詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

朝日カルチャーセンター福岡、2019年09月02日

2019-09-15 21:47:15 | 現代詩講座
谷川俊太郎の世界(朝日カルチャーセンター福岡、2019年09月02日)

 受講生の作品を読み、感想を語り合った。

まっすぐに   池田清子

すっくと
立ち上がれたらいいな
腰を伸ばして
背すじを伸ばして
肩を自然におとして
顔を前に

そうしたら
すたすたと
歩いていけるような気がする

--どんな感想を持ちましたか?
「立ち上がれたらいいな、伸ばして、伸ばしてというリズムが、肩を自然におとしてにつながっていくのがいい。肩をの一行が特にいい」
「顔を前に、に前向きな気持ちが表れている。すたすたというリズムも気持ちがいい。そうしたらという一行は少し理屈っぽい。なにか、小競り合いがあるような感じがする」
「私はあまり身体表現をつかわないので、すたすたとか、印象に残る」
--私は、すっくということばから始まるのがいいなと思いました。立ち上がるときの描写なのだけれど、どういうことばからはじめるか。すっくのなかに、そ以後のことばの動きがすでに含まれている。
 肩を自然におとしてというのも、いいなあ、と思いますね。それまでの「立ち上がる」「伸ばす」という動詞とは方向が逆なのだけれど、反対のものを含むことで肉体に広がりが出てきている。緊張感だけではない「自然」が生まれてきている。「威張らずに」という感じにもつながって、いいなあ、と思いますね。
 立ち上がり、歩きだすまでのからだの動きが、腰、背筋、肩、顔と自然に下から上へ動いている。これも詩を自然な感じにしていると思います。立ちあがるときの視線の変化がそのままあらわれている。無意識なリズムがむりがなくいいなあ、と思います。
 池田さんは、どの行にいちばん思い入れがありますか?
「すたすた、を読んでもらいたい。すたすたと生きていきたいと思いがあるので」
--さっき、そうしたら、について、小競り合いという批評があったのですが……。
「二連目は詩の結論なので、必要かなあと思います。結論を導くためのことば」
--書いた池田さんは「そうしたら」に、どういう気持ちをこめました?
「立ち上がって、背筋を伸ばしてというからだの基本ができて、そうしたら、すたすたと歩いていける、という気持ち」
--そうしたら、は接続詞。接続詞があるぶんだけ、ことばの動きがゆっくりしてしまうのかもしれないですね。なくても「意味」は通じるけれど、でも、書かずにはいられない。書いている人は、それを書かないとことばが動かないと感じるけれど、読む人は読みとばしてしまうのが接続詞かもしれないですね。
 でも、池田さんは書きたかった。そうしたら、には意味がある。からだの基本ができる、準備ができる、そうしたら歩いていける。からだがととのったことを池田さん自身が確認している。そういう意味をこめている。だから、ここに池田さんの「思想」がいちばんあらわれているかもしれない。
 そうしたら、も、すたすたも誰もがつかうことばであり、「意味」はわかっているつもりだけれど、でも言いなおそうとするとむずかしい。そういうことばが、詩では重要だと私は思っています。
 言いなおすことがむずかしいといえば、書き出しの、すっくも言いなおしにくいですね。どう言いなおせます? ここに外国人がいると仮定して、すっくというのはどういう意味ですか?と聞かれたら、どう説明できるか。
「しゃんと、かなあ。足を地につける感じがする」
「気軽に、力まずに、かな。でも、ほかの擬態語では言えない」
--すたすたは、どうですか?
「自然に、止まることなく、という意味をこめたかったんですが。跳んだりはねたりしないで、自然に」
--あ、いまの説明いいなあ。じゃあ、逆に聞いてみよう。すたすたの反対のことばって、なにがありますか?
「ばたばた」
「あたふた」
「ぐいぐい」
「もたもた」
--そうやってことばを並べてみると、すたすたの意味がよくわかりますね。軽くて無理がないのが、すたすた、なんでしょうねえ。書かれていなことばを思い浮かべると、書かれていることばの「奥」(深み)が見えてくる。
 この詩はすっくではじまり、そうしたら、すたすたとつながっていく。「さ行」のことば。それがひびきあってリズムと音楽をつくっている感じもします。無意識にそうなるのだと思うけれど、こういう無意識が重要だとも思います。


