@西郷隆盛とは一体どんな人物だったのか。福沢諭吉の評価は一言「西郷の罪は不学にあり」としている。人当たりは良く、周りに信頼されている人でも学識・情報等に欠ける人材は交渉すると即座にそのボロが目に付く。西郷はそれを見せないがために「テガ」(本文注釈)文化を尊重したのか。「岩倉使節団」を見ても岩倉・大久保等は外国との交渉・知識・経験がなく単なる大名視察に終わっていることを考えるとその当時の「幕末江戸の4傑」は凄い人材がいた。例えば、為替相場交渉で日本を優位にした小栗忠順ら。現代でいう政治家・会社役員の2世・3世等の「成上り出世」「親の七光り」は、全てでは無いが、一般的な苦労・苦痛・辛抱などなく、ましてや底辺の人の苦労等は理解できる筈もなく、発する言葉は巧みだが実感が伴わないから中身も薄く、感動に乏しい。「西郷隆盛」は幕末・明治維新の勝者と敗者を経験していることが現代人にとっては「歴史を学ぶ」良いお手本になっていると思う。
『大西郷という虚像』原田伊織
- 「官」と「賊」を往復した西郷を解明せずに維新の実装は語れない
- 福沢諭吉「西郷の罪は不学に在り」
- 度量が偏狭で協調性がなく、一度敵と見たものはとことん憎む
- 粘着性を持ち、好戦的で常に独走する
- 死商人グラバーと組み、密貿易で長州に武器を渡す
- 江戸でテロ集団「赤報隊」に無実の人々を殺させ、騒乱を創る
- グランドビジョンもなく倒幕に突き進む
- 「天璋院篤姫」
- 「薩摩おごじょ」=気立てが良く優しくが芯の強い薩摩女
- 「加藤清正」肥後人に愛された理由
- 農業行政に長け、灌漑を整え、河川を改修、洪水を防いだ
- 干拓を行なって農耕地を増やした
- 測量技術、土木技術に明るく、強固な熊本城を建築
- 牽牛さ、防御力に優れた特性(石垣の組み方・反り)
- 秀吉は島津の蓋的役割の城を築いた(肥後VS薩摩)
- 「関ヶ原の戦い」薩摩は西軍=島津の退き口・捨て奸・妙円寺詣り
- 薩摩が幕府を倒すに至る心底の動機はこの敗戦が要因
- 薩摩隼人の凄み・執念が「怨念」として続いている
- 「西郷と島津斉彬」
- 第10代斉興「お由羅騒動」、側室の子久光への思い
- 祖父「蘭癖大名」(西洋かぶれ)5百万両の借金
- 調所広郷による財政見直し、密貿易で2百万両の蓄えを得る
- 斉彬派への制裁、蟄居・島流し・切腹
- 槍奉行赤山・切腹処分で西郷はその血染めの肌着を受ける
- 独り身になった斉彬は西郷・大久保等抜擢
- 「役に立つ人間は俗人に誹謗されるものだ」
- 「器量のない小人、度量の狭い人物であっても、時に役立つこともある。意のままにならないからと言って切り捨てるのではなく、うまく使いこなす度量を持たなければならない」
- 「郷中」(教育)が育んだ「テゲ」(詳細実務は下に任せ上は責任を負う)文化
- 「西郷の幕末動乱」
- 島津久光と西郷は最後まで上手い関係にはなれなかった
- 1度目の島流しから戻ってきたのは「誠忠組」からの信頼
- 「寺田屋事件」久光の過激派鎮撫
- 坂本龍馬暗殺の「寺田屋事件」とは違う
- 寺田屋は鳥羽伏見戦い後、焼失しており昭和30年再建
- 寺田屋事件前に西郷は久光の命に背き2度目の島流しにされる
- 密貿易を生業としていた薩摩は「攘夷」を藩論としていない
- 三条実美、姉小路公知等の長州派・過激派が朝議をリード
- 土佐の山内容堂、福井の松平春嶽、久光も国元に戻る
- 孝明天皇の勅諚で長州過激派を国賊としたが、長州は反撃
- 蛤御門の変にて会津・桑名VS長州、薩摩が幕府を援軍
- 長州の密輸(薩摩藩経由・米との交換)小銃4千梃
- グラバー商会は薩摩と契約、密輸商品を長州に横流し
- 「薩長同盟」は坂本龍馬ではなく伊藤俊輔、井上多聞が仲介
- 幕府もグラバー商会へ大砲35門発注、支払いするが引渡無し
