詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

呼ばれて

2014-12-10 01:25:35 | 
呼ばれて

呼ばれて振り返ったが誰もいなかった。しかし、その声のなかに最初に会ったときの窓があった。窓の外には夜があった。木が部屋のなかをのぞいていた。

そんなことがありうるのか。ありえないけれど、それはあったのだ。あったことは、なくなることはない。だからいまも呼ばれて振り返ってしまう。

何を言っていいのかわからなかった。そのひとも何を言っていいかわからず、ことばを探しているのがわかった。

夜の窓が鏡になってしまって、その部屋にあって、私は半透明の鏡を見ているのか。私は夜の茂った一本の木になって、記憶をのぞいているだけなのか。
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藤田晴央「深夜」、渡辺みえこ「森の吊り橋」、石田瑞穂「レニングラードのストレンジオグラフィ」

2014-12-09 10:55:53 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
藤田晴央「深夜」、渡辺みえこ「森の吊り橋」、石田瑞穂「レニングラードのストレンジオグラフィ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 藤田晴央「深夜」(初出『夕顔』13年11月)。『夕顔』についての感想は書いたが、「深夜」について書いたかどうか覚えていない。闘病の妻を深夜トイレまでつれていく。そしてベッドにもどる。

終ったわよ
かぼそい声
しゃがんで
妻を抱えあげる
妻の重みを受け止めながら
横歩き
まだだよ
ベッドはまだだよ

白鳥は
去年おとずれた川に
その水のしとねに
着水した
家族とともに

 妻の介護と、白鳥の渡りが重なる。白鳥もまた「まだだよ/べっどはまだだよ」と励ましながら旅してきたのだろうか。長い旅を支えあい、「家族とともに」いつもの川にたどりついたときの喜び。同じように、藤田は妻を支えてベッドまでいっしょにたどりついたときの喜び、きょうもいっしょに生きているという喜びを静かに語っている。



 渡辺みえこ「森の吊り橋」(初出『空の水没』13年11月)は「あの吊り橋を渡ると死ぬ/と言われている」橋を書いている。

母が死に 父が死に 最後の肉親の弟も死んだ
私はその明け方
自分の体がとても軽くなったのを感じて
橋を渡ろう と決めた
細い吊り橋を渡っている間
今まで感じたことのない温かく優しいものに包まれ
涙が溢れ続けた

 「自分の体がとても軽くなった」ということばに、とてもひかれた。死ぬとは体が軽くなることなのか。重力から自由になることなのか。それで危ない吊り橋も渡ることができる。
 そのことに私は納得してしまったが、それはもしかすると「母が死に 父が死に 最後の肉親の弟も死んだ」という表現のなかにある「親密感」に納得したからかもしれない。最近、こういう書き方をする人は少ない。多くの人は「母が亡くなり 父が亡くなり 最後の肉親の弟も亡くなった」という具合に「死ぬ」のかわりに「亡くなる」をつかうことが多い。私は、どうも、そのことばになじめない。肉親や親しいひと(実際に交流がなくても親密に感じているひと)に対して「亡くなる」ということばをつかうと、なんだかよそよそしくて、実感がわかない。自分の「肉体」に衝撃がかえってこない。
 肉親(親しいひと)が死ぬというのは、自分の何か(自分とつながっている何か)が死ぬということ。自分が死ぬということ。--それは、「論理」にしてしまうと奇妙な感じになってしまうが、自分の肉体から自分の肉体の一部がなくなってしまい、そのぶんだけ肉体が「軽くなる」という感じ、ふわふわして落ち着かない感じともつながる。
 「自分の体がとても軽くなった」は、父、母、弟の死を「肉体」で体験した、実感したということなのだと思った。うまくいえないが、その「実感」に誘い込まれ、共感した。渡辺が「自分の体がとても軽くなった」と感じただけなのに、それが私の「感じ」のように思えた。父や母が死んだあとの、私の「肉体」の感覚を思い出したのである。

黒い森が優しく私に近づいてきた
透き通った香りがひりひりとしみ込んできた
幾筋もの細い月光が刺さっていたのかもしれない
それはあの世界なら痛み と言ったのかもしれない
あるいは眠り と言ったのかもしれない
言葉が必要のない世界で
私は月の光のようなもの 木の香りのようなものになって
溶けていくのを感じていた

 「あの世界」は「死後の世界(彼岸)」ではなく、いわゆる「此岸」。橋を渡って渡辺は死んでいるので、「此岸」と「彼岸」が逆になる。
 そこで渡辺は、自分の「肉体」を超える。渡辺の「肉体」は、月の光、木の香りのようなものになって、すべてと「溶け」あう。当然、そのとき渡辺は死んだ父、母、弟とも「溶け」あって「一体」になっている。
 この「一体感」のためには、私はやはり「死ぬ」という「動詞」が必要なのだと思う。誰かが「死ぬ」のではなく、自分が「死ぬ」。「死ぬ」ことで自分ではないものになる。たとえば月の光、木の香り。そうやって世界と一体になる。
 そういう体験(肉体の記憶)がここに書かれている。



 石田瑞穂「レニングラードのストレンジオグラフィ」(初出「詩客」13年12月27日)は旅行記になるのだろうか。

私たちロシア系ユダヤ人は
伝統として物や樹や雲や 小石の物語を
聴くのです。ですからクラースナヤ
プローシシャチに行くと、
ついあの壁たちに どんな音を聴いた
ことがあるのか 尋ねてみたくなります。

 「物や樹や雲や 小石の物語を/聴く」とは、物や樹や雲や小石が聴いてきた「物語(音)」を聴く、「他者の声」を聞くということなのだろう。「壁」そのものの「音」は、壁が聴いてきた音、壁が聴いてきた「物語」と重なる。区別がなくなる。
 同じように、石田がロシア系ユダヤ人から「声(物語)」を聴くとき、そしてそれを反復し、「ことば(日本語)」にするとき、それは石田自身の「声(物語)」となる。石田はロシア系ユダヤ人になって「壁の音(声)」を聞こうと欲望している。
 こういう「一体感」が、私は好きだ。

