詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫「これは何という手か」

2023-04-07 23:18:15 | 詩集

中井久夫「これは何という手か」(『中井久夫集5』、みすず書房、2018年01月10日発行)

 中井久夫「これは何という手か」は、福岡在住の彫刻家、鎌田恵務の彫刻に寄せた作品と、『中井久夫集5』の「解説5」で最相葉月が説明している。中比恵公園に、その彫刻があるという。
 中井の訳詩が、たとえばカヴァフィスの声を聞き取ったことばなら、この詩は鎌田の彫刻の声を聞き取った声ということになるのか。

これは何という手か。
原初の岩盤から切り出された
こごしい岩の一片。
単純、動かず、
ただ存在する手である。
ほとんど足かと迷う手。
大地から湧いた幼い巨人の手。
まだ何も知らず、
何にも汚れず、何をも汚さない、
働きはじめていない手。
糸をつぐむことも、
木を削ることも、
漬物を漬けることも、
上顎についた漬物を取ることも、
闇をさぐることも、
飼い犬をかいなでることも、
汗ばむことも、
手をつなぐことも、
愛撫しあうことも
知らない手だ。
私は知らなかった。
このような、そういうことすべてをこえて、
ただあることを以てある手を。

 「ただ存在する手である。」と「ただあることを以てある手」と言い直されている。「存在する」を「ある」と言い直し、さらに「する」という動詞を「以て」と言い直している、と私は読む。
 この「以て」を言い直すというか、ほかのことばで説明し直すのはむずかしいが、私は、何の根拠もないのだけれど「即」を思い浮かべた。「同じ」、あるいは「強調」と言えばいいのか。
 だから、中井は何度も何度も言い直している。ひとつに限定しない。いくつにも言い直し、いくつにも言い直しながら、それがひとつである、と言っている。
 それはたぶん、中井の、治療の姿勢と似ているのではないだろうか。
 統合失調症のひとがいる。それは、ひとつの人間の生き方のありようなのである。いくつもある人間の生き方のひとつであり、そのひとつは、たとえば私から見ると、うまく同調できない(統合失調症のひととうまく共同生活ができない)ということであって、その原因が統合失調症のひとにあるか私にあるか(あるいは社会にあるか)は、ほんとうはわからない。統合失調症のひとがかわらなくても、私が何らかの形で変化すれば、私たちの関係はうまくいかもしれない。もちろん、そういうことは「治療」ではないかもしれないが、ふと、そういうことも思うのである。
 中井久夫の文章を読むと、そういうことも思う。
 どこまでも、どこまでも、自分を広げていく。自分を広げていって、そこにいるひとが自然な形で存在できる「場」を探し出そうとしているように見える。
 でも、そういう「意味」について語るのは、やめる。
 私がこの詩でおもしろいと思うのは、

漬物を漬けることも、
上顎についた漬物を取ることも、

 この「漬物」へのこだわり。それは単に「もの」としての「漬物」を超えている。「漬物を漬ける」はふつうの表現だが、ここには「頭韻」がある。ことばの調子が整う。このリズムというか「音」が、どうしても、もう一度「漬物」を引っ張りだしてしまうのだ。中井の「文体」には、何かしら、こういう感じがある。先に書いたことばが次のことばを誘い出し、音が往復し、そのなかで「論理」が補強されるという感じがある。
 それは

飼い犬をかいなでることも、

 で、いっそう、鮮明になる。「かきなでる」ではなく「かいなでる」。「穏便」が起きている。「飼い犬をかきなでる」でも意味は同じ。しかし、印象が全く違う。中井にとっては「かいなでる」でなければならないのだ。
 中井がつかうことばで言えば、ここでは、「チューニング・イン」が起きている。
 中井がめざしている世界は、「チューニング・イン」なのだと思う。広い世界がある。どこまで「チューニング・イン」できるか。それは、広げるだけではできない。矛盾する。そのとき、その場で、その世界に「チューニング・イン」する。
 中井が書いている世界(向き合っている世界)はとてつもなく広いが、それが「圧迫感」となることがないのは、中井が「体系」をめざしていないからだろうと思う。「体系」は、けっきょく、世界を閉じ込める。世界を開放することがない。中井は、世界を開放するために「チューニング・イン」をめざす。
 そのとても不思議な具体例が「飼い犬をかいなでる」という「音」のなかにある。ちょっと強引に言えば、「飼い犬をかいなでる」とき「飼い犬」と「飼い主」は「即」の存在である。飼い犬「即」飼い主。「かいなでている」のは飼い主ではなく、飼い犬である。こういうことは、犬を飼ったことがある人にはわかるだろう。それは「愛撫しあう」の「しあう」という動きなのであある。「即」とは「相互作用」なのである。

 「頭韻」に似た響き、リズム、音の動きには「まだ何も知らず、/何にも汚れず、何をも汚さない」の「何」のくりかえし、さらには「働きはじめていない手。/糸をつぐむことも、」の「い」ないから「い」とへの移行にも感じられる。

 もうひとつ、中井ならではのことばがある。「知らない」「知らなかった」。中井はいつでも「知らない」ものに向き合っている。「知らない」を「知らなかった」と言い直すために生きたひとである、と私は感じている。

 

 

 


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