あれこれ話している。単に掛け算だけではなく、閏年の日数を足しているところが律儀でとてもおもしろいし、(たぶん、孫娘は、この「正確さ」を自慢したかったのだと思う。私は、ここまで気づいている、と)、それにつきあい「計算まちがい」「生きまちがい」と、ことば遊びをしていることも、この詩に「余裕」のようなものを与えている。
 この詩では、その「計算」のおもしろさにかくれているが、三連目が不思議で楽しい。「年齢」と書いて「ところ」と読ませている。実際に計算してみると、そうなるかどうかわからないのだが(つまり、孫娘の年齢がいくつなのかわからないのだが)、私は伊東と孫娘の年の差が「七十余歳」のだと思って読んだ。つまり、娘(孫娘の母親)が孫娘を生んだときが「七十余年前」なのだろう。それは、なんというか、娘から生まれたというよりも、「はるかなところ(宇宙)」からやってきた「いのち」のように思える。
 「掌に包み込んだ、」は次の連の「計算器」につながっていくのかもしれないが、「いのち」を包み込む、生まれてきた子どもをしっかり抱くというような印象で私には響いてきた。
 これは直前に読んだ東山の詩の「残響」のようなものが私に残っていて、「いのち」のつながりを「宇宙」と結びつけているのかもしれない。

かなしみ  谷川俊太郎

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

 「遺失物係の前に立ったら」という一行が、この詩のすべてをあらわしているという意見と、「遺失物係ということばは、リアリティーを与えているが、嫌い。詩にはつかえない」という意見があって、とてもおもしろかった。このことばは好き、このことばは嫌いというのは、とても大切な感覚だと思う。その好き嫌いがなくなれば、きっと詩はおもしろくなくなる。
 私は、この詩では、最終行の「余計に」ということばが、とても好きだ。それで、受講生に「余計に」というのは、どんなことばに言い換えることができるか、という質問をしてみた。
 「もっと」「むだ(に)」「なおさら」という声が出たあと、「とんでもない、でもいいかなあ」という声が出た。
 これは、とてもおもしろいし、この詩の「本質」に迫っているかもしれない。
 「とんでもない」は、二行目にも出てきている。
 この二行目の「とんでもない」は、では「余計」と言い換えることができるか。
 ひとによって違うと思うが、私は「できる」と思う。「おとし物」だけれど、それは絶対に必要なもの、たとえば百万円の入った財布とかではない。たぶん「かなしみ」のように、もしかしたらない方がいいもの(余計なもの)かもしれない。余計なものなんだけれど、ないと、物足りない。
 何か矛盾したものが、谷川の書いている「おとし物」には含まれている。
 そして、この「矛盾」が、「いのち」につながっているのだと思う。それは東山の詩の「巡り合わせ」に通じるかもしれないし、伊東の老人(自分)と孫娘のつながりに通じるかもしれない。伊東と孫娘の肉体は同じ血を分け合っているが、その分け合い方は「直接」ではない。「間接的」である。この「間接的」は「絶対的」ではない、ということである。言い直すと。たとえば、祖父と孫というのは、実際には「会わない」こともある。祖父が死んでから生まれる孫もいる。血がつながっているということを「直接(実感として)」知っているのは「母」だけである。
 もしかしたら存在しない何かを「実感」として表現していく(産み出していく)のが、詩というものかもしれない。

 受講生の作品。

月華  青柳俊哉

無数の水紋
花の意匠のような 月の表面を 
めぐる 光とかげの境界

そのうえで 羽搏いている
光にも かげにも属さない
ゆらぎのなかにしか
生存できないもの
薄羽かげろうの 虚数の
花のうえに透ける 冬蝉の羽

世界があることに 秘されている
思惟のかたち 水の指紋の
ような月華

 月の表面を光が移っていく。光と影の間で何かがざわめいている感じ、生きているものがあるのではない。それを書いてみたと青柳は語った。
 「薄羽かげろう、冬蝉、花のうえに透ける、など揺らぐ感じがいい」「月の見方がおもしろい」「世界があることに 秘されているが印象的」「花の意匠、思惟のかたち、という表現が好き」
 私は「水の指紋」がとても気に入っている。水に「指紋」などない。けれど、ことばにするそのとき、「水の指紋」が出現する。それは「薄羽かげろうの 虚数の」の「虚数」についても言えるかもしれない。存在しないけれど、ことばにした瞬間、存在してしまうもの。
 でも、それは、いったい何?
 何かは、読者がそれぞれ自分で考えればいいことだと思う。わからないけれど、何か「はっ」と感じる。
 東山の詩では「いのち」ということばになっていた。谷川は「とんでもない」や「余計に」ということばで、「何か」を書こうとしていた。伊東は「まちがい」(計算まちがい、生きまちがい)ということばのなかに、「まちがい」をこえる「ほんとう」を暗示しているかもしれない。「年齢」を「ところ」と読ませることも「まちがい」なのだけれど、「まちがう」ことではじめてたどりつける何かがある。
 「要約できない」というよりも、それは「要約」や「説明」を拒否して存在する「新しいことば」であり、それは「新しい存在」を告げているのだと思う。

 「まちがう」ではなく「ちがう」と言い直してもいいかもしれない。「ちがう/ちがい」を見つけ出していく、「ちがい」をひきうけてみる。「ちがう」を生きてみる。それが詩や文学を楽しむこと。
 私は講座では、受講生の「感想」に疑問を投げかける。それは、受講生の「感想」が間違っているという意味ではない。私の「感想」が正しいというのでもない。「ちがい」があるということを伝えたいのだ。そして、その「ちがい」をことばでできるようにすることが「生きる」ということなのだと私は感じている。
 何をどう理解しようが、生まれた人間は生きて、死んでいくというのは、今のところだれもが知っていること(真実)だと思う。死なない人間はいないから。そうだとするなら、どうすることもできない「真実」のなかかで、どれだけ「まちがい」を生きられるかを楽しんだらいいのではないだろうか。
 ちょっと余計なことを書いてしまった。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野沢啓「言語暗喩論のたたかい--時評的に3」(2)

