「菅原伝授手習鑑」「達陀」「弁天娘女男白浪」。
「達陀」は僧集慶が尾上菊五郎、青衣の女人が坂田藤十郎。踊りは一部に不満がある。たとえば、最初の場の、松明を持って石段を登る最後の男。彼だけが石段を踏みしめていない。ほかの役者は全員、松明を持って石段を登るときの慎重な足さばきをするが、最後の役者はただ登ってゆくだけである。しかし、とてもおもしろかった。
おもしろい理由はいくつかある。そのひとつは、私はこの演目を知らないこと。昭和42年に尾上松緑が初演というから、新しい出し物なのだ。実際、見ていて、とても新しいと感じる。その「新しさ」が、おもしろさの最大の理由だ。
チラシから内容を引用する。
読経とダンス(と、思わず書きたくなる)の組み合わせが斬新で、まるで現代のダンスを見ている感じがする。ただし、歌舞伎の所作がモダンダンスとは違うので、ダンス(あるいは「舞踏」)を見るよりも、もっともっと「新しい」感じがする。見慣れていないものを見る衝撃に襲われる。
実際、昭和42年が初演というから「現代」の歌舞伎なのだ。そして、歌舞伎とはダンスそのものなのだ。特に、群舞が、歌舞伎の動きを満載していて、とても愉快だ。舞台を踏みならす足の音がこころをわくわくさせる。
火の粉が舞い散るなかでの群舞は壮観である。何人で演じるのが基本なのか知らないが、今回の舞台の人数よりももっと多い方がおもしろいかもしれない。
ただし、菊五郎の舞いは、群舞をリードするという意味では、なんとなく力強さに欠ける。上半身と下半身が緊密に動きすぎる。しなやかすぎる。力のタメというのだろうか、無理な感じがしなくて、そこがおもしろくない。
これは私だけの感覚かもしれないが、歌舞伎がおもしろいのは、動きに無理があるからだ。たとえば群舞のなかで、僧たちがとんぼを切る。着地のとき、右足は曲げているが左足は伸ばしている。片方の足を曲げ、片方を伸ばし、尻から着地する。そこには、体育の時間にやる前方宙返りにはない無理がある。無理があるから、そこに「美」がある。
菊五郎の動きには、そういう「無理」がない。
全体がダンスという印象があるなかで、藤十郎の舞いだけは異質である。それもおもしろい。女の執念、情念を舞うのだが、手の動きがとてもいい。手といっても、振りそでからのぞく手の甲から先、つまり指だ。指の動きが情念をあらわしている。それは自然な指ではなく、無理をしてつくりだした形なのだろうけれど、その無理のなかに「美」が結晶している。白塗りの指がライトをあびてゆっくり動くと、はかなさが、くやしさが、哀しみが、そこからあふれてくる。
時間にすると藤十郎がでている時間は少ないのだが、群舞との対比が強烈なので、最後まで強い印象を残す。藤十郎の舞いと対抗するには菊五郎だけでは不十分で、群舞が必要なのだ、ということを実感(?)させられる。
モダンダンスとの関係(?)でいえば、読経を音楽としてつかっている点のほかに、影を見せる点にも新しさを感じた。舞台の中央に薄膜があり、そこに僧たちの影が映る。そして、その影になった部分、薄膜が光を反射しない部分にだけ、薄膜の向こうの僧たちの動きが見える。不思議な視覚の試みをしている。それも楽しかった。
*
「弁天娘」は弁天小僧が菊之助。南郷力丸が松緑。菊之助は菊五郎の美形をうまく引き継いでいるなあ、と感心した。(寺島しのぶ、との対比でのことであるけれど。)菊之助の声は、私は好きである。だが、松緑の声は物足りない。声そのものはなかなか魅力的だけれど、母音の感じが弱い。そのため、早口という印象が残る。長い声のなかで表情がかわるといいのになあ、と思う。
「達陀」は僧集慶が尾上菊五郎、青衣の女人が坂田藤十郎。踊りは一部に不満がある。たとえば、最初の場の、松明を持って石段を登る最後の男。彼だけが石段を踏みしめていない。ほかの役者は全員、松明を持って石段を登るときの慎重な足さばきをするが、最後の役者はただ登ってゆくだけである。しかし、とてもおもしろかった。
