詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金子敦『シーグラス』

2021-05-19 15:56:35 | 詩集

 

金子敦『シーグラス』(ふらんす堂、2021年04月21日)

 金子敦『シーグラス』は句集。句集を読むのはむずかしい。私は日常的には俳句を読まない。俳句自体は文字が少なく短いけれど、その分凝縮度が強くて息抜きするところ(読みとばせるところ)がない。だから、むずかしいし、疲れる。
 きょうは、2016年の句を読んだ。

  初空へ龍のかたちの波しぶき

 2016年が「辰年」だったかどうか記憶にないが、辰年なのだろうと思って読む。とてもかっこいい句である。同じ情景でも、詩の場合は間延びする。「初空へ」の「へ」が強い。助詞なのに「動詞」を含んでいる。その動詞の主語として「龍」があらわれる。ドラマチックで、豪華である。もちろんほんとうの主語は「波(しぶき)」なのだが、印象は逆。「龍」が実在し、「波(しぶき)」が比喩なのではないかと錯覚するくらいだ。「比喩」が「実在」を突き破って、いままでなかった世界があらわれる。
 句集の巻頭を飾るのにぴったりの、ほんとうに豪華な句だ。
 以下、印象に残った句を順番にあげていく。

  ういらうにさみどりの艶さへづれり

 音の微妙な変化、しっとりとした変化が「ういろう」の肌(味ではない)を思い起こさせる。「艶」が「肌」のイメージを呼び、それが音に「しっとり」とした響きを与える。

  紙皿の縁のさざなみ山桜

 この句も音が魅力的。「さざなみ」は皿の縁の波うった「押し型」のことを言っているのだと思うが、その凹凸が視覚として見えるだけではなく「さざなみ」という音としても聞こえてくる。かみ「ざ」ら、さ「ざ」なみ、やま「ざ」くら。この濁音(ざ)の揺れながら押し寄せる感じが、真っ白な山桜の小さい花の揺らぎに移っていく感じも楽しい。

  少し流され少し戻りて蛇泳ぐ

 写生の句。「少し」の繰り返しと「流され」「戻りて」の対比がいい。夏の川だろうか。川面がねっとりと光る感じが「少し」の繰り返し(ことばの粘着力)から感じられる。「ういらう」の句に通じる「和の響き」を感じる。

  ゆく夏の光閉ぢ込めシーグラス

 句集のタイトルはここからとられている。金子は「自選十句」にこの句を取り上げていないが、「十句」ではなく特別な句なのだろう。
 とても美しい句だが、私は、この句を取るかといわれたら、かなり悩む。「わかる」が、その「わかる」ところが気にかかる。「頭」で「わかる」のであって、「肉体」で「わかる」とは、私は言えないのだ。つまり、「理屈」が先に立って、「美しいでしょ」と迫られた感じがして、「美しいけれどねえ……」と、私の「肉体」の何かが抵抗する。
 「閉ぢ込め」の「音」が耳に厳しい。「閉じ込め」だったら少しは違うか。「ぢ」の方が「じ」よりも強い。固い感じ。「じ」は摩擦音だが、「ぢ」は破擦音だ。もちろん、日本語はそれをそんなに意識はしないし、私は「ぢ(破擦音)」と書かれていても「じ(摩擦音)」で発音してしまうかなあ。
 で、この固く、厳しい感じが「意味」にも影響してくる。
 「ゆく夏」は「行く夏」、あるいは「逝く夏」かもしれない。ここに、ことばの呼応がある。とても自然な呼応だ。去っていく。消えていく。それを逃がさないように「閉じ込める」。もちろん、ここには「拘束する」という意味よりも「惜しむ」という気持ちが強く支配している。去るものは去らせる。しかし、感情はそれを自分の内部にひきとどめつづける。感情が、そのとき充実する。
 この感情の美しさを象徴するのが「シーグラス」であると思って、私は読む。「シーグラス」そのものは「もの」だが、書かれているのは「感情」である。つまり、それは「もの」でありながら「こころ/比喩」なのだ。そして、「もの」が「感情(比喩)」になっているのところが詩的(文学的)であり、美しく感じる要因なのだが。
 奇妙にひっかかるのである。
 「惜しむ」は気持ちだが、「閉じ込める」は物理的な行動である。その「即物的」な運動に、いままでにはない詩がある、といえばそうなるのだろうけれど、そんなふうに読んでしまうのも、あまりにも「頭的」。理屈っぽい。
 この理屈っぽさは「現代詩」に通じる。そして、私がこの金子の句に理屈っぽさを感じるのは、もしかすると、私が現代詩を多く読んでいるからかもしれない。もっぱら俳句を読んでいる人は感じないかもしれない。
 それやこれやで、どうも落ち着かない。「だめ」というのははばかるけれど、「これがいい」と手放しにはなれない。

  風呂敷の結び目かたき西瓜かな

 写生の句。いま「風呂敷」がどれだけつかわれているかわからないが、この西瓜との組み合わせは、私がこどものころは見かけた「正直」を代表するものだ。

  コップに水注げば打楽器花カンナ

 これは「和の響き」ではなく、「洋の音」。撥音、促音、濁音が音のエッジを際立たせる。「打楽器」がとても印象に残る。

  やはらかく息吐いて蛇穴に入る

 「吐く」と「入る」の呼応。「ゆく夏」と「閉ぢ込める」に似ているが、この「吐く/入る」の呼応の方がとても自然。「ゆく夏」も「閉ぢ込める」も、その動詞は「比喩的動詞」であるのに対して「吐く」「入る」は現実的動詞であって比喩が含まれないからかもしれない。
 「シーグラス」の句は、写実を装いながら、実は「比喩」なのだ。つまり「古今/新古今」的感性、あるいは知性と言った方がぴったりくる句なのだ。知的、理性的は「理屈っぽい」につながる。それが気になって、私は、「これはいいなあ」という感想を保留してしまうのである。

  マフラーに牛丼の香の残りたる

 この句には、何か笑いだしたくなるものがある。冬だ。寒い。動きたくない。でも牛丼を食べたら元気になった。体を動かしたくなった。マフラーを外して動き回る。動き回っていたら暑くなってマフラーを外した。そのマフラーを取りに戻ったら、まだ牛丼の匂いが残っていた。そう読んでみたい。
 牛丼を食べで吉野家から出てきた。外は北風。歩いているときは寒い気持ちが強くて気がつかなかったが、家に帰って一安心してみると、まだマフラーに匂いが残っていたかもしれないけれど。

  蜜柑描きクレヨンの先丸くなる

 「少し流され」と同じように、時間のなかで世界を把握しなおす感じ。

  長き詩の最終行に雪が降る

 少し前の「現代詩」のことばの動きに似ているかも。
 句集には、2017年、2018年、2019年、2020年の作品も収録。また後日、感想を書くかもしれない。

 

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池田清子「今」、徳永孝「春」、青柳俊哉「冷雨」

2021-05-18 17:08:31 | 現代詩講座

池田清子「今」、徳永孝「春」、青柳俊哉「冷雨」(朝日カルチャーセンタ福岡、2021年05月17日)

 四か月ぶりの講座。受講生の作品を読んだ。

  今    池田清子

   2 16 -8  9
   8  7  1  5
  -2 …  1 -1
  -1  2 …  5

  今
  わけがわからなくて
  ずっと
  あいまいの中にいる

  フフッ
  数字が
  浮遊している

 「最初に数字が並んでいる。規則性がわからない。だから意味もわからない」「数字を見ると、規則性を見つけたくなる。規則性はないだろうが、不思議に共感するところがある」「斬新。数字が絵のように見える。ふわっとした霧のような雰囲気」「提示の仕方が独特」というような感想が飛び交った。
 「わからないことが、いやではない」という、とてもいい感想も飛び出した。わかる、わからないよりも、好き嫌いの方が詩の読み方として楽しいと思う。意味がわからなくても楽しければいい。
 「三連目のフフッ、がおもしろい」「浮遊しているに、よくあっている」「わけがわからなくてと、あいまいの感じも似合っている」
 こうした感想が成立するのは、ことばのうごきに無理なリズムがないからだろう。ことばが自然に動いている。
 数字はデジタルであり、ほんらい「あいまい」ではない。でも、ここではあいまい。
 「一連目の…が効果的。数字ではないものが、あいまいを生かしている」
 この考え方(読み方)も楽しいね。

  春     徳永孝

  梅はずいぶん昔のことに思える
  椿も木蓮も終った
  桜は葉桜にかわっていく

  シュンランが咲き
  キンポウゲ チューリップは今が盛り
  さつきの花も開きだした

  枯れたかと心配したかん木は新芽でいっぱいだ
  道ばたの畑で
  豆のつるが日に日に高くなっていく

  みんなに置いていかれないように
  わたしはわたしの足どりで
  新らしい学びへ進んでいく

 「いつも散歩しているときに見かける光景が、そのまま目に浮かんでくる」「散歩のリズムを感じる」「見たままの自然な感じ」「春の豊かさがつたわってくる」「枯れたかと心配したかん木は新芽でいっぱいだは、新鮮な感じがする」。私は「豆のつるが日に日に高くなっていく」がいいなあ、と思う。それまでは花だとか、新緑だとか、多くの人が春を伝えるものとして、自然に見ている。でも「豆のつる」というのは、あまり多くの人が目をむけるものではないと思う。そこが新鮮だった。
 作者は、最終連に苦労したという。私は「学び」ということばが堅苦しい感じがした。自然から何かを吸収していくことを伝えたかった、と作者は言う。「最後の三行は悩んだ」とも。
 私も最後の三行につまずいた。
 そこでこんな提案をしてみた。三行ずつ四連。起承転結というわけではないが、そういう動きにつながるものを感じる。そして、その「結」が少し異質。言いたいことがそこにあるのはわかるけれど、なんとなく重苦しい。連を入れ換えてみるとどうだろう。
 たとえば、三連目と四連目を入れかえると、こうなる。