2023-04-15 22:52:54 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「言語暗喩論のたたかい--時評的に3」(「イリプスⅢ」03、2023年04月10日発行)

 野沢啓「言語暗喩論のたたかい--時評的に3」は、「言語暗喩論」をひと休みして、ある賞めぐるあれこれを書いている。
 これは、私のように、あまり接触のない人間には、すこぶるおもしろい文章であった。何がおもしろいといって、野沢は「言語暗喩論」の完成に向けでことばを動かしている人間だと思っていたら、ほかのことにも関心があったということがわかったことである。「言語暗喩論」を脇においておいても、まず、書いておきたいことがある。
 なるほど。

 しかしまあ、「人事」というのもの、おもしろいものだなあ。「人事」であるから、そこに書かれていることは、別の人から別の「出来事」に見えるかもしれない。「出来事」は、それに直面した人の数だけ存在する、ということだろうなあ。
 もしそうであるなら。
 「ことば」という「出来事」も、「ことば」に向き合う人の数だけ、その「個別な様相」を持っていることになるだろう。
 そう考えれば、野沢が今回書いていることも「〇〇暗喩論」というような「論」として成り立つかもしれない。「詩人賞暗喩論」「詩人賞選考委員暗喩論」。何の「暗喩」? もちろん「詩人会(界?)人事」の「暗喩論」である。詩人賞、詩人選考委員、その選考過程は、すべて何かの暗喩である。
 野沢は「人事」と言わず、まあ「時評」と言うのかもしれないが。

 しかし、と、私はもう一度「しかし」を書く。
 結局ね、私は、野沢が書いているのは「野沢暗喩論」なのだと思う。「言語暗喩論」も「野沢言語暗喩論」、人事について書けば「野沢人事暗喩論」。だから、すべては「野沢暗喩論」なのである。
 詩の言語が他の言語に先立つというのは、結局、野沢の言語は他の人の言語に先立つという主張につながるんだろうなあ、と思う。そういう意味で、あらゆることは「野沢暗喩論」を、さまざまに展開したものだろうなあ、と思う。
 別の形で言い直すと。
 私は野沢の「詩の言語」を特権化した主張には疑問を感じるが、野沢が野沢を特権化する主張にはまったく疑問を感じない。それでいいのだと思う。「詩の言語」ではなく、野沢の言語(主張)をテーマにして「暗喩論」を展開すれば、非常に説得力があると思う。少なくとも、私は納得する。
 詩を書く人は大勢いる。小説を書く人も大勢いるし、哲学を書く人もいる。ことば以外に色や形に取り組む人もいれば、音に取り組む人もいる。そのなかから詩を選んで、詩を特権化していることに私は疑問を感じるが、「野沢自身」を特権化して書くのであれば、私はほんとうに納得する。だれだって自分を「特権化」して書く権利も持っていれば、自由も持っているし、義務も持っている。

 今回書いているように、もっと野沢を特権化して論を展開すれば「言語暗喩論」はとても説得力のあるおもしろいものになると思う。野沢を特権化するのではなく、詩を特権化しようとしているから、私は疑問に思うのである。言い直すと、詩を特権化することで、野沢を正当化しようとしていると感じ、いやあな気持ちになるのである。今回のように、野沢を特権化して、その野沢が特権を駆使して詩を書いている、詩論を展開しているということで突っ走ればいいのだと思う。
 今回の野沢の書いている文章は、とても率直な、野沢自身の声に満ちた(野沢の声だけで書かれた)文章だと思った。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野沢啓「言語暗喩論のたたかい--時評的に3」

2023-04-14 23:34:27 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「言語暗喩論のたたかい--時評的に3」(「イリプスⅢ」03、2023年04月10日発行)

 野沢啓「言語暗喩論のたたかい--時評的に3」は、「言語暗喩論」をひと休みして、ある賞めぐるあれこれを書いている。
 これは、私のように、あまり接触のない人間には、すこぶるおもしろい文章であった。何がおもしろいといって、野沢は「言語暗喩論」の完成に向けでことばを動かしている人間だと思っていたら、ほかのことにも関心があったということがわかったことである。「言語暗喩論」を脇においておいても、まず、書いておきたいことがある。
 なるほど。

 しかしまあ、「人事」というのもの、おもしろいものだなあ。「人事」であるから、そこに書かれていることは、別の人から別の「出来事」に見えるかもしれない。「出来事」は、それに直面した人の数だけ存在する、ということだろうなあ。
 もしそうであるなら。
 「ことば」という「出来事」も、「ことば」に向き合う人の数だけ、その「個別な様相」を持っていることになるだろう。
 そう考えれば、野沢が今回書いていることも「〇〇暗喩論」というような「論」として成り立つかもしれない。「詩人賞暗喩論」「詩人賞選考委員暗喩論」。何の「暗喩」? もちろん「詩人会(界?)人事」の「暗喩論」である。詩人賞、詩人選考委員、その選考過程は、すべて何かの暗喩である。
 野沢は「人事」と言わず、まあ「時評」と言うのかもしれないが。