 こういう「一体感」の動く場で、「音(声)」が引き金のように動いているのも私にはとても納得できる。聴覚(耳)がつくりだす一体感。
 これは石田の詩は「音(物語)」という表現があるのでわかりすいが、渡辺の詩、藤田の詩もまた「音」を聴いていると思う。
 渡辺は「ある吊り橋を渡ると死ぬ/と言われている」という表現のなかに「ことば(声)」がある。藤田は白鳥の姿を見ているのではなく、「音」からその姿を想像している。「終ったわよ/かぼそい声」が白鳥の羽ばたきの音のように、生きている証の音の聞こえる。

夕顔
藤田 晴央
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展望台で

2014-12-09 01:12:37 | 
展望台で

展望台でバスを待つあいだ、窓が見える。
目を閉じると、窓から見た展望台が見える。

あのときは銀杏の梢を気にしなかったが
展望台からだと、銀杏がなければと思ってしまう。

どの日々もわざと同じことを繰り返したように同じだった。
まるで一日くらいは正確に思い出せるようにと願っているように。

知っていたのだろうか、頭なかに描いた地図の道を通って、
その人のいる位置を避けてバスは走っていく。

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日和聡子「音のない声」、藤井章子「文月にはぜる」

2014-12-08 10:51:51 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
日和聡子「音のない声」、藤井章子「文月にはぜる」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 日和聡子「音のない声」(初出「山陰詩人」197 、13年11月)は、途中まで何が書いてあるのかわからなかった。いや、いまでもよくわからないのだが、私はかってに「妄想/誤読」をする。

夜更け
脱衣所の隅を 這うもの
動かなくなり
女が湯から上がるのを
待たずに消える

寝しずまった 廊下
いつかの 破れた蜘蛛の巣がぶら下がる
女は 髪の滴と汗を垂らしながら
しのび足で 奥の間へ渡る

 怨念(?)をもった女が、男の寝ている部屋へ歩いている。男と女は、そうやって生きるしかないような愛欲を生きている。それは、どうも一筋縄ではときほぐすことのできない関係のようでもある。
 しかし、なんだか、古くさいなあとも思う。愛欲に古いも新しいもないだろうけれど。何と言えばいいのか、ちょっと隠れたような感じが、昔の(?)愛欲小説のような感じを思わせる。意味ありげだ描写のリズムが、そう感じさせる。
 愛欲--と思ってしまうのは「湯上がりの女」「滴と汗」「奥の間」というようなことばからなのだけれど。そして「古くさい」と感じるのも、そういう「背景」のせいなのだけれど。

点滅しない 青いランプ
緑と 黄と 黒い葉の 繁る がじまる
怪物が その根元で 大きな口をあけている
片目をとじ もう一方を見ひらき 宙空を見つめて
空には 影か 月
どちらも出ていない

 「がじまる(ガジュマル?)」の木から、愛欲を連想したのか。愛欲を「がじまる」の木を象徴として形象化しているのか。「大きな口をあけている」「怪物」は愛欲のことだろう。それは、男の方か、女の方か、区別がない。「空には 影か 月/どちらも出ていない」が、虚無と向き合った愛欲を想像させて美しい。愛欲を生きるとき、二人のほかに何があるかというのは関係がない。「空には 影か 月/どちらも出ていない」は「出ていない」ということばにもかかわらず、「影」と「月」との両方が同じ強さで出ているように響いてくる。「影」は「光」でもある。その「矛盾」のようなものが、「影と月」を絶対的なものにしてしまう。出ていないくても、それを確かめようとしたとき、確かめようとした人間の「肉体」のなかに存在してしまう--そういう形の「出ている」がここにある。
 それが二本の木を一本にかえてしまう「がじゅまる」の「本質(欲望)」を象徴しているようにも感じられる。
 途中、省略して、最後の方、

裏庭へまわると 溜池
あたりに 葉を散り敷かせる 二本の木

ぬるい風と ひえた川面が 水上でまざりあい
庭にうずくまる 雨垂れと落葉を溜めた古甕の洞に
音のない声を 響かせる
その傍らに 一本の木が立ち
暗い洞をのぞき込んで ひらひら落とした

 「二本の木」「一本の木」。この違いは二本が一本になったのか、あるいは絡み合う二本の木を嫉妬でみつめるもう一本の木を書いているのか。どうとも読むことができるが、二本の木をみつめる一本の木だとしても、それはみつめることで「一本」になっている。(三本が一本になっている。)二本の木のなかで動いている愛欲を、一本の木もみている(愛欲を感じている)という関係にあると思う。すべてが「まざりあい」、そこから「音のない声(ことばにしなくても、肉体のなかでなりひびく音/声)」になっている。
 うーん、こんなふうに古典的(典型的? つまり真実か永遠のように?)絡まれると、少しこわいかもしれないなあ。
 でも、この詩に出てくる「肉体」のゆっくりした感じ、何かと「まざりあい」ながら動く肉体の感じはいいなあ。



 藤井章子「文月にはぜる(初出『文月にはぜる』13年11月)」の「肉体」もおもしろい。

文月にはぜる。夏草にひそむおうんおうんと
いう音がはぜ にいにいぜみの耳のなかが酢
漬けになるほどじいんじいんと鳴く声がはぜる。
はぜる二つの音は まだたっぷり含んだ水質
の青臭い空気の 人の皮膚のかたちをしてい
る層にいつのまにか かすめとられて。

