詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ガース・デイビス監督「ライオン」(★★★)

2017-04-10 10:39:26 | 映画
監督 ガース・デイビス 出演 サニー・パワール、デブ・パテル、ニコール・キッドマン

 インドで迷子になった5歳の少年が、25年後にグーグル・アースで故郷を探し出したという実話。
 少年が登場するシーンがどれもすばらしい。
 迷い込んだ回送列車に乗って大都会にたどりつく。故郷から離れてしまった。ことばがわからない。人の表情を見て状況を判断する。不安と真剣が入り交じる。親切にしてくれるひとがいい人とは限らない。少年はどうやって「判断」したのだろうか。映画では具体的な説明はないのだが、フラッシュバックとして挿入される母の顔が手がかりかもしれない。母の顔に似ているか、似ていないか。形ではなく、表情の動き。目を見て、直感的に判断するのだろう。貧しいけれど、しっかりと注がれる視線。それが母親というもの。
 この少年は、もう一度、故郷を離れる。オーストラリアに養子にもらわれていく。保護してくれる「両親」はいるが、「迷子」であることにかわりはない。もうひとり、同じ孤児院から養子がくる。手がかかるこどもである。両親が手こずっている。それを見る。苦しむ母親の顔。愛情が、届かない。そのことを嘆くニコール・キッドマン。
 故郷をグーグル・アースで探し出すという「奇跡のストーリー」の背後に、この二つの母親の顔が重要な働きをしていると思う。故郷は生まれ育った場所というよりも、「母親の顔」なのだ。母親はこどもを優しく見つめ、喜び、また不安に苦しむ。
 青年になった主人公が、「いま、自分は幸せに暮らしているが、母と兄は私を探しているかもしれない」と言う。彼には、その「顔」が見える。そして、その苦しむ顔が見えるのは、実はニコール・キッドマンの苦悩する顔を見るからだ。
 主人公が覚えている母親の顔は、愛情にあふれ、喜びにあふれ、苦悩を隠している。けれどニコール・キッドマンは喜びと同時に苦悩の顔を見せる。二人目の養子が来てからは、苦悩の方が多い。苦悩の顔を知ることで、主人公は母親の苦悩を想像する。苦悩が、わかる。これが、この映画の一番のハイライトだと思う。そして、これがハイライトだとわかるのは、少年時代の迷子の少年の登場するシーンがとてもいいからだ。
 迷子の少年のことを気にかけない大都会のおとなたち。親切にするのは、少年を売り飛ばすため。ひとさらいが横行している。駅の係員(?)さえ、それを止めようとはしない。ひとにもまれつづけてきたのだ。ただ母の顔だけがなつかしい。会えないのは悲しいけれど、思い出すと落ち着く。
 青年はやがてグーグル・アースで故郷を見つけ出す。駅の給水塔も目印なのだが、それよりも大きな目印が母親の働いていた岩山。石運びをしていた山。それはまた、母親の顔の思い出でもある。石運びを手伝うと心配そうに気づかう顔。持ってきた果物を一緒に食べるときの喜びに輝く顔。母親の顔を思い出し、岩山を思い出し、近くの駅を見つけ出す。
 それからさらにグーグル・アースを駆使して、育った家を見つけ出す。入り組んだ路地を走り続ける。どんなに入り組んでいても、その道は真っ直ぐ。少年にとっては、脇道はない。迷路はない。ひたすら走り続ける。何度曲がっても、少年にはまっすぐに走っているという思いしかない。まっすぐに、ただまっすぐに母の顔をめざして走っている。このシーンが、ほんとうにすばらしい。少年には家で待っている母の顔が見えるのだ。
 この映画で私が気に食わないのは、多用される俯瞰の風景。グーグル・アースで故郷を見つけるということと深く関係しているのだが、「現代の奇跡」の「立役者」にしすぎている。人間の内部はグーグル・アースでは見ることができない。母親の顔に突き動かされるというドラマを消してしまいそうで、それがとても残念だった。
                      (KBCシネマ1、2017年04月09日)


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