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巧みな「書状」

2018-08-25 08:14:14 | 歴史から学ぶ

@時は豊臣秀吉が天下をとる最後の砦「北条家の討伐」である。豊臣秀吉vs徳川家康、さらに家康と信頼が深かった北条家との戦い。敵を知り、敵を混乱させ、悪情報を流し、心情をゆるがせ、最後には身内を犠牲に意表を突く策で味方に取り込む事がうまかった秀吉。恰も味方側の都合の良い噂と予測情報(騙し合い)で多くの書状を送りつけ味方側につける巧みの技は実に晴らしい。まさにこの「小牧・長久手の戦い」と「北条家討伐」にはとことん敵を調べ尽くし秀吉の数多くの書状が行き交いしただろうと想像できる。「宣戦布告状」など家康と北条家への書状も決して同じものではなく、ましてや家康・氏直双方が結託しない様に時差(家康には3日間で、氏直には10日間)で届けていることなど綿密に計算された戦略を取っていたとされる。 現代の書状「電子メール」は時差なく、素早く相手に届く。だから即効性もあり効果的でもあるはずだが、実際どうだろうか。 政治家が「文字の読み間違い」、「思わず口が滑る失言」など日本は真に「平和ボケ」で直接現場の真剣身・真剣さが薄れ、それこそ「我が身・保身」政策を貫き始めている感もする。 発信・発言する人(政治家はもちろん)は言葉、文章、内容等をもっと慎重に、丁寧に、判りやすくしてもらいたいものだ。 (国民全てが理解できる文章とは小学6年生レベルが最適だと言う。ましてや、やたらカタカナ・英単語を使う人も多いが意味を本当に理解して使っているか疑い深い)

『孫子・謀攻』に「彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し(敵と味方の実情を熟知していれば、百回戦っても負けることはない。敵情を知らないで味方のことだけを知っているのでは、勝ったり負けたりして勝負がつかず、敵のことも味方のことも知らなければ必ず負ける)」とあるのに基づく。(出典:故事ことわざ辞典)

『北条氏の滅亡と秀吉の策謀』森田善明

  • 小田原合戦・敗北の真相とは
  • 北条家は伊豆、相模、武蔵、下総、上総、下野、上野、常陸などの領土を治めていたが、 多くの戦国大名も創出し4代目の氏政から地方武士が台頭し始め小競り合いが増えた。1584年の秀吉Vs家康の小牧長久手の戦いでは、秀吉が関東・下野に集まった佐竹家、結城家、宇都宮家らと結託し、北条氏の家康直接支援を食い止めた。家康は敗北するが、秀吉は九州征伐を行うために秀吉の娘で家康と和睦交渉する。時同じく1585年天性大地震により秀吉側の多くが被災し戦闘能力が減り、家康成敗を中止し、1586年家康と和睦。家康は北条家に対しも温情を傾け努力するが、秀吉の北条家討伐は変わらなかった。
  • 北条家に対して秀吉は「上洛拒否」と「名胡桃城強奪事件」を捏造し、無理やり合戦を強要、北条家を滅ぼした。真相は双方共に北条氏を滅亡するためのこじつけ理由で秀吉等が結託した策謀だった。
  • 「上洛拒否と名胡桃城強奪事件」の真相
  •             当初北条家5代目氏直の上洛は12月上旬で当初秀吉は承諾していたが、11月24日には「上洛が遅い」言いがかりをつけた
  •             上洛拒否(延期)の理由は「北条氏の財政難」
  •                         1578〜88年に国家総動員して周りの城の大普請をしており、上洛費用は毛利輝元の例でも大きな合戦と同じ莫大な費用と品々を揃える事で無理があったが、何とか上洛を果たす。
  •             名胡桃城強奪はそもそも秀吉の裁断で分け与えた城をあたかも北条家の家臣が攻め落とし強奪したとしたが、その調べた秀吉家来も事実隠滅を図るため消された。この最大の受益者は領土を確保した真田昌幸であり、秀吉と結託したことにあった。
  • 「北条討伐=宣戦布告状」宣戦布告の2つの理由                   
  •                         北条家が真田の所有する城を強奪した事
  •                         北条家の代表がなかなか上洛しなかった事
  •             宣戦布告状は家康には三日後、北条家には10日以上もかけた
  • それは家康と北条家が事前に相談しないように時差を於いた秀吉の策であった。宣戦布告状は1587年11月24日に予告、1590年春、進撃開始。22万の大軍をもって秀吉の武威を他諸国の武将等に見せつけるための演出(上洛させるため)で、多くの有力な武将が小田原に謁見にきた。睦奥南部信直、相馬義胤、下総結城晴朝、常睦多賀野重経、佐竹義宣、下野宇都宮国綱、奥羽伊達政宗、出羽最上義光など
  • 「小田原城下」
  •             秀吉の本陣は天守閣もある聚楽第を思わせる豪華な石垣山城
  • で各地の名産品、舶来品等商人も多く京田舎の遊女などもいた。
  • 「北条氏滅亡」
  •             1590年7月11日北条氏4代目氏政(53歳)と弟氏照(51歳)死罪、二人の首は5日後には京都での晒し首となっていた
  •             北条氏5代目氏直は高野山に追放、結局領地全てを没取され、最高指導者4名が処刑された。
  • 「徳川家康と織田信雄の国替え」
  •             小田原合戦後、即座に家康には関東(北条家の旧領)に移封
  •             信雄には家康の旧領に移封させ、大阪の周りを自分の家臣と親族で固めた。
  • 「小牧長久手の総勢勢力」
  •             秀吉勢=上杉景勝(越後)、佐竹義重(常陸)、木曾義昌(信濃)、毛利輝元(中国)
  •             織田・徳川勢=北条家(関東)、長宗我部元親(四国)根来衆・雑貨一揆(畿内)、佐々成政(越中)
  • 「天性大地震」1585年11月29日
  •             断層地帯=飛騨、美濃、尾張、伊勢等
  •             現代のマグネチュード8程度