水脈に帆をはって   青柳俊哉

炎暑のさなか
夜明けの枕元から
森のひぐらしの声がまいあがる
その下で鳥の群れのように自由に形をかえて
かえるとさぎとせみが輪唱する
そして遠いむかし
森の高い木から雪原にむかってなく漆黒のとり
それらの声は
野のひろがりにふれながら水脈深く大きく帆をはって
海へかえっていく心的な羽である

それらは
雪原をとびたち郷愁のようにわたしにかえってくる
生物的な空間である

今 この部屋をとびまわるあまずっぱい羽音のはえも
海へおぼれる

--いま、網屋さんと池田さんにも朗読してもらったのだけれど、青柳さん、どう感じました?
「最後の二行がきざだったかなあ」
--網屋さん、池田さん、読んでいて気持ち良くなったとか、つまずいたとか、そういうことはなかったですか?
「野のひろがりにふれながら水脈深く大きく帆をはって/海へかえっていく心的な羽である、が印象に残った。気になったのは、心的な羽、生物的な空間ということば。唐突な感じがする」
「いろいろな声が聞こえてきて、いいなあと思った」
--池田さんの詩に比べると、ことばも多く、行の長さも変化に富んでいますね。読みながら、ここは大きい声で読みたいなあ、ここはつまずくなあというのは、書いているひとよりも読んでいるひとの方が意識できるかなあと思って、聞いてみました。
 気持ちがいいなあと思うのは、意味をつかみとれなくても共感している部分と思うですよ。
 網屋さんが指摘した、心的な羽、生物的な空間というのは、硬いイメージがするのかな? でも青柳さんは、こういうことばが書きたいんですよね。
 池田さんは、野のひろがりからはじまる二行と、雪原からはじまる二行のどちらが好きです?
「郷愁のようにわたしにかえってくる、という部分が好き」
--網屋さんは?
「野のひろがりの方が好き。イメージが広がっていく。ひろがりが気持ちがいい」
「イメージが正確につかみとれているかどうかわからないけれど、でも、すばらしい」
--あ、いまの指摘、とても大事だと思います。イメージがはっきりわからない。けれど、好き、というのは。イメージを受け止めるとき、どのことばを核にするかによって世界が違ってくると思う。そこに読む人の個性が出てくる。
 たとえば、水脈に深く大きく帆をはってというのは、むずかしいと思う。帆をはるのは水脈の上ですね。でも水脈に深く、と書いている。そうすると水にもぐりこんでしまう。だから、矛盾しているのかもしれないけれど、そのわからなさのなかに魅力がありますね。
「深い森の中の深い水脈を思い浮かべ、すごいなあと思う」
--ことばの順序とは関係なく、読み手がことばの別の順序をみつけだし、読んでしまう。そういうことが起きるのが詩なのではないかな。書いた人の意図は意図としてあるんだけれど、読む人は読む人で、自分の好きなように読む。それが間違っていても困らないのが詩かな。
 散文の場合は、意味がちゃんとつたわらないと、わからない、と言われてしまう。けれど詩は、意味はわからないが瞬間的なイメージがそこにある、という感じで感動が生まれる。意味にならなくもいい、というか。
 書いている人もわからない部分があるのが詩かな。何か書こうとして書き始める。そのことばを別なことば(イメージ)が追い抜いていってしまって、姿を現わす。そういうことが詩では起きていると思う。そういう部分に、私も、すごく魅力を感じる。
 それがこの二行では、うねりのように動いている。うねりをだすには、こういう長さが必要なんだと思う。
 そして、こういう大きなうねりのようなことばの動きがあるから、心的な羽や生物的な空間という、いままでとは違ったことば、異質なものがぱっと飛び出してくることができると思う。イメージがどういうものか、それを具体的に説明することはできないけれど、あ、これはイメージなんだとわかるといえばいいのかな。羽といっても具体的な、たとえば一連目に出てくるさぎの羽ではなく、イメージに昇華された羽といえばいいのかな。この、ふつうのことばでは言えないイメージそのものを書くために、前の、うねりのようなことばの運動があると思って、私は読みました。
 生物的な空間については、青柳さんがどういうつもりで書いたのか、聞いてみましょうか。
「心的と生物的は、一見違うようだけれど、朝、めざめたときに聞いたいろいろな声とひとつになるような感じ、いのちのざわめきのようなものに入っていく感じを書きたかった。生物的というのは、自分を含めて過去からある鳴き声、それが自分にもどってくる感じ。生物としてつながっている感じをあらわしたかった」
