詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「証言B(1966)」より(32)中井久夫訳

2008-12-10 00:02:00 | リッツォス(中井久夫訳)
理髪店  リッツォス(中井久夫訳)

廃墟に部屋を一つ、煉瓦でこさえた。
窓にボール紙を嵌めた。看板も出した。「理髪店」と書いた。
宵闇の忍び寄る日曜の遅い時刻、
弱い光が半ば開いた海側の扉から差して
鏡は淡い青。--若い漁夫らと
船員たちが髭を剃りに来た。
とっぷりと暮れてから彼等は帰った、反対側の扉から、
影のように静かに、うやうやしい長い長老髯を垂らして。



 この作品も前半と後半に分かれる。そして、その「ふたつ」の部分は矛盾する。あるいは、対立すると言った方がいいだろうか。
 「船員たちが髭を剃りに来た。」しかし、彼等は「うやうやしい長い長老髯を垂らして」帰った。髭は口ひげ、口の上のひげ。髯はほほのひげ。口の上のひげは剃ったが、ほほのひげは剃らなかった、と考えれば「矛盾」ではないが、それでも一種、奇妙な感じは残る。こは、「矛盾」、あるいは事実の対立があると考えた方がいいだろう。
 詩のなかの時間は、「宵闇」と「とっぷりと暮れ」た時間。その間の現実の時間は短い。しかし、この詩のなかでは1日を超える時間が存在するのだ。「理髪店」を開いたのは遠い過去。昔は、若い漁夫、若い船員がひげを剃りに来た。しかし、今は老いた男たちがやってくる。彼等はひげを剃りにくるのではなく、昔の思い出のために、理髪店へ来るのである。そして、思い出を語って帰っていくのである。「とっぷりと暮れてから」。

 「ふたつの時間」は対立しながら、響きあう。「昔」があるから「今」がある。その間には、「廃墟」のような時間がある。「廃墟」の時間によって、若い昔の時間が洗われ、いまの老いた時間が透明になる。「影のように静かに」なる。若い時間は「光」なのである。その光はたしかに「宵闇」の光であり、淡いかもしれないが、それが淡く感じられるのは若い漁夫らの肉体の力の方が太陽よりもみなぎっているからだろう。いまは、そういう力もなく、ただ「影のように静かに」(影のように静かな)肉体と向き合っている。
 ここにも、やはり孤独が描かれている。孤独をみつめる人間(理髪師)が描かれていると言えるだろう。

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原利代子「水の老人」

2008-12-09 11:42:28 | 詩集
原利代子「水の老人」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 原利代子「水の老人」の初出誌は『ラクダが泣かないので』(2007年12月発行)。
 メキシコ南東部にエル・トゥーレという村があるらしい。そして、そこにトゥーレの木がある。巨大な木である。その木をこのを書いている。その木は水をたくさん吸い上げる。村の人々に「水の老人」と呼ばれている。原は、その木に触れる。

ずいぶん長いことそうしていたので
わたしの手は木の皮のようになっていった
わたしの身体は細い一本の木のようになっていった
老人の息づかいが樹皮の奥から伝わってくる

地球の裏側からやってきた人よ 私たちはひとつなのだ
何時かは 必ず来たところへ戻っていく
身体からも心からも解放されて--
私はお前であり
お前はお前の想う人であり
お前の想う人は私なのだ

その声はわたしの体の中から聞こえてくるようだった

 「木(私)」と「わたし」の一体化。そして、そこで、「わたし」は「わたし」の探していた「声」を聞く。それは「木」が語っていることばなのだけれど、そのことばは「わたし」が偶然聞いたものではなく、探し当てたもの、自分の体のなかから聞いたものなので、ほんとうは「わたし」の声なのである。--そういう一体感が、ちょっとなつかしいようなことばで語られている。なつかしい感じがするのは、たぶん、そこにはことばに対する批判がないからだ。現代詩のことばが、ことば自身への批評を含んでいるのに対して、原のことばは、ことば自身への批評を含まず、とても素直にことばそのものであるからだ。
 その素直さがいちばん美しく表現されているのは、

老人の息づかいが樹皮の奥から伝わってくる

 という行である。この行が、私には、いちばん美しき見える。それに先だつ2行で、原は「わたしの手は(身体は)……なっていった」を繰り返している。過去形である。その過去形という時制が、ふいに崩れて「伝わってくる」と現在形になる。ここが、いちばん美しい。
 「わたし」と「木」が一体になるだけではなく、「過去」と「現在」が一体になるのである。「時(時間)」が消える。時間が消えるということは「永遠」が出現するということでもある。
 「永遠」はそのなかに「未来」を含むだけではなく、「過去」を含んでいる。そこに「過去」が含まれているから、「永遠」はなつかしいのだ。

 そんなことを考えた。





ラクダが泣かないので
原 利代子
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(31)中井久夫訳

2008-12-09 00:14:40 | リッツォス(中井久夫訳)
荷降ろし  リッツォス(中井久夫訳)