 「にいにいぜみの耳のなかが酢漬けになるほど」にうっとりする。「にいにいぜみの耳のなかが」と書かれているのに、にいにいぜみを聞いている「私の耳のなかが」酢漬けになる感じ。「にいにいぜみの耳のなかが」酢漬けになったかどうかなんて、わからないからね。いや、自分の耳が酢漬けになるというのもわからないといえばわからないのだけれど、まだ自分の「肉体」であるだけに納得がゆく。他者の(蝉の)耳が酢漬けなったとき、どんなふうに音が聞こえるのかなんて、想像できないからね。いや、自分の耳が酢漬けになったらどんなふうに音が聞こえるかも、わからないといえばわからないのだけれど、自分のことだからまだ責任がもてる。変な言い方だが。
 うまく言えないが、ここには藤井が「藤井の肉体」で引き受けていることが、ふつうの文法(学校文法)を破って滲み出してきている。青臭い(嗅覚)、人の膚(触覚)と感覚が次第にひろがっていくのもいい。
 「にいにいぜみのじいんじいんと鳴く声が(私の)耳のなかが酢漬けになるほどはぜる。」という文章に直してしまうと、「意味」は「論理的」になるが、詩はそういう「論理」をねじまげて動く、論理を突き破って動くものだから、私は、藤井のことばが動いた通りに「肉体」を動かしてみて、「にいにいぜみの耳のなかが酢漬けになる」を楽しむのである。「誤読/妄想」を楽しむのである。

日和聡子詩集 (現代詩文庫)
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ナボコフが

2014-12-08 00:57:04 | 
ナボコフが

ナボコフが、小説のなかの男の耳に秘密をささやいている
その目が珍しい色の蝶の形になっている。

木の葉の裏側では隠れている翅が夢のようにひろがる
主人公は、そっと指をのばす。
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神山睦美への疑問(アドルノの文脈)

2014-12-07 10:51:22 | 詩(雑誌・同人誌)
 神山睦美がフェイスブック(https://www.facebook.com/mutumi.kamiyama)で、2014年12月06日(あるいは10月07日か)に、次の文章を書いている。私は目が悪くてインターネットの文章を読まないので(パソコンで書くのも一回40分と時間を限定している)、神山の書いていることの全体をつかみ損ねているかもしれないが、とても気になる表現があったので書いておく。

「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉があるが、これを「フクシマ以後、詩を書くことは野蛮である」と言い換えてみるならば、3・11以後いち早くツイッターで詩を発信し続けた和合亮一などは、まさに野蛮そのものであるということができる。しかし、和合亮一を批判する人たちは、そのようなアドルノの文脈を根拠にするということはなかった。要するに、3・11をきっかけに、量産された和合の作品は、詩として決してすぐれたものということが出来ず、作者をして詩の世界よりもマスメディアへの露出をうながしていくことになったといったものだった。

 和合亮一を批判するとき、なぜアドルノの文脈が必要なのか。私はアドルノを一行も読んだことがない。神山がよく取り上げるほかの西洋の哲学者もほとんど読んだことがない。無知を自覚しながら書くのだが、疑問は、なぜ

「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉があるが、これを「フクシマ以後、詩を書くことは野蛮である」と言い換えてみるならば

 なのだろう。「アウシュビッツ」と「フクシマ」とどういう関係があるのだろう。「フクシマ」と神山が書いているのは東京電力福島原子力発電所の惨事を指していると思うのだが……。
 そのあとの文章で神山は「3 ・11」とも書いている。東日本大震災の発生した日。東京電力福島原子力発電所の惨事は、大震災と津波が引き金である。自然現象が引き金である。それと「アウシュビッツ」という人間が引き起こした惨劇を結びつける理由がわからない。もし、「原子力発電所(原子力発電)」というものが人間がつくったもの、そこには人為があるというのなら、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」ではなく、

広島、長崎への原子力爆弾投下以後、詩を書くことは野蛮である

 と一度書き換えてから(言いなおしてから)でないと、飛躍が大きすぎる。東京電力福島原子力発電所の惨事よりも、広島、長崎への原爆投下の方が世界の歴史においてもつながりが強い。第二次大戦という時間な関係が強い。

 神山がアドルノに心酔していることは、神山の文章を読むと感じられるが、神山は、アドルノの文章を「広島、長崎への原子力爆弾投下以後、詩を書くことは野蛮である」と書き換えて(読み直して)、日本の詩、あるいは世界の詩、日本の文学、世界の文学を読み直したことがあるのだろうかと疑問に思う。読み直した上で、なおかつアドルノを根拠に神山は神山のことばを動かしているのだろうか。
 アドルノが「詩」と呼んでいるものが、どういう詩なのか、神山の書いている今回の文章からだけでは把握できない。アドルノはどういう詩を書くこと「野蛮」と読んだのだろうか。その「具体例」を神山自身のことばで書いてもらいたい。
 広島、長崎の原爆投下後、日本では何篇もの詩や小説、そのほかいろいろいな文章が書かれている。そういう詩を書くこと、小説を書くこと、文章を書くことは、「野蛮」なのか。「黒い雨」は「野蛮」なのか。原民雄の詩は「野蛮」なのか。
 あるいは小説を書くことは「野蛮」ではないが、詩を書くことだけが「野蛮」なのか。そうであるなら、なぜ詩だけが「野蛮」と呼ばれなければならないのか。
 アドルノのことは知らないが、アドルノは神山の書いている文脈から推定すると、第二次大戦のときヨーロッパにいたのだろう。そこでさまざまなことを体験し、そのひとつが「アウシュビッツ」だったと思う。アドルノは「体験」を踏まえて、自分のことばを紡ぎ出している。
 そのアドルノから影響を受けたあと、神山は、自分の「体験」とことばを、どう紡ぎあわせたのだろう。アウシュビッツではなく、広島や長崎へ行ったみたか。日本で起きたことを、自分の「肉体」をくぐらせて想像し、そのうえで広島、長崎への原爆投下よりもアウシュビッツの惨劇こそが問題であると判断し、アウシュビッツから考えるということにしたのか。
 そのとき、先に私が書いた日本の広島、長崎への原爆投下後に書かれた「日本語の文学」を、どう定義したのか。「文学」にかぎらず、「哲学」あるいは「思想」をどう判断したのか、私は、そのことを知りたい。

