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「花魁」の超が付く魅力とは

2018-09-21 07:49:28 | 歴史から学ぶ

@「吉原」は男の遊郭だが、誕生から約300年も続いた歴史は「遊郭」、「花魁」、「芸者・幇間」等の魅力を知ることが出来る。最盛期の吉原はお馴染みさんには「吉原は建前で生きなければならなかった男たちに、夢を売るところだった」、また「花魁は優しく、吉原には情緒があった」とある。酒をのみ欲求不満を満たすだけの「場」だけではなく、一方「心のゆとり・安らぎ」等の職場・立場を離れた「一時の気休め所・心の憩い」となっていたことである。日本人の社会習慣は「本音と建前」があるが、本音を常に心中に収め、建前が常時にする社会である。だから諸外国人から「日本人が読めない」と言われる。例えば「前向きに検討しておきます」など断りの常套文句であるが外国人には理解できない。さて本書の「花魁」一世風靡させた女性の最高職であり、優雅さのみならず芸のプロだったとある。芸事、礼儀作法は勿論、社会の動きに敏感で、今で言う会話力・交渉力・接客力は群を抜き、更に頭脳明晰で賢い魅力は、社会の長にいた人たちに「心の憩い」を作り出したのだと感じた。 現代は花魁のような魅せる「芸」は無いが、バー・スナック等にも物知り・生き字引人と言われる「社会通・情報通」の方々は「人の扱いを知り尽くし、人を診て、快む」また「時に親のように、親友のように、先輩のように接してくれる」それに話題も豊富で話も楽しい。 特に会長・社長などは社内でも複雑になり相談できない環境になりつつある事を考えると、そこに魅力(助言・聞き手)を求めるのは頷ける。現代人の心の隙間と安らぎ(情緒)を満足させてくれる人の魅力と言うのはこんな「超の付く花魁」だろうか。