 しかし、と、私はもう一度「しかし」を書く。
 結局ね、私は、野沢が書いているのは「野沢暗喩論」なのだと思う。「言語暗喩論」も「野沢言語暗喩論」、人事について書けば「野沢人事暗喩論」。だから、すべては「野沢暗喩論」なのである。
 詩の言語が他の言語に先立つというのは、結局、野沢の言語は他の人の言語に先立つという主張につながるんだろうなあ、と思う。そういう意味で、あらゆることは「野沢暗喩論」を、さまざまに展開したものだろうなあ、と思う。
 別の形で言い直すと。
 私は野沢の「詩の言語」を特権化した主張には疑問を感じるが、野沢が野沢を特権化する主張にはまったく疑問を感じない。それでいいのだと思う。「詩の言語」ではなく、野沢の言語(主張)をテーマにして「暗喩論」を展開すれば、非常に説得力があると思う。少なくとも、私は納得する。
 詩を書く人は大勢いる。小説を書く人も大勢いるし、哲学を書く人もいる。ことば以外に色や形に取り組む人もいれば、音に取り組む人もいる。そのなかから詩を選んで、詩を特権化していることに私は疑問を感じるが、「野沢自身」を特権化して書くのであれば、私はほんとうに納得する。だれだって自分を「特権化」して書く権利も持っていれば、自由も持っているし、義務も持っている。

 今回書いているように、もっと野沢を特権化して論を展開すれば「言語暗喩論」はとても説得力のあるおもしろいものになると思う。野沢を特権化するのではなく、詩を特権化しようとしているから、私は疑問に思うのである。言い直すと、詩を特権化することで、野沢を正当化しようとしていると感じ、いやあな気持ちになるのである。今回のように、野沢を特権化して、その野沢が特権を駆使して詩を書いている、詩論を展開しているということで突っ走ればいいのだと思う。
 根幹の野沢の書いている文章は、とても率直な、野沢自身の声に満ちた(野沢の声だけで書かれた)文章だと思った。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy Loco por España(番外篇341)Obra, Jose Javier Velilla Aguilar

2023-04-13 16:57:51 | estoy loco por espana

Obra, Jose Javier Velilla Aguilar

 Las palabras, "Pensé que podría recuperarte", todavia me esperaron. Quizas las palabras habrían venido a la misma hora cada día, como la luz del sol poniente. Saber que esta cosa inmutable y habitual permanece ahí me entristece. Si vengo aquí, puedo ver tu corazón. Tus palabras. "Pensé que podría recuperarte". Al recordarlos, ahora me doy cuenta de que te he perdido para siempre. Pero qué dulce señuelo es. Sólo cuando pienso que te he perdido para siempre, también pienso que te recuperaré. O puedo recuperar aquel día. No serán tus palabras, sino mis palabras las que presagiaron este día, y no serán mis palabras, sino las palabras de otra persona que te amó. "Pensé que podría recuperarte". Las mismas palabras se repiten. Vienen cada día como la luz del sol poniente. Aquel día sigue ahí, como un momento que nunca podrá unirse, no importa cuántas veces se repita. Está tan cerca que creo que aún puedo recuperarlo. Justo a mi lado.

 取り戻せると思った、ということばが残っていた。それは夕陽のように必ず毎日同じ時間にやってきたのだろう。その変わることのない、習慣のようなものが、そこに残っていると知って、私は寂しくなった。ここに来れば君のこころに会える。そして、取り戻せるはずだと言った君のことば。思い出しながら、いま、私は永遠に君を失ったと自覚する。しかし、それはなんと甘美な誘いなのだろう。君を永遠に失ったと思うときにだけ、同時に、それは必ず取り戻せると思ってしまう。あの日を取り戻せる。それは君のことばではなく、この日を予感していた私のことばであり、さらにそれは私のことばではなく、君を愛したほかのだれかのことばになる。取り戻せると思った、という同じことばが繰り返される。夕陽のように毎日やって来る。繰り返しても繰り返しても、ひとつにはなれない、その一瞬として、あの日がまだそこに残っている。まだ取り戻せると思う近さで。私のすぐそばに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy Loco por España(番外篇340)Obra, Lola Santos

2023-04-13 09:34:38 | estoy loco por espana

Obra, Lola Santos

 La obra de Lola tiene una extraña inaccesibilidad. Quiero tocarla, pero me duda de que pueda tocarla o no. Anl ver su obra, me convierto en un adolescente.

 Tenía 15 años y me escondía en la sala de arte de la escuela. Por la noche, cuando no había nadie, salí sigilosamente de las sombras y dibujé de Venus. Para dibujar su lugar secreto, le quito la tela de su cintura. El paño se desliza con tanta facilidad que me siento algo traicionado. Se la puedo ver todo. Ella es pura. Lo que me muestra no es su cuerpo desnudo, sino la vida interior de una mujer. El interior puro existe ahí, en la forma de mujer.
 Sólo la luna, que entraba por la ventana, nos miraba.


 Lolaの作品には不思議な近寄りがたさがある。触れてみたいが、触れていいのか、ためらわせるものがある。その作品の前で、私は、思春期の少年になる。

 15歳の私は美術室に隠れていた。だれもいなくなった夜。そっと物陰から抜け出し、ビーナスのデッサンをする。秘密の場所を描くために、彼女から腰布を外す。あまりに簡単に布が滑り落ちたので、私は何だか裏切られた気持ちになる。彼女はすべてを見せている。しかし、決して汚れない。彼女が私に見せてくれたのは、裸の肉体ではなく、女の内面だった。内面が形になって、そこにある。
 窓から入ってきた月だけが、私たちを見つめていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy Loco por España(番外篇339)Obra, Lu Gorrizt

2023-04-12 15:32:28 | estoy loco por espana

Obra, Lu Gorrizt

 Ese día, la primavera se dividió en pájaros, flores y agua. Los pájaros se dividió además en la melodía de corcheas y el viento. Las flores se dividió aún más en su olor y su pelo brillando a la luz. El agua se dividió aún más en la mañana, el día y la noche. En las joyas, el sol y las estrellas.
 Cuanto más alargaba la mano el niño y más perseguía, la primavera se dividió más, más, más. Se extendía por todas partes. El perro que corre con el niño no sabe qué perseguir.

 No es una división. Es una explosión.