梅はずいぶん昔のことに思える
椿も木蓮も終った
桜は葉桜にかわっていく

シュンランが咲き
キンポウゲ チューリップは今が盛り
さつきの花も開きだした

みんなに置いていかれないように
わたしはわたしの足どりで
新らしい学びへ進んでいく

枯れたかと心配したかん木は新芽でいっぱいだ
道ばたの畑で
豆のつるが日に日に高くなっていく

 「最後の三行の、浮いた感じが消えた」「かん木の新緑が、作者を祝福している感じ」「一体感が出てきた」
 つかわれていることばはみんな同じ。でも、順序を入れ換えるだけで、印象がぜんぜん違ってくる。型苦しい感じがした最後の三行、意味が強すぎる感じがしたことばも、「転」の部分におさめてみると、あまり違和感がない。「転」だから、もともとその部分には「異質」なものが来てもいいのだ。最後に「異質」を取り込んでもう一度春の情景に戻る。
 谷川俊太郎が実際にどうやって詩を書いているか私は知らないが、谷川はこういう「切り貼り」感覚がとても鋭敏だと思う。別なところにあったものを、ここにもってくる。ここにあったものを別な場所へ移す。そうすると、それだけで世界が違ってくる。
 書いたときは、書いたときのリズムがあり、なかなか「切り貼り」はしにくいのだけれど、少し時間を置き、「他人の作品」として読み直してみる。そのとき、思い切って、いままで書いた順序をかえてみるのも効果的かもしれない。


 
  冷雨     青柳俊哉       

  冷雨のふる二月の朝に
  雨の音がわたしを連れていく
  池水のうえにひらく無数の円に
  無思惟にただよう水草の茎の中の響きに
  葉陰に休む鳥の耳殻の襞のしずけさに

  そして 水のうえを越えて   

  空にひらかれた造形の石の園へ行く
  石に彫られた文字 石に挿された花
  人の命の系譜と 鎮魂の形式
  それらも 無限へとながれる
  わたしは雨にまじり
  異空の石にそそぐ

 「情景描写がこまやかで美しい」「雨の音がわたしを連れていく、わたしは雨にまじりという行が美しい」「葉陰に休む鳥の耳殻の襞のしずけさに、も印象的」「でも、鳥の耳殻の襞のしずけさ、というのは何ですか?」
 何だと思います?
 池水のうえにひらく無数の円は、誰もが見たことがあると思う。水草の茎も鳥も見たことがある。鳥の耳殻になると、見たといえる人は少ないと思う。さらに、その襞となると、見た人はどれだけいるだろう。しかし、見たことがなくても想像することはできる。その想像が正しいかどうか(科学的かどうか)は別にして、意識が知らない世界へ動いていく。そして、耳殻の襞にとどまらず、しずけさまで想像する。しずけさと、その前の行の響き、さらには水面に開く円ができるときの音なども想像すると、そのなかに重なり合うものが出てくる。それをことばの力を借りて想像する、というのが楽しいと思う。
 正しいとか間違っているとかは問題ではなく、想像力を動かすということが大事なのだと思う。
 一連目は水、三連目は石が中心に描かれ、水と石が対比され、そのなかで「想像力」が何かをつかみ取ろうとしている。
 この石について、「墓」「霊園」と読む声が多くて、私はびっくりした。たしかに「鎮魂」とか「彫られた文字」も墓なのかもしれないけれど、私は水との対比で枯山水(石庭)を思い浮かべたのだった。それも地上にある石庭ではなく、空に浮かんでいる石庭。
 池に空が映るように、空に池が映るのだけれど、その空の池は「石庭」のように石の水紋を描いている。
 私は「誤読」が好きなのだ、とあらためて思った。

 

 

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野沢啓「メタコロナ」

2021-05-17 11:02:47 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「メタコロナ」(「走都」第二次6号、2021年03月31日発行)

 野沢啓「メタコロナ」について感想を書きたいのだが、どんなことばが有効なのかわからない。と、書いてすぐ思いなおす。「どんなことばが有効なのかわからない」ということ以外に有効なことばはないのかもしれない。

われわれは試されている


 と野沢は書くが、私はこのことばに試されている。そう読み直すこともできる。

われわれは試されている
だれもそのことを知らない
ほんとうは名づけえないものが
宙を舞い
世界の組成をおびやかしている


 「新型コロナ」は「インフルエンザ」のように名づけられてはいない。「新型」という仮の名前があって、いまはさらに「新種株」まで登場し、「新型」はもう「新型」ではなくなっている。いろいろ分析されているし、ワクチンも登場しているが、その分析やワクチンが「有効」かどうか、「正しい」ものであるかどうかは、まだわからない。現実には「新型コロナ」を制御できていない。だから、私たちは「新型コロナ」に試されているといえる。いのちだけではなく、暮らし方も試されている。いや、暮らし方を試されている方がいのちを脅かされることよりももっとおそろしいことかもしれない。生きているけれど、自由には何もできないというのなら、生きていることに意味はあるのか。「新生活様式」というような不気味なことばが「新型コロナ」と同じように蔓延している。「新生活様式」の蔓延を防止する方策などない。緊急事態宣言は「新生活様式」を蔓延させるための巧妙な手段であるとさえ言える。いったい、人との接触をさけることのどこが「新様式」なのだ。
 野沢の書いていることばと私のことばがどれくらい重なるのかわからない。野沢は、こうつづけている。

これら あいだにひしめくもの
その厚い澱みのなかで
ひとびとはさかしらにたちまよう


 「厚い澱み」は、私には「新生活様式(という規制)」に見える。宙に舞う見えない「新型コロナ(ウィルス)」のあいだに「新生活様式」がひしめいている。マスクをして、手を洗って、密集を避ける。最低みっつのことをしないといけない。ほかにもいろいろ拘束はあるだろう。拘束という「厚い澱み」。ときには「密告」がおこなわれる。「路上で飲んでいる人がいます」「公園で飲み食いしている人がいます」。それは「正義」か、「正義」の名をかりた鬱憤晴らしか。「でも、これはノンアルコールです」というのは、どんなさかしらが考え出した方便なのだろう。
 どんな批判も無効だ。ウィルスは、ことばを理解しない。誰に対しても忖度しない。ウィルスは増えすぎたウィルスのなかで、どうやって自分のいのちをつないでいくか(未来に子孫を残していくか)を本能として指向し、「新種(株)」へと変身をつづけているのかもしれない。感染が爆発すればするほど、「古い新型コロナ」は生き延びることができない。「新しい新型コロナ」になっていくしかない。実際、最初に「新しい新型コロナ」が発見されたのは感染が爆発的に増えたイギリスであり、いまは「インドの新しい新型コロナ(インド株)」がウィルス戦争を勝ち抜き、次々に広がっていこうとしている。その「新しい新型コロナ」が広がる中、つまり新しい「インド株」が広がろうとする中、菅は東京オリンピックを開催しようとして躍起になっている。「新生活様式」を「個人」から「場」に広げて、自分のやりたいこと(金儲け)をやろうとしている。菅にしろ、その他のスポンサー企業にしろ「新しい経営戦略」を試みることなく、他人に「新生活様式」を強いることで古い金儲け主義の立てた作戦(既得権)を守ろうとしている。

識者も専門家も存在しない
ただ妄念のかさぶたがはがれて
ことばが悶絶していくだけだ


 それは、いったい誰のことばか。識者のことばか。専門家のことばか。私には「識者」「専門家」のことばの一部は「妄念」に見える。奇妙な「かさぶた」のようなものにみえる。そんなものはなくていい、という意味だが。そういうものが登場してくるのは特別の場合であって、ほんらい、かさぶたが生まれてこないのが「健康」な肉体のありかたである、という意味で、その不健康に対処するための特別なことばを「妄念」と呼ぶのだが。しかし、この意味が野沢の意識とどれくらい重なるものなのか、私にはわからない。私は野沢のことばに触発されて、そういうことを考えたというだけである。
 同時に、こんなことも思う。「妄念のかさぶた」には観念と肉体の結合がある。観念を肉体に結びつけ、肉体の運動として観念をとらえなおそうとする運動がある。「妄想」と「悶絶」は、どこか呼応するものがある。精神と感情がいりまじる。感情は精神から見ると「肉体」の一種かもしれない。頭(理性)では制御できない独自の運動を生きているいのち。こういう表現は、いまはもう新しいものではない(衝撃的ではない)かもしれないが、私は好きだなあ。不思議に納得してしまう。
 「ことば」は知識も生きれば、情念も生きる。悶絶していくのは、どちらのことばか。たぶん、こういう識別は無意味である。無効であるが、無効だからこの表現が好きなのかなあ。野沢は「肉体」をもって生きている、とこの部分で野沢の「肉体」を感じることができるから、とても好きなのだ。
 そういう「生きている状況」を描写し、「いや/私だって同じだ」という行を挟んで、野沢はこんなことを書いている。

本だけにとりまかれた生活
いいじゃないか
ずっとこれを願っていたわけだし
書くこともいまや自由自在だ
自分に発注し 自分で応える
それが基本だ


 「新生活様式」が「生き方の基本」を思い出させてくれる。それは、そうなのだが、私はここで少しつまずく。
 また、野沢は、こうも言い直している。

疫病を恐れることはない
他者こそもともと疫病だからだ
そのことを疫病が教えてくれる
キレイハキタナイ キタナイハキレイ
そうやって生きてきたし
これからもそうだろう
案ずることはない


 それしかないのかもしれないが、どうも気になる。後半の部分を動かしていることばは、私には

これら あいだにひしめくもの
その厚い澱みのなかで
ひとびとはさかしらにたちまよう


 という部分に出てくる「さかしら」に見えるのである。この「さかしら」は批判のことばではなかったか。そして、それは「敗北宣言」のようなものではなかったのか。「新生活様式」と「勝利作戦=勝利」を装いながら、それは負けつつあるのに、負けということばをつかわない「言い逃れ」ではなかったのか。
 私は、そう読んだ。
 少し引き返してみる。

いや
わたしだって同じだ
こんな時代を予期したわけじゃないが
世間からもずっと引きこもっている
ひともあまり訪ねてこない
べつにそれで困るわけじゃない
便りはときどきあるし
メッセージを出すならお手のものだ