 また「3・11」以後を問題にするなら、「1・17」以後はどうなのだろう。
 関西大震災は津波と原発事故(惨事)はなかったが、やはり多くの犠牲者が生まれた。「1・17」以後、詩を書くことは「野蛮」なのだろうか。
 季村敏夫の『日々の、すみか』は「野蛮」だったのか。季村は『日々の、すみか』で「出来事はおくれてあらわれる」と「事件」と「ことば(認識)」の問題を鋭く浮かび上がらせていた。それでも『日々の、すみか』は「野蛮」か。
 あるいは、高橋順子の『海へ』の後半の詩篇は「3・11」以後の作品だが、やはり「野蛮」なのか。
 和合亮一の書いた詩が「野蛮」であるとするなら、季村敏夫、高橋順子の詩と、どこが違うのか。どういう「詩」が、どういう「ことば」が「野蛮」であるのか。そのことを具体的に指摘しないで、アドルノの文脈を持ち出してきても、「批判」にはならないだろう。あるいは、季村や高橋の詩はアドルノの文脈とどうつながっているのかを明示しないことには、アドルノの文脈が和合の詩を批判するときに有効であるかどうかはわからない。神山にはわかっていることかもしれないけれど、私には神山がわかっていることがぜんぜん伝わってこない。神山はアドルノを信奉しているということ以外は。
 アドルノは詩の何を批判したのか。自己の何を批判するために「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」ということばを必要としたのか。ことばはまず自分とむきあうためにある。そこにはアドルノ自身の「野蛮」批判がある。自分のなかにある「野蛮」を自覚し、そこから「野蛮」ということばをつかっているはずである。
 アドルノが自己と向き合って発したことばと向き合うために、私たちは何に向き合わなければならないのか。「アウシュビッツ」はもちろん、その最初に向き合わなければならないものかもしれないが、アウシュビッツよりも、日本人には向き合わなければならない日本の現実がありはしないか。日本が(日本人が)体験したことを脇においておいて、アウシュビッツ、アドルノを考えても、それはアドルノとの「連帯(連携)」にはならないのではないか。アドルノの思想を引き継ぎ、現実に展開したことにならないのではないか。

 さらに広島、長崎への原爆投下以後という問題のほかに、日本には「戦争責任」の問題がある。誰に責任があったのか。ドイツでは(ヨーロッパでは)、ヒトラーに責任があったということが明確になっている。
 日本ではうやむやになっていないか。それは「野蛮」なことではないのか。

 こういう問題を神山が神山自身のなかで解決済みなら、そこから和合亮一批判をした文章を、ぜひ、読んでみたい。和合の詩を評価したひとへの批判を、ぜひ、読んでみたい。
 そういう問題を解決せずに、アドルノに頼っているのだとしたら、そのことばの射程はあまりにも狭すぎると思う。「西洋(現代)思想」の「文脈」のなかでだけで動いていることばで、日本の現実から離れすぎている。


小林秀雄の昭和
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風の音を

2014-12-07 00:50:31 | 
風の音を

風の音を聞く夜、
風の音の奥からこだまとなって響いてくる川の音がある
キヨシの家の裏を流れる川はS字形に二度ゆっくりうねる
丸くふくらんだ深みに沈みつづける音が
あるとき容量を越えてあふれる
繰り返し繰り返し、
その沈黙が壊れるような音がこだまとなって響いてくる
風が雪になる前は
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クリストファー・ノーラン監督「インターステラー」(★)

2014-12-06 22:36:41 | 映画
監督 クリストファー・ノーラン 出演 マシュー・マコノヒー、アン・ハサウェイ


 情報量が多い、というよりも、情報が整理されていないので、そのうるささに、うんざりしてしまう。特に単純なものと複雑なものの関係が、まったく整理されていない。
 モールス信号が出てきた段階で、この、もうつかわれなくなった信号が最後に通信手段として活躍することがわかる。いいかえると単純なものが最後に複雑なものを切り開いていくことが予想されるのだが、その単純さと、親がこどもにだけは生き延びてもらいたいと思う「単純な愛」が重ね合わされるとき、話がうるさいなあ、と感じてしまう。
 さらにマット・デイモンの科学者(宇宙飛行士)が登場してきて、「人間の孤独」を絡ませると、これはもう、支離滅裂。アン・ハサウェイの恋人の科学者(宇宙飛行士)も、ことばの上で出てきて、科学と愛をごちゃまぜにしている。これらは、ただストーリーを複雑にして、観客の意識をはぐらかすだけ。
 ストーリーのためのストーリー。スペクタクルを見せるための道具(情報)であって、上映時間を長くするだけだ。観客をばかにしている。
 だいたい、モールス信号を出した段階で、観客は相対性理論も、重力もわかりはしない、と監督(および製作者)が観客を見くびっている。科学的な理論(複雑な数学)でストーリーを解決しようとしても、そんなものに観客がついていける(ついてこれる)はずがない。わかりやすいモールス信号(電子データではなく紙の本のある古い部屋)なら理解できるから、その「単純さ」を映画のキーにしようと思っているところが、なんとも「手抜き」である。監督が相対性理論や重力のことをわかっていないから、そういうことを思いつくのである。
 真摯さがない。
 唯一美しいと思ったのは、ロケットが打ち上げられた直後。宇宙に飛び出したあと、宇宙船内からカメラが宇宙空間に切り替わる。その瞬間、音が消える。あ、いいなあ、と思わず声が出る。傑作になるかも、と思わせる。無のなかに、人間のつくった宇宙船がある。無の絶対さと人間の非力さが、無音のなかで「音楽」を奏でる。
 ところが。
 この無音の美しさは、あと何回か瞬間的に出てくるだけで、それ以外はしつこいばかりの偽物の音楽(バックグラウンドミュージック)が邪魔する。こんな音楽が宇宙で鳴り響いているわけがない。こんな音で観客の感情をあおって、ごまかすな。映像だけで緊迫感を伝えろ!
 あれも、これも、うるさい。深化したコンピューターのユーモアもうるさいし、マシュー・マコノヒーの息子と娘の違いもうるさい。
 「2001年宇宙の旅」が傑作だったことがよくわかる映画であるとも言える。シンプルだから、そこに謎がある。謎があるから、何度でも見たくなる。
                     (2014年12月06日、ソラリアシネマ9)

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木戸多美子「ケンミンノウタ」、ぱくきょんみ「ふり返ると」