 その日、春は分割された。鳥と花と水に。鳥はさらに分割された。八分音符の旋律と風に。花はさらに分割された。君の匂いと、光にきらめく髪に。水はさらに分割された。朝と、昼と、夜に。宝石と太陽と星に。
 小さな子どもが、手を伸ばし、追いかければ追いかけるほど、春は分割された。どこまでや広がっていく。一緒に走っている犬は、何を追いかけていいかわからなくなる。

 それは分割ではないんだよ。それは爆発なんだよ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy Loco por España(番外篇338)Obra, Joaquín Llorens

2023-04-11 14:35:01 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 En un libro, estaba escrito en pasado como impecablemente bello e impecable. En otro, su belleza se describió como el tañido de una campana de bronce. Conmovido por la tristeza de aquel sonido transparente, el poeta interrumpió su poema sobre la decepción.
 He visto la obra que fue el punto de partida de ese grupo de palabras.
 Fuera, la quietud del lirio blanco que empieza a abrirse.
 Dentro, la sangre blanqueada del dolor
 La flor floreciendo en un invernadero de cristales rotos

 本のなかで、非の打ち所がなく、完璧な美しさだったと、それは過去形で書かれ、その美しさに反応して、別の本のなかでは青銅の鐘がなりひびくのだが、そのすみきった音は悲しみと失望に関する論理を中断させるほどだったと引き継がれていく。
 その一群のことばの起点になった君を、私は見てしまった。
 外は開き始める白ユリの静けさ
 内は漂白された悲しみの血
 壊れたガラスの温室に咲くその花

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井久夫『中井久夫集6』(2)

2023-04-10 22:57:16 | 考える日記

中井久夫『中井久夫集6』(2)(みすず書房、2018年04月10日発行)

 中井久夫「訳詩の生理学」は、翻訳するときのことを書いているのだが、「詩を読むときの生理学」として読むことができる。

二つの言語、特に二つの詩--原詩とその訳詩--の言葉は、言語の深部構造において出会う                               (54ページ)

 わたしは、この文章で、思わず、息をのんだ。このことばは、こう読み直すことができる。

 だれかの詩を読む。そのとき、二つの言語、つまり詩を書いた人のことばと、詩を読んでいる人のことばが、言語の深部構造において出会う。

 たしかに私は中井の訳詩を読んだとき、中井のことばと私のことばが出会ったのだと感じた。ほかの人の詩を読み、それに感動するときも、だれかのことばと私のことばが出会っているのだと感じる。「出会う」ということは、その「出会い」によって、私のことばがかわっていくということでもある。
 だが、私が息をのんだのは、そういう「意味」を追いかけてのことではない。
 「意味」にも強く刺戟されるが、「意味」にしてしまうと、何かがこぼれ落ちていく。その「こぼれ落ちていく何か」に私は息をのんだのである。
 私が言い直した「意味」、--「意味」とは、必ず言い直すことができるものである--から何が「こぼれ落ちた」のか。「言い直せない」何かはなんだったのか。
 「おいて」ということばである。

 こう言い直せばいいだろうか。
 先の文章は、こうも言い直せる。

 だれかの詩を読む。そのとき、二つの言語、つまり詩を書いた人のことばと、詩を読んでいる人のことばが、言語の深部構造「で」出会う。

 何かが「出会う」。そこには「場所」と「時間」がある。そして、それは「で」という便利なことばで言い直すことができる。
 ところが、中井は、「で」をつかわずに「において」と書いている。その「において」の「に」はやはり「場」「時」を指定するときにつかうことがある。学校「に」行く。九時「に」会う。
 「おいて」には、何か、「に」では言い足りないもの、「で」ではあらわせないものを含んでいるのだ。
 「おいて」ということば、この文章では「キーワード」なのである。

 なぜ、「おいて」ということばを書かなければならなかったか。
 それは「深部構造」ということばと関係している。「深部」で出会うのではない、深部「構造」においてで出会うのである。
 どんな「構造」を詩のことばはもっているか。私は(あるいは翻訳する中井は)、どんなことばの「構造」をもっているか。「表面的な構造(これは、意味と言い換えうるかもしれない)」が出会うので葉手歩。「深部構造」そのもの同士が出会う。詩人のことばの「深部構造」が、読者の(翻訳者・中井の)ことばの「深部構造」に出会う。「構造」は「意味」をつくる(ささえる)かもしれないが、「意味」ではない。「意味」以前だ。
 「深部構造」を中井は、55ページで「ミーティング・プレス」と言い直しているが、「おいて」は簡単には言い直せない。言い直そうとすると、とても長くなる。
 しかし、中井は、とても親切な書き手であるから、きちんと「おいて」を説明している。「深部構造」を説明するかたちで、こう書き直している。

音調、抑揚、音の質、さらには音と音との相互作用たとえば語呂合わせ、韻、頭韻、音のひびきあいなどという言語の肉体的部分、意味の外周的部分(伴示)や歴史、その意味的連想、音と意味との交響、それらと関連して唇と口腔粘膜の微妙な触覚や、口輪筋を経て舌下筋、喉頭筋、声帯に至る発生(谷内注・発声の誤植か?)筋群の運動感覚(palatabilityとはpalate口蓋の絶妙な感覚を与えるものであって私はこの言葉を詩のオイシサを指すのにつかっている)、音や文字の色彩感覚を初めとする共感覚がある。さらに非常に重要なものとして、喚起されるリズムとイメジャリーとその尽きせぬ相互作用がある。
                                 (54ページ)

 「ことばの肉体(肉体のことば)」「ことばの響きあい」(ことばの交感)という表現を私はよくつかうが、それは中井の影響を受けたのか、中井のことばを知る以前からそういう表現をつかっていたのか、私ははっきり思い出せないが、ここに書かれていることは、私が中井と「文通」していたときに、くりかえし語り合ったテーマである。(ただ、palatabilityに関して言えば、これを「オイシサ」と定義したのは中井であり、私は、そのことを鮮明に覚えている。それは私が絶対に思いつかないことばだからである。)
 この、何と言うか、「要約」できないいくつもの「構造」は、たしかに「構造同士が出会う」、構造に「おいて」出会うとしか言えないものなのだ。たぶん、私は、そういうものにおいて、中井のことばに出会ったのだと、あらためて思う。