 私は、実は、ここに「新型コロナ」のいちばんおそろしい「汚染」を感じた。精神的に野沢は新型コロナに感染していると感じてしまった。

べつにそれで困るわけじゃない


 この行の「べつに」が問題なのだ。「べつに」というとき、自分と他者との「切り離し」がある。他人はどうであれ、つまり他人は「べつにして」私は困らない。
 これこそ、いま、菅がやろうとしている「自助作戦」である。他人は別にして、まず、自分自身を守れば、新型コロナは終息する。それまで「新生活様式」を守ればいい。ひとりので食べて、ひとりで飲んで、ひとりで行動する。だが、その「ひとり」を実現するためには働かなければならない。そして、その労働が「飲食店の経営」であったり、「酒場の経営」であった場合、さらにはアルコールを販売してるコンビニであった場合はどうなるのか。「べつに」ということばで排除された世界とひとは、どうなるのか。
 この「べつに」は、どんなふうにでも拡大していく。
 オリンピックに世界から選手がやってくる。選手村でコロナが拡大する。「べつに」いいんじゃない、そんなこと。私はテレビで池江の活躍を見たい。金メダルを取ったら興奮するだろうなあ。私は、会場に見に行かない。テレビで見ているだけだから、コロナに感染はしない。ほかの選手がどうなろうと、「べつに」いいんじゃない? 池江が金メダルをとれるなら。
 あるいは。憲法改正。自衛隊の明記。「べつに」いいんじゃない? 私はもう高齢者。徴兵され、戦争にゆくわけじゃない。あるいは自衛隊を明記するだけで、徴兵制になるわけじゃないから、明記ぐらい「べつに」いいんじゃない? 実際に戦争がはじまれば、核兵器で敵基地を攻撃してしまえばいいんでしょ? いまは核戦争の時代。ボタン戦争の時代。ひとりひとりが鉄砲担いで人を殺しにゆくわけじゃない。
 「べつに」ということばで自分自身を切り離すことは、知らず知らずの内に、どこかでつながっている人を「排除」することになる。その危険性がある。
 野沢が、この詩の後半の部分をどんな意図で書いたのか、私にはわからない。
 「他者こそもともと疫病だからだ」という一行は、「疫病だから排除していい(駆除するべきだ)」なのか、「疫病は自己を強靱にするための存在、免疫力をつけることで共存できる(共存するために免疫力をつけなければならない)」なのか。
 わからない。

 私は、野沢ではないが、退職したら「本だけにとりかこまれた生活」がしたいと思って働いてきて、読みたいと思う本もそろえてきたつもりだ。そして「書きたいことだけを書く」ことを願ってきたが、でも、それはあくまで「家の中にいる時間」。一歩家を出たら、ひとと会いたい。ひとと話したい。社会とつながりたい。ひとがいなければ、本を読む意味、ものを書く意味もない。野沢は「べつに困るわけじゃない」と書いているが、私は非常に困る。
 私はほとんど誰にも読まれないものを書いているが、そのときだって、必ず「読者」を前提としている。そして、その「読者」というのは「作者」のことである。たとえば鴎外について何か書く、魯迅について何か書く、コルタサルについて何か書く。そのとき私は鴎外や魯迅やコルタサルと対話したいと思っている。もちろん鴎外も魯迅もコルタサルも死んでしまっているから彼らは直接は何もいわない。けれど、だれかが鴎外になったり、魯迅になったり、コルタサルになったりして、応えてくれるときがある。そういうときが、楽しい。
 ひととひととのつながりは、ことばで可能である。メールで可能である。インターネットで可能である。しかし、可能だからといって、それがすべてではない。インターネットは「出発点」や「きっかけ」にはなっても、到達点ではないと私は思う。
 私は「べつにそれで困るわけじゃない」という声ではなく、こんなに困っているという声こそ、コロナ時代に聞きたいと思う。困る、という声をどうやって発し続けるかが大切な時代なのだと思う。

 書いていることがだんだんずれて行ってしまった気もするが、野沢の今回の詩を読んで感じている「わからなさ」は、わからないと書くしかない。私がわからないと書いたことで、そこから何か対話のようなものが、野沢にしろ、野沢ではないにしろ、だれかとはじまるなら、それは野沢の詩を「有効」なものにするだろう。詩が「有効」であるかどうかが、必要なこと、重大なことであるかどうかはわからないが。

 

 

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早矢仕典子『百年の鯨の下で』

2021-05-16 10:00:37 | 詩集

早矢仕典子『百年の鯨の下で』(空とぶキリン社、2021年05月20日発行)

 早矢仕典子『百年の鯨の下で』の「白色のアリア」は雪を描写している。
<blockquote>
水気をたっぷり含んだ雪片の
白 が地面の暗色をすべて覆い尽くそうとして

白は うす汚れた白の上に着地し消え去る前に次の白をもとめて
はやく 白を、白! と上空へ向かって叫ぶ
空は矢つぎ早に白をそそぎ 白は
狂おしく降り急ぎその羽のような軽さに焦れながら
地面の暗いしろに自身の白を重ね
白! 白! 白!
</blockquote>
 雪国の人なら、たぶんだれでも一度は見たことがある風景だと思う。「消え去る」「もとめる」「叫ぶ」「そそぐ」「急ぐ」「重ねる」その動詞のつなぎめに「焦れる」という動詞が入り込む。そのすべてが絡み合うとき、かつて見た風景が、目の前にあらわれる。しかも、それは風景ではなく、自身の肉体なのだ。その場に、「雪」だけではなく早矢仕の肉体そのものがあらわれる。肉体と風景がつながっている。
 とくに目新しいことが書いてあるわけではないが、何度も何度も動詞をかえながら書こうとしているところに、風景と肉体をつなげていくとこにろに、私は早矢仕の正直を思う。
 で、突然、こんなことを思い出した。
 以前、あるひとから詩集が届いた。やはり雪が描かれていた。雪のために転んだ、というようなことが書いてあった。でも、私は、その詩人が転んだとは思えなかった。だから、そういう感想を書いたと思う。すると「転んだのはほんとうだ」とその詩人が怒りだした。「誤読だ。誤読した上でネガティブキャンペーンをやるのは許せない」と言った上で、「谷内に詩集を送るのはやめよう。そうすれば谷内は詩の感想を書けなくなる。現代詩手帖の年鑑アンケートから締め出すことができる」というような運動を展開し始めた。その、数年前のことを、またネットで繰り返し発言しているらしい。詩は、新しい詩集の中にだけあるわけではないから、私は別に困らないし、現代詩手帖が詩のすべてではないから、それはどうでもいい。
 問題は、もとにもどって繰り返すが、書かれてることが「事実」かどうか、ではない。そこに「肉体の事実」が表現されているかどうかである。
 この早矢仕の詩でも、早矢仕がほんとうに雪を見ているかどうかは問題ではない。早矢仕の書いていることばを読むと、私には雪が見える、ということが大事。そして、雪が見える「理由」をことばのなかに探していくと、動詞のからみあいが雪を出現させていることがわかるということだ。そのとき、それはほんとうに雪なのか、それとも早矢仕が雪になってしまったから、ことばがそういう具合に動いたのか、わからない。わからないながらも、私は、後者だと思い、さらに感動する。雪が動いているのではなく、早矢仕の肉体が動いていると感じ、そのことに感動する。
 「事実」かどうかではなく、事実と感じられるかどうか、それが「表現」に求められているものだ。そこに詩があるのだ。「感じ」と、その「感じ」を引き起こす何かのなかに、この詩で言えば動詞のからみあいのなかに詩がある。雪が降っている。降り積もろうとしている。それを白を「重ねる」という動詞へ向かって動かしていく。そのときにだけ見えるものがある。動詞が動くから、どうしても肉体がそれを追いかけるようにして動き、にくたいとして出現してしまう。それが大切なのだ。
 こんな例は適切ではないと思うが、ふと思いついたので、思いついたままに書く。
 「ゴッドファーザー」にはいくつも殺しのシーンがある。そのひとつ、車の前の座席に座った男が後ろから首を絞められる。男は苦しくてフロントガラスを蹴る。フロントガラスにヒビが入る。そのヒビを見ながら、私は美しいと思う。それをもう一度みたいと思う。(そして、何度も、スクリーンでそれを見た。)このシーンをコーエン兄弟は「ノーランズエンド」のなかで別の形で展開した。やはり男が首を絞められる。男は苦しくて床を蹴る。すると床に蹴った靴あとが放射線状に広がる。まるで花が咲くみたいに美しい。それをもう一度みたいと思う。でも再映がないので、私はまだ見ていない。ひとが殺される(それが悪人であるとしても)のに、そのシーンを美しいと感じるとは、倫理的にはどうかしている。しかし、美しいと感じてしまう。それが「表現」というものなのだ。
 問題なのは、そこにあるものが「表現」に達しているかどうかである。「事実」かどうかではない。フロントガラスは蹴ったくらいでは割れない、とか、床を蹴ったときの靴の摩擦が花のように広がるはずがない、というのは別の問題である。
 「暗い絵画」には、そういうことに関係する何かが書かれている。ある詩を読みながら、眠ってしまう。その夢のなかで、早矢仕はプラドでゴヤの「暗い絵画」シリーズを見ている。そのなかの一枚に、父親が子どもを食っている絵がある。その「腿」にかぶりついているような感触を、夢のなかで味わう。
<blockquote>
う となり もうこれ以上は という満腹感まで
持ち帰ってしまった ところが 脚をもがれたからだの方
でも それはなかろう こんな中途半端はやめてくれ と
あちら側からうったえてくる もっと ほら食べておくれ
そうはいわれても もうあの食感は二度とごめんだ 一度
目が醒めてしまった以上 戻りたくもない ゴヤの満腹
ゴヤの嘔吐 いやわたしだって もうごめんだ
</blockquote>
 絵の中の世界(虚構)とゴヤと早矢仕が重なる。これだけでも詩であるが、それ以上のことが起きる。
<blockquote>
それはなかろう 最後まで食べておくれ食べつくしておくれ
こちらもじつは わたしの姿をしたゴヤなのだった 聴覚の
ない老いぼれたわたしは思い出そうとする いったい だれ
の どんな詩を喰らってこんなめにあっているのか その詩
こそがきっと 本物のゴヤなのだ ゴヤの満腹 ゴヤの嘔吐
最後まで食べておくれとうったえている
</blockquote>
 もう、だれがだれだかわからない。詩を書いた人は、早矢仕のこの詩を読み、そんなことは書いていない、誤読だ、と言うかもしれない。しかし、それはあくまで作者の言い分。早矢仕は、だれかと、ゴヤと、ゴヤの絵の中の食べられる子ども、さらに早矢仕自身を重ね合わせてしまって、もう分離できない。ただそれだけではなく、そのときの苦しみというか気持ち悪さをいやだいやだと思いながら、そのいやな部分へ踏み込んでいく。「いやなら書くな」というのは、たぶん詩を書かない人間(ことばを動かさない人間)の主張であって、書き始めたら(ことばが動き始めたら)、そのことばを行き着く先まで動き続けるしかない。いやなのに書いてしまう。この矛盾なのかに詩がある。あの絵は気持ち悪いという「事実」を通り越してことばが動く、その動きのなかにしかない「事実/真実」というものがある。それが人間を引きつけてしまう。
 詩は「対象」ではない。だから、美しかろうと醜かろうと、不幸だろうと、苦悩だろうと、詩は存在する。ことばが「事実」になるとき、それが詩である。「事実」を書いているかどうかではない。「事実」や「意味」というものは、各人がそれぞれもっている。それを他人と共有するためにことばがどう動いたかだけが問題である。ことばが「肉体」になったかどうかが問題なのである。