2014-12-06 11:25:04 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
木戸多美子「ケンミンノウタ」、ぱくきょんみ「ふり返ると」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 木戸多美子「ケンミンノウタ」(初出『メイリオ』13年11月)は、私には、よくわからない。

明るい陽の中
のどかな傷菜という若葉をつまんで
あおむけに
そのまま●盆地に落下する
ゆっくり空を見ながら
シャクナゲカオルヤマナミニ
東西南北地上に横たわる身体
月がぼんやりと真昼のほてりを残し
埋め尽くされた星ぼしは熱霧に隠される
それは頭上に

 これは1連目。
 注釈に「●は福島あるいはすべての地名」と書いてある。その注釈がいちばんわからない。「福島」という固有名詞であっても、それが「すべての地名」に通じる、という具合に書くのが詩(文学)というものではないのか。名前を伏せるのなら●はいらないだろう。「そのまま盆地に落下する」でいいはずだ。
 なぜ●なのか。○や★、▲だと、どうなるのか。●の形と黒い色にどんな「意味」をこめているのか。
 いま私は「意味」ということばをつかったが、●では「福島」に「予見」を与えてしまう。単なる「抽象」を超えてしまう。それではつまらないと思う。視覚が一定の方向に動かしてしまう。
 また、私はことばを「視覚」で動かすことに疑問を持っている。「視覚」と「頭」で解読する抽象というものに、疑問を持っている。「合理的」過ぎて、いやな感じがする。ことばの経済学からすれば便利なのだけれど、便利が優先するのは、あまりにも味気ない。
 この詩には、また「傷菜」という、とてもいやな表記がある。「絆(きずな)」をもじっているのだろう。「絆」ということばに対してうさん臭さを感じて、それを批判しているのだと思うが、ここでも「視覚」で「意味」を一定方向に動かしている。このことばの経済学は、私には、人間味が感じられない。
 私は詩を音読する習慣はないが、もし音読(朗読)をするなら、「●盆地」や「傷菜」はどう読むのか。
 「音」の問題を棚上げして、「ケンミンノウタ(歌)」と言われても、納得できない。「声」にならないから「声」ではなく「視覚(文字、表記)」で表現するのだということかもしれないが、「声」にならないなら、「声」にならないからこそ、「声」以前の「声」をつかみ取るのが詩だろう、と思う。
 「東西南北地上に横たわる身体」や「熱霧」も「意味」を隠している。隠喩にすることで、隠された「意味」を印象づけようとしているのだろうが、私はそこに「正直」を感じることができない。



 ぱくきょんみ「ふり返ると」(初出『何処何様如何草紙』13年11月)には「音」がある。

ふり返ると いる
ふり返ると いない
ふり返らないと 不安なのか
ふり返るから またふり返る
ふり返らないために ふり返る

ふり返ると いる
ふり返ると いない

 「ふり返る」「いる/いない」が繰り返され、そういう行わけの連の間に、

ふり返ると
古ぼけた鳥打ち帽を目深にかむったまま誰かさんが棒立ちである。襟元も袖口にもぴちっと小綺麗に立ち上がっているのに、なんだ、あの帽子のよれ具合。長い旅だったからか、いまだ長い旅の途上であるからか、それとも人生の狩人の証しなのか。誰かさんは私たちの父さんである

 と、「過去」が語られる。語られる「過去」には時差がある。たとえば50年前、40年前……という具合に。あるいは、二日前、きのう、さらには1分前という具合に。
 しかし、その「過去」が「ふり返ると」という繰り返しにはさまれて、「いま」に呼び出されるとき、その「過去」から「時差」が消えていく。あれは50年前のこと、これはきのうのこと(ぱくは、近い過去のことを書いているわけではないので「きのう」云々は、方便なのだが……)という区別がなくなる。50年前のことがきのうのことより遠くに思い出されるわけではなく、同じ「近さ」で血のように「肉体」の隅々に行き渡る。
 「時差」のないまま、すべてが「いま」としてあらわれ、あらわれながら消えていく。消えるものを、ことば(ふり返るという繰り返し)で、何度も何度も呼び戻す。繰り返しが「時差」の「差」を消していく。
 その消す作業のなかに(消していくことばの動きのなかに)、詩がある。
 「ふり返る」を繰り返す。そのたびに、その「ふり返る」によって呼び出されるものが変化する。変化するが、その違いを越えて「同じもの(変わらない)」ものが姿を見せる。「ふり返る」(思い出す)という行為が変わらない。
 「同じ音」と「違う音」が交錯しながら、「音楽」をつくる。そこに、詩がある。



何処何様如何草紙
ぱく きょんみ
書肆山田
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空っぽ

2014-12-06 00:34:57 | 
空っぽ

坂と階段をのぼったところにある店で買った古本のなかに絵はがきが挟まっていた。
私がのぼった坂と階段が真昼の短い影といっしょに描かれている。
私に見られたことに気がついていないようだった。
海の匂いのする細い路地を通ってきて、その
坂から階段に変わる場所で立ち止まると、
そこが空っぽの場所だとわかった。
空っぽの空が下りてきた空っぽの場所。
誰と待ち合わせるために古本屋へ行ったのだったか思い出せない。
誰かとの待ち合わせからのがれるために古本屋に行ったのかもしれない。
坂と階段をのぼったところにある店で、と書いたところでことばは終わっている。
私が出そうとした絵はがきなのか、誰かが私に出した絵はがきなのか、と考えてみる。






*

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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(27)

2014-12-05 11:41:47 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(27)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 本のカバーをとったときにあらわれる「秘密の詩」。この詩の感想を書けば、この本を全部読んだことになるのか。わくわくする。私はあいかわらず「タマシヒ」を信じているわけではないが、谷川が「タマシヒ」と呼んでいるものが、なんとなく「あれか」とわかったような気持ちになっているので、最後の詩でその印象がどうかわるのか、どきどきもする。
 私の読んだ来たことは全部「誤読」? それともいくらかは谷川の「タマシヒ」と交流してきた証拠(?)のようなものをつかみとれるだろうか。
 灰色の表紙に銀の型押しした文字。
 うーん、読みづらい。「タマシヒ」って、こんなふうに見えにくいもの?
 引用して読み直そう。

