詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石毛拓郎「渚の情欲」

2013-01-30 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「渚の情欲」(「gaga」11、2012年12月10日発行)

 石毛拓郎「渚の情欲」は馬鹿貝の集団自殺を描いている。ほんとうかどうか知らないが、馬鹿貝は跳んで集団自殺をするのだという。そのことを書いているだが「助走」が長い。なかなか詩が始まらない。

渚の硬い黒砂を選んで、車の轍が二筋
くっきり黯々と陽炎立つ、鹿島灘南部州鼻の方へと延びていた。
べろを出していた。
べろを出して、渚に群れをなして打ち上がっていた。
死臭が、蠅を呼んだのか。
群れて黒くなった、死骸に近づくと
うあっと、いっせいに群れが舞い上がる。
貝殻は、綺麗な縞を正確に描いている。
それは生来、おのれの臆病のせいで描いた痕跡だ。
(引導を渡す蠅は、かれらを見捨てやしない)
馬鹿貝が跳ぶって知ってるかい?
不意の、質問に
興味がなさそうに連れの級友が、気のない対応をした。
ああ、馬鹿貝ね。
いかにも不味い喰い物だと、軽蔑するように笑いだした。

 中心のテーマである「馬鹿貝の集団自殺」になかなかたどりつけない。--と、書いて気づくのだが、実は馬鹿貝の集団自殺がテーマであるということは、その問題が馬鹿貝の集団自殺だけを描けばいいということではないということでもある。馬鹿貝の集団自殺はあくまで「中心」。
 そして中心があれば「周辺」がある。この「周辺」の概念というか、感覚というのはちょっとややこしい。「中心」と「周辺」をつなぐ半径(?)の糸があると仮定して、その糸に、私のことばで言うと「肉体」が絡んでくる。特に石毛の場合は、石毛の肉体を「中心」と「周辺」を結び合わせる強靱な糸にする。
 で、その糸が強靱であるというのは。(ここから、私のことばは、どんどん「飛躍」する。--まあ、これから書くことが、ぱっとひらめいたということである。論理的な考察ではない。)
 その糸が強靱であるということは--石毛が「肉体」を、「人間の肉体」として描くだけではなく、いや、そうではなくて。石毛は自分以外のものにも「肉体」を感じ、その「他者の肉体」を自分のもののようにして、「中心」と「周辺」をつなぐ。そうすると、その「つなぐ」ということが、「肉体」そのものに「なる」。
 あ、何のことかわからないね。(実は、私もどう書いていいか、考え中なのである。)
 詩にもどって具体的にことばを点検すると。たとえば……。

渚の硬い黒砂を選んで、車の轍が二筋
くっきり黯々と陽炎立つ、鹿島灘南部州鼻の方へと延びていた。

 この2行のおわりの「延びていた」という動詞(述語)の主語は「車の轍」なのだが、それを「延びていた」というとき、石毛は、それを「肉体」と感じている。車の轍が二筋の線になり浜辺に残っている--その存在を「延びていた」というある方向を含みながら動くものとして表現するとき、その轍は実際に「延びる」のである。そこには「延びる」という「こと」がある。その「延びる」は単に「ここ」から「あそこ」へ延びるだけではなく、たとえば「硬い黒砂を選ぶ」ということもする。黒砂を選ばなければ、延びないのである。で、このときに、主語「車の轍」が黒砂を「選ぶ」という「こと」をするために、主語である「車の轍」は「車の轍」というだけではすまなくなる。そこに「土地」が「見えない主語」、車の轍をささえる場としての主語としてあらわれてくる。
 この「見えない主語」として何かが「肉体」になる--というのが石毛の「肉体(思想)」の特徴だね。見えるものの背後に(内部に)見えないものの「つながり」がある。それが見えるものといっしょに動くとき、それはまさに「肉体」そのもの。なまなましくなる。
 書いていると長くなる予感がする。端折ることにする。