 

 


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フロリアン・ゼレール監督「ファーザー」

2021-05-15 16:58:38 | 映画

フロリアン・ゼレール監督「ファーザー」(★★★★)(2021年05月15日、キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 フロリアン・ゼレール 出演 アンソニー・ホプキンス、オリビア・コールマン

 認知症の老人を描いているのだが、これはほとんど恐怖映画である。
 映画は三つの場面に分かれる。①アンソニー・ホプキンスが見ている世界(オリビア・コールマンから見ると、正しく認識されていない世界)②オリビア・コールマンが見ている世界(観客から見ると、客観的な「正しさ」を伝える世界)③だれが見ているのかわからない世界(ふたりのほかに、介護人、オリビア・コールマンの夫らが登場する。そこには、当然彼らが見ている世界も含まれる)。
 この三つの世界(もっと多いかもしれない)が、「画面」としては「均一」に描かれる。同じ方法で描かれる。①が焦点の定まらないぼやけた世界とか、モノトーンの色彩の世界というわけではない。カメラがアンソニー・ホプキンスの目として動いているわけではない。それは②の世界がオリビア・コールマンの目の位置にカメラがあるわけではないのと同じだ。カメラは、いわば③の位置にある。そして、これに「目」だけではなく、ことばが加わる。「目に見えないもの」(たとえば、認識)が「ことば」として、世界を存在させる。「目」と「ことば(声/耳)」が一致しない。もちろん、この映画が認知症の老人を描いているのだから、アンソニー・ホプキンスの「ことば」が間違っていると簡単に判断できるのではあるけれど、それは映画にのめりこんでいないとき。外から映画を見ているとき。いわゆる「客観的」な立場で映画を見ているとき。私は、そういう「客観的」な見方というのが苦手な人間なので、簡単にアンソニー・ホプキンスは認知症である、とはなかなか思えないのである。もしかすると、オリビア・コールマンが騙しているのでは? 彼女が、他の登場人物と共同してアンソニー・ホプキンスが認知症であると思い込ませようとしているのでは?
 実際、アンソニー・ホプキンスは、そう感じているかもしれない。アンソニー・ホプキンス腕時計がなくなる。それは介護人が盗んだのか。それともオリビア・コールマンが隠して、介護人が盗んだと思い込ませようとしているか。もちろんアンソニー・ホプキンスはオリビア・コールマンを疑ってはいない。だから、よけいにこわいのである。アンソニー・ホプキンスにわかるのは、どうも自分が認識している世界と他人の認識している世界には違うものがあるということだけである。どちらが正しいか(自分がほんとうに間違っているのか)、確信が持てない。当然のことだけれど、だれでも自分の認識が「正しい」と思う。だからこそ、その「正しさ」が「多数派」によって否定されていくと、頼りにするものがなくなる。自分は「正しい」のにだれにも「正しさ」を受け入れてもらえない。それは、アンソニー・ホプキンスを子ども扱いにする介護人の姿勢に対する強い反発となってあらわれる。「私は知性のある人間、大人であって、子どもではない」。その証拠に、アンソニー・ホプキンスは自分はかつてはタップダンサーだったと嘘をつくことができる。ただし、この嘘はほんとうに嘘か、それともアンソニー・ホプキンスの認識が間違っているのかは、観客にはよくわからない。実際にアンソニー・ホプキンスが、それなりに踊って見せるからである。
 アンソニー・ホプキンスの認知症が進んでいく。そのときの世界を映画は表現している、と簡単に要約することはできるはできるが、その要約の前に、私は、ぞっとするのである。キューブリックは「シャイニング」で次第に狂気にとらわれていくジャック・ニコルソンを描いた。そこにはオカルトめいた要素がつけくわわっていて、そのために狂気に陥っていく人間の苦悩が、見かけの「恐怖」にすりかえられている部分がある。それに対して「ファーザー」には、そういう「見かけの恐怖」がない分、余計にこわいのである。
 いったい、何が起きている?
 これを判断する「基準」はひとつである。アンソニー・ホプキンスは認知症なのであって、オリビア・コールマンが父親をだましているわけではない、という証拠は、アンソニー・ホプキンスの「服装」の変化によって明らかにされる。最初はジャケットを着ている。そのまま外へ出かけられる姿である。つぎにセーター姿が登場する。もちろんセーターでも外に出ていくことができるが、基本的にそれは家でくつろぐ姿(リラックス)をあらわし、人前に出るときはセーターを脱ぎ、ジャケットを着る。だが、アンソニー・ホプキンスはリラックスするはずのセーターも着られなくなる。どこから手を通していいかわからなくなる。さらにパジャマ姿になっていく。これでは外へは出て行けない。家にいるときだって、他人がくるなら、やはり着替えるのがふつうだ。パジャマ姿は基本的に他人に見せるものではない。このパジャマ姿は、最初は上下そろいの姿だが、施設に入所したあとは下はパジャマのズボンだが、上は下着である。もうパジャマすら「姿」にならない。破綻している。ジャット、ズボンという姿からはじまり、セーター、パジャマ、さらには不完全なパジャマ姿への、冷徹な「変化の記録」。ここには「ことば」は関与していない。だから「嘘」がない。途中に、アンソニー・ホプキンスがセーターを着られずにオリビア・コールマンに手伝ってもらうシーンがある。さらにはパジャマからふつうの服装に着替えるのを手伝う(手伝いましょう)ということばも繰り返される。そこに、絶対に否定できない「事実」がある。
 最後の最後に、アンソニー・ホプキンスは「認知症」の恐怖を語る。自分は、かつては枝が広がり葉っぱが繁った木であった。しかし、いまは枝がないのはもちろん葉っぱもない。何もない木だ。このことばに覆い被さるように、イギリスの緑豊かな木が風に葉を揺らし、光をはね返す美しいシーンが広がる。そして、映画が終わる。それを見ながら、私は人生の最後にどんな風景を見るのだろうと思い、また、恐怖に叩き落とされる。
 この映画は、アンソニー・ホプキンスがアカデミー賞(主演男優賞)を取ったから、見に行ってみよう、という軽い気持ちでは見に行かない方がいい。ぞっとするから。アンソニー・ホプキンスの演技は、生き生きとした表情から失意まで、非常に幅が広くて、それだけでも恐怖の原因になるし、いわゆるイギリス英語の明瞭な発音が、最後の不安でいっぱいの声に変わる、その声の演技も「迫真」であり、それだけにまた、非常にこわいのである。

 

 

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林嗣夫「無題」

2021-05-14 09:57:39 | 詩(雑誌・同人誌)

林嗣夫「無題」(「兆」190、2021年05月05日発行)

 林嗣夫「無題」。起承転結で書かれている。

  年を取ったせいだろうか
  骨やら肉やらのことが 気にかかる

  骨が先か肉が先か そのどちらが大事なのか
  そんな二元に考えるのは意味がないが
  しかし 最後に残るのは骨のほうである
  ホラホラ、これが僕の骨だ、
  というふうに

  骨のある生きものと ない生きもの
  その人生観 宇宙観は全く異なるだろう
  骨は寂しいから 花としての肉を求める
  肉は花を生きるために
  骨という規範を必要とする

  骨のない生きもの 昆虫 なめくじ……
  なんだか切なさの固まりのようでもあるが
  何を思って生きているのだろう

 私は、この詩の最後の一行にひかれた。何も書いていない。「何を思って生きているのだろう」とほうりだされたら、それを想像して書くのが詩であり、文学である、と学校の先生なら言うかもしれない。「考えを書きなさい」と。
 しかし、考えにならないこともあるのだ。ぼんやりとした何か。「無題」というタイトルがついているが、それこそ「無」といかいえない、何か。「無意味」ではない。でも「意味」でもない。そこにあるだけのもの。たぶん「無分節」の「無」、と書いて、あ、そうだったのか、と私は脱線する。私は「未分節」と知ったかぶりをして書く。「無分節」の「無」がわからなかったからである。「無分節」の「無」は、いま、林が書いている「何を思って生きているのだろう」なのだ。それは、前の行では「なんだか切なさの固まりのようでもある」と書かれていて、「意味」としてはその行の方が強い。でも、その強さを叩き壊して「何を思って生きているのだろう」とほうりだす。「意味」を追いかけてもしようがないのだ。「意味」はいつでも林を襲ってくる。「意味」に襲われる前の「無」の方が「手応え」があって、「図太い」。
 で、この視点から読み直すと、この詩はおもしろい。
 一連目(起)は、ぼんやりとはじまる。ことばがどこへ動いていくかわからない。「骨」と「肉」と「気」が提示される。
 二連目(承)に「大事」「意味」ということばが出てくる。「大事」は「意味がある」という意味である。「意味がある」と「意味がない」という「二元論」をくぐりながら、「気」は「二元論」を否定しようとする。しかし、ことばは中原中也を引用しながら「最後に残るのは骨」というふうに動いていく。なにかしらの矛盾、飛躍の踏み台があり、次元の違った世界(転)へ向かう。
 その三連目(転)は、ことばの面構えからして、一連目、二連目とは違う。「骨」「肉」と書きながら、そこに書かれているのは「気」である。精神である。言い直せば「哲学」である。哲学であるから、ここには「論理」がある。それを「規範」と言っている。意味、規範は論理の骨格である。
 と、いったん「結論」を先走る形で提出しておいて、四連目(結)。これを否定するというよりも、叩き壊す。禅問答(公案)で、どういう質問だったか忘れたが、何か問われた方が何も答えず、近くにあった何かをけとばして部屋を出て行く、というのがあったと覚えているが、そんな感じだな。
 「論理=意味」としての「哲学」なんて、意味がない。批判してもはじまらない。そんなものはなかったことにする。ただ、いま、ここに生きている。それを直接的につかみとるには、「論理=意味」(これは、切なさという感情の場合もある)を叩き壊さなければならない。「無」をほうりだすのだ。すべての問いに対して。
 私は、その「無」のいさぎよさのようなものをいいなあ、と感じる。いさぎよい、にまでは達していないから、それがまたいいなあ、と思う。先に書いた「公案」のように、何かを完全に叩き壊して出て行ってしまうのでは、それはそれで難問を残されたようで気分が重い。わからない。なぜ、そんな「答え」が語り継がれるのか。そこにどんな「真理」が隠されているのか。難問すぎて、考えたくない。
 ぼんやりと「何を思って生きているのだろう」に体をあずけ、「ばかだなあ、なめくじが何かを思って生きていることなんかあるもんか、なめくじなんだぜ」と言って笑うのである。もちろん、反論があるのはわかる。でも、「ばかだなあ」と、反論があるのを知っていて笑うのである。