 この「おいて」は、前に書いたことに関連して言えば「即」でもある。原詩のことばの深部構造「即」中井のことばの深部構造というところから、中井は翻訳のことばを動かしている。「深部構造」が同一なら(区別できないなら)、その「表面」が違っていたとしても、そんなことは重大ではないのだ。原詩がギリシャ語、フランス語であり、翻訳が日本語であっても、問題はない。「深部構造」において出会い、それが共有されているとき、表面は「バリエーション」と考えることができる。バリエーションを楽しめばいいのだ。私の「感想」が『リッツォス詩選集』におさまっているのは、強引に言えば、それは読み方のバリエーションなのだ。

 これまで書いてきた「いずれにしろ」とか、「他方」とか、今回の「おいて」とかということばを、多くの人は注意を払って読まないと思う。
 今回書いた部分で言えば「深部構造」というこばを「思想」のキーワードと呼ぶ人はいるかもしれないが、「おいて」がキーワードであるという人は、たぶんいないと思う。しかし、私は、論理の「つなぎことば」のようなものにこそ、筆者の「肉体(肉体のことば/ことばの肉体)」が動いているのだと感じる。

 「意味の思想」はだれかが書くだろう。私は「ことばの肉体の思想(ことばの生理学、と中井なら書くだろうか)」について書きたいと思っている。

 

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井久夫『中井久夫集6』

2023-04-09 13:26:01 | 考える日記

中井久夫『中井久夫集6』(みすず書房、2018年04月10日発行)

 中井久夫は「注」を膨大に書く。『中井久夫集6』の巻頭「一九九六一月神戸」の本文は1ページから8ページ(実質7ページか)までなのに対し、その注は8ページから32ページまでつづいている。3倍以上の注である。注の文字が小さいことを考えると4倍の分量の注になる。私は目が悪いこともあって、注はめったに読まない。必要なことは本文に書いてある、と考えているからである。
 注とは、いったい何なのか。なぜ、中井は注をつけるのか。そう思って、今回は読んでみた。12ページにこんな一行がある。

 他方、レジャーに行く人に代わって宿直を頼まれた人もいたわけである。

 私が注目したのは「他方」ということばである。「代わる」ということばである。
 中井が書いているのは、阪神大震災が起きた1995年1月17日は三連休の翌日の早朝だった、三連休だから仕事を休む人がいれば、病院などでは宿直を代わる人もいた、という病院の「実情」である。
 中井は、ある「事実(行楽に行く医師がいる)」があるとき、「他方」には「別の事実(病院には宿直の医師がいる」があるということである。かならず「別の事実」というものが存在する。そしてそれはときには頼まれて「代わる」ことによって起きてしまうことでもある。中井は、ここでは、本文には書かれなかった「事実の他方」があると告げているのだ。そして、その「他方」は本文で書かれたものよりも多いのである。常に、書かれたものよりも書かれないものの方が多い。
 以前、中井の思想について書いたとき「いずれにしても」ということばをとりあげた。病院があり、入院患者がいる。そのとき、「いずれにしても」だれかが宿直しないといけない。「いずれにしても」は「事実の多面性」を意味している。「他方」も「事実」の多面性」を意味している。
 中井は、それを見逃さない。というよりも、「事実」に見落としがないか、それを常に点検し、自分が気づいた「事実」のなかから、自分にできる最良のものを選ぼうとしているということだろう。
 それは、22ページのことばを借りれば、

他者に「おのれのごとくあること」をもとめない

 という姿勢でもある。他人には他人の選択肢がある。(23ページに「別の選択)ということばがある。)
 中井は医師である。患者がいる。患者が何かをするとき、中井は患者の選択を優先し、自分の選択を押しつけるわけではない。中井は患者に「チューニング・イン」しながら、患者が何を選択できるかを一緒に探すということだろう。それは少しことばを代えて言えば、患者に「代わり」、患者の苦しみを少し負担するということなのかもしれない。苦しみを少し負担するから、いっしょに生きる可能性を探そう、という誘いかけなのかもしれない。(もちろん、中井は、ことばにだしてそういうことを言わないが、私には、そういう声が聞こえた、ということである。)

 そこまで考えて、私は、再び、中井との共著『リッツオス詩選集』(みすず書房)を思い出したのである。出版の誘いを受けたとき、私は「私の感想は、詩が書かれた背景(事実関係)を無視している。つまり、誤読の類だけれど、共著にしてしまったら、中井の訳を損ねることにはならないか」というようなことを言った。中井は「(いずれにしても)詩なのだから、かまわない」という返事だった。
 中井は、それまでの訳詩に多くの注をつけている。『リッツオス詩選集』の場合、「あとがき」の詩に注をつけているが、それ以外はつけていない。それは中井の読み方のほかに、別の読み方もありうる。つまり「他方」、谷内はこう読んでいるということの、その「他方」を尊重してくれているのだろう。
 いまになって、私は、中井の「他方」ということばの思想(生き方)を、それが確かに存在すると実感している。