            被害地域=近江国、山城国、若狭国、美濃国、伊勢国、摂津国        40日以上の微震が続いた


日本の「和解」とは

2018-08-25 07:45:35 | 歴史から学ぶ

@「和解」は日本独自の対処方法とある。この戦国時代初期の北条主権体制で初めて「法の正義」を優先したが、実際「法による正義の実現」より「話し合いによる納得の実現」を重んじていたともある。喧嘩(闘争・戦争)成敗ではなく話し合いによる「和解」する事を重んじていたとある。その流れが江戸時代の「大岡越前のお裁き」として庶民に評価された。 「物事の正しい道筋、また人として行うべき正しい道、筋が通っている事、正論である事、またその様「道徳」であると言う。「和解は法より良策」と言う判断である。 話は「和解」であるが、双方が納得する事で丸く収まるとした裁きであるが、その法の親元が悪事を行なった場合は「和解」では治らない。 現在「障害者雇用水増し問題」が各省庁で発覚しているが、民間企業が未達成の場合、雇用納付金を徴収し、更に助成金などを不正に受けとった事による懲罰がある。さてこの問題、ここにある「和解」は絶対に有り得ない。親元の首相・各大臣・省庁にどのような「懲罰」が行われるのかとても興味がある。 日本の「いい加減な対応」は昔の「自然法・和解」とは月とスッポンだ。