 ひととき

長い年月をへてやっと
その日のそのひとときが
いまだに終わっていないと悟るのだ

空の色も交わした言葉も
細部は何ひとつ思い出せないのに
そのひとときは実在していて
私と世界をむすんでいる

死とともにそれが終わるとも思えない
そのひとときは私だけのものだが
否応無しに世界にも属しているから

ひとときは永遠の一隅にとどまる
それがどんなに短い時間であろうとも
ひとときが失われることはない

 あれっ、この詩、読んだことがある。「悟る」という動詞に触れて、何か書いたはず。「細部は何ひとつ思い出せない」ではなく、「悟る」について書いたこと、それから「むすぶ」について書いたことを思い出すが、でも、「何ひとつ思い出せない」と言っていいくらいに、何と書いたか思い出せない。
 これが、この本の「いちばんいい詩(代表作)」?
 私は「オロルリァ滞在記」がいちばん好きだけれど、そう思うのは、それが最後に読んだ詩だからかもしれない。私は忘れっぽい人間だから、最後のことしか覚えていないだけなのかもしれない。
 あれこれ考えてもしようがないので、きょうはきょうの感想を書こう。きのうの「感動」を引きずりながら。
 二連目を私は、書き換えたい衝動にとらわれている。書き換えてみよう。

空の色も交わした言葉も
「交流の」細部は何ひとつ思い出せないのに
その「交流したタマシヒ/タマシヒの交流」は実在していて
私と世界をむすんでいる

 空の色をつかみ取る。たとえば「青」とことばにする。ことばにしながら「青」ではいいきれないと、ことばの奥でことばにする。そのとき「空」と、あるいは雲、木、風と対話した。ことばにしたり、ことばにしなかったりして。そのときの、ことば、ことば以前(未生のことば)の「細部」(正確にはどう言ったのか、どう思ったのか)は「思い出せない」。でも、そういうことばを動かしたとき、そこに「タマシヒ」は存在した。「タマシヒ」が動かしたことばがあり、「交流」が存在した。その「タマシヒ」はことばを動かしながら、「世界」から愛撫されている、「交流している」と感じた。「タマシヒ」は「私」になって世界から愛撫されている。「世界」(遠心)と「タマシヒ」(求心)は「愛撫される」ことでつながる。交流し、ひとつになる。
 「タマシヒ」が何か言う。外へ出ていく。あ、「求心」ではなく、「遠心」か。私は「遠心」と「求心」を間違えてつかっていたのか。その外へ向かって動くタマシヒに向かって世界が「愛撫」してくる。外から内へ、遠くから中心へ、つまり「求心」。
 そのとき「私(のからだ、肉体)」が世界と出会う。「世界」-「タマシヒ」-「私」。。
 あ、言いなおそう。「世界」-「私」-「タマシヒ」、あるいは「世界」-「私-タマシヒ」というのが最初の関係かな? 私の奥(深部)にあるタマシヒが「私」を突き破って「世界」に触れる。そうすると、世界の奥(深部)に「世界」の「タマシヒ」が生まれ、「タマシヒ-世界」-「私-タマシヒ」という交流ができる。「タマシヒ」は「私」と「世界」を飛び越えて「ひとつ」になる。そのとき、「タマシヒ」のなかで「世界-私」が合体する。そういう運動が瞬時に起きる。
 どう呼ぶのが正確なのか、あるいはわかりやすいのか。(わかりやすいものが正確とはかぎらないが……)。厳密に考えるのはやめよう。「タマシヒ」が「往復」する、相互に働きかけるということがわかればいい。「タマシヒ」は、能動として動きながら、他方で「世界」から「愛撫される(働きかけられる/受け身)私」になるということがわかればいい。
 「タマシヒ」と「世界」と「私」の関係を象徴する(再確認する)のが、

私と世界をむすんでいる

 「私と」の「と」。「私」は「主語」として「能動」の働きをしない。「私」は「受け身」だ。「タマシヒ(私のタマシヒと世界のタマシヒ)」が「私と成果をむすんでいる」。「私」は「世界と結び合わされる」、「タマシヒ(私のタマシヒと世界のタマシヒ)」によって。そのとき、ここには明確に書かれていないが「私(のタマシヒ)」は「世界(のタマシヒ)」に「愛撫される」。

 三連目も書き換えよう。

死とともに「タマシヒの交流」が終わるとも思えない
「世界から愛撫されたタマシヒ」は私だけのものだが
否応無しに「私のタマシヒを愛撫する」世界(のタマシヒ)にも属しているから

 愛撫した「世界」が「タマシヒ」を忘れないのは、人間が誰かを愛撫したとき、その相手(愛撫された人間)を忘れないのと同じだ。私が愛した誰かが私のもとから離れていっても、私はその人を忘れない。その人は、あの愛の瞬間から私に属している。物理的に属していないくても、記憶がつないでしまう。
 そんなことも思う。

 さらに四連目。

「愛撫されたタマシヒ」は永遠の一隅にとどまる
「タマシヒが愛撫される時間」がどんなに短い時間であろうとも
「愛撫されたタマシヒ」が失われることはない

 「そのひととき」の「その」は「愛撫された」という「意味」を含んでいる。特別な印が「その」なのである。「その」は「愛撫された」ひとにしか分からない。
 さらに書き直してみよう。

「タマシヒの交流」は永遠の一隅にとどまる
「タマシヒの交流」がどんなに短い時間であろうとも
「タマシヒが交流したという事実」が失われることはない

 「交流した」という感じ(実感/肉体がつかみとる事実)は、いつまでも残る。消えることはない。
 詩を読む、ことばを読む--谷川の詩を読む、そのとき、私は谷川と交流している。そのことを谷川が知っているのかどうかは問題ではない。また、私の交流の仕方(読み方)を谷川が気にいるかどうかも関係がない。私にとって、その「交流」は失われることはない。何が書いてあったか、そのとき私が何を思ったかという細部は全部忘れても、「交流した」ときの感じが残り、それがあるとき、無意識の形で、どこかに出てくる。その無意識の形(ふと動くのだけれど、それがどこからやってきたかわからない何か)として「タマシヒ」は「ある」かもしれない。「無意識」なので、私は「魂はない」と言うのかもしれない。