今は色に乏しい。でもいい。そう彼は言う。
野のほんの僅かの緑。おれにはこれで充分だ。
歳とともに何もかもが小さくなる。
ものが寄せ集まって溶け合うんじゃないか。
木の葉が一枚。その微かなそよぎ。それがおれのひとつの入り口だ。
おれは廊下に入る。向うの端に向かって歩く。
窓と彫像が並ぶ間を。
窓は白。彫像は赤い。
これはフクロウ。これはヘビ。これはシカ。ちゃんと見分けが付く。



 この詩も、私には前半と後半がまったく違ったものに感じられる。まったく違っているけれど、それは「ひとつ」である。その「ひとつ」の違い--それは外と内の違いというものかもしれない。外と内が「彼」(リッツォスの分身)のなかでしっかり結びついている。完結している。
 --この完結から、孤独とういものも生まれる。すべての存在から離れ、「ひとつ」として完結している人間。その孤独。

 外と内の結合。その融合。それを遠心・求心ということばに置き換えてみるなら、それは「俳句」の世界である。
 リッツォスの詩の簡潔さは俳句に似ているかもしれない。簡潔でありながら、そこに「ひとつ」ではなく「ふたつ」の世界があるというのも俳句に似ているかもしれない。「ふたつ」のものが一期一会の出会いのなかで「ひとつ」になる。そういう瞬間。俳句に通じる世界観がリッツォスのことばの奥には存在するのかもしれない。
 この詩のなかでは、特に、

木の葉が一枚。その微かなそよぎ。それがおれのひとつの入り口だ。

 この感じが、私のなかでは、俳句の世界そのものだ。「私」が「木の葉」になる。そして、その「木の葉」のなかにすべての世界が融合する。
 俳句は、ふつう、そう書いてしまえばそれでおしまいなのだけれど、リッツォスは俳人ではないので、そのあとすこし説明をくわえている。それが「おれは廊下に入る。」以下の行の展開である。
 「ひとつ」のなかにすべてが融合する(ものが寄せ集まって溶け合う)と、それは混沌ではないのか。なんの区別もつかない世界は理性の世界に反する--という西洋哲学。それに対して、リッツォスは、「いや、溶け合っていても、そのすべてが、ちゃんと見分けが付く」というのである。
 いちど「ひとつ」に融合する。そして、そこからすべてが生成しなおす。再生する。新しい命として生まれ変わる。
 こういう人生観・世界観にとって必要なものは、「ほんの僅か」の何かでいい。巨大なものでなくていい。「木の葉が一枚」というだけで充分である。

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嵯峨恵子「二月の水」

2008-12-08 08:45:45 | 詩集
嵯峨恵子「二月の水」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 嵯峨恵子「二月の水」の初出誌は『悠々といそげ』(2007年12月発行)。この詩も、誰かを失った悲しみを書いている。

私の中に満ちてくる水があって
思わず苦笑する
頬のあたりに
冬の刃先を感じながら
並んだ裸木の間をぬっていく
ぬっていくしかなく
どのような祈りも
どれだけの言葉も
追いつけないところまで来てしまった
ねじれた風のゆくえに
水仙 フリージア 白梅
それらを愛したひとの
おどけた仕種を思い出す

 あるひと。そのひとが「水仙 フリージア 白梅/それらを愛した」ということを知っているくらい嵯峨はそのひとと親しいということだろう。そのひとを思うと、思いがけずに涙がこみあげてくる。その涙と「水仙 フリージア 白梅」が同じ水位で視界に浮かぶ。
 だが、私がこの詩を読んでいちばん印象に残ったことばは、その行ではない。後半に出てくる「二月」ということばだ。

二月
記憶のための刺
を逆立て
立ちつくしている季節
立ちつくしながら
私の中に
予兆のように
満ちてくる水があって

 嵯峨は、たぶん、「二月」よりももっとほかに書きたかったことばがあるかもしれない。「立ちつくす」ということばが繰り返されているが、何もできずただ立ちつくすしかない悲しみ--立ちつくすということばのなかに、何かを書きたかったのかもしれない。立ちつくすから、その水平の移動をやめた体の中を、水平ではなく、垂直に下から立ち上がってくる水。肉体の内部の、水平と垂直の交差--その感情の動きを書きたかったのかもしれない。そして、実際、そういう感情の動きはリアルに伝わってくるのだが、そういうリアルな感情をしっかり感じながらも、私はこの詩の中では「二月」という1行が好きだ。無造作に、ただ放り出された1行。それが大好きだ。
 「二月」に嵯峨がこの詩で書いている大事なひとは嵯峨のもとから去ったのだ。「二月」はどんなふうにも書き換えができない。涙を「私の中に満ちてくる水」というふうに書き換えることはできても「二月」は書き換えられない。「水仙 フリージア 白梅」はあるいは「モーツァルト セザンヌ サガン」であるかもしれないけれど(そういう可能性があるかもしれないけれど)、「二月」だけは「二月」以外にない。「一月」や「三月」ではだめなのだ。そういう絶対的なものとして、1行、なんの装飾もなくそこにある。
 ああ、嵯峨にとって「二月」は大切なことばなのだ。「そのひと」と同じ大切なものだ。「そのひと」と「二月」はぴったり重なり合う「ひとつ」のものなのだ。--その、ぴったりと重なり合った感じが、とても正直に伝わってくる。
 だから、私は、その「二月」という1行がこの詩のなかではいちばん好きだ。「二月」は植木信子「父」の「あの夏」と同じように強くこころに迫ってくる。