 

 

 

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小松弘愛「白いガーゼのマスク」

2021-05-13 08:51:19 | 詩(雑誌・同人誌)

小松弘愛「白いガーゼのマスク」(「兆」190、2021年05月05日発行)

 小松弘愛「白いガーゼのマスク」は、いましか書けない詩である。いや、いま読まないとわかりにくくなる詩である、と言った方がいいか。

  新型コロナが
  ひろがりを見せ始めた頃
  わたしは自転車に乗って
  川縁の道を下っていった

 とはじまる。「いま」というよりも「去年(2020年)のことなのだが、いま、それを思い出しているのは、新型コロナが一年たっても終息していないからである。
 小松は白木蓮の花が散って、道を「彩っている」のを見る。

  その彩りの傍まで来たとき
  わたしは自転車を止め
  散り敷いた花びらの中に
  捨てられた一枚の
  白いガーゼのマスクを見ることになった

 気になるね。「捨てられた」か「落ちていた」からわからないが、どうしても目に留まってしまう。「彩り」ということばがあるから、よけいに、目立ってしまう。風景を汚している。以前なら、「彩り」と見えたはずのものが、いまは「彩り」には見えない。
 汚い、とか、不潔とかは書いていないのだが、「彩り」が反射してきて、そういうことばを思い浮かべさせる。そして、それは汚い以上の何か不吉なものである。
 そういう意味では、誌の前半に繰り返される「彩り」はとても重要なことばだ。

  その翌日
  夜も更けていた
  広い道路から入った裏道で

   闇のなか道を曲がれば自転車のライトに咲くは白木蓮の花

  このような
  白木蓮の姿を見ることになったが
  実は
  一瞬のことだけれど
  わたしは
  自転車のライトを受けて
  浮かびあがった花の中に
  一枚の
  白いガーゼのマスクを見たように思った

 もしコロナがなかったら、たとえ道に落ちているマスクを見ても、あ、汚いなあと一瞬思うだけだろう。しかし、いまはそれ以上のことを思ってしまう。その一瞬の思いは、一瞬だけれど根深い。こころに生きつづける。翌日、別の場所で別の白木蓮を見る。
 その一瞬は、短歌に詠まれているように美しい光景であるはずだった。しかし、美しい(彩り豊かな)瞬間が、壊されていく。あるはずのない「白いガーゼのマスク」を花の中に見てしまう。
 小松は「見たように思った」と書いているのだが。
 そして、この「見たように思った」は、もしかすると、「見た」よりも強烈かもしれないと思う。いや、強烈である。「見た」で終わっていたら、私はきっとこの詩の感想を書かない。「見たように思った」の「思った」に衝撃を受けたのである。いまでしか書けない、いましかこの感じは読み取れない。
 思うは、こころの動き。こころの動きであって、現実ではない。いや、こころの現実といいなおせばいいのかもしれない。
 私たちは、新型コロナの影響は肉体や日常生活ではなく、こころにまでしっかりと響いてきている。そして、それは根深く私たちを支配している。小松は「一瞬のことだけれど」とことわっているが、ことわってでも書かずにはいられない。無視できない。
 新型コロナの不気味さ、影響力の大きさを伝える詩である。

 

 

 

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池江選手の「ツイッター」騒動

2021-05-12 15:07:32 | 自民党憲法改正草案を読む
 書こうか、書くまいか、迷ったが。
 思ったことは、消えるわけではないから、書いておく。
読売新聞2021年5月12日の社説「五輪開催の賛否 選手を批判するのは筋違いだ」のなかに、こういう文章がある。
 
 五輪の中止を求めるなら、政府や東京都などに向けて声を上げるべきである。出場を目指して努力を重ねてきたアスリート個人に、「辞退して」「反対の声をあげて」と要求するのは、あまりに酷な注文で、配慮を欠いている。
 
 もっともらしく聞こえる。
 でも、これが、批判でなくて、たとえば「池江選手、絶対金メダルとって」だったら、どうなるのだろう。「池江選手のがんばりで、日本中を元気にして」「五輪反対といっていたひとたちのやっていたことが間違いだったことを証明して」(五輪は日本を勇気づけるために必要だったということを証明して)だったら、どうなるのだろうか。
 これは酷な注文、配慮を欠いた要求にならないのだろうか。
 ふつうの国民は、選手をとおして夢を見る。それは何も池江選手だけをとおしてではないし、日本選手だけをとおしてでもない。外国の選手、名前を知らなかった選手をとおしてさえ夢を見る。名前を聞いたこともないだれかがマラソンで2時間を切って優勝する。そのとき、それを見ていた人は、興奮するだろう。スポーツは、そういうものだと思う。ふつうの国民は、スポーツ選手に、自分のできない夢を託し、それが実現する瞬間を共有する。
 それはスポーツそのものが基本だけれど、スポーツ以外でも同じ。
 大坂なおみが、黒人暴行死に抗議する黒いマスクをつけて、全豪テニスで優勝した。ひとは大坂の優勝にも興奮したが、黒いマスクの抗議にも興奮した。
 ふつうのひとが大阪と同じマスクをつけて街を歩いていても、テレビも新聞も取り上げないだろうし、それが世界に報道されるということもない。スポーツ選手は、スポーツだけではなく、ほかの行為でも多くのひとの思いを代弁できる。代弁できるだけではなく、メディアをひきつけることで「大声」を発することができる。そういうことを、私たちは知っている。
 だから、池江に夢を託すのだ。
 池江が白血病に打ち勝ち、努力を重ねてきた。日本選手権で優勝し、五輪出場権を獲得した。そういうことを知っているからこそ、池江が五輪に反対する、中止を要求すれば状況が変わるのじゃないかと期待する。そういう期待をもつことがいけないという批判が起きるのは、当然わかっている。わかっていても、そうしたいひともいるのである。
 なぜか。
 読売新聞は「五輪の中止を求めるなら、政府や東京都などに向けて声を上げるべきである」と書いているが、その声を上げている人は大勢いる。国会前でのデモもあれば、反対署名もある。読売新聞の世論調査でも五輪に反対の人は6割もいる。それなのに菅は「安心・安全の大会へ向けて努力する」と言うだけである。ふつうの人は何を言っても、政治に声が届かない。権力は聞こえないふりをする。そういう社会にしてしまった責任はマスコミにもあるだろう。世論調査で6割が反対しているのに、読売新聞は、その声を聞いて「読売新聞として五輪に反対する」と言ったか。無視しているだけではないか。それはマスコミとして「正しい姿勢」なのか。
 池江に「辞退して」「反対の声をあげて」と要求するのは、あまりに酷な注文で、配慮を欠いていると指摘するのは簡単だが、池江しか頼ることができないと思っているひともいるということも忘れてはいけない。
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愛敬浩一『メー・テイはそれを好まない』

2021-05-12 09:34:19 | 詩集

愛敬浩一『メー・テイはそれを好まない』(土曜美術社出版販売、2021年05月19日発行)

 愛敬浩一『メー・テイはそれを好まない』は、詩集の前半で、過去に書いた詩の「注釈」を詩の形で書いている。過去の詩のメーンイベント(?)は、勤務先の学校で「組合」をつくること。そのために愛敬は奔走している。引きずり回されている、かもしれない。ある状況があるのだが、それを完全に把握しきれない。それは、いつの時代でも同じことだが、その把握しきれないものを、これまた把握しきれない(と書くと愛敬に怒られるだろうけれど)ことばでつかみ取ろうとしている。かつて、そういう時代があったのだ。わからないことがあるからこそ、わからないことばにかける。そのことばの先に何かが見える、と思って、「ことばの肉体」に頼って動くということが。
 これを裏返せば、現在の政治である。コロナ時代の「ニュースタイル(新生活?)」だったかなんだか忘れてしまったが、いまの内部へ入り込み、問題点をつかみとるというよりも、いまの問題点から目をそらすために、ひとがつかっていなかったことばを率先してつかう。この「ことばの先」に、新しい生き方がある。それを知っているのは、新しいことばを最初に口にした私だ、というわけである。小池なんとかというのは、こういう作戦にたけている。学歴詐称が問題になったが、これも同じ。ひとの知らない「学歴」をぶら下げて見せて、「その先」にあるものを暗示する。何もないのに。カタカナ語の、新しいことばが出てくるときは、たいてい同じである。現実を見せない、現実から目をそらすために何かが仕組まれている。「エビデンス」などというのは、その「証拠」である。
 というのは、まあ、脱線である。
 もちろん、「組合結成」の周辺を、暗号めいたことば(いわゆる難解な現代詩)で書いていたとき愛敬はそんなことは考えていない。ただ、ことばの向こうに何かが見えると真剣に信じていただろう。あのときは、詩のことば全体が、そういう動きをしていた。その潮流に、若い詩人はどうしても乗ってしまう。そのことは、とくに否定されるべきことではない。だれだって、裾の広いパンタロンを履いていたのだ。流行を無視して、独自路線を生きているのは、よほどの偏屈である。愛敬の友人である石毛拓郎(とっても感動的な帯を書いている)は、そういう詩人かもしれない。この「かつての流行」のことばを見るのは、なつかしい。こういうとき、よくひとは「なつかしい」ではなく「はずかしい」というが、私は、おもしろく、なつかしいと感じる。
 でも、こんなことを書いてもしようがない。「過去の詩」は脇に置いておいて、いま書かれた詩だけ取り上げ、思ったことを書いてみる。「アパート」という作品は、組合結成のために世界史の先生のアパートに仲間が集まったときのことを書いている。「熱々の、近所のコロッケをみんなで食べたりした」という一行があるが、あの年代にはマックもケンタッキーもなかったから、「おやつ」といえばコロッケだったのである。

二間だけの、アパートの一階
本と本棚しかない部屋に
十数人が座り込み
話し合われたことの、ほとんどすべてを
いやいや、何一つ
今では、何も思い出せない
七〇年代の終わり
あれは、どういう時代だったのだろうか
新任の彼は
五月の連休明けに
そのアパートへと誘われた
あの頃は
何で、あんなに時間があったのだろう
みんな、どのようにして家に帰り
当たり前のように
翌朝も
職場としての学校へ行っていたのだろうか


 「新任の彼」と書かれているのが愛敬本人である。話し合ったことを何一つ覚えていない、というのは、誰もが経験することだろう。あれはどういう時代だったのか、と思うのもだれもが思うかもしれない。熱々のコロッケをふくめて、そこまでは私は単なる思い出として読んできた。よく聞く話だと思って読んだ、という意味である。
 ところが、

