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「乗り遅れ企業」の理由

2018-07-05 08:18:04 | 歴史から学ぶ

@幕末の幕府との戦争「戊辰戦争」、その前の「鳥羽伏見の戦い」は最新武器の機能差とリーダーシップの不在による敗戦である。これは現代でも多くの企業が最新技術の導入を先駆け、先手を打って勝ちに出る戦略である。しかしこの10年、日本企業の多くは最新技術を認めながらレガシー温存化(古くても故障を理由に新規導入できない)最新システムを導入しようとする思考が止まっている。その為、新たな技術の試行錯誤する組織(決定者がリスクを決して犯さない)が止まり、世界でも出遅れ、乗り遅れ列国になりつつある。「正常に作動しているどうかが問題」ではなく、「どこまで認識し、解析、判断材料を素早く出せるかの動き」、「列国競争相手の素早い動きを察しする能力」が無くなりつつあると感じる。そこには若手技術者も仕方なく時代遅れのレガシーシステムを勉強し、保守・保管管理をしている様だ。これでは日本は「底生産性国」からいつまでも抜け出せない。 過去の成功は教訓にはなるが、これからの成功には繋がらない。

『幕末の会津藩』星亮一

  • 「運命を決めた上洛」文久2年12月、会津藩主松平容保は京都守護職として、風雲急を告げる京に入った。「薪を背負って火に飛び込むような」悲壮な決意の元、容保と藩士は孝明天皇と都の警護に専心する。だが、一橋慶喜らによる改革は実を結ばず、大政奉還、鳥羽伏見の戦いへと転落の道をたどる。
  • 幕末の日本を代表する藩は、薩摩、長州、会津の3藩で、会津は鳥羽・伏見の戦いに続いて戊辰戦争にもやぶれ朝敵の烙印をおされ青森下北半島に流された。そこは寒さと栄養失調で老人、子供がバタバタタオと死んでいった。勝てば官軍、負ければ賊軍という言葉も生まれ、正義とは戦争に勝利することを意味した。
  • 「会津藩」
  •             藩祖保科正之(2代将軍秀忠の第4の弟、1643年23万石)秀忠の性質はお江与の方は近江小谷城主浅井長政の末娘、お督で、母は織田信長の妹お市の方、姉は豊臣秀吉の側室淀君である。
  • 「一心大切に忠勤に存ずべく、列国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を抱かば、すなわち我が子孫にあらず、面々決して従うべし」
  • 幕末、京都が騒乱状態になった時、幕府の政事総裁職、越前藩主松平春嶽と将軍後見人一橋慶喜は会津藩主松平容保に京都守護職就任を要請した。決めては家訓であった。会津藩の悲運はこの時に運命つけられた。最後は鶴ヶ城を枕に討ち死に覚悟で1ヶ月に及ぶ籠城戦を展開、老若男女を問わず、藩士と家族3千余人が戦死する。
  • 「幕末会津藩往復文書」の発見でその様子がより鮮明に浮かび上がった。
  • 先発隊は秋月悌二郎、広沢安任、共に下級武士で会津きっての知識人で幕府の学問所昌平黌を優秀な成績で卒業、広く人脈もあった。戦後、秋月は熊本の中学校で倫理、漢学の教授となる。広沢は洋式牧場を開いた。秋月は情の人、広沢は知性の人、昌平黌では舎長を務めた
  • 秋月は京都で帰国命令が出るがこれが薩摩等の摩擦を大きくする
  • 容保は八百人を率いて文久2年12月9日に京都、黒谷金戒光明寺(浄土宗の7大本山、5万坪、お江与の墓もある)に入る
  • 2月23日 新撰組(24名)が、3月4日には将軍家茂(13歳)も後見人慶喜とともに京都二条城に入った(230年ぶりの将軍上洛)
  • 会津藩の姿勢は「事に臨めば策略有り」、慶喜は早々に江戸に変えることばかりを考えていた
  • 会津大人の「遊びの心得」
  •             年長者の言うことを聞く   
  •             年長者へのお辞儀をする
  •             嘘を言わない
  •             卑怯な振る舞いはしない
  •             弱いものをいじめない
  •             外でものを食べない
  •             外で婦人と言葉を交わさない
  • 「日本の学問所」
  •             仙台の養賢堂
  •             米沢の興譲館
  •             水戸の弘道館
  •             高知の致道館
  •             萩の明倫館
  •             熊本の時習館
  •             鹿児島の演武館・造士館
  •             津の有造館
  • 「池田屋事件」浪士7名斬死、21名拿捕
  •             新撰組の古高俊太郎拿捕で計画を知る
  •             計画は6月20日前後に中川宮に火を放ち、容保を殺害
  •             御所にて孝明天皇を奪い長州に拉致する計画
  • 「一会桑政権」徳川慶喜、松平容保、松平定敬が京都を掌握
  • 「高杉晋作」
  •             長州征伐後に諸外国との和議を結び蒸気機械、航海術、兵術
  •             長州の変換は高杉晋作による俗論派が中心となる
  •             高杉は25歳で騎兵隊を結成、幕府との戦争を起こすことが国家改造の好機となるとした
  • 「長州藩の変革・密輸」
  •             大村益次郎が長州藩軍事改革の旗手として登場
  •             薩摩藩の名義で小銃、弾薬など購入、9万24百両
  •                         ミニエー銃4300挺、ゲーベル銃3千挺
  •             蝋燭、製紙、精油、製鉄所、染工など建設に着手
  • 「孝明天皇の毒殺説」
  •             岩倉具視の姪(女官)の疑い
  •             顔面の紫の斑点
  •             偽勅が岩倉の意思によって発行
  •             中山忠能、三条実愛、中御門経之の花押がなかった
  • 「幕府の体制」
  •             徳川家=260余藩の内西郷や岩倉側についたのは20藩
  •             勝海舟軍事歩兵は約8300名
  •             軍艦「観光」「咸臨」「蟠竜」「朝陽」「富士」「開陽」
  •             幕府軍1万、会津3千名
  • 兵力以上に最新の銃、大砲等の武器の差が幕府・会津を完敗させた