悠々といそげ
嵯峨 恵子
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(30)中井久夫訳

2008-12-08 01:25:27 | リッツォス(中井久夫訳)
熱  リッツォス(中井久夫訳)

岩。焔の真昼。大波。
海はわれわれを容赦しない。強い。やばい。上の方の路では
騾馬使いが叫んでいる。荷車には西瓜が満載。
それからナイフ。やわらかな切れ目。風。
赤い果肉と黒い種子。



 真夏の情景。夏には西瓜がうまい。そういう詩である。
 「騾馬使い」は「西瓜だよ、西瓜売りだよ」と叫んでいるのだろう。そして、やってきた人の前で西瓜を割って見せる。切って見せる。真夏の光の中で、赤と黒が強烈である。その赤と黒が強烈なのは、それより先に崖下の海が描かれるからである。岩。大波。そこにあるのは白と青。そういう強烈な色があって、赤と黒が強烈なになる。

 リッツォスの詩は、前半と後半では、しばしば主語が変わる。同じように、何か風景(情景)を描く場合でも、対象が変わる。この詩では海から西瓜へ変わっている。そういう変化を「騾馬使い」の存在によってスムーズにしている。「騾馬使い」はたぶんギリシアのありふれた日常なのだと思う。日常を間にはさみながら、世界を一気に違うものに変える。そういうところにリッツォスのひとつの特徴があると思う。



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植木信子「父」(「現代詩手帖」2008年12月号)

2008-12-07 08:52:28 | 詩集
 植木信子「父」の初出誌は『その日--光と風に』(2007年12月発行)。その書き出し。

父はシャツとサンダルで
わたしたちが寝ている部屋の窓から見えるように歩いていた
時の重みの地層や湧きでる汗や熱
父に繋がるチチハハの祖父母の聞きとれない叫びが 父の
肩に置かれていたが陽は明るかった

 父を思い出している詩である。植木が父に対して特別な思いを抱いていることは、たとえば「時の重みの地層」というような表現からも窺い知ることができる。
 「時の重みの地層」と言われてもなんのことかさっぱりわからないが、そのさっぱりわからないこと(誰か、わかるひとがいるだろうか)を書かずにはいられないほどの思いが植木にはあるということだろう。植木は、そして、その「時の重みの地層」に「祖父母」を重ね合わせていることは、わかるにはわかるが、この「わかる」は推測できるということのほどのことであって、正直に言えば、なんだこれは、というところである。
 このあとも、なんだ、これは、という表現がつづいていく。たぶん、植木は、私がなんがこれは、と思っていることをこそ書きたいのだと思うのだが、その書きたい気持ちはわかるけれど、私はやっぱりなんだこれは、と思うしかない。そこには植木の思い入れがあまりにも濃く出ていて、なんだか重たい。読んだ後、その重たさが残っていて、ちょっとうんざりする。
 それでも、私はこの詩について感想を書いておきたい。書かずにはいられない。そういう思いを引き起こす行がある。

あの夏
みんな若く元気だった
時の爪 天の斧 地のうねりは父を去らせ
姉は応用に秋の初めに逝き
平成十九年七月
小さくも美しい建物は倒壊した
陽は軽やかにあの朝 父の肩を差していた
今 思う
あの建物には情熱が 辛苦が込められていた

 「あの夏」「今 思う」。その2行に、私は、はっと胸をつかれた。この作品の「思想」はそこにある。「あの夏」「今 思う」。何を思ったかは重要ではない。植木は思った内容(意味)が重要だと感じて、たとえば「時の重みの地層」とか「時の爪」「天の斧」というようなことを書くのだが、そういうことを読者はほとんど覚えていられない。(頭のいい読者はきちんと覚えているだろうし、その覚えていることを元にして詩を評価するだろうが、私は、そういうことは読んだ先から忘れてしまう。)私にわかるのは、植木が、「あの夏」のことを「今 思う」という行為だけである。
 あ、そうなんだ。植木にとっては、「あの夏」がとても大切だったんだ。それを、「いま」「思う」(思っている)。そのことに胸をつかれる。

 「あの夏」も「今 思う」も特別なことばではない。誰でもがつかうことばである。けれども、そういうことばにこそ、「思想」はあふれている。「思想」というのはとても大切なことである。そういう大切なことは、ややこしいことば、むずかしいことばでは抱えきれない。ずーっともちつづけることができない。単純な、だれもがつかうことばを掘り下げて行って、それが純粋なものになったとき、そこに思想があらわれる。肉体になる。
 植木は、今、あの夏のことを思っている。あの夏の父のことを思っている。そのことを、「思っている」ということがこの詩の思想なのである。
 それを思うのは、それが、もうここにはないからだ。今、ここにない。だから、思うのだ。「あの夏」、それが存在したことを思えるのだ。「今 思う」というのは、強烈な思想である。存在論に触れる思想である。それが肉体として、この詩の中にはある。 




その日―光と風に
植木 信子
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(29)中井久夫訳

2008-12-07 00:07:43 | リッツォス(中井久夫訳)
残骸  リッツォス(中井久夫訳)