あの頃は
何で、あんなに時間があったのだろう


 ここで、私は思わず棒線を引いた。意味としては「あれは、どういう時代だったのだろうか」に非常に似ているが、ちょっと違う。
 「あれは、どういう時代だったのだろうか」は「あれ」ではなく「どんな」に力点がある。「あれ」というのは、書いているひとと読んでいるひとに共有される認識、ただし目の前にある認識ではなく、遠くにある認識、つまり「ふたり」(愛敬と私)が同時に思い出している「七〇年代の終わり」を指している。そして、「あれ」という形でテーマ(話題)を提示した上で「どういう時代だったのだろうか」と疑問を投げかけ、「どういう」に焦点をしぼっている。
 「何で、あんなに時間があったのだろう」は順序が逆である。「何で」は「どうして」と言い直せば、「どうして、あんなに時間があったのだろう」であり、「あれは、どういう時代だったのだろうか」とは「どう」「あれ」の順序が逆だということがはっきりする。「七〇年代終わり」という漠然とした時間ではなく、「あの時間」(アパートに集まって、コロッケをかじりながら組合結成の夢を語る時間につながるもろもろの時間)が凝縮して見えてくる。
 愛敬の今回の詩集のキーワードを指摘するなら、この「あんなに時間があったのだろう」の「あんな」である。「こそあど」ことばの「あの」である。「共有認識」を示す「あの」。愛敬が知っている「あの」時間。それは私が知っている「あの」時間であり、また石毛が知っている「あの」時間である。それは、いまの若い世代が知らない。つまり認識として(体験として)共有されていない時間、若い人にとっては単なる「情報」の時間である。でも、愛敬、石毛、私には「共有している時間」である。私は愛敬にはあったこともないから「共有」というのは変に聞こえるかもしれないが、「共有」以外では語れない時間である。
 そして、ここまで書いてくれば、あとはことばが指し示す通りである。愛敬がいま書いた詩とセットで編集している「過去の詩」は単なる「過去の詩」ではなく、「あの」詩なのである。それは「共有された詩/共有されている詩」なのである。
 もちろん、その「共有された詩」を再びひとが(とくに若い人が)共有すべきであると、私は、絶対にいわない。そんなことは不可能というよりも、そんなことをすれば嘘になってしまうだけである。
 私は、あ、ひとは何かを「共有」しなければ生きていけない、と感じたと書きたい。いま必要なのは、それが何かわからないけれど「共有」なのだ。いま、社会では、あらゆることが「共有」しにくくなっている。「共有」を分断する力がどこまで広がっている。どんな形で何を「共有」できるかわからないが、愛敬が今回の詩集で「出現」させようとしているのは、「共有」の困難さと、必要性なのだと感じた。

みんな、どのようにして家に帰り
当たり前のように
翌朝も
職場としての学校へ行っていたのだろうか


 この最後の部分。これを、

みんな、あのようにして家に帰り
当たり前のように
翌朝も(あのようにして)
職場としての学校へ行っていたのだ


 と書き直せるとき、そしてそれが「当たり前」になるとき、「共有」が絶対的な力になる。そのためのヒントは、過去の作品に隠れているはずである。かつて、私たちは「あのようにして」詩を書いたのだ。ことばを動かしたのだ。
 でも、そこには「あのようにして家に帰り」「あのようにして職場としての学校へ行っていた」がない。具体的な行動がない。暗示的なことばがあるだけだ。「あの」は何よりも具体的でなければならないのだ。(過去の詩を脇に置いたままにしているのは、そのためである。)
 「あの」と呼べるものを、詩は作りだしていけるか。
 愛敬は、それを問いかけている。この問題は、「七〇年代終わり」を知らない若い人にも考えてもらいたい問題である。「いま」は常に「過去(既知)」になる。あした、今日(いま)起きていることの何を「あの」と「共有」できるか、そのためにことばはどう動けばいいのか。

 

 

 


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砂東かさね「春の記憶」

2021-05-11 19:23:39 | 詩(雑誌・同人誌)

砂東かさね「春の記憶」(「乾河」91、2021年06月01日発行)

 砂東かさね「春の記憶」。ことばの呼応が静かで説得力がある。

橋の上に取り残された
桜の花びらは
何度も靴の底に踏まれ
自分の色を保てずに
春の終わりを待っている
風は運ぶ
飛ばすべきものを
どれほど軽くなれば
飛んでいけるのか
私は今日も橋を渡る


 一連目。よく見る春の光景。桜が散っている。踏み潰されている。そこに自己投影をする。とくに目新しいことが書いてあるわけではない。
 でも、その目新しくない光景が(もしかしたらほかのひとが書いているかもしれない光景が)静かに迫ってくるとしたら、それは何が要因となっているのか。
 四行目の「自分の色」の「自分」である。この段階で砂東は「桜」を「自分」と呼んだわけではない。この「自分」は「桜自身」という意味である。「桜本来」と言い直すこともできる。つまり、あくまで「桜」のことを言っている。
 しかし、それを「自分」という「呼称/代名詞」で呼んだために、最後の行の「私」と静かに重なる。ああ、砂東は桜の花びら、しかもは踏まれて色褪せていく桜の花びらを砂東そのものと見ているということが、すーっと胸に落ち着く。「自分」と「私」の呼応。何でもないようだけれど、その何でもないようなところこそが詩のポイントなのだ。詩の力なのだ。
 二連目。

日々はあからさまに
ひとの後ろを掃いてまわる
花の萎れる夕べに
終わらないことをうたにする
あたらしい唇
あたらしい痛み
ひとりでに降りつづく
雪はとけない


 一連目の「自分」「私」は「ひと」と言い直される。砂東だけの世界ではなく、「ひと」の世界が広がる。「後ろを掃いてまわる」と「何度も靴の底に踏まれ」にも呼応がある。「踏まれて」「掃かれて」、どこかへ飛んで行く(消えていく)。さらに「春の終わりを待っている」と「終わらないことをうたにする」の「終わり」が「自分」と「私」のように呼び掛け合う。そのとき「うた」が生まれるのだが、その「うた」は必然的に悲しいものとなる。けっして楽しい歌ではない。「痛み」とは「ひとり」の痛みである。「自分」の痛み、「私」の痛み。それが「ひとり」の痛み。この「ひとり」は「ひと」と呼応することで、いっそう「ひとり」になる。
 砂東は、ここからどこへ行くのか。

この橋を渡りきる時
見上げた記憶は思い出になる
そうして
季節はひとつ前へ行く


 「見上げた記憶」とは何か。桜が散ってしまったあとの桜の木(枝)か。見上げて、何を思ったか。足ものと桜の花びらか。踏まれて、踏まれることで、掃かれるように、どこかへ「始末」されてしまう花びらか。
 それについては砂東は書かない。ただ、

そうして


 と書く。「そうして」には否定も肯定もない。あるがままに、それを受け入れる。そういうときの「そうして」だろうなあ。ことばにしようがないのである。ただ、砂東自身を動かすために「そうして」と声にしてみる。無為としての「そうして」。荘子の「何もしない」を、ふと思う。何もしない。そうすると、おのずと「前へ行く(進む)」。
 「ひとつ」は「ひとり」、「ひと」とも呼応するだろう。
 一連目の「自分」と「私」の呼応は、いくつかの呼応を繰り返し「ひとつ」という確かなものになる。この「ひとつ」は砂東のことばの運動だけが手に入れた「ひとつ」である。一連目、一行目の「取り残された」を否定する力強い「ひとつ」である。

 

 

 

 

 

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中村節子「陽炎」

2021-05-10 07:59:54 | 詩(雑誌・同人誌)

中村節子「陽炎」(「回游」71、2021年05月01日発行)

 中村節子「陽炎」の一連目。

わたくしという木が
風に吹かれている
雲の動きにゆられている
いみじくもわたくしは木になぞらえて
耐えているがごとく
か弱く小さくゆれている
なんでここにいるんだろう
なんで葉っぱをそがれた冬の木になって
泣いているんだろう


 「いみじくも」ということばにひっかかる。なぜ「いみじくも」なんて書いたのだろう。「わたしくは木になぞらえて」だけでも、詩から逸脱して散文の方へ動いている感じがする。しかし、わけがわからないまま、この「いみじくも」「なぞらえて」のつながりに、私は絶対に書かないなあと感じる何かが書かれている気がして、ひっかかるのである。私の知らない何か、見落としてきた何かがあると感じるのだ。

わたくしという木が
風に吹かれている
雲の動きにゆられている
耐えているがごとく
か弱く小さくゆれている

 これでも十分に、つたわると思う。でも、こんなふうに「比喩」にしてしまったら、何か違うんだろうなあ。
 きっと、

なんでここにいるんだろう
なんで葉っぱをそがれた冬の木になって
泣いているんだろう


 この部分の「なんで」「……だろう」との、ことばの距離が違う感じになるのだろう。「詩」にせずに、というと変だけれど、ふつうの詩のように比喩にしてしまわず、見つめたいことがあるのだ。「なんで……なんだろう」は比喩にはできないもっと直接的な思いなのだ。比喩にしたくないのだ。比喩にせずに、確固とした「答え」がほしいのだろう。
 その気持ちが、「いみじくもわたくしは木になぞらえて」という非常に散文的な一行を生み出しているのだと思う。
 二連目。

一羽の傷ついた鳥に出会った
わたしくのみすぼらしい枯枝に止まって
さえずるのだ
おいでおいで
一緒に飛ぼう


 これは、非常に詩的。泣いている「わたくし」を誘っている。ここにも「なんで」が隠れているかもしれない。「なんで」「わたしくしの枯枝」に止まったのだろう。ほかにも木はあるはずなのに。そういう疑問が隠れていると思う。「なんで」ということばを書かないことで、この連は鮮やかな詩になっている。美しく響いてくる。
 中村は、この誘いにどう答えるんだろう。

わたくしという木が
飛んだらどうなるのだ
根っこからもぎ取って
飛んでしまったらどうなるのだ
それでもおいでおいでというのだ


 私は、ちょっとうなった。何か、現実に足を踏ん張って生きている感じ、詩なのに、詩にはならないぞと言い張ることで詩になるという感じがするのだ。
 飛んで行きたいではない。「傷ついた鳥」と一緒に飛んでも遠くまではいけないだろうという思いがあるかもしれない。
 「木」が「わたくし」なら、「傷ついた鳥」もきっと「わたくし」なのだ。
 「飛んでしまったらどうなるのだ」という一行は「いみじくもわたくしは木になぞらえて」と同じように、不思議な粘着力がある。「詩」を拒絶した、現実的な粘着力がある。そして、この現実的な粘着力があるからこそ、