 そして思うのだが、私は、知らず知らずのうちに、この中井の「他方」の存在を意識することに共鳴し(チューニング・インし)、自分の考えを整えていたかもしれない。私は詩の講座でいろいろな人の詩を読んでいるが、そのとき一緒に読んでいるひとたちに呼びかけることは、たったひとつ。「私の読み方は、あくまで私の読み方であって、結論ではない。詩には結論はない。みんなが、それぞれ、ここが気に入った、ここが気に食わないということを見つけ出し、それを語り合えるようになりたい」。
 結論に向かって「収束」するのではなく、むしろ結論があるとしても、そこから離れ、遠ざかる。その遠く離れた部分で、新しく重なり合うもの(チューニング・インできるもの)を見つけ出し、そこから、自分自身のことばを動かしていく。それがおもしろい。結論(意味)は、各人がそれぞれ持っている。自分自身の結論をつかむことは当たり前のことだが、他人の結論には絶対に同調しないということも必要なのだ。自分であるためには。
 それは、別なことばで言えば「和音探し」ということかもしれない。「他方」を認めながら、むしろ「他方」が存在することを認識するとき生まれてくる何か。「私」と「他方」があって、はじめて響きあう何かを探すこと。
 それが文学かもしれない。

 そんなことを思っていたら、こんな詩ができた。

 「間違わなければならない」というのがたどりついた解だが、解を拒否する権利があるし、その権利を否定する思想があってもいいという文章は、どんな快(楽)であってもその快を拒否する権利があるし、生きる愉悦を否定する欲望があってもいいという文章を剽窃し、変換したものなのだが、逆に、愉悦を拒否する権利があるし、その権利を否定する論理があってもいいという文章から派生してきたものなのか、ことばにはわからなかった。乱丁によって欠落したページがあるのか、ことばの乱調が増殖、暴走したメモのような一行を消して、「間違わなければならない」ということばからはじまる文章のあとに、街角に雨が降ったということばが手書きで挿入される。雨にぬれる花屋のバケツには名前の知らない薄い色の花があって、その名前を知らない薄い色は雨のために変色したのか、花屋の黄色い明かりのために生じたのかわからなかった。立ち止まったままでいると、「知らないのかい?」ということばが、ことばの肩をつかんだ。それは花屋で見た花に似た造花のある部屋で繰り返され、それは後に、虫に食われて枯れた薔薇の造花のある部屋の詩では、聞こえなかったふりをする権利、返事をすることを拒否する権利があるし、他方、どのような権利も拒絶し、論理の破壊を推敲するしなければならないという欲望があってもいいということは知っているだろう?と付け加えられた。「知っているだろう?」というのは、しかし、あるいは(と、ことばは接続詞で迷った)、それは「知っている、わかっている」ということばを引き出すための罠だったということもできたのだが、こうしたことばの動きは正しくない(論理的ではないから理解できない)と削除されてしまうものであり、その誤謬のなかには、論理や倫理を踏み外したときにだけ、瞬間的に存在してしまうものがある。「間違わなければならない。わかるだろう?」しかし、耳の迷路を侵入してくる息はなぜこんなに熱いのか。

 

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダーレン・アロノフスキー監督「ザ・ホエール」(★★)

2023-04-08 19:13:30 | 映画

ダーレン・アロノフスキー監督「ザ・ホエール」(★★)(キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 ダーレン・アロノフスキー 出演 ブレンダン・フレイザー

 舞台劇が原作。だから「室内」限定という設定は、それはそれでいいのだが、あまりにも「ことば」の説明が多すぎる。ふつうの映画なら映像で見せる部分をことばで見せてしまう。
 で、そのとき問題なのは。
 「舞台」は、「ことば」を聞く場所なので、ことばがどれだけ多くてもかまわないし、肉体で表現できないことを「ことば」で表現してもまったくかまわないのだが。
 映画はねえ。
 主演の男優のメーキャップが話題になっているが(アカデミー賞も撮ったが)、どうしても観客の意識は「映像」に向かう。映像に集中してしまうから、「ことば」への集中力が落ちる。
 特に、主人公が200キロを超すまでに太ってしまって、歩行器がなければ歩けない。遠くにあるものをつかむには特殊な棒がいるという醜い肉体がメインだとすると、どうしても観客の視線は肉体に引っ張られる。顔はどうやって太らせたのか。だれもことばなんか聞かない。わっ、すごい。こんな醜い体に、よくなってしまったものだなあと思うだけ。
 何度も書くが、だれもことばなんか聞かない。
 私は外国人に限らないが、名前を覚えるのが苦手だから、人の名前が何人か出てきても、覚えられない。主人公の恋人がどういう名前だったか、ピザの配達人はどういう名前だったか。主人公の恋人も、ピザの配達人も顔を見せないから(恋人の写真はちらりと出てくるが)、もう、その区別がつかない。(これが映像ではっきり写し出されれば、すぐ区別がつくのだが)。
 まあ、その「ことばへの集中力」を低下させないためなのか、「映像への集中力」を緩和させるための中わからないが、映像が暗くて不鮮明。別に雨が降っている必要はないのだが、外はいつも雨。(最後のクライマックスだけ、わざとらしく晴天なのだが、これがまた、なんともあざとい。)私は、こういう「仕掛け」が大嫌い。
 「ことばへの集中力」を要求するなら、スピルバーグ「リンカーン」のように、役者に「声」の演技をさせるべきなのだ。ダニエル・ルイ・ルイスは映画なのに、リンカーンを「声」の強さでも演じきっていた。何よりも「声」がリンカーンを演じていた。
 舞台劇なら、ちゃんと演じていたのに、あのセリフを聞き逃するとしたら、それは観客にも責任があると言いうるかもしれない。しかし映画では、あのセリフを聞き逃したから人間関係がわからないというようなことがあってはならない。映画は「ことば(声)」を聞くためにあるのではない。映画の出発が「無声映画」だったこと、映画の基本は映像であることを、映画の基本はメーキャップのリアルさにあると置き換えている。アメリカ映画のいちばん悪い面が、この映画に集中している。
 いちばん悪い面と書いたが。
 「悪い面」はブレンダン・フレイザーのアカデミー賞主演男優賞の受賞にもあらわれている。ブレンダン・フレイザーがどうしようもない演技をしているというのではないが、アカデミー賞は、しばしば有名なのに受賞していない人とか、苦労した人に賞を与えてしまう。有名人を実物そっくりに演じれば、賞を受賞できるというのも、そのひとつ。有名人への評価と、演技への評価をごっちゃにしている。有名人に感動したのか、演じた人の演技に感動したのか、そのあたりが、とても微妙。映画で、わざわざ、有名な人物の評価をもう一度する必要はない。
 あ、こう書いてみると、何も書くことのない映画だということがよくわかる。