おれにゃ何もない。おれは何も思い出せない。そう彼は言った。
季節を送り迎えした。あせた色ばかり。
真昼の果物の腐りゆく匂い。目を刺す白い漆食いのギラツキ。
ある晩、きみがマッチを擦った時、きみの耳の下にちらりと小さな影が見えた。
あの影。これだけ。
後はもう、樹の下を吹く風が遠く吹き飛ばしてしまった。
紙ナプキンと葡萄の葉といっしょに--。



 この詩の構造は「老漁夫」に似ている。「おれ」とは「彼」である。そして、「彼」とは実は「私」なのである。(「老漁夫」が結局は街でみかけた老漁夫というよりも、老漁夫に託されたリッツォスであるように。)
 「私」を「彼」と第三者のように描く。「彼」には「私」が投影されているのである。そんなふうにして、リッツォスは自分を自分から分離して眺める。自分を「ふたつ」にする。投影した影と、それをみつめる詩人とに。
 自分が体験したことを「私」を主人公にして書くにはつらすぎる。だから、それを他人に起きたことのようにして書く。
 --ただそれだけではないかもしれない。
 リッツォスの生きた時代が、ここに反映しているかもしれない。内戦のギリシア。そこでは自分が経験したことを自分の感じたこととして書くのは危険なことかもしれない。また、友人に起きたことを友人の体験として書くことも危険かもしれない。誰でもない存在。架空の第三者の体験として書くことしかできないかもしれない。そういうもどかしさ、そういうさびしさ。そのなかで、ふるえる孤独なこころが、いつでもリッツォスのことばの中にあるのかもしれない。

ある晩、きみがマッチを擦った時、きみの耳の下にちらりと小さな影が見えた。

 それにしても、なんと美しい1行だろう。他者を、それも自分にとっての大切な他者をそういう細部でしっかりとつなぎとめる。世界に存在させる。世界には大きな力が暴れまわっている。その力に消されてしまう小さな存在。その小ささの中にある美。その美とふれあうこころの、その悲しみ。孤独。透明な透明な抒情。清潔な抒情。



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中尾太一「カーサ・デスペランサ」

2008-12-06 08:43:33 | 詩(雑誌・同人誌)
中尾太一「カーサ・デスペランサ」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 中尾太一「カーサ・デスペランサ」の初出誌は「文学界」2007年11月号。途中に、

一緒に性器にさわると噴きこぼれて

 という美しい行があって、最後がそれ以上に美しい。

小さな田園にひとりで入っていくとき
甘蔓の根っこや排水の流れに沿って
家に帰ろう、と言っていた君が振った右手も、左手も
甦った街の、きたない飯店に並んでいる
ここも、僕たちのホームなんだね
ああ、君がいちばん高い声で歌った来世まで
くさい光が渡っていく、その下で
僕たちの顔はこぶしのように苦しく、開いている

 「ああ、」の詠嘆がいい。特に、その読点「、」がまなまなしい肉体そのもののようで、ふいに中尾のからだがくっきり浮かび上がってくる。
 この詩は

「うち、ずっとここにいたかった」

 という「君」のことばから始まっているのだが、その最初の1行にも読点「、」があり、「僕」はその読点の呼吸を探して絶望の街をさまよっているという感じが、「ああ、」でピークに達する。そして、透明に、透明に、さらに透明に、つまりなまなましい肉体を地上に残して高く高く昇天していく感じがする。「ああ、」という詠嘆とともにある、せつない感情の透明さと、そのせつなさから取り残された肉体の、どうしようもない共存。「苦しみ」というのは、たしかに感情と肉体の不思議な齟齬のことなのだ。
 齟齬はあらゆるところに存在する。
 「甘蔓」と「排水」、「甦った街」と「汚い飯店」、「くさい」と「光」。そうした存在の間を、肉体を抱え、呼吸(読点「、」)をしながら動いていく。歩いていく。とぎれとぎれの呼吸は、どうしたって途中で「ああ、」と深く息を吐き出さずにはいられない。詠嘆せずにはいられない。息は、吐けば吐くほど、肉体の内部に深く溜まるものなのである。

 1年も遅れて、この詩に出合う。その不思議さ。--年鑑、アンソロジーの意義は、こういうところにあるかもしれない。詩にしろ、他の様々な芸術作品にしろ、世界にあふれかえっている。読んでいないもの、見ていないもの、聞いていないもののの方が、自分で読んだもの、見たもの、聞いたものよりはるかに多い。あたりまえのことであるけれど。そういう作品、気づかずにいた作品を知るのは、とこも興奮する。
 しばらく「現代詩手帖」のアンソロジーを読んでみようと思う。




数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集
中尾 太一
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(28)中井久夫訳

2008-12-06 00:25:25 | リッツォス(中井久夫訳)
老漁夫  リッツォス(中井久夫訳)