それでもおいでおいでというのだ


 が強烈な「詩」として響いてくる。二連目、よりいっそう美しくなる。
 そして、「それでも」というのは、これもまた非常に散文的なことばだが、散文的であるからこそ「おいでおいでというのだ」がさびしく響く。「泣いている」中村には、耐えがたい誘惑だろう。
 ああ、いいなあ。
 他人(中村)が苦悩しているのを見て、ああ、いいなあ、と感想を漏らすのも変な感じだが、あ、この苦悩を苦しんでみたいという気持ちになる。
 文学とは変なもので、現実としてはあってはいけいなことであっても、ことばのうえでそれを味わってみたい気持ちになってしまうのだ。
 中村は、このあと、さらに散文的な疑問を発している。

わたくしはもう木ではないのか


 これも強烈だ。
 「いみじくもわたくしは木になぞらえて」と書かなければならない理由が、ここではっきりする。「木ではない」という思いがあるから、わざわざ「木になぞらえて」と言わなければならないし、その「なぞらえて」に先立って「いみじくも」と言わなければならないのだ。
 安易に詩にならない、詩を拒絶することで、逆に詩の足元を深く掘り下げる作品といえばいいのだろうか。

 

 

 

 

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長谷川信子「親」

2021-05-09 10:20:56 | 詩(雑誌・同人誌)

長谷川信子「親」(「詩的現代」36、2021年05月発行)

 長谷川信子「親」の全行。

木という字はさびしい
枝が未熟でさびしい
ひとり 木陰で遊ぶ少年のようだ

  樹と言う字はきききりんが
  イメージを奪ったけれど

  むかし 家の横に椎の樹があった
  その洞に手紙を書いて入れておく
  十二歳の私の手紙を読んだ椎の樹が
  枝を揺すって
  一晩中 ひゅう ひゅう泣いていた

  木に手紙を書いたことはない
  だって木には洞がない
  私の気持ちを投げ込む箇所がない
  抱きしめて耳を押しあてて
  言葉を聞き出すのが
  私には もう無理だ

  --横にたって見ている

 いいなあ、と思う。思うが、この「いいなあ」を説明するのはむずかしいなあ。
 私は四連目が好きなのだ。それまでに書いてきたことが「嘘」だったと告白する。そして木と対話することができなくなった、と言う。
 「もう無理だ」には、かつては、そういうことができたという意味がある。「もう」無理だけれど、昔はできた。
 一連目の三行は、これはこれで「対話」なのだ。単なる「感想」ではなく、木と向き合うことで出てきたことばであり、そのとき長谷川は木の声を聞いていたのである。それは「聞く」というよりも、「聞こえてくる」。
 三連目は、そうしたことを語っている。聞くのではなく、聞こえてくる。それは木からの声であると同時に、長谷川の声でもある。長谷川が椎の樹になって、長谷川にだけ聞こえる声を発している。
 一連目の「枝」が、ここでも出てくる。「木」は枝が未熟でさびしいが、椎の樹は枝がゆすれる。枝がたくさんある。しかし、やっぱりさびしい。「ひゅう ひゅう泣いていた」。一連目の「さびしい」が「泣く」という動詞で言い直されている。
 ここで終われば感傷的な「抒情詩」として完結するのだろうが、長谷川は、そこからもう一歩進んで行く。踏み出していく。「抒情詩」から脱けだす。
 「抒情詩」なんて、嘘。
 少女期(思春期)は、嘘をつく。嘘のなかで生きることができる。それは夢を生きることができるということかもしれないが。ことばで、何かが可能なのだ。ことばが「現実」なのである。
 そんなことを思い出しながら、長谷川は「過去」ではなく「いま」を書いている。「いま」のなかで、ことばを動かしている。この「過去」から「いま」への転換と、「いま」を正直に生きる決意(というとおおげさだが)に、私はひかれるのである。
 前半部分には、長谷川の「精神/夢/こころ」が書かれているとすれば、ここには「肉体」が書かれている。「抱きしめて耳を押しあてて」という具体的な「肉体」が書かれている。そして、「肉体」もまた「さびしい」ものなのだ、と感じている。「言葉を聞きだす」ことができない。「言葉を聞く」というのは「精神/こころ」の仕事ではなく、「肉体(耳)」の仕事なのである。この「肉体」の肯定感が、いいなあ、と感じる理由かもしれない。
 最終連。

--横にたって見ている


 何を見ているのだろう。木を見ているのか、木と対話できた十二歳の少女を見ているのか。あるいは「いまの長谷川」を見ているか。どれを「答え」にしてもいいが、私は「いまの長谷川」を見ていると読みたい気持ちなのである。「いまの長谷川の」横にたって「いまの長谷川」を見るということは、現実には不可能である。十二歳の少女を見るというのも現実には不可能だけれど、過去を思い出して、その過去が目の前にあるように感じるということは現実として矛盾しない。「親」というタイトルからすれば、「親」になった長谷川が、十二歳の自分を「親」として見ているということになるかもしれない。しかし、私は、そういう見方を、したくない、のである。それでは「抒情詩」になってしまうと思うからである。ここには「抒情詩」を超える何かがある。「嘘」を超える「現実」がある。
 過去を思い出す(少女時代を思い出す)、その幻を見るというのは、ある意味で現実的である。それに対して「いまの長谷川」を見るというのでは「長谷川」が分裂してしまう。非現実である。人間は同時に「ふたつ」の場所には存在できない。でも、その非現実を、いま、ここに出現させるという動きが、なまなましく感じられるのである。過去を思い出すよりも、もっと未分化の矛盾があり、その矛盾に詩を感じるのである。「肉体」そのもの存在を感じるのである。
 こういうことができてしまうことのさびしさ(不思議さ)は、ことばを生きる人間の特権だろう。人間のさびしさであろう。西脇の「さびしさ/さみしさ」に通じるものを、私は感じる。それは「親」であることを超越した、人間存在そのもののさびしさ」でもある。「親」は方便だ。少女期に触れた部分で、少女にとってはことばは「現実」なのであると書いたが、おとなにとってもことばは「現実」である。ことばにできることは、「現実」である。ただし、使い方が違う。長谷川は、少女時代にはことばにできない「現実」をおとなになって「現実」にしている。ここに、さびしさがある。もっと違うことばのの動かし方もあるはずなのに、それを選ばず「木に手紙を書いたことはない」「--横にたって見ている」と書く。そのさびしさが、私の胸に響く。

 

 

 


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情報の読み方

2021-05-08 18:19:48 | 自民党憲法改正草案を読む

 読売新聞夕刊(2021年5月8日)に、非常におもしろい記事が載っている。
 見出しと記事。

 五輪へ WHO「日本信頼」/幹部「あらゆる決断委ねる」
 【ジュネーブ=杉野謙太郎】世界保健機関(WHO)で緊急事態対応を統括するマイク・ライアン氏は7日、東京五輪・パラリンピックについて、日本政府などを「非常に有能だ」と強調した上で、「競技会場の観客数やその他のあらゆる決断について、日本側に委ねたい。公衆の保健を守るため、非常に組織的なリスク管理の手法をとっているとみている」と述べ、信頼する姿勢を見せた。
 オンラインでの記者会見で語った。約2か月後の大会を安全に開く方法はあるかを問われ、ライアン氏は「大会を開催できるかどうかではなく、(選手の安全や観客の有無など)個別のリスクにどう対応していくかだ」と指摘した。
 現時点で観客数が未定となっていることについては、「主催者の落ち度ではまったくない。その時の感染状況によってしか判断できないからだ」と擁護した上で、「国際オリンピック委員会と東京都全体、そして日本政府が、リスクの最善の管理をするために正しい判断をすると信頼している」と述べた。

 さて、これをどう読むか。読売新聞は、マイク・ライアンの言ったことをそのまま「正しい」ものと判断している。
 「オンラインでの記者会見」に参加したのは何人なのかわからないし、どの国の記者が参加したのかもわからないが、記事がオリンピックと日本の感染対策に限定されているところを見ると、日本のジャーナリストだけが参加しているのかもしれない。いま、いちばんの問題はインドの感染爆発なのに、それについては一言も触れていないので、私は、そう想像するのである。
 さらに、マイク・ライアンがどのような政策を具体的に評価しているのかわからない。日本の感染者は、たしかに他国に比べると少ないから「日本政府は無能だ」とは言えない。言うなら「有能だ」としか評価のしようがないだろう。
 問題は最後の段落。
 「国際オリンピック委員会と東京都全体、そして日本政府が、リスクの最善の管理をするために正しい判断をすると信頼している」
 「正しいと判断している」とは言っていない。「正しい判断をすると信頼している」。これはリップサービス。そして、問題の「丸投げ」。
 オリンピックで何が起きようが、それはWHOのかかわる問題ではない。国際オリンピック委員会(バッハ)、東京都(小池)、日本政府(菅)が責任をとればいい。WHOにはオリンピック開催に関する権限はないから、知らん顔。「不安を抱いている」とも「安全を保障する」とも言わない。「不安を抱いている」といえば、日本がWHOに金を出さないと言いかねない。「安全を保障する」と言えば、感染が拡大したときWHOとマイク・ライアンの責任が問われる。
 つまり、「不安である」「信用できない」とは、絶対に言うはずがないのである。
 これは、菅がアメリカまで行ってバイデンと会見したときのバイデンのセリフそっくりである。「日本の姿勢、開催へ向けた努力を支持する」と言っただけで、アメリカが何らかの協力をする、大選手団を送りこみ大会を盛り上げると言ったわけではない。政治家だから、自分の責任が追及されるようなことは言わないのだ。そうした強い意識があるからこそ、相手に責任を押しつけた形でのリップサービスはするのである。
 だいたい、どんなときでも「決断を委ねる」というのは、「あんたが自分の責任でしなさい、私は知りません」という意味でしかない。何も外交にかぎらず、ふつうの日常生活の会話でも同じ。「好きにしたら」というのは、自己責任でやりなさい、ということである。こういうのは「擁護」でも「信頼」でもない。「放置」である。
 他紙がどう書いているか知らないが、リップサービスをそのまま信じて読者に伝えるなんて、記者のすることではないだろう。

 

 

 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞

 

*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
<a href="https://note.com/yachi_shuso1953">https://note.com/yachi_shuso1953</a>
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞

 

*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
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田窪与思子『サーカス』

2021-05-08 10:41:11 | 詩集

田窪与思子『サーカス』(思潮社、2021年04月19日発行)