 で、最後に、ひとつだけ、よかった点をあげておく。ファーストシーン。オンライン授業のとき、主人公(大学の教師)の顔だけが映らない。カメラが故障している、という設定。顔が見えないから、学生は、ただ「声」に集中して聞いている。さらに、教師からは見られているから、ずぼらな聞き方はできない。
 ね。
 ここに、この映画の「理想の見方」が暗示されている。
 この映画は、主人公の姿を見てはいけない。想像するのはいいが、実際には見てはいけない映画なのだ。映画につかわれている「白鯨」という小説でも、白鯨が実際に姿をあらわすのは、ずっーとあと。姿をあらわすまでは、白鯨に恨みを持つ船の乗組員は、それを知らない。「ことば」で知っているだけ。
 「ことば」だけ、聞きなさい。主人公の「姿」は、想像しなさい。そうすれば、この「作品」の良さがわかります。
 私は実際、この映画をだまされてみたようなもの。予告編で、太った醜い男の姿はたしかに「ちらり」と見た記憶はあるが、全体がわからなかった。だから、その醜い肉体に引きずり込まれることはなかった。で、ちょっとおもしろそう、と思ったのだ。ところが、映画では、この醜い肉体が出ずっぱり。
 これじゃあ、だめだよなあ。(また、悪口になったが。)
 そして、いい点と書いたファーストシーンでも、私は、かなりわくわくした。醜いからだ(メーキャップ)が売り物というけれど、もしかしたら、そんなに見せないのかも、と期待したのだ。そうなら、おもしろいかもしれない。ちょっと「エレファントマン」なんかも想像したのだ。
 でも、ほんとうに、そこまでだった。
 映画を見るなら、ぜひ、目をつぶってみてください。そうすれば、意外といい映画かも。(笑い)

 

 

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井久夫「これは何という手か」

2023-04-07 23:18:15 | 詩集

中井久夫「これは何という手か」(『中井久夫集5』、みすず書房、2018年01月10日発行)

 中井久夫「これは何という手か」は、福岡在住の彫刻家、鎌田恵務の彫刻に寄せた作品と、『中井久夫集5』の「解説5」で最相葉月が説明している。中比恵公園に、その彫刻があるという。
 中井の訳詩が、たとえばカヴァフィスの声を聞き取ったことばなら、この詩は鎌田の彫刻の声を聞き取った声ということになるのか。

これは何という手か。
原初の岩盤から切り出された
こごしい岩の一片。
単純、動かず、
ただ存在する手である。
ほとんど足かと迷う手。
大地から湧いた幼い巨人の手。
まだ何も知らず、
何にも汚れず、何をも汚さない、
働きはじめていない手。
糸をつぐむことも、
木を削ることも、
漬物を漬けることも、
上顎についた漬物を取ることも、
闇をさぐることも、
飼い犬をかいなでることも、
汗ばむことも、
手をつなぐことも、
愛撫しあうことも
知らない手だ。
私は知らなかった。
このような、そういうことすべてをこえて、
ただあることを以てある手を。

 「ただ存在する手である。」と「ただあることを以てある手」と言い直されている。「存在する」を「ある」と言い直し、さらに「する」という動詞を「以て」と言い直している、と私は読む。
 この「以て」を言い直すというか、ほかのことばで説明し直すのはむずかしいが、私は、何の根拠もないのだけれど「即」を思い浮かべた。「同じ」、あるいは「強調」と言えばいいのか。
 だから、中井は何度も何度も言い直している。ひとつに限定しない。いくつにも言い直し、いくつにも言い直しながら、それがひとつである、と言っている。
 それはたぶん、中井の、治療の姿勢と似ているのではないだろうか。
 統合失調症のひとがいる。それは、ひとつの人間の生き方のありようなのである。いくつもある人間の生き方のひとつであり、そのひとつは、たとえば私から見ると、うまく同調できない(統合失調症のひととうまく共同生活ができない)ということであって、その原因が統合失調症のひとにあるか私にあるか(あるいは社会にあるか)は、ほんとうはわからない。統合失調症のひとがかわらなくても、私が何らかの形で変化すれば、私たちの関係はうまくいかもしれない。もちろん、そういうことは「治療」ではないかもしれないが、ふと、そういうことも思うのである。
 中井久夫の文章を読むと、そういうことも思う。
 どこまでも、どこまでも、自分を広げていく。自分を広げていって、そこにいるひとが自然な形で存在できる「場」を探し出そうとしているように見える。
 でも、そういう「意味」について語るのは、やめる。
 私がこの詩でおもしろいと思うのは、

漬物を漬けることも、
上顎についた漬物を取ることも、

 この「漬物」へのこだわり。それは単に「もの」としての「漬物」を超えている。「漬物を漬ける」はふつうの表現だが、ここには「頭韻」がある。ことばの調子が整う。このリズムというか「音」が、どうしても、もう一度「漬物」を引っ張りだしてしまうのだ。中井の「文体」には、何かしら、こういう感じがある。先に書いたことばが次のことばを誘い出し、音が往復し、そのなかで「論理」が補強されるという感じがある。
 それは