爺さんは言う。「おれはもう全然海に出ない。
このカフェニオンに座って窓の外を見てるのさ」
若い漁夫らが籠を手に入って来る。
座って飲んでさえずる。
魚の身体のきらめきはワイングラスのきらめきとは違うんだぞ。
私はそう連中に言ってやりたいと思う。
そこの大きな魚の話もしたかった。銛が斜めに背中に突き刺さったままの奴だ。
陽が沈む時、そいつは影を長々と海底に落とすんだと。だが話さなかった。
あいつらはイルカを愛する人間じゃない。それに窓が塩水で汚れている。
磨かなくちゃ。



 二つの主語。リッツォスの詩には、ときどき二つの主語が出て来る。この詩にも二つの主語がある。いや、ひとつなのに、複数の主語がある、と言った方がいいか。
 老漁夫。主語はひとりである。しかし、彼は「おれは」と語りはじめる。それが途中から「私は」にかわる。会話をあらわす括弧「 」は消え、地の文で、「私」にかわる。それはほんとうはひとりの人物だが、微妙に違う。
 老漁夫は、声に出して語るときは「おれは」という。しかし、無言で語るときは「私は」という。主語が二つに分かれる。これは、世界が二つに分かれるということである。そして世界が二つになるとき、ひとりの「老漁夫」は孤独を知る。「私」の世界を、「若い漁夫ら」は知らない。「若い漁夫ら」が知らない「私」が老漁夫の中に存在し、その老漁夫が、孤独なのである。
 そして、この孤独は、人間とは別の「友人」を持っている。「友情」を持っている。心を交わすことができる存在がある。それは、彼がつり上げた魚である。
 ヘミングウェイの「老人と海」の主人公に似ているが、老漁夫は、彼が格闘した魚とこころを交わす。闘いの中で、互いが生きていることを確かめあった。だから、そのつり上げた魚の夢がわかる。海底の長い長い影。ことばをもたない魚との、こころのなかでの会話。--その会話の中にある、透明な孤独。

 リッツォスは、ことばをもたない存在と交流し、その孤独を透明なものにする。磨き上げる。

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アンドリュー・スタントン監督「ウォーリー」(★★★★)

2008-12-05 23:22:55 | 映画
監督 アンドリュー・スタントン 出演 ごみ処理ロボット、植物探査ロボット

 前半がたいへんすばらしい。ウォーリーがひとりでせっせとごみ処理をし、イヴに出会い、ひとめぼれ(?)をし、それが恋にかわるまでが非常にすばらしい。私は昔から人間よりも機械に感情移入してしまう。「2001年宇宙の旅」では、メモリーをぬかれるハルに同情し、あ、かわいそうと思ってしまう。「デイジー……」と歌うせつない声に思わず涙を流してしまう。だから、今回も、もう、ウォーリーの気持ちにどっぷりのめりこんでしまう。
 前半は、せりふがない。無声映画のように、動きだけで笑わせる。
 こおろぎ(?)がウォーリーの体を這い回るとき、ウォーリーがくすぐったがる。その感じが素敵だ。機械がくすぐったがるはずがない、と思うひとは、もうこの映画を見る資格がない。ロボットなのに、それを人間と思えるひと、その金属の体を、人間の肉体と思えるひとでないと、この映画はおもしろくない。
 くすぐられて笑うというのはきわめて肉体そのものの反応だけれど、そういう肉体的な反応をひきがねにして、人間とロボットを重ね合わせるこの導入部は、この映画のいちばん重要なシーンだ。まず肉体の反応(重なり)があって、それから、感情へと動いていく。さりげないけれど、「劇」の基本をこの映画はきちんと守っている。
 そういう導入部があって、たった1本のビデオを繰り返し繰り返し見て、誰かと手をつなぎたいとおもうせつなさが切実になる。自分で自分を修理してしまうのも素敵だ。スプーンとフォークを分類し、先割れスプーン(これって、アメリカにもあるの?)をどっちに分類していいか悩み、その間に置くところなど、楽しくて笑ってしまう。
 イヴに出会って、その強力なパワーにびくびくふるえるのも素敵だし、イヴにぷちぷちを潰させるのもいいなあ。ぷちぷちをつぶしたい、というのは、あらゆる人間に共通のことなのかもしれない。ロボットにそういう基本的な人間の行為をさせ、引きずり込む手法は、とてもすごい。雨の日に、何度も雷に打たれながら、それでもイヴに傘を差すシーンも素敵だ。イヴがビデオテープをぐしゃぐしゃにしてしまったのを、くるくると手動でもとにもどすなんて、その細部が素敵だ。
 イヴが宇宙へかえっていく(さらわれる?)までが、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうにすばらしい。宇宙へ出てからも、消火器をつかって、ウォーリーがイヴとダンスをするシーンも傑作である。いつまでもいつまでも見ていたい。宇宙船の中での、掃除ロボットの反応もおもしろい。
 後半、人間が登場してからは、ちょっとおもしろさに欠ける。宇宙船の艦長とコンピューターが戦うというのは、「2001年宇宙の旅」のまねごと。興ざめ。
 けれども、前半は、せりふもなく、無声映画のような、肉体的な(?)楽しさがともかくいっぱい。前半だけ、もう一回見に行ってもいいかなあ、と私は思っている。