『吉原はこんな所でございました』福田利子

  • 3歳で吉原「松葉屋」の養女になった少女の半生を通じて語った書籍
  • 徳川時代、官許の遊郭として発祥した吉原は第二時世界大戦中、女たちが軍に徴発され、戦後は占領軍対策に当てられ、売春防止法によって終焉を迎えた。家の貧困を身一つに引き受けて吉原にきた娘たち、郭の華やぎや情緒を暖かい眼差しで写し取る。
  • 「吉原の終焉」
  •             昭和31年5月21日、売春防止法が国会を通過、昭和33年2月28日をもって不夜城は終焉した。吉原は江戸時代1617年に、京都の島原、大阪の新町とともに幕府公認の遊郭として作られた。吉原は何度も火災にあって明治に入っても8回、大正12年の関東大震災は全焼、昭和20年3月10日の東京大空襲にも全焼した。最後まで残ったのは160軒のお店があった。場所は江戸丁1丁目〜約10万平方メートルに48軒の引手茶屋、大見世、中見世、小見世の貸座敷が101軒、29軒の芸者屋、幇間(太鼓持ち)で成り立っていた。
  • 「遊郭」
  •             男の遊興の地、夢の里として栄えた「遊郭」。花魁たちには行儀作法が厳しく仕込まれ、教養や美しさ、華やかさは歌にも歌われ、芝居にもなるなどした。戦前は身分の高い方や老舗の大旦那から職人さんや小僧さんまで遊びに行った。戦後は赤線地区となり仕組みが変わった。吉原の誕生は徳川幕府公認の遊郭として、庄司甚内が最初の許可を得た遊女屋を開店させた。その土地は現在の日本橋掘留1丁目あたりでよしや葺の茂湿地帯だった。遊女は約2千人いた。
  • 「浅草・凌雲閣」
  •             明治23年に八角形で12階建の建物で、10階まではレンガ作り、11−12階が木造で、麻縄で釣ったつるべ式昇降装置があった。大人6銭、子供3銭、11−12階は展望鏡があり1銭した。富士山や東京周辺の眺めは素晴らしく日本中に知れ渡った。だが関東大震災時に2つに折れて取り壊された。
  • 「花魁」
  •             呼び名の由来は禿(かむろ)や新造が姉さん株の遊女を「おいらがの、え、太夫さん」が詰まって発音した。花魁には上は大名、豪商の相手を務める高級花魁から下は河岸見世などがいた。高級花魁は、歌舞音曲はもちろん、廓言葉ながら話術に長け、生け花、茶の湯、書道、花道、香道などの教養があり品格があり一般の女性の及ぶところではなかった。仙台の伊達公の場合には蘭語もできる花魁もいたと言う。当時、ほとんどの女性は恋愛の経験もなく親が進める人と結婚し、家庭に収まる男の時代で、花魁はお金で買える恋愛場所だった。花魁になる背景には親の借金で身売りが多く、10歳頃から仕業した。入居前には警察への身元届け、健康診断が必要で病院での定期的な検査もした。花魁の鉄則は「相手に惚れない」ことで、 相手に受け入れられる一言として「寒い」、「寒かったでしょう。来てくれて嬉しい」など話術も教わった。花魁の水揚料は飲食代含めて引手茶屋の帳簿に記入され見世に支払われた。中見世での料金は一晩二円とかで見世に入ると花魁の写真があり、そこから選ぶ仕組みだった。「間夫は引けどき」というのは他のお客様を全部終えて最後にゆっくりお相手する仕組みもありお馴染みのお客は好んだ。また時間は約1時間が目処でおばさんや下新さんは時間が来ると「まだ、10時ですよ」と決して「もう、10時です」とは言わない「粋」な言葉を伝えたとある。お見世の仕事始めには神棚に拝んだ後、「見世付け」と行って縁起つけで花魁を見世の前に並び番頭が火打石で打つ。一斉に「お早く」と声をかけ、「下足打ち」は下足の札を柱に753の拍子で鳴らす。花魁のかけ(羽織)は春なら桜か牡丹、夏はあやめ、明は菊か紅葉の友禅、着物は袖と胴とが無地か縞で裾まわりと身八つ口、袖口がかけと映りのいい友禅、という胴抜き。帯は献上かしごきを解きやすい様に前で結びます。その下の長襦袢は緋縮綿だった。
  • 「引手茶屋・大 見世」
  •             引手茶屋は一見客をしないことになっており、お得意様が連れ・お客を常に紹介する決まりがあった。平均して3、4部屋あり、お客の趣味趣向、誕生日、身内の命日などまで知り尽くしていた。引手茶屋は大見世へお客をお連れする待合場所を担っていた。大見世は大文字楼、稲本楼、不二楼、角海老楼の4軒あり、3階建てもあり、20〜30人の花魁を抱えていた。お客は女将の裁量で花魁を決めたもので、好み、馬が合いを女将が段取りをしていた。お客は芸者衆や幇間を上げて花魁の部屋で遊んだ。芸者や幇間は芸が深く、芸者の試験ではしゃみせん、太鼓、子太鼓、唄、踊りの他行儀作法、口の利き方などもあった。幇間は一見物知らず、ぼんやり者、おっちょこちょいだが頭の回転が鋭く、お客への対応能力がすごかった。幇間の凄いところはスケールの大きい芸をたった畳半畳の広さでやってのけること、それは替え歌、曲芸、物真似、手踊り、落とし噺などげ達者だった。花魁は時間ごとに計算されたが、芸者等は半日区切りだった。支払いも半年後、年払いなどで現金の支払いは信用がないということで全くなかった。貸座敷は3時間で6円、一晩泊まると12円、芸者の玉代は5円60銭、当時の大学での初任給が45円、一晩で30円から50円かかるお大尽の遊びだった。引手茶屋は「中引け」深夜12時に表門を閉めて、「大引け」深夜2時に見世閉めた。
  • 「戦争下の吉原の女たち」
  •         昭和12年、日中戦争が始まると「国民総動員」「贅沢をやめ勤倹貯蓄を心がけ、勤労奉仕。前線の兵隊さんの苦労を忘れず、しっかり銃後を守るよう国から達しがあった。学校では週に一度日の丸弁当として、おかずは梅干し一つのみがあった。昭和15年からはお米一人1日2合3勻の割り当てのみで、襷に割烹着姿となった。昭和13年ごろから吉原には兵隊さんが姿を見せ、親子の姿もあった。(若い男が女を知らないまま戦死してしまうことはかわいそうだ)。昭和16年には従軍慰安婦として花魁が集められたが、従軍慰安婦になると年季(借金)がご破算になることもあり必ずしも強制ではなく本人の意思で戦地に向かった。昭和20年焼け跡の吉原は最初の進駐軍慰安所になった。公募は「女事務員募集、年齢18歳以上25歳まで、宿舎、被服、食料など全部支給」、当時女性の仕事は殆どなく白人、黒人と分けたが、性病が多発、1年足らずで消滅した。昭和21年には遊郭から赤線が誕生し、飲んだり踊ったりのホールが増えた。当時中堅サラリーマンの月給が350円、遊女の場合は月1万5千円、多い時には3万円を稼ぎ出し女性の数は3120人程いた。当時はインフレで昭和21年の10kの米が6円、昭和22年には149円になった。GHQにより歌舞伎は「世話物」「敵討ちもの」は禁止になった。
  • 「軍需景気と吉原」
  •             昭和25年、朝鮮戦争が勃発したことで景気が戻り、吉原に特殊飲食店が300店も開店、ファッションショーなる額縁ショー等が増えた。昭和27年、東京都の「青バス」が「はとバス」観光バスを運営したことで観光客が吉原に入り込み、花魁ショー・芸者衆のお座敷など文化を紹介する町と変わった。その後吉原は旅館業が増え団体観光客を受け入れる街に変貌した。「花魁ショー」はベニスにもわたり大好評を得た。
  • 「吉原は建前で生きなければならなかった男たちに、夢を売るところだった」、「君には忠、親には孝、夫婦相和し、兄弟は仲良く」という教育勅語を地で行く「建前」の生活を昔は求められていた。戦前の遊郭は「情」と言ったもの、あるいは「恋愛に似たもの」があってそれに引かれて多くの男は通った。お馴染みさん等は、芸者・幇間等の芸を楽しむ場所で、それは「花魁は優しく、吉原には情緒があった」からだと言う。