おもしろい理由はいくつかある。そのひとつは、私はこの演目を知らないこと。昭和42年に尾上松緑が初演というから、新しい出し物なのだ。実際、見ていて、とても新しいと感じる。その「新しさ」が、おもしろさの最大の理由だ。
チラシから内容を引用する。
お水取りの儀式が始まり、僧集慶が過去帳を読み上げていると、青衣の女人が忽然と現れ、過去の恨み言を述べますが、集慶が青衣を投げつけ妄執を断ち切ると、女人は消え、集慶を中心に練行衆の行法が始まります。袈裟を絞り上げ、松明を振って、達陀の妙法が激しく舞われます。歌舞伎では珍しい勇壮な群舞が見物です。
読経とダンス(と、思わず書きたくなる)の組み合わせが斬新で、まるで現代のダンスを見ている感じがする。ただし、歌舞伎の所作がモダンダンスとは違うので、ダンス(あるいは「舞踏」)を見るよりも、もっともっと「新しい」感じがする。見慣れていないものを見る衝撃に襲われる。
実際、昭和42年が初演というから「現代」の歌舞伎なのだ。そして、歌舞伎とはダンスそのものなのだ。特に、群舞が、歌舞伎の動きを満載していて、とても愉快だ。舞台を踏みならす足の音がこころをわくわくさせる。
火の粉が舞い散るなかでの群舞は壮観である。何人で演じるのが基本なのか知らないが、今回の舞台の人数よりももっと多い方がおもしろいかもしれない。
ただし、菊五郎の舞いは、群舞をリードするという意味では、なんとなく力強さに欠ける。上半身と下半身が緊密に動きすぎる。しなやかすぎる。力のタメというのだろうか、無理な感じがしなくて、そこがおもしろくない。
これは私だけの感覚かもしれないが、歌舞伎がおもしろいのは、動きに無理があるからだ。たとえば群舞のなかで、僧たちがとんぼを切る。着地のとき、右足は曲げているが左足は伸ばしている。片方の足を曲げ、片方を伸ばし、尻から着地する。そこには、体育の時間にやる前方宙返りにはない無理がある。無理があるから、そこに「美」がある。
菊五郎の動きには、そういう「無理」がない。
全体がダンスという印象があるなかで、藤十郎の舞いだけは異質である。それもおもしろい。女の執念、情念を舞うのだが、手の動きがとてもいい。手といっても、振りそでからのぞく手の甲から先、つまり指だ。指の動きが情念をあらわしている。それは自然な指ではなく、無理をしてつくりだした形なのだろうけれど、その無理のなかに「美」が結晶している。白塗りの指がライトをあびてゆっくり動くと、はかなさが、くやしさが、哀しみが、そこからあふれてくる。
時間にすると藤十郎がでている時間は少ないのだが、群舞との対比が強烈なので、最後まで強い印象を残す。藤十郎の舞いと対抗するには菊五郎だけでは不十分で、群舞が必要なのだ、ということを実感(?)させられる。
モダンダンスとの関係(?)でいえば、読経を音楽としてつかっている点のほかに、影を見せる点にも新しさを感じた。舞台の中央に薄膜があり、そこに僧たちの影が映る。そして、その影になった部分、薄膜が光を反射しない部分にだけ、薄膜の向こうの僧たちの動きが見える。不思議な視覚の試みをしている。それも楽しかった。
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「弁天娘」は弁天小僧が菊之助。南郷力丸が松緑。菊之助は菊五郎の美形をうまく引き継いでいるなあ、と感心した。(寺島しのぶ、との対比でのことであるけれど。)菊之助の声は、私は好きである。だが、松緑の声は物足りない。声そのものはなかなか魅力的だけれど、母音の感じが弱い。そのため、早口という印象が残る。長い声のなかで表情がかわるといいのになあ、と思う。