 (私は福岡の「福岡東宝」の小さな劇場で見た。私以外は誰も声を上げて笑わない。みんなで大笑いする劇場で見直したいと思っている。福岡の観客は、あまり笑わない。こういう映画は、みんなで笑ってみてこそおもしろい。笑わないと損。)
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谷川俊太郎「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」

2008-12-05 09:28:39 | 詩集
谷川俊太郎「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 谷川俊太郎「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」は「現代詩手帖」の2008年のアンソロジーの中の1篇である。詩集『私』のなかの1篇。
 とても不思議な作品である。
 前半の3連。

初雪の朝のようなメモ帳の白い画面を
MS明朝の足跡で蹴散らしていくのは私じゃない
そんなのは小説のやること
詩しか書けなくてほんとによかった


小説は真剣に悩んでいるらしい
女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか
それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか
それから際限のない物語が始まるんだ
こんぐらかった抑圧と愛と憎しみの
やれやれ

詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないわけではないのだけれど

 これはほんとうに詩の擁護なのかな? 小説が名ぜつならないかについて書いているのかな? 私には、まったくわからない。
 私はもともと詩も小説も、たのことばで書かれた作品も区別して読んだことがない。すべて、そこに詩があるかどうかだけを楽しみに読んでいる。
 最初の2行。これは「小説」への批判である--ということになるのかもしれないが、そこに書かれていることばは詩である。「MS明朝」という即物的なことばさえ、そこに即物的な手触りで存在するとき、それは詩である。小説を批判することば、つまらないという小説を批判することばのなかに詩がある。これって、矛盾じゃない? もし、谷川が小説を批判できないとしたら、詩はどこに存在することになる? 小説を批判するとき、詩のことばが存在しはじめるのだとしたら、詩は小説に依存していることになる。小説に依存しないと存在し得ないのに、それでも詩は小説よりもおもしろいと言えるのか。
 バーナード・ショーのジョークを思い出してしまう。「女と男はどっちがばか?」「男です。女と結婚するのだから」。これは、ばかな女と結婚するほど、男はばかだという意味だが、では、ほんとうにばかはどっち? わからない。
 どっちでもいいのだ。
 小説が「女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか/それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか」真剣に悩むように、詩だって、こその2行を書くべきかどうか真剣に悩んでいるはずである。「やれやれ」である。

 詩も小説も、そしてあらゆるジャンルのことばも、あらゆることを書くことができる。つまらないとも、おもしろいとも、書ける。それがほんとうにつまらないのか、おもいしろいのかは、書かれている内容ではない。意味ではない。
 意味を追いかけると、矛盾にしかたどりつけない。これは小説も詩も同じである。

 谷川が書いているのは「詩の擁護」という意味でもなければ、「何故小説はつまらないか」という意味でもない。
 「初雪」と「メモ帳」と「白」という出合いである。「MS明朝」と「足跡」という出合いである。ことばは、谷川がそう書くまで、そんなふにうにして出合ったことはなかった。「無印のバッグ」と「グッチのバッグ」も、「悩み」ということばのなかで出合うということはなかった。
 そして、そんなふうに新しく出合うことで、ことばはことばから「もの」へかえっていく。「もの」の手触りをつかんで、もういちど「もの」から私たち読者の方へやってくる。そのとき、ことばが、はじめてこの世界にあらわれたみたいに新しく感じられる。その瞬間に、詩が生まれる。






私―谷川俊太郎詩集
谷川 俊太郎
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(27)中井久夫訳

2008-12-05 00:11:33 | リッツォス(中井久夫訳)
軽やかさ   リッツォス(中井久夫訳)

夕陽が沈む。一隻の軽舟が入港する。
金と薔薇。濛気。無音。
一本のオールが光る。紫の縄梯子も。
すべては軽やか。石もない。森もない。
月は銀の眉毛。その屈折光。
きみのシャツのボタンが三つ、
かろうじて見える。
死も、この軽さの中では座をもたない。



 「金と薔薇」。「月は銀色の眉毛」。そうした華麗な美。それが「無音」のなかにある。「濛気」のなかにある。これは、不思議な対比である。その対比が「死」ということばと結びつく。
 「死も、この軽さの中では座をもたない。」の「もたない。」は反語である。そこには「死」は存在しないかもしれない。しかし、「死」の意識がある。意識がなければ「死」ということば自体、ここに登場しないだろう。
 否定されて、逆にくっきりと見えてくるものがある。「きみ」はたぶん、若い。若いから「死」は遠い存在であるはずだが、若いゆえに「死」を引き寄せる。悲劇を引き寄せる。「シャツのボタンが三つ」とは留められているのが「三つ」ということだろう。あとは留められていない。シャツがはだけ、そこから若い肉体ものぞいているだろう。労働のあとの若い肉体。「金とばら」にも「月」の「銀色の眉」にも負けない若い肉体。
 それは「死をもたない」。けれども、死が似合う。軽やかに悲劇を呼び寄せる。

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今野和代『ニコラス・スレッジ・ブルース・マシーンを聴きながら』

2008-12-04 11:23:58 | 詩集
今野和代『ニコラス・スレッジ・ブルース・マシーンを聴きながら』(思潮社、2008年10月30日発行)