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彼の水彩画は、

2014-12-05 01:11:12 | 
彼の水彩画は、

彼の水彩画は、--とそのひとは言った。
明暗以外のものをすべて省略する。
代表作の「窓辺」を思い浮かべてごらん。
窓の下に広がる瓦屋根、左側の壁は、
暗い色のなかで沈黙している。
はるか遠くに橋と塔のようなものがあり、
その階段に日が差している。その明るさのなかに、
輝きが集まろうとしている。
右端に少し見える海の青さえも。
その遠景をあすの希望、
暗い近景をきょうの絶望と呼ぶと、
彼の描く明暗は彼の語り尽くされた生涯と重なる。

彼の水彩画は、--とそのひとはつけくわえる。
明暗以外のものを省略しているが、
残された明暗を意味にしてはいけない。
彼の精神の象徴にしてはいけない。
「窓辺」を詩に書くなら、ほかのことを書かなければいけない。
そのひとはそう言ったのだが。
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粕谷栄市「経験」

2014-12-04 11:11:33 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
粕谷栄市「経験」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 粕谷栄市「経験」(初出「GATE21」19、13年11月)は入水自殺するつもりで埠頭へやってきたら、「私」の前に女が投身してしまった。それを見たために「私は、張り詰めた気分を失ってしまった。」この「張り詰めた気分を失ってしまった。」が、私は、とてもおもしろいと思った。
 なぜかというと、気持ち(思考)が次のように変わっていくからだ。

 どうして、そんなことが起こったのか。彼女は、何者
だったか。なぜ、その夜、そこにいたのか、分からない。
今となっては、その夜、本当に、彼女が、その霧の埠頭
にいたのかどうか。そのことすら、曖昧だ。

 「張り詰めた気分」がなくなると、すべてが「曖昧」になる。そそうか。もし、そうであるなら、「張り詰めた気分」で見たものはすべて「鮮明(明瞭)」になる。
 「気分」の充実によって「世界」が変わる。
 このことを粕谷は次のように言い直している。

 その後、永い歳月をへて、私は、あれは、私だけの幻
の経験だったと、考えることにしている。誰もが、自ら
は、気づくことはないが、そんな記憶を持って、この世
の日々を生きているのだ、と。

 これは「言い直しではない」と粕谷は言うかもしれないが、私は「言い直し」と「誤読」する。
 何かがある。それは「事実」か「幻」か。それを決めるのは「張り詰めた気分」(気分の状態)である。「気分」によって、あることが「事実」になったり「幻」になったりする。そういう「流動的」な「記憶」をもって、人は生きている。
 「流動」そのものを人は生きている。「自らは、気づくことはないが」。

 それは、私の終生の秘めごとだ。あの霧の夜、あの見
知らぬ女は、確かに、私の代わりに、岸壁から跳んで死
んだ。確かに、私の代わり、死んだのである。

 「自らは、気づくことがない」なら……私は、この詩の「見知らぬ女」を粕谷自身と呼んでみたい気がする。
 粕谷は気づいていないが、何かに張り詰めていた気分そのものが「女」になって投身(入水)自殺した。粕谷は、それを「肉体」の記憶として覚えている。いつでも思い出せるもの(経験)として、覚えている。それは粕谷の「肉体」を生かすための、ひとつの方法だったのかもしれない。
 粕谷は、ある種の「死」を経験した。それ以後、いつも粕谷は、その「死」といっしょに生きている。

瑞兆
粕谷 栄市
思潮社
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(26)

2014-12-04 11:09:42 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(26)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「オロルリァ滞在記」は架空の旅行記(紀行文)だろうか。「オロルリァを地図で探したことはない。ニューヨークから飛行機を乗り継いで十六時間かかった。」とはじまる。書いた詩人が地図で探さないのだから、読む私も探さない。「オロルリァ」は聞いたことがないので「架空」と勝手に思う。「架空」なので、自分の知っている「こと」を重ねて読んでいく。
 そうすると、そこは私のふるさとである。つまり「肉体」が最初に触れた「場所」。そこに書かれているものが草、地面、空、犬、猫のようなものくらいで、ビルとか鉄道とか劇場などが出て来ない「自然」の風景だから、そう思うのかもしれない。もし、車が走り回り、道路が舗装され、人がたくさんいたら「ふるさと」を思わなかっただろう。
 その「ふるさと」で、私は何を感じたのだろう。谷川が書いていることが「ふるさと」の私だと思うのはなぜだろう。

 何もせずにいるのもなかなか難しい。寝転がったまま、
手足を上へ上げて空中でぶらぶらさせてみた。一種の柔
軟体操だが体に良いとも思えない。最近覚えた口笛も吹
いてみたが、音楽とはほど遠い音しか出ない。突然、自
分は存在しているのだと思った。知らない間に「オレは
居る」と呟いていた。それが嬉しい訳ではない、寂しく
もない、別に生きていることを意識した訳でもない。た
だ自分が居るのが疑えない事実だとでも言えばいいのか。