- 家老小松帯刀によって西郷は赦免、軍部役諸藩応接役
- 「禁門の変」にて西郷が登場する
- 岩倉・西郷・大久保は偽の勅許「討幕の密勅」を発布
- 開国は1797年長崎出島へアメリカ商船は13回寄港
- 「軍事クーデター」
- 慶喜の将軍辞職を勅許する
- 京都守護職・所司代を廃止する
- 江戸幕府を廃止する
- 摂政関白を廃止する
- 総裁・議定・参与の3職を設置する
- 西郷の議定に対する一言「短刀1本あれば片がつく」
- 問答無用!はこの時に生まれた言葉
- 「赤報隊」
- 西郷により結成、西郷により抹殺
- 江戸において幕臣や佐幕派書はんを挑発させる
- 放火・強奪・略奪・強姦・強殺を繰り返し薩摩藩邸に逃げる
- 「江戸幕末の4傑」
- 岩瀬忠震・水野忠徳・小栗忠順・川路聖謨
- 「無血開城という美談」
- 静寛院宮(和宮)と天璋院篤姫による嘆願
- 西郷は「静寛院宮とてやはり賊の一味と成りて」
- 山岡鉄太郎の仲介(勝海舟・西郷隆盛面談)
- 西郷は180cm、体重110kg、江戸末期の平均身長157cm
- 「戊辰戦争終結と会津戦争」
- 薩長のテロリズムと「恭順」という概念で推し進めた
- 長州の恨みVS会津藩戦争へと追い込む
- 世良修蔵の会津藩降伏を受け入れず執拗に戦闘
- 仙台藩が怒りに爆発、世良を斬首する
- 薩摩藩主との関係から西郷は岩倉の賞典禄を拒否
- 岩倉は西郷に藩主を上回る官位を与えるという愚行をした
- 岩倉・木戸の私的欲望から発した賞典禄、資源は奥羽列藩領
- 分取りは下記に配分された
- 三条実美32歳、岩倉具視44歳、西郷吉之助42歳
- 大久保一蔵39歳、木戸孝允36歳、山縣有朋31歳
- 井上多聞34歳、伊藤俊輔28歳
- 「新政府の腐敗」
- 山城和助事件=陸軍省疑惑・山縣有朋部下と商人の癒着
- 尾去沢銅山事件=井上馨の権限悪用で銅山を奪い取る
- 木戸分子、山縣有朋、井上馨、槇村等の権力・金銭欲腐敗
- 小栗忠順と江藤新平等は誠実で秀才だったが斬首された
- 「西郷の判断と岩倉具視の使節団」
- 江戸開城後は、西郷の日の出の舞台がなく消極的になる
- 「明治6年政変」御一新として下記を変革
- 華族・士族・平民相互の通婚の許可
- ・の名称廃止と職業の平民化
- 華族・士族・農民の職業選択自由の許可
- 人身売買禁止
- 寺社仏閣の女人禁制廃止
- 徴兵告諭の布告
- 地租改正・戸籍調査・学制頒布
- 電信・鉄道施設
- 太陽暦の採用
- 郵便制度の実施・裁判所の設置
- 実務は大隈・板垣・山縣・江藤・井上が担当
- 征韓論論争で政府内が分裂
- 朝鮮派遣は形式上全会一致で決定、大久保・岩倉が辞表
- その後の閣議で覆される(岩倉の廟堂の法に違反)
- 西郷・板垣・江藤・後藤・副島が辞職
- 新政府に対する失望と怒りで西南戦争へとつながる
- 1889年代日本国憲法発布時に西郷には「賊」の汚名
- 岩倉使節団=2年半も留守にする豪遊視察(新政府からの逃げ)
- 大隈重信の使節団案を岩倉がすり替える
- アメリカ全権交渉委任状がなく大久保・伊藤が帰国
- 岩倉・木戸は無知で交渉できず挫折
- 「西南の役」
- 16日間の戦争(大久保VS西郷)
- 弾丸は30数万発、川上は長さ8km、幅6km
- 「2百3高地」以上の攻防戦であったという(乃木希典)
- 「その他の乱」
- 西南の役5年後での様々な乱が不平士族を中心に勃発
- 「佐賀の乱」「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」
- 福沢諭吉の言葉
- 人が権力を握れば、それが誰であれ必ず腐敗する。その時「抵抗」することが肝要なのだと。その抵抗が西郷の精神にあったと。