 詩の朗読を私は一度だけしたことがある。大失敗だった。1行だけ、会場にいるひとに読んでもらうことにしたのだが、その人がその1行だけではなく、その後も読んでしまって、収拾がつかなくなった。せっかく会場にひとがいるのだから、そのひとの声を取り込み交流をしなければ朗読の意味はないと私は思っていたのだが、うまくいかなかった。念入りにリハーサルをすればなんとかなるのかもしれないが、それでは異質なものがまぎれこむという感じはなくなり、結局、読む技術だけの勝負になる。それではおもしろくないだろうなあ、と思う。

 今野和代の『ニコラス・スレッジ・ブルース・マシーンを聴きながら』は朗読した作品を一冊にしたものらしい。私は今野の朗読を聞いたことがないので、これから書くことは朗読詩に対する感想ではなく、あくまで書きことばの詩集を黙読したときの感想である。今野が読んでいるときに、どんなことが起きたのか、それを今野がどう取り込んで詩を動かしていったのか、そういうことはいっさいわからないままの感想である。ただし、私は、その作品が今野だけのパフォーマンスではなく、観客を取り込んでのパフォーマンスの「台本」と受け止めながら読んだ。

 「破れガラス」という作品が私にはおもしろかった。
 安部公房の「友達」のような作品である。誰かが今野を訪ねてくる。そして部屋に入り込み、眠る。そのひとの数がどんどん増えてくる。この状況を観客を動員しながらことばにするとおもしろいだろう。観客の反応によって、ことばをかえていかないと詩がつづかない、という形で展開するとおもしろいだろうと思う。
 その途中。

「ちょっと みなさん 勝手に人の部屋に入り込んで
どういうつもりですか
出ていってください!」
抗議をしている声が自分のしらない女になって金属音で響く

 詩の過程で、自分が「自分の知らない女にな」る。他人に「なる」。あ、いいなあ。詩とは本来自分であることを抜け出して他人になってしまうことである。自分が自分でなくなるためにことばを動かすのが詩である。その新しい自分が自分の望んでいた自分であるときは、まだ、自分を脱出したとは言えないかもしれない。他人の力で、他人と出会うことで、自分の望まない自分になってしまう。それを、そのままことばにして再現できたら、これは傑作だなあ。スリリングだなあ、と読んでいて、どきどきする。
 この詩の中で、今野はもう一度変化する。
 追い返した知らない人を追いかけて外へ出た瞬間、自分の部屋なのに閉め出されてしまう。部屋に入れなくなる。
 詩の最後の部分。

「ごめんなさい こんのが悪かったです 家に入ってください」
思い荷物を半分持って 戸をあけ 入ろうとすると
いつのまにか 中から閉じられてしまっていて開かない
ドアが壊れるくらい叩く
たちまち四肢は痛いほどしばれる寒気に襲われ始めた
このままでは凍え死んでしまう
「いいかげんにしてください あなたたちは大嫌い 人の気持ちに
つけこんで するってズカズカ入ってくる ここはホテルではありません」
憤慨した自分の声が戸の内側から聞こえてきた

 どれが本当の自分?
 わからなくなる。この瞬間がいい。自分を脱出するということは簡単ではない。いつだって自分を脱出することなんかできない。ただ自分が自分であるかどうかわからなくなる。それだけのことなのかもしれない。だが、その自分がどういう自分であるかわからないという「場」をくぐりぬけなければ、「思想」は身につかない。「思想」は肉体に放ってくれない。

 こういう状況を、今野は「声」とともにつかんでいる。「声」で今野は自分を確認し、同時にとまどっている。ことば、ことばの内容ではなく、「声」が問題なのだ。この「声」へのこだわりがいい
 「声」が今野にとっての「思想」なのだ。

 結局、今野の詩は、実際に「声」を聞かない限り、どんな感想を書いても無効かもしれない。無効だろう。声が変わる瞬間を聞いてみたいものだ。




ニコラス・スレッジ・ブルース・マシーンを聴きながら―ポエトリー・リーディング詩集
今野 和代
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(26)中井久夫訳

2008-12-04 00:07:23 | リッツォス(中井久夫訳)
色彩について   リッツォス(中井久夫訳)

彼いわく、色を避けるべし。最後の最後に
せいぜい茶色、灰色。オフ・ホワイトの空間。
考え抜いたあげくに残った色。厳粛さ。だが、
彼の口は深紅色。薄い青みがかったモーヴ色の翳りが
下唇と顎の間に。



 カヴァフィスとリッツォスの違いはなんだろうか。こういう作品を読むと、必ずそう思ってしまう。
 男が男の肖像を描いている。その、モデルのとらえ方というより、モデルの対象そのものがたぶんカヴァフィスとリッツォスは違う。カヴァフィスの場合、もっと崩れている。なんというか、下卑たところがどこかにある。人を堕落させる生々しさがある。その堕落が、不思議に人間のいのちの生々しさ、生きている足掻きのようなものをを浮かび上がらせる。
 リッツォスには、そういう生々しさがない。(印象批評、記憶による感想でしかないのだが、そう思う。)
 最後の2行も、なんだか美しすぎる。人間を見ているというよりも、完璧な、すでに完成された絵を見ているような感じになってしまう。カヴァフィスだと、絵の印象は消え、生身の人間が浮かび上がってくるのだが。