『源氏勝利の奇跡の謎』(逆説の日本史)井沢元彦

  • 「微賤の身」から天下を取ったのは秀吉と源頼朝だと言う。
  • 頼朝は源氏の御曹司というが父義朝が平治の乱で敗死「謀反の賊の子」であり20年間(34歳まで)伊豆で流罪人として過ごし、頼朝には直属の軍団どころか部隊すらなかった。北条一族(北条時政の娘との婚姻、のちの尼将軍北条政子)の応援を得て打倒平家の兵をあげることができ、後白河法皇の次男以仁王が「平家追討」の令旨で全国の源氏に伝わり、木曽義仲が派兵、その後義経が木曽・平家を討伐、頼朝が鎌倉幕府を開くことになる。頼朝の初陣は300余りの兵力で平家側にいた関東武士大庭景親に大敗、「奇跡的に見逃がされ」生き延びた。
  • 頼朝の弟、戦術の天才義経は「一の谷」「屋島」「壇ノ浦」で奇跡的な勝利を得た。それは平清盛の嫡孫維盛(実戦経験のない)に大将を任せた事、それに清盛が(64歳)病死した事による。義経の戦略は奇襲で、少ない兵で速やかに敵の裏をついた戦闘であり、頼朝の戦利目的の三種の神器はえることができず、伊予・紀伊などの水軍を味方につけ平家を滅亡させた。
  • 「奇襲」
  •             一の谷=崖を駆け下り敵の後ろから攻めた
  •             屋島=時化の時を選び150騎で突撃した
  •             壇ノ浦=船の水主・舵取りを射殺す事で行動不能にした
  • 頼朝の母は名古屋の熱田神宮代宮司の娘で義経の母は宮中に使える雑仕女であった。義経は15歳まで鞍馬で僧修行、その後奥州藤原秀衡氏に学んだ。秀頼は義経を「野望」(平湖の後を源氏の世と予測)として受け入れが、平家討伐後の頼朝の「罪人義経引き渡し」で頼朝に「藤原家も罪人」となり藤原家は滅亡される。
  • 頼朝の戦争目的は敵を滅亡させることではなく安徳天皇の三種の神器を奪い取ることで、「武士による武士のための政権」を握り、朝廷の政治(中央の干渉)の動きを排除する事にあった。軍人である義経はそれを理解できず敵に完勝する事を優先させた。また、後白河法皇から直接左衛門少尉検非違使(三等官)に任ぜられた。問題は義経が勝手に朝廷から官位を受けた事で関東独立国・武士の国の幕府設立に対しての犯意となった。その後頼朝は義経の命令に一切従わないように司令、「代官」を解任する。義経は頼朝の激怒は軍監梶原景時の讒言の所為だと思ったが、義経の行為は幕府の屋台骨を揺るがすものと頼朝は義経の弁明を拒否、追放する。頼朝の刺客が義経を襲うが失敗、法皇が「頼朝追討」を出すが、逆に敗戦、その後法皇は頼朝に「義経追討」の院宣を出す事になる。義経は奥州藤原氏に保護されるが、藤原秀衡の高齢死(70歳前後)により泰衡により義経は殺害され、鎌倉で首検される。その後泰衡は家来の裏切りで殺される鎌倉に武家の都を築くため京都から八幡神(源氏の氏神)を招いて建立したのが鶴岡八幡宮である。
  • 「中尊寺金色堂」
  •             藤原氏滅亡したが中尊寺(藤原3代・清衡・基衡・秀衡)のミイラがそのまま安置され、祀られている。頼朝の怨霊信仰(神霊・怨霊)により加護した。怨霊信仰により大衆から義経不死身説が生まれる。日本は怨霊の祟りを嫌い、できるだけ「喧嘩」をせずに物事を収めようとする「談合」を好む世界を作り出した。
  • 「鎌倉幕府」
  •             設立は1192年とあるが、東国の実質的支配は法王により公認されたのが1183年であり、基礎は奥州征伐が勝利した1190年に上洛している。1192年は後白河法皇が死去し征夷大将軍になった年である。その後幕府「武家政権」として政所・侍所・問注所を整え、律令体制から武士自らの土地に関する権利を認めた。鎌倉幕府は3代にわたるが、頼朝の落馬死、二代頼家・三代実朝も殺されている。幕府は有力な御家人、和田義盛、三浦義澄、北条時政らに独占権を奪われ、最後には北条執権体制となる。1221年後鳥羽上皇は北条義時討伐の院宣を出した「承久の乱」が敗退、後鳥羽上皇は側近が勝手に画策した事であると罪をなしつけ流罪にされた。北条泰時は「法の正義」に優先した「道理」精神を「御成敗式目」で確立させた。「土地所有権の尊重」である。(土地法・相続法・訴訟法)
  • 「歴史は暗記物」
  •             歴史とは人間を学ぶ事であり世間を学ぶ事
  • 「憲法九条と八十九条」
  •             九条=戦力を否定し戦争と国際紛争の武力による解決を放棄            八十九条=公の財産は公の慈善、教育もしくは博愛事業には利用しない(年間35百億円に及ぶ「私学教育助成金」は違反となる)            日本は憲法と現実のズレを放置してきた
  •                         「法による正義」より「納得の現実」
  •                         物事の正しい道筋、また人として行うべき正しい道
  •                         筋が通っている事、正論である事、またその様
  •                         「道徳」とは外面的、物理提供性を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理とし働く。
  •             「大奥越前の裁判話」
  •                         「3方一両損なり」で納得して丸く収まる方式裁き
  •       「落とし主・拾い主・裁き主、落としたお金は二両、それを裁き主が一両負担して3方が一両づつ損をして丸く収めると言うお裁き」
  •             「法による正義の実現」より「話し合いによる納得の実現」を重んじているから「和解する」ことにある。
  •             泰時の師匠明恵(みょうえ)
  •                         「人はあるべきやうとは言う、七文字を保つべき也」
  •             織田信長、井伊直弼、大久保利通=日本人離れした・不自然                        独裁的権力を確立させたが殺される運命にあった
  •             日本国憲法よりも遵守すべきは「自然法」が日本にはある 
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