 ここに書いてあることを、そのことば通りに思ったわけではない。しかし、「突然、自分は存在しているのだと思った。」「ただ自分が居るのが疑えない事実だとでも言えばいいのか。」という感じが、私の感じていることに似ている。ふるさとで、私はこういうことを感じて、それをいまも引きずっているのか、ということを思った。
 この本の詩には「タマシヒ」ということばがたくさん出てくる。私は魂を信じていない(実感したことがない)ので、そのことばの前では違和感があるのだが、この詩にはタマシヒもココロも出て来ないので、とても親近感がある。この本のなかでは、この詩が、私の感覚にいちばんぴったりする。「自分は存在する」「自分は居る」。嬉しくも寂しくもない。感情が動かない。動く必要がない。生きているということも意識するわけではない。精神(知性?)も動かない。そのとき「肉体」だけがある。何も感じず、何も考えない。ただ「肉体」がある。その「肉体」の感じを「タマシヒ」と呼ぶなら、それは「タマシヒ」でいいと思う。「肉体」だけがあると言っても、そのとき私は「肉体」も感じてない。
 そこに目をやれば、たとえば木がある。その木の形が私。そこに目をやれば田んぼがある。稲が生え、水がたまっている。それが何であるか、ことばにしようとすると、そのとき私は稲になったり水になったりする。いわゆる「自我」というものがない。「自我」がないから、何にでもなってしまう。この感じが、私の「居る」ということ。「存在している」ということ。「ない」が「ある」にかわる一瞬。
 これは、世界とつながっている、という感じとも違う。気がついた瞬間に、世界のなかの何かになっている、という感じ。何も存在しない。確固としたものは何もない。存在しない。ただ、その瞬間瞬間に、何かになっている。
 そこへたとえば友達がやってくる。そのとき、私は、その友達になって、私に近づいていく。--そういう「矛盾」も起きる。私が木の下で友達を待っているのに、私は友達になって、木の下の私に向かって走っていく。それは、友達が木の下で待っているとき、そこへ向かって走っていった私の「体験」がまじりこんだ錯覚なのかもしれないが、私は、どうもそういう錯覚をしてしまう癖がある。

 だから、というのは、とんでもない飛躍なのかもしれないが。

 だから、私は、詩を読みながら、「これは谷川の書いた詩」ということを忘れてしまって、私の体験がここに書かれている、「これは私の詩」と思ってしまう。
 何にもしないで、ただ、そこにいる。私は音痴なので歌を歌わない、口笛も吹かないが、ただそこにいる。私の大好きな場所は、家の近くの神社の大きなケヤキの木。小さな石段をのぼって行くとき見えるのが、木の表。反対側が、木の裏。かさぶたのような木の肌に触れながら、掌でなでながら、その木のまわりをまわる。木の表、木の裏と書いたのは……たぶん、まわりをまわりながら嬉しかったり寂しかったりというこころの動きを思い出すからかもしれないなあ。
 そこで私は大きなケヤキになったり、私にもどったり、ぼんやりしている。土になったり、木の根元に積み上げられた石の「墓」のようなものになったりもする。
 そういうことが「事実」。
 それが「タマシヒ」だよ、と言われれば、それは信じてもいいなあ。そこにある「存在」は、私の「肉体」も含めて、全部、見ることができる。聞くことができる。触ることができる。舐めたことはないが、木の肌を舐めることもできる。味わうことができる。匂いを嗅ぐこともできる。世界の「事実」が「タマシヒ」。

 あ、脱線してしまったなあ。
 こんなことを谷川は書いているわけではないのだが。
 だいたい谷川が書いているのは「オロルリァ」であって、私のふるさとや、私の大好きなケヤキの木ではないのだが。
 でも、こんなふうに脱線して、間違ったことを考えている時、私はなんだかうれしい。幸福な気分だなあ。

 詩にもどろう。

 寝転がっているのがなんだか後ろめたいような気がし
てきた。身に付いた貧乏性か、居るだけで誰に迷惑をか
けているのでもないのに、我知らず立ち上がってしまっ
た。重力を感じた。微風が裸の腕の産毛を撫でてゆく。
居るだけで何もしていないのに、オレは世界に愛撫され
ていると思った。我ながらいい気なもんだとも思ったが
愉快だった。

 この部分で、私は、私ではなく「谷川」を強く感じた。さっきまで、これは私の体験を書いていると思っていたのに、ここでは、あっ、谷川がいる、と思った。
 「微風が裸の腕の産毛を撫でてゆく。」までは「私」。でも、私はそのあと「オレは世界に愛撫されている」とは思わない。あくまで私が「微風」になって「私を愛撫する」。「されている」という「受け身」が思いつかない。
 そうか、この「祝福されている」という「受け身」の感じが、詩人の証拠なのか、とも思った。
 私は、ふいに、池井昌樹のことを思い出した。池井の詩の特徴である「放心」は、同時に、池井を見つめる「誰か」を描いている。誰かに見つめられて(受け身)で池井がいる。その誰かが与えてくれるもののなかに、どっぷりと浸って、「自我」を失くしてしまう。そのとき世界全体が「いま」「ここ」から離れて「永遠」になる。
 
 「タマシヒ(魂)」が「からだ」の奥にあるものだとすれば、「世界」が「からだ」であり、谷川や池井は、その「からだ」の奥にある「タマシヒ(魂)」ということなのかもしれない。「世界/宇宙」を「肉体」と感じ、その「肉体」のなかで「タマシヒ」として動く詩人。いつも「世界/宇宙」という遠心と「タマシヒ(魂)」という求心を往復する。そのときの運動が、二人の詩なのかもしれない。
 「魂(タマシヒ)」ということばがなぜ必要なのか、私はいままで分からなかったが、そうか、と思った。まだ「そうか」だけであって、それをどうことばにしていっていいかわからないが、ことばにしなくてもいいのかもしれない。ことばにするというのは、どこかで「意味」を作り出すこと、嘘にしてしまうことだから、「そうか、そうなのか」とだけ思っておく。
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昔、小説のようなものを書いていたとき

2014-12-04 00:17:00 | 
昔、小説のようなものを書いていたとき

昔、小説のようなものを書いていたとき、
終わり方がわからず主人公を殺してしまった。
そんなことを思い出し月の下でビルの角が光っているのを
ふるさとの山の輪郭を見るように見上げる。

死というものは、あの角の光のようなものだろうか。
いつもいっしょにあるのだが、
見えるときと見えないときがある。

主人公は殺す必要はなかったなあ。
バイクに乗って崖下の海に落ちてしまうのではなく、
岬を越えて防波堤で友人と待ち合わせればよかった。
小説のなかで友情が破綻した理由は忘れてしまったが……。

星が幾つか形にならないままビルの上に動いてきた。
空は小さいようで高い。




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