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事業復興に尽力し国力をつける『軍師直江兼続』

2024-05-23 07:35:15 | 歴史から学ぶ
軍師であり城主(執政)にもなった兼続、上杉謙信死後、19歳から景勝の信頼を得て参謀を務め、秀吉後の国替え、家康幕府から米沢移封で家臣と共に半農半士で苦労を強いられた。義理堅く恩を裏切らない兼続は新田開発や治水事業、城下町整備、鉱山開発、教育環境整備、産業復興などに尽力し家臣を守り主導権を維持した、何事にも準備を怠らず先を読み行動した人物だ。国を司る者に必要なことは兼続の施策等であり、現代の政治の何でもかんでも新税、重税で国民を苦しめることではない。金の亡者に成り果て国政に知恵のない政治家は即座に去るべきだ。
『軍師直江兼続』星亮一
「概要」少年期、上杉景勝の小姓に抜擢され、景勝とともに越後の龍・上杉謙信の薫陶を受け、巧みな戦術・戦略を見聞き、錬成した直江兼続。謙信亡き後は、名門上杉家の執政として主君景勝とともに、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗らと互角にわたりあっていく。陪臣の身でありながら、30万石という未曾有の領地を賜った、天下の智将の軌跡を辿る。上杉家ゆかりの史跡写真や人物画を多数掲載。
ー上杉謙信死後の兼続行動 本丸を抑え、本丸の金蔵と武器庫を封印、景虎を郭に閉じ込める
ー信長は緻密な計算する男でまめに手紙を書いていた(景綱には6通)
ー兼続(22歳)の妻お船(25歳)は信綱の元妻
ー秀吉と三成の出会いは伊吹山での茶(3度の茶:緩い・熱い・抹茶)
ー越後での戦い7年越しの新発田、勝利の要因は鉄砲。その後独自の鉄砲を作り上げる
        近江国の鉄砲鍛冶屋を雇い改良してる・米沢市立上杉博物館に展示してある
ー佐渡島を支配し金山の確保から馬具や兵器を改良していった
ー国替え令 秀吉の命で越後本国と北信濃4郡を返還120万石となったが財産を失くす
    海運、漁業、鉱山などをなくし、秀吉は伊達への構えを考慮した国替え(兼続39歳)
    家臣だけで5千人、総数で2万人、神社仏閣等も移動した
    米沢6万石の城主に抜擢される
ー秀吉死後、子守役の前田利家も翌年死去したことで内部体制が混乱
    朝鮮出兵藩が石田に対して不満をぶつけ、佐和山の密議で石田派と家康派に別れる
    家康が兼続に不満(罠を仕掛ける)ぶみを投げ、兼続は「直江状」で返答
    家康が会津攻撃・兼続を討つと見せかけ石田派からの先制布告を待ていた
    兼続は3方からの脅威を持って守備(最上、伊達、家康)常陸の佐竹豪族を頼りにした
ー関ヶ原戦い後
    上杉勢は最上義光、伊達政宗と戦闘、家康は白川から三成への戦闘へ切り替える
    銃300丁で最上を制圧、だが家康の勝利で藩主自決、米沢移封(米沢・信夫)となる
    3千戸侍屋敷など作り2-3家族が一緒に暮らすことになる(30万石・兼続は5千石)
    下級武士達は半農半士で150坪の土地に農作物を作り暮らし始める
    大坂夏の陣では3千人を伴い大阪に出陣(家康20万人、豊臣9万6千人)
    妻お線は江戸、三人の子供を失い気力に欠ける生活になり60歳で没
ー「伝国の辞」鷹山の家督(ケネディ大統領が賛辞した民主国家の理念)
    「国家は、先祖より子孫へ伝え候国歌にして、我私すべき物にはこれなき候」
    「人民は、国家に属したる人民にして、我私すべき物にはこれなき候」
    「国家人人民のために立てる君にて、君の為に立てたる国家、人民にはこれなく候」
ー山鹿素行・細井平州
    「人君は天下万民の為」
直江兼続の軍法
    「戦法とは敵陣の気と心を奪うこと。気を奪うには旌旗、五采、鉄砲あり。心を奪うには奇計、知謀あり。けだし己の気と心を治したる者にあらざれば、何を持って人の気と心を奪うことが出来ようや。戦いに臨む大将は、十分な装備を施し、勝つ奇計、知謀は必要であると、無分別な行動を戒めた。日々、最大の配慮を尽くし、熟慮を重ね、一旦決まれば、電光石火の如く行動する男」



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