--いま、青柳さんが、いのちがずっとつづいてきているというようなことを語ったのだけれど、それにつながるようなことばが詩の中に書かれていませんか?
「郷愁」
--そうですね、私も郷愁のようにわたしにかえってくるという部分に、何かとひとつになるという感じがあるかなあと思う。池田さんが最初に、郷愁の行が印象に残ったというのは、たぶん、青柳さんが書こうとしているものと共通するものを予感のようにしてつかみとっているからではないかな、と思う。
 郷愁というのは昔ともつながりますね。一連目に遠いむかしということばもある。そういうことば同士のひびきあいみたいなものが詩を作っていると思う。
 で、いま、詩の後半がいいなあ、と語り合ったのだけれど、前半部分で、ここは気に食わない、ここはおかしいんじゃないかというようなところはありませんか? 読みにくいところはなかったですか?
「最初は、いまのことを書いている。途中に、遠いむかしが出てくる。森の高い木から、というのは昔なんですか?」
--どう思います? 実際問題として、いまとは時間が違う遠い昔かどうかということだと思うのだけれど。網屋さんは、どう思いますか。
「遠いむかしは、あとにつづくことばにつながっている。それがまた、自分にかえってくる」
--具体的に遠いのか。遠いものとして思い浮かべているむかしなのか。同じことなのかもしれないのだけれど、私は、遠いむかしからは具体的な描写ではなく、想像としての描写だろうと思って読んだ。それこそ「心的」の世界。歴史的な年代をつけられるむかしではなく、抽象的なむかし。思い出すときだけあらわれてくるむかし。だから、ある意味ではすぐ近くにある。
 前半は、実際の現実の世界。
「私は、森のひぐらし、が奇妙だなあと感じた。ひぐらしって朝鳴くかなあ」
--いま、言ったこと、やっぱり大事だと思う。読みながら、これはどうして、と思うことが。その瞬間、よみづらいと感じると思う。
「かえるとさぎとせみが輪唱するのかなあ、というのも気になりますね」
--最初に、青柳さんは最後の二行がきざかなと言ったんだけれど、私も、前半の具体的な描写の方がちぐはぐで変だなあと感じました。書きたいことはわかるのだけれど、どうも頭で書いてしまっている感じがする。もちろん後半の思念の世界が現実に反映してきているので、普通のリアリズムではなく、思考のリアリズムとして朝の世界を描いたということもありうるので、簡単に、リアリズムに反するとは言えないんだけれど。ただその場合、書き出しがナチュラルすぎるかなあ。どこまで思念(思考)の世界として徹底させるかというのはむずかしい。
 私が、このひぐらし、かえるとさぎとせみの輪唱につまずいたので、みなさんがどう読んだかなと思い、聞いてみました。
「さぎはよくなかったかな」
--さぎは、ギーというような、汚い声ですからね。
「輪唱まではしないし」
--青柳さん自身がきざといった最後の二行は、どこがいちばんきざなんだろう。
「この二行がなかったら、生物的な空間であるでおわったら、あまりにも突き放す感じがするかなと思って書いたんだけれど。あまずっぱい羽音がよくないのかな」
--詩を書いていて、いいことばがかけたなあと思ったあと、ここでおわったら中途半端かなあと思って、どうしても何か付け足してしまうということがあると思う。でも、読者は意外と中途半端と感じないし、途中でおわった方が余韻があると思うかもしれない。
 池田さんの詩にもどると、顔を前に、までだとまだ何か書き足したい。それで最後の三行があるのだと思うけれど。
 青柳さんの詩の場合は、生物的な空間であるまでだと、池田さんの顔を前にまでのような気がするんだと思う。それで、どうしても付け足してしまう。
「生物的な空間である、で終わると、抽象のまま。どうしても現実に戻しておきたいという気持ちになる」
--網屋さんだったら、どうします? この二行。
「どうしますって(笑い)。青柳さんは、海へおぼれるというのは、どういう気持ちで書かれたんですか?」
「水脈を通って海へかえっていくという流れのなかで、海を出したんだけれど。これを書いているとき、たまたまハエが飛んでいたので、それを書いたんだけれど」
「あまずっぱいというのは、恋とか、郷愁とか、そういうものにつながっているのかなあと思って読んだのだけれど。恋を書きたかったのかとも」
--前に海へかえっていくということばがあるので、最後にもう一度海をだす事で世界を閉じたかったのかな、と私は読みました。
 海へおぼれるというのはいいけれど、その前の今を何によって表現するかというのがむずかしいですね。