 田窪与思子『サーカス』は巻頭の「サーカス」を読み始めてすぐ、ことばの固さが気になる。堅牢と言い換えてもいいのだけれど(この、日常的にはあまりつかわないことばの方が、たぶんぴったりなのだけれど)、なぜなんだろうなあ。

無機質なマンションが建ち並ぶ郊外の町。
赤いテントの周りはぬかるみで、
ムシロの上をそろりそろり歩く。
テントの傍にはコンテナハウスが並び、
異国の団員たちがスタンバイ。


 きっとことばの呼応が「定型」だからだろう。マンションは「無機質」でなくてはならず、そしてマンションが「無機質」なのは郊外だからだろう。新宿の酒場の多い町では、マンションはきっと「無機質」ではなく、もし「無機質」であるとしてもそれは郊外のマンションの「無機質」をつきぬけたものだろう。
 これは「ムシロ」といういまは見かけないものでも同じ。「ムシロ」はぬかるみを呼び、そこではひとは「そろりそろり」と歩く。こんなことを知っている人は、いまは少ないだろう。若者には、これが「定型の呼応」とは感じられないかもしれない。つまり、田窪は、かなり年配のひとである、ということがわかる「呼応の定型」が、ここにある。
 「異国の団員たち」にも「呼応の定型」がある。いまの時代「異国」ということばにどれだけ意味があるかわからないが、その意味のないものに意味を与えてしまう「定型の呼応」。
 「呼応」とは、しかし、あいまいなものだね。それは、ことばとことばの「距離の取り方」と言い換えることができるが、「無機質なマンション」「ぬかるみ/ムシロ/そろりそろり歩く」「異国の(サーカス)団員」というのは、いま発見されたものではなく、すでに過去に語られたものである。だからこそ「定型」(確立されたもの)と私は呼ぶのだが、この「定型」が、いま「ことばとことばの距離」としてなまなましく成立するかというと、かなり疑問だ。疑問だけれど、ここに確固とした「安定」があることがわかる。
 でも、田窪を、かなり年配の詩人と仮定しても、この「呼応の定型」だけが「堅牢さ」を生み出していると断定するのはむずかしいなあ。いちばん目につくのは「呼応の定型」だけれど、他に何かが影響している、と感じる。堅牢さの背後にもっと何かがある、という予感がする。
 何だろう。
 意外と早く、その「キーワード」が見つかる。「美容院」。

美容院に行くと、
産休明けのタキグチさんが迎えてくれた。
お久しぶり、と話が弾み、
鏡の中の彼女とあたしを眺める、「あたし」。


 ありふれた光景に見えるが、行末の「あたし」にはカギ括弧がついている。これは、何を意味してるだろう。「鏡の中のあたし(鏡像)」と区別しているのだが、カギ括弧がなくても最初のあたしは鏡像とわかり、あとの「あたし」は鏡像ではない(本物の)あたしであることがわかる。しかも、カギ括弧どころか、「あたし」ということばそのものがなくとも意味が成立する。だれが読んでも、誤解のしようがない。しかし、そのだれが読んでも「誤解」の生まれるはずがないことばに、わざわざ不要なカギ括弧をつけて目立たせている。そのくせ、「あたし」が出てくるのは、この詩では一回限りなのだ。

赤ん坊が泣き続けた時は深呼吸をして心をムにしたわ。
えっ、ム? 退院した犬が吠えつづけた時は動揺した。
えっ、ビョウキ? サンポは?


 というようなやりとりや、過去の(タイの)美容院の思い出などか書かれたあと、

繰り返し甦る舞台装置のような美容院。


 という一行がある。そこに「舞台装置」という比喩。対象として見ている。その舞台に田窪はいるはずなのに、そこにいるのは「生身」ではなく演じられた田窪なのだ。
 「鏡の中のあたし」も「鏡像」ではなく演じられたあたしであり、生身のあたしは「あたし」なのだ。
 そして、この生身のあたしを隠して、舞台で演じられるあたしを、客観的に描き続けるのが田窪なのだ。舞台で演じていても、そこに生身があるはずなのに、生身を出さない。おもしろい役者は、役を演じながらも役者自身の生身を「存在感=過去」として舞台に噴出させるものだが、田窪はそういうことをしない。「演技」を「演技」という「枠(定型)」のなかで完成させる。この「定型」が、ことばの運動となってあらわれてくるのだ。
 「定型」だから、どこも間違ってはいない。でも、それは「間違っていない」という理由で、ことばの魅力を半減させる。完成しているけれど、おもしろくない。ことばの魅力というのは、いったいどこへ動いていくのかわからない、わからないけれどひっぱられてしまう、騙されるかもしれない、でも騙されてもいい、どうなってもいいと思ってついていくとき、ことばが「わくわく」「どきどき」するものとなって迫ってくる。それが、田窪の詩には欠けていると思う。(これを逆から言うと、最初に書いた「堅牢」という評価になるのだけれど。)
 詩集の後半の「帰還」という作品は「小説」風なのだけれど、ストーリーの展開に「わくわく」どくどき」がないのは、そこでは「あたし」が隠れたままで、「舞台」のように第三者がことばのなかを動いているだけだからである。
 「坂道」という作品には「あたし」が四回出てくる。私の「キーワード」の定義では、四回もたてつづけに出てくるのはキーワードではないのだが(キーワードとは、必然に迫られて必然的に出てくるもの、というのが私の定義である。「美容院」は、その例になる。)、ここでは田窪は、あえて「あたし」を種明かししているのだ。
 だから、

脚本を書いたのは
「あたし」?                 (注・詩の形を反映していません)

      
 ということばも出てくる。「脚本」は「舞台」に通じる。田窪にとっては「舞台」(芝居)とは、「あたし」を隠し、「別人」として生きること、架空(虚構)を生きることなのだ。もちろんその「虚構」は現実を明確にするための「装置」であるが、それはあくまでも「装置」である。
 「装置」というのは、たとえば「書き割り」を例にとるといちばんわかりやすいが「定型」である。「定型」であることで「装置」になる。
 詩は、その「装置」を破って動いていかないと、いのちにならない。ことばが輝かない、と思う。
 どこにも「間違い」のないことばを読んだ。けれど、それがおもしろいかと言われると、返答に困る。「間違い」がないから、それでいい、とは感じられない。私は「間違い」を楽しんでみたい。現実で間違いを生き抜くことはむずかしいが、せめてことばのなかでくらい、思い切った「間違い」についていってみたいと思う。どうなるかわからないということほど「どきどき、わくわく」する体験はないからね。
 でも、こんな不満をついつい書いてしまうのは、この詩集が「堅牢=堅実」であるからでもあるんだけれどね。

 

 

 


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山本幸子「琵琶湖」

2021-05-07 10:01:37 | 詩(雑誌・同人誌)

山本幸子「琵琶湖」(「アリゼ」202、2021年04月30日発行)

 山本幸子「琵琶湖」。

琵琶湖疏水のダムで 時計回りに円を描いて泳ぐ
前を泳ぐ人の後頭部を見ながら ただ泳ぐ
静止していた水面が 時計回りに回りだす
底の泥が浮き上がって 泥の匂い


 小学生が中学生のときの、遠泳の記憶だろう。描写がしっかりしていて、いっしょに泳いでいる気持ちになる。
 「静止していた水面が 時計回りに回りだす」ので、その動きに乗って泳ぐ。後ろの人は泳ぐのが楽だ。「底の泥が浮き上がって 泥の匂い」は泳いだひとでないとわからない匂いだ。先頭ではなく、なかほど、あるいは後ろを泳いでいるので、泳ぐことに対する集中力に少し余裕がある。だから水の匂いの変化にも気がつく。ここには山本の「肉体」がそのまま動いている。琵琶湖と山本が「泳ぐ」という動詞を通して、ひとつに合体している。
 後半、書き出しの「静止していた水面」が別の動きを見せる。その前後の描写もとても美しい。

琵琶湖の中ほどで 水は冷え冷えした群青色だ
方向を右に転じて 瀬田川を目指す
静止していた水が 流れ始める
泳ぎ疲れた体を仰向けて 水に委ねる
橋の下を過ぎ 瀬田の唐橋の下を過ぎると
石山が近い


 「水に委ねる」がいいなあ。それまでは、琵琶湖と一体といいながらも、どこか水に負けまいとして泳いでいる。戦っている。でも、いまは「委ねている」。もう戦わなくてもいい、自分の力を出さなくてもいい。集中しなくてもいい。それが「瀬田の唐橋」「石山」という新しい固有名詞を引き寄せる。余裕が出てきた。意識が周囲に解放されている。ゴールが近いのだ。

浅瀬では全身を一文字に伸ばしたまま
手のひらで水を撫で 足先で水を打つ
足撃


 「足撃」には「そくげき」とルビがふってある。このことばを、私は、知らない。初めて出会った。ばた足のようなものだろうか。たぶん山本の学校では、そう言っていたのだろう。
 ここには山本の肉体だけではなく、山本と肉体を共有している「学校」の肉体のようなものが見える。
 これも、非常におもしろい。
 「個人の肉体」が「共同体の肉体」として動く。
 学校の「遠泳」だから最初から「共同体の肉体」が動いているのだが、「共同体の肉体」とはいっても、ひとりひとりが真剣に泳いでいる。途中までは「自分の肉体」を守るために、それぞれが真剣だから、「共同体の肉体」よりも「水の肉体」が気になる。「時計回りに回りだす」「泥の匂い」、さらには「冷え冷えした群青色」。それが、いまは「足撃」ということばをとおして、「水の肉体」から「共同体の肉体」へと意識が変わっている。
 この変化のなかに「遠泳」の「時間」が「肉体」として動いている。
 で、このあと、もう一度「肉体」は生まれ変わる。

岸に上がると 浮力の支えを失って 体がよろめく
しじみの味噌汁が待っている


 この「体」は個人のものだが、きっと遠泳に参加しているみんなの「肉体」も同じようによろめいている。そして、それは「しじみの味噌汁」に向かって動き始めている。「泳いだ」時間を棄てて、「しじみの味噌汁」に向かっている。この「切り換え」の早さが、なんとも楽しい。
 いかにも小学生、中学生という感じ。「回復力」が違う。
 こういうところも、いいなあ、と思う。

 とくに新しいことばの冒険があるわけではない。でも、「肉体」のなかに生きつづけてきたことばを確実に引き出し、定着させている。そこに不思議な美しさがある。鴎外を例に引き出すとおおげさかもしれないが、ちょっと鴎外を思い出させる正直さと速度がある。「足撃」という不透明なことばがなかったら、詩は、もっと違ってきたと思う。「足撃」と「しじみの味噌汁」で、この詩のことばは「事実」のことばとして新しく生まれてきていると思った。

 

 


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