 「土地」を「いま/ここ」の「見えない肉体」として浮かび上がらせる--そのことばの運動のために、石毛のことばは長い長い運動になるのだが……。それはそれとして。
 その「土地=肉体」は、そこに土地以外の「肉体」を受け入れ「つながり」をもつのだが、「土地以外の肉体」の登場の仕方も、なまなましく「肉体」なのである。

べろを出していた。
べろを出して、渚に群れをなして打ち上がっていた。

 これは馬鹿貝の死骸の描写だが、「べろを出して」と書くことで、そこに「人間の肉体の死」が露骨に重なる。「べろ」はほんとうは貝の「舌」ではない。人間の「肉体」がそれを「べろ」と呼んでいるのだ。そして、そう呼ぶときに人間は自分の「肉体」を貝に分け与えている。「肉体」が共有されるのだ。(車の轍が延びる--その延びるにも、石毛は自分の肉体を分け与え、動きを共有していたのだ、とつけくわえておこう。)
 だから「群れをなして」というようなことばも、単に貝の死骸がそこにあるというより、それは「人間の死体」がそこにあるという感覚なのである。
 そういう感覚が「馬鹿貝が跳ぶ」「馬鹿貝は集団自殺する」ということばに「肉体」を与える。つまり、貝の大量死を自然の現象ではなく、人間の肉体が「共有された何か」として見てしまうのである。石毛の側から言えば、石毛(人間)の肉体を貝に分与し、そうすることで石毛と貝は「肉体」を共有するのだが、その瞬間から、貝に共有された「肉体」の動き(運動)が石毛の「肉体」のなかの運動(動き)の可能性を刺戟し、貝の運動が石毛の「肉体」によって共有されるのである。
 (途中の省略した蠅と貝の部分では、その両方に「肉体」が共有され、そこに「死ぬ」ということが、同時に激しいいのちの活性と「肉体」を共有する姿が描かれているのだが、書くと長くなる--私は目が悪いので、40分で感想を書いてしまうことにしている。だから、面倒なところはすっ飛ばして「飛躍」する。)

いやね、跳んで集団自殺するんだ。
人目を、避けて。
その砂鉄を、たらふく喰らい込んだ黯々とした渚と
花綵列島の、何千何百の半島洲鼻で行われた
馬鹿貝の自死との、奇妙な取り合わせに
おれは、心筋がちぢむ圧力を感じた。

 大量の貝と共に石毛の「人間としての肉体」がやはり「集団自殺」するとき、他方、最初に見た石毛の「肉体」を共有した「土地」はどうなるのか。砂鉄を含んだ海岸、その砂鉄を利用して発展する産業--そこに「死」は共有されないのか。そこに「死」の影響はないのか。
 そんなことはない。
 石毛の「肉体」はそれをことばにできないまま感じ取る。そして「心筋がちぢむ」という具体的な「肉体の反応」としてそこにあらわれてくる。その反応が、「いま/ここ」、つまり「現代」に対する「批評」としての詩、ということになる。

 石毛の肉体(思想)は、土地にも貝にも蠅にも共有され、共有されるたびに、ねばねばと粘着力を増していく。異質なものをひとまとめにするには、どうしたって「ねばねば」が必要だ。数珠つなぎにしようにも、硬すぎて「糸」がとおらないものがある。「つなぐ」ことができないときは、くっつけるしかないのである。
 という具合に石毛のことばは動くので、なかなかテーマがはっきりしない。多くのことが書かれすぎている。けれど、その「ごたごた」の「ねばねば」が、その「つながり」が石毛の「肉体」そのものなのである。だから、これは馬鹿貝の集団自殺がテーマというより、それに出会った石毛の「肉体」の反応こそがテーマと言い換えた方がいいかもしれない。

 あと三分の二くらい書きたいことが残っているが、それは別の機会にする。時間がなくなった。







子がえしの鮫―よみもの詩集 (1981年)
石毛 拓郎
れんが書房新社

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