風になりたい   網屋多加幸

僕の旅はいつも突然やってくる
旅の目的を数えたら数えきれない

硬い机に縛られた日々
どしゃぶりの雨に行き場もなく
棺に入れられる
他人の噂話はシャボン玉となって
僕の傍を過ぎると雨雲の中へ溶けてゆく
僕はリズミカルに頷きながら
酸欠の金魚のように
どす黒いものを吐き出していた

 夢は崖から転げ落ち
 墓地に枯れた花が活けられた

タンスの奥に折り目正しく畳まれていた
破れたジーンズとよれよれのTシャツは
物干し台の上で風に巻き上がる

 乾いた布は水を吸い込み
 色を取り戻した

バックパッカーは日本を抜け出す
手には片道切符と世界地図だけ
硬いマンフォールの蓋を押し上げて
星あかりの道を歩く
人間は吐き出したものが多いほど
美味しいものを食べたくなるようだ
だが、歩きながら料理はできない
立ち止まるところが求めている処だ

知らない言葉の世界で身ぐるみ脱がされる
温かいスープも笑顔も優しさも
全部そこに用意されている

僕には旅に出る目的なんて一つもない
手のひらを広げよう
握られたこぶしの隙間から
砂がこぼれだす

「印象が、すぐにはまとまらない」
--池田さん、声に出して読んでみてください。声に出して他人の作品を読むと、なんなく自分の声と重なる部分を感じると思うけれど。たとえば、タンスの奥にからの三行などを読むと、これは自分でも知っているな、と思うところがあると思うけれど。
「最初の、風になりたいん、という気持ちがわかる」
--青柳さんはどうですか?
「バックパッカーの連がいいなあと思います。星あかりの道を歩く、が印象的」
--網屋さん自身は、どこがよく書けたと思います?
「いろいろ書きすぎたけれど、知らない言葉の世界に旅を徴させた」
--いろいろなイメージが書かれているけれど、たとえば池田さんは酸欠の金魚を見たことがあります? 
「口をぱくぱくさせている様子ですね」
--それを、この詩では、どす黒いものを吐き出すと表現している。
「口からどす黒いものを吐き出しているのは、見たことはないですね」
--私も見たことはないのだけれど、そういう実際には見えないものを、ことばにして存在させる、そういうことが詩の方法のひとつとしてある。金魚のあえぎみたいなものと、自分の感じるあえぎ、肉体のつらさみたいなものを重ね、金魚を自分の象徴にする。金魚になって、網屋さんが生きている。
「どしゃぶりの雨に行き場もなく、棺に入れられる、という感じとかもそうなりますね」
--棺に入るというのは体験できないけれど、土砂降りの雨に降られという経験はだれでもあると思う。そういう自分の経験と重なる部分を手がかりに読んでいくと、作者が書こうとしたことを追体験しやすくなるかなと私は思います。
「立ち止まるところが求めている処だ、というのがいいですね」
--硬いマンフォールの蓋を押し上げて、星あかりの道を歩く、というのはどうですか?
「硬いマンフォールの蓋を押し上げて、というのは現実そのものというよりも、現実のありようのようなもの。それがあるから、星あかりの行が美しくなる」
--わからない部分があると、逆にそのことがわかる部分を輝かせるというような感じですね。そういうことが、この詩のなかにはたくさんあると思う。