飼い犬をかいなでることも、

 で、いっそう、鮮明になる。「かきなでる」ではなく「かいなでる」。「穏便」が起きている。「飼い犬をかきなでる」でも意味は同じ。しかし、印象が全く違う。中井にとっては「かいなでる」でなければならないのだ。
 中井がつかうことばで言えば、ここでは、「チューニング・イン」が起きている。
 中井がめざしている世界は、「チューニング・イン」なのだと思う。広い世界がある。どこまで「チューニング・イン」できるか。それは、広げるだけではできない。矛盾する。そのとき、その場で、その世界に「チューニング・イン」する。
 中井が書いている世界(向き合っている世界)はとてつもなく広いが、それが「圧迫感」となることがないのは、中井が「体系」をめざしていないからだろうと思う。「体系」は、けっきょく、世界を閉じ込める。世界を開放することがない。中井は、世界を開放するために「チューニング・イン」をめざす。
 そのとても不思議な具体例が「飼い犬をかいなでる」という「音」のなかにある。ちょっと強引に言えば、「飼い犬をかいなでる」とき「飼い犬」と「飼い主」は「即」の存在である。飼い犬「即」飼い主。「かいなでている」のは飼い主ではなく、飼い犬である。こういうことは、犬を飼ったことがある人にはわかるだろう。それは「愛撫しあう」の「しあう」という動きなのであある。「即」とは「相互作用」なのである。

 「頭韻」に似た響き、リズム、音の動きには「まだ何も知らず、/何にも汚れず、何をも汚さない」の「何」のくりかえし、さらには「働きはじめていない手。/糸をつぐむことも、」の「い」ないから「い」とへの移行にも感じられる。

 もうひとつ、中井ならではのことばがある。「知らない」「知らなかった」。中井はいつでも「知らない」ものに向き合っている。「知らない」を「知らなかった」と言い直すために生きたひとである、と私は感じている。

 

 

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy Loco por España(番外篇337)Obra, Joaquín Llorens

2023-04-05 22:38:36 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

     

 

 Las palabras "Me voy, para volver otra vez" han vuelto. En un rincón de aquella habitación. Aquel día. Los dos empezamos a bailar después de asegurarnos de que no había nadie. El sol poniente entraba por la ventana. Los dos nos tiñemos del mismo color. Los demás colores desaparecieron. Todo se volvió transparente. Sólo quedó un color. No puedo olvidarlo. El color de aquella puesta de sol. Y de repente, aquellas palabra. Para aferrarte más fuerte, te voy aalejar más fuerte. Las palabras inscritas en el reverso de la base de la escultura. Para confirmarlas, volví otra vez. Al aquel museo. A aquella sala. La sala donde la gente desaparecía justo antes de que cerrara el museo. La sala donde había estado la escultura.


 私は去っていく、ふたたび帰ってくるために、ということばが、帰って来た。あの部屋の片隅。あの日。だれもいないことを確かめて、踊りだした二人。窓から、夕陽が真横に入ってきた。二人は、同じ色に染まった。ほかの色は消えてしまった。すべてが透明なった。ひとつの色だけが残った。忘れることができない。あの夕陽の色。そして、突然の、ことば。より強く抱きしめるために、より強く突き放す。彫刻の台座の裏に刻まれたことば。それを確かめるために、私は再び帰って来た。あの美術館。あの部屋。閉館間際の、人の消えた部屋。あの彫刻のあった部屋に。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy Loco por España(番外篇336)Obra, Sergio Estevez

2023-04-04 20:51:46 | estoy loco por espana

Obra, Sergio Estevez
"Naufragio escrito"

 Todo habrá desaparecido, dejo la palabra. ¿Es verdad? Para averiguarlo, la otra plabra fue a ese lugar. Aquel mar. Estaba lloviendo, como aquel día. Por mucha lluvia que caiga sobre el mar, el mar se la traga. Todo habrá desaparecido. Las palabras de aquel día volvieron a ahora. Todo debería haber desaparecido, pero aún permanece. Los colores permanecen. El faro, el dique, el barco, las formas se han ido, pero los colores siguen aquí. Cuando sopló el viento, los colores se alteraron. Los colores que intentan tomar forma pero se dispersan, son como las palabras de aquel día, que intenté decir pero no pude.


 すべてがなくなった、と、ことばは言った。ほんとうだろうか。確かめるために、あの場所へ行ってみた。あの日と同じように、雨が降っていた。海に降る雨は、どれだけ降っても、海にのみこまれていく。すべてがなくなった。あの日、聞いたことばが、よみがえってくる。すべてはなくなったはずなのに、まだ残っている。あのとき見たもの、灯台も、堤防も、船も、形はなくなったのに、色が残っている。風が吹くと、色が乱れた。形になろうとして、散らばってしまう色は、何か言おうとして言えなかった、あの日のことばのようだ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy Loco por España(番外篇335)Obra, Jesus Coyto Pablo

2023-04-03 23:07:18 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablol
"El protocolo" grabado, allá por los 90 70x50 cm. 

 La mujer limpia con los dedos la ventana de cristal empañada por la lluvia. Se ve el exterior, que no se podía ver. Pero, al mismo tiempo, también se ve desde fuera.

 Los ojos de esta obra, ¿Son los ojos que han visto algo, o que han sido visto por alguien?

 Se dado cuenta de que está espiando, el hombre se marcha. El hombre ve claramente en su mente los ojos de mujer. Aunque no los ve en realidad. Y la mujer no sólo ve la espalda del hombre. Conoce bien al hombre. Si mira su espaldas, puede ver su cara caminando.

 Todos los ojos siempre ven lo que no pueden ver.


 雨で曇ったガラス窓を指でぬぐう。見えなかった外が見える。しかし、それは同時に、外から見られることでもある。
 この絵に描かれているのは、外を見ている目なのか。何かを見てしまった目なのか、それとも覗いていることを見られてしまった目なのか。

 覗いていることに気づいた恋人は去っていく。女ががどんな目をしているか、男は頭のなかではっきりと見る。そして、女は。女は、男の後ろ姿を見るだけではない。よく知っている男である。後ろ姿を見れば、彼がどんな顔をして歩いているかが見える。

 目はいつでも、見えないものを見てしまう。

(詩のためのメモ)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする