詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎、秋亜綺羅、杉本真維子、谷内修三「鉄腕アトムのラララ」(3)

2022-06-02 09:34:08 | 詩(雑誌・同人誌)

谷川俊太郎、秋亜綺羅、杉本真維子、谷内修三「鉄腕アトムのラララ」(3)(2022年05月29日、日本の詩祭座談会)

 「ことばの肉体」についての補足(その3/あるいは「調べ」について)。
 音楽が話題になったとき、谷川は「調べ」ということばをつかった。この「調べ」とは、どういうものか。「調べ」ということばに対して、私の「ことばの肉体」は、どう反応できるか。
 私はきのう「調べ」は「和音」であると「誤読」して、私の感想を書いた。この「誤読」を引き起こす「私のことばの肉体」というものを、少していねいに語りなおそう。
 音楽の「調べ」ということばを聞いて、私は「旋律」を思い出した。しかし、谷川は「旋律」あるいは「メロディー」とは言わずに「調べ」と言った。似たことばに「響き」ということばがある。「調べ」と「響き」はどう違うか。「響き」の場合、私は「音色」を思い浮かべる。バイオリンの響き、トランペットの響き。「調べ」はバイオリンの調べとは言っても、トランペットの調べとは言わない。(私の場合。)どこかで、私は、「調べ」と「響き」をつかいわけている。太鼓(ドラム)の「響き」はあっても、太鼓の「調べ」はないなあ。(人によっては、あるかもしれない。)
 「調べ」は「調べる」という動詞につながる。「響き」は「響く」という動詞につながる。「調べる」には「言」があり、「響く」には「音」がある。まあ、「響く」はわきに置いておこう。「調べ/調べる」を、もう少し追いかけてみよう。
 「調べる」からは「調和」ということばを思い出す。「ことばの肉体」は「調べ/調和」をどこかでつなげる。「調和」とは「和」がなりたつように「調べる」、「和」の可能性を「調べる」ということか。「調べる」は、「ととのえる」かもしれないなあ。「周」には「周囲」ということばがある。「周知」ということばもある。どうも「周り」に「知らせ」、「調和/ととのえる」と関係するらしい。「調べ」から、まず旋律(メロディー)を連想したのは、旋律というものが「周囲の音」とつながって生まれるからかもしれない。太鼓の「調べ」と私が思いつかないのは、私にとって太鼓の音は旋律から独立しているからだろう。それは旋律ではなくリズムだと考えているからだろう。
 そして、この「周囲の音」、その「音との調和」というものを連想したとき、そこに「和音」ということばが浮かび上がってきたのだ。「調和」の「和」は「和音」の「和」。こんなことを谷川と話しているとき、いちいち考えたわけではない。「ことばの肉体/ことばの肉体が覚えていること」がどこかで、動いていたのだろう。別のことばで言えば、いわば「無意識」に感じていたのだろう。(私は、意識とか、こころとか、魂とか、精神という、どこにあるかわからないものを指し示すことばは、なるべくつかいたくないので、ちょっと面倒くさい言い方になってしまうのだ。)
 私が谷川の詩から感じるのは、この「和音」なのだ、と言い直すことができる。「調べ」を「和音」と「誤読」すると、いろいろなものが見えてくる。私は谷川は、詩の中でいろいろな人(他人)になることができる詩人だと感じている。このときの「他人」とは、「他人のことば/他人の発する音」であり、谷川はそれをととのえながら谷川自身の「音」と組み合わせ、そこに「新しい和音」を繰り広げている。
 こんなことは、抽象的に言ってもはじまらない。具体的に書いてみたい。座談会の資料として上げられていた「百三歳になったアトム」。

人里離れた湖の岸辺でアトムは夕日を見ている
百三歳になったが顔は生れたときのままだ
鴉の群れがねぐらへ帰っていく

もう何度自分に問いかけたことだろう
ぼくには魂ってものがあるんだろうか
人並み以上に知性があるとしても
寅さんにだって負けないくらいの情があるとしても

いつだったかピーターパンに会ったとき言われた
きみおちんちんがないんだって?
それって魂みたいなもの?
と問い返したらピーターは大笑いしたっけ

どこからかあの懐かしい主題歌が響いてくる
夕日ってきれいだなあとアトムは思う
だが気持ちはそれ以上どこへもいかない

ちょっとしたプログラムのバグなんだ多分
そう考えてアトムは両足のロケットを噴射して
夕日のかなたへと飛び立って行く

 いちばん印象に残るのは、ピーターパンとアトムの、魂、おちんちんの「対話」だろう。ここでは、二人が出会って、ことばを交わしている。それは「和音」というよりも「不協和音」のように何かをひっくりかえしてしまうような驚き、衝撃がある。おしかさ、谷川の好きなことばで言えば「無意味/ナンセンス」がある。
 谷川の「和音/調べ」は「予定調和」というよりも、あるいは「規制の和音」というよりも、何かいままで存在しなかった「和音」なのである。存在しなかったといっても完全に存在しなかったわけではなく、存在しているけれども見落としていたもの。
 それは二連目の「寅さんにだって負けないくらいの情があるとしても」についても言える。寅さんに情がある。これは多くの人が感じている。でも、その情は、アトムをつくりあげた科学としての「知性」と対比されるものではない。谷川は「科学の子(知性の子)」と「寅さん(情のおとな)」を対比することで、いままで見過ごされてきた「情の広がり」を浮かび上がらせる。その瞬間に、「あ、この和音は聞いたことがない」という喜びが生まれる。私の「ことばの肉体」は、この瞬間にも喜んでいる。はしゃぎ始めている。
 そういうことがあって、先に出てきた「魂」と「おちんちん」が出会う。精神的なことばと、だれもが知っている「肉体」が出会う。おかしいのは……。この出会いがおかしいのは、たぶん「おちんちん(性器)」というものに人間(特に男)は、なにか「肉体」を超えるものを託しているからだろう。男の象徴。それはある男にとっては、「男の魂」と呼べるものである。だから、これは案外まとはずれではない。だからこそ、ピーターパンも「大笑い」するのだろう。
 ここでも、私の「ことばの肉体」は反応しているのである。つまり「おちんちん(男の性器)は男の象徴である」という「ことばの肉体」の認識が動いているからこそ、それがおかしいのだ。「ことばの肉体」は私自身の「肉体」と重なりながら、この「大笑い」を喜ぶけれど、そのとき喜んでいるのは「ことばの肉体」か「肉体そのもの」か、まあ、区別はつかない。
 谷川が言っている「調べ」が何を指しているかはわからないが、私はこの三連目に「調べ/和音」のいちばん楽しいものを感じる。

 この詩には「調べ」ということばはつかわれていないが、「響き」ということばがつかわれている。「響いてくる」。「くる」という動詞が「響く」にぶら下がっている(?)が、「響き」とは「来る」ものなのかもしれない。それに対して「調べ」は「来る」のではなく、自分でつくるもの、なのかもしれない。「和音」をつくる。ある音に、別の音を組み合わせてつくる。組み合わせをととのえて、つくり、それを周囲(全体)へ広げていくのが「和音/調べ」。
 「響いてくる」を「調べ」をつかって言い直すと、「調べが流れてくる」くらいになると思う。これと同じように、「響き」をつかって「和音」に似たことを言おうとすれば「響きを重ねる」になるだろうか。ひとつの音ではなく、複数の音を重ねる。もちろん単独の調べ/響きというものがあるが、谷川が「調べ」というとき、そこには複数が意識されているように感じられて仕方がない。
 私の「ことばの肉体」は、そう反応する。
 そして、これは、つぎの部分でも動き出すのだ。
 四連目には「くる」という動詞とは別に「行く」という動詞もつかわれている。

だが気持ちはそれ以上どこへもいかない

 「くる」と「行く」が隠れたところで向き合っている。それは「知性」と「情」、「魂」と「おちんちん」のように、あるいは「アトム」と「ピーターパン」のように「存在(名詞)」としては見えてこない。だから見過ごしてしまいがちだ。私の「ことばの肉体」も、最初は、この対比に気がつかなかった。今回、こうやってことばを動かしてきて、ふと反応したのだ。
 「肉体」の手足が無意識にバランスをとるように、「ことばの肉体」も無意識にバランスをとって動いている。その細部の動きは、たいてい意識できないと思う。書くこと(ことばを意識化すること)によって、あ、ここも動いていたと気づくのである。ここを動かせば、全体がスムーズに動く、動きに無駄がなく、ことばが楽になる……。
 「行く」という動詞について触れたついでに、私の「ことばの肉体」がそれから反応した部分について書くと、一連目では「鴉の群れがねぐらへ帰って行く」、最終行では、アトムが「夕日のかなたへと飛び立って行く」という対比がある。「不思議な和音」がある。鴉には「ねぐら」という目的地がある。でも、アトムには? 「夕日のかなた」は方向であって目的地ではない。目的地があってもなくても、つかわれる動詞は「行く」である。こういうことも、「ことばの肉体」を刺戟してくる。

 さらに。

ちょっとしたプログラムのバグなんだ多分

 という一行のおもしろさ。この行の「意味」については深入りしない。私がおもしろく感じるのは、ことばの順序(リズム)である。「多分ちょっとしたプログラムのバグなんだ」ではなく「ちょっとしたプログラムのバグなんだ多分」と「多分」の位置が違う。「多分」が最後に登場することで、推測(推定)が、いっそうあいまいになる。言ったことがまるで言わなかったことのように自分の「肉体」のなかにしまわれていく。
 もしかすると、この「リズム」、つまり自分の思ったことを「肉体」のなかに隠してしまって自己主張を押し出さない、ということが谷川の「調べ」の「本質」かもしれない。多くの人は、それが「推定/推測」であっても、自分の考えとしてそれを前面に押し出す。そして、「論理」というものを展開する。でも、谷川は、そういうものは「肉体」のなかにしまいこみ、他人のことばと谷川のことばを「調和」させたい、「調和」を優先させることで「音楽」を奏でたいのだと感じた。
 そして、この谷川自身の「ことばの肉体」を消すことが「無時間(無我?)」にもつながっていくのかなあ、といま思っている。「永遠ではなく無時間について考えている」と言った谷川のことばを思い出している。

 こうやって書いてきて思うのだが。
 「座談」というのはむずかしいね。対談なら、相手のことばと自分のことばが向き合う時間が多いが、そこに別の人間のことばが入ってくると、私は「識別」にかなりとまどう。いや「識別」はできるのだが、そのとき第三者のことばがいったいどういう方向へ動いているのか、そのときの「ことばの肉体」の動きが見えない。
 谷川には、しかし、複数の「ことばの肉体」の動きが、簡単に見えるようなのである。それは「座談」のときも感じたし、谷川の家でのときも感じた。見がいいのだ、と、また思った。


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