 乾いた布は水を吸い込み、色を取り戻したというのも鮮やかなイメージですね。
 こうした行が印象的なのは、たぶん最初に書いてある、硬い机に縛られた日々ということばがあるからだと思う。サラリーマン、公務員の生活なのだろうけれど、それに対比して、別な世界が生き生きと動くのだと思う。
「書いているうちに、予定していなかったことばを思いついて、それをたくさんいれてしまったかなあ、と少し反省している。旅に出て、いろいろな人と出会う感じを書きたかった」
--ジーンズとバックパッカーの組み合わせは、ごく自然だと思うけれど。物干し台で風に巻き上がるという現実の風景と、それに重なるようにして乾いた布が別のイメージをぶつけてくるところは刺戟的だと思う。対比が美しいなと思う。
 書いてあることはたしかに多いのだけれど、書けるときに書いておいて、あとで整理すればいいのだと思う。いろいろな世界つながっていく可能性がある。楽しくなると思う。
「最後の連の意図がよくわからない」
「世界を歩いている夢みたいなものを書きたかった。最後の砂は、最初薄汚れた砂にしようかと思ったけれど、それでは夢が出てこないと思い、砂にした。旅の目的は数えられないくらい多いと書き、最後に旅の目的は一つもないと終わる。この対比を書きたかった。二連目に、旅の理由をあれこれ書き始め、でも、結局そういうことは旅の目的ではない、ということを一つもないということばで言いなおす。結局、世界のひとたちと出会う、その出会いのなかにだけ旅の目的がある、人と出会うという一つのことが旅の目的、といえばいいのか。逆説的な言い方だけれど」
--最初はいくつもあったけれど、実際にやってみると一つもないというのは、よくあることだと思う。そういうことに気づくまでにはいろいろな変化がある。それが、いくつものイメージの展開になっているのだと思う。
「イメージの変化が唐突で、実際に旅している感じがする。そこがおもしろいなあと思う」
--夢は崖からの二行、乾いた布の二行は、一字下げになっていて、イメージが独立していて、効果的だと思う。
「最後の砂がこぼれる、というのは広がっていくんですか」
「イメージとしてはいくつもあって、一つに限定しなくていいかなと思う」
--私だけの印象かもしれないけれど、他人の噂話はシャボン玉となって、というのはわかるけれど、それが、僕の傍を過ぎると雨雲の中へ溶けてゆくが、非現実的な感じがする。イメージだから非現実でもいいのだけれど。書いている人がそう感じるといわれれば、それまでのことなのだけれど。
「それをリズミカルに頷くんですよね」
「どしゃぶりの雨を受けて、雨雲が書かれているのだと思う。噂話と現実との対比が書かれているのかも。噂話は必ずしも現実ではない。しゃぼん玉のようなもの。でも、棺かはない方がいいかなあ。景色というか、全体の調和がとれない」
--全体の調和は、そのうちに生まれてくるので、とりあえず書いてみるというのも楽しいと思う。こうやって感想を語り合うと、自分のことばの脈絡と、他人が感じる脈絡の違いがわかり、それが参考になるかなあと思います。
「でも、単純なイメージの羅列ではなく、複雑につながってる感じがする。そこがおもしろい」




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