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上司の有能さ、無能さ

2017-09-01 15:35:58 | 歴史から学ぶ

@上司の有能さで自分の置かれた立場が一変する。 上司が有能であればその部下も有能で、いい結果、実績を作ることができる。が上司は部下にとって「選択肢がない」世界である。 「運」だと諦めるしかない場合も過去(急速な経済成長期)多く見られたが現代はそんな悠長なことは許されないはずだ。 外資系企業では人間関係がシンプルで仕事もやりやすく、やりがいもあるものだが、日本の老舗企業の多くはまずは社内の人間関係(調整・改善・理解)からとも言われるほど難しい。

江戸・武家社会でも「君子は良きことを1つすれば百の過ちがあっても見逃す。下郎は良きことを百おこなっても1つでも過ちを侵せばそれを咎める」「良い因果の報いは気が付かないが、悪い因果の報いははっきりしていて目に見える」

会社の改善・改革はある種の「不平・不満」として誤解を招くことは避けるべきだが、しっかりした組織案・人事案・改善改革企画案(成果・給与・処理能力)を提示することをお勧めしたい。できない上司を超えなければ会社は誰にとっても良くならない。

  • この小説は大久保彦左衛門(江戸初期の天下のご意見番)譜代の日記、「三河物語」と「寛政重修諸家譜」と新井白石の「藩翰譜」である
  • 「枡」の大きさが統一されたのは江戸幕府ができた時代年貢徴収目的
  • 1560年、義元の氏真岡崎城が空っぽになった時に家康が言った言葉「捨てられた城なら拾おう」
  • 浅井長政の謀反、浅井5千、朝倉1万5千、信長2万5千、信長の「攻めるも退くも戦いの駆け引き、三十路計逃げるにしかず」となる。
  • 信長の戦い方は「深入りした戦いはしない」=桶狭間の戦い、姉川の戦い、勢いがあれど「勝って兜の緒をしめよ」となった
  • 信長の子信康への不信で信長は12ケ条を酒井忠次に確認した
  •             信康は鷹狩のあと僧侶を馬で引きずった
  •             信康は派手な踊り手を弓で射殺した
  •             物事を荒々しく振舞う
  •             家康とは相互不信である
  •             築山殿が武田寄りで謀反を計画
  • 「信康は育ちが悪く、痩せた発育で、気ままに育てられ、親を敬することもせず、親子の争いあり、毎度申し入れて聞き入れず親を恨み、性格が悪質だった」問題人物だったという
  • 羽柴秀吉は柴田勝家を賤ヶ岳で打ち破ったあと、信長の三男信孝を岐阜から追い尾張内海の大御堂寺で切腹させた。
  • 家康は関ヶ原の戦いの3年後の2月に征夷大将軍になり江戸に幕府を開く、その2年後に将軍職を秀忠に譲る。賛成派、反対派に意見を聞き決定した。秀忠は関ヶ原の戦いに5日間も遅れた理由を盾に、家康の次男だが秀吉の養子になっていた三河守殿(結城秀康)は功ありが家臣本田正信、井伊直政、本田忠勝、榊原康政は次期将軍秀忠に反対した
  • 豊臣秀頼は身長が197センチ大男だった、それを見た家康は死後の世界でもめると察知、秀頼を排除する理由を探した
  • 方広寺の鐘銘事件で「国家安康」解釈で攻めた、秀頼の傅役の片桐且元に詰問させ、最後は且元を配下に置き夏の陣で秀頼を亡き者にする
  • 大阪城夏の陣で家康が下した和議条件は
  •             籠城した浪人には罪を問わない
  •             秀頼の知行はこれまでどおり
  •             秀頼の身の上については安全を保証する
  •             淀君は江戸に人質にだす
  •             大阪城を開城するならどこへでも望み次第に城を与える
  • その後堀を埋め立て、さらに二の丸等の堀も埋め、攻撃できる地形にする(最初は外堀だけの条件を家康は無視して内堀も埋めた)
  • 大久保彦左衛門の7代まで仕えた侍・譜代としての処遇が家康、秀忠時代はあまりにも知行が少なく、不公平感を感じていた。
  • 「君子は良きことを1つすれば百の過ちがあっても見逃す。下郎は良きことを百おこなっても1つでも過ちを侵せばそれを咎める」
  • 「良い因果の報いは気が付かないが、悪い因果の報いははっきりしていて目に見える」


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