 リッツォスは見ている人間、視力の詩人、カヴァフィスは触る人間、触覚の詩人なのかもしれない。
 視力と触覚の一番の違いは対象との距離である。見るためには対象から離れなければならない。触るためには対象に近付かなければならない。その距離の差が、孤独の差になってあらわれる。リッツォスの孤独は透明で冷たい。カヴァフィスの孤独は不透明で温かい。

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谷川俊太郎「モンゴルのはじっこ」

2008-12-03 08:51:57 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「モンゴルのはじっこ」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 とても素朴な感じがする。そして、たぶん、谷川俊太郎の詩の魅力は、この素朴な感じを失わないことだと思う。
 詩とは異質なものの出合い、その衝撃だが、ここでは谷川は、その異質なもの、とても信じられないような素朴さで書き表している。

初めての土地へ行った
坊主頭のような土地だった
頭の中身の見当がつかなかった
昔のレニングラードみたいな建物があった
そこで賞状と勲章を貰った
髭の老詩人がうちには勲章が沢山ある
今日はそのうちの三つだけつけてきたと言った
らしいが通訳が頼りないから保証できない

 1連目。ここでの「異質」はたとえば「坊主頭の土地」や「レニングラードみたいな建物」ではない。もちろん、それも谷川にとっては「異質」であろうけれど、そこには異質と異質の出合いはない。単なる未知のものとの出合いである。未知であるから、その「頭の中身」に見当がつかないのはあたりまえである。
 この連での「異質」は最後の2行だ。

今日はそのうちの三つだけつけてきたと言った
らしいが通訳が頼りないから保証できない

 特に、最後の行。ここには疑いがある。疑問がある。谷川の中から、何かが生まれはじめている。現実をそのまま受け入れるのではなく、現実と谷川の思いが出合い、そこに融合ではなく、衝突が生まれている。異質なものが出合い、衝突しているのである。
 その「衝突」を保証しているのが、疑念である。「思い」である。
 詩は異質なものの出合い、という定義(?)のほかに、詩は「思い」を書く、思っていることを書くという定義もあるかもしれない。後者の定義は、実に素朴で、小学校の国語の授業の定義のようだが、そういう素朴な定義につながるものを谷川はここでは巧みに生かしている。「思い」「思ったこと」を書き、それをそのまま「衝突」にまで高めている。

 2連目には同じ構造が出てくる。

凸凹道を古いトヨタやニッサンが走っている
真新しいハマーもいたのに驚いた
ベルリンを指す戦車の記念碑があった
スコットランドに似ている丘のふもとの
白いフェルトで作られた家に行った
広い広い草原なのに塀が立っているので
ここでも土地バブルかと思ったら
狼の侵入を防ぐための柵だった

 「驚き」は詩であるかもしれないが、「真新しいハマー」はこころを深くからは裏切らない。そういうものは、軽い詩である。
 この2連でも、最後の2行がすごい。土地バブルの象徴と「思ったら」、柵だった。ここでは「思い」が裏切られている。それも他者の具体的な生活によって、どんなふうに暮らしをするかという「思い」によって裏切られている。
 これは1連目の疑念を超える衝突である。衝撃である。1連目は疑念であるが、ここでは「土地バブル」を想像する想像力そのものが否定されているからである。自分の想像力を否定するものが現実に存在する--その発見が、この作品の核である。自分の「思い」を否定するものとの出合い、それが詩なのである。
 3連目は、その結論のようなもの。

土産屋でポルノトランプを買った
浮世絵もどきの絵がなんとも下手糞で
私の内なる助平が腹を立てた
滑走路が一本しかないのに横風が吹いて
帰りの便が夜中になって北京に一泊
一日損したはずだがちっともそう感じなかった
初めての土地へ行けたのだもの
モンゴルのはじっこに触ったのだもの

 「ちっともそう感じなかった」。そう感じるここころが、別の感じ(思い)によって否定される。そして、生まれ変わる。新しい人間に。新しい思い(想像していなかった思い)に満たされることは、新しい人間に生まれ変わることに等しい。谷川は、そんなふうにして詩を書いている。

 この詩は、とても素朴に見えて、とても技巧的でもある。この3連目。その構造は1連目、2連目とは少し違う。1連目、2連目には、最後の2行で「思い」の衝突があった。異質の出合いがあった。3連目は、その異質の出合い、衝突、古い思いの否定が最後には出てこない。最後の2行には顔を出さず、その前に書かれている。いわば、隠されている。
 最後は、そういうものと無縁のような、素朴な素朴な感想になっている。「初めての土地に行けたのだもの」と、まるで初めて海外旅行をする子どものような感想。「モンゴルのはじっこ」。その「はじっこ」という口語の、子どもっぽい響き。素朴そのものの響き。
 こんな素朴な感想が書けるのは、その前の「そう感じなかった」という行で起きた「生まれ変わり」(再生)そのものの影響である。
 --という感想へ、すーっと谷川のことばはひっぱっていく。

 あ、すごいなあ、と思う。





生きる わたしたちの思い
谷川 俊太郎 with friends
角川SSコミュニケーションズ

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