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財政難での改革

2017-08-07 09:00:07 | 歴史から学ぶ

@現代でも地方の財政難が厳しい、がさらに少子化、超高齢化、それに伴う消費減退など厳しくなるばかりで中央政府の指示指導を待つのは危険水域を超え始めている。そこで必要なことは今ある資源で如何に10年後、20年後を見据えた政策を取る事ができるのか。財政難をなんとか克服次世代に繋げた「上杉鷹山」は有名だが具体的な政策、行動はどうだったのだろうか、保守派、改革派のぶつかり合いとそこに人間の思考、知恵、経験が入り混じっている。「情の道」vs「権力の道」で如何に裁いて前に進めるのか、文中鷹山の師である三好善太夫の言葉『我が身をつねって、人の痛さを知れ』、決して他人に仕掛けないように全てに対して思いやりを持つ事が大切。愚かな者も、人の事を謗り、責めとがめる事はできるものの、賢く優れた者でも、自分の悪いところはわかりにくい者です。人を責める心を持って、我が身を責め、我が身を許す心をもって人をお許しになれば万事うまくいく。」と説いた。

  • 長岡藩の「米百俵」=小泉首相の所信表明で出した「聖域なき構造改革」の一コマ。当時は希少価値のある「米百俵」を如何に活かすかを問いた。
  • 長岡藩の判断は教育育成に使った=河井継之助、佐久間象山の門下は英才教育で人材を育てることに費やした結果山本五十六等を輩出
  • 時代は領民の大飢餓、米沢藩だけが餓死ゼロだった、貢献者は上杉鷹山の改革=ケネディー元大統領の尊敬した唯一の日本人
  • 鷹山は誠心誠意胸襟を開き周知を集め藩士や領民の為に自らが時間をかけて率先垂範した
  • 武士は自由競争的な思想はなく260余の大名は藩財政再建するのみ
  • 長男以外は左遷、出向の処分ありでその為、失敗を表面化させないことに尽きた
  • 藩(企業)財政縮小(業績低下でリストラ)家臣のやる気も低迷
  • 上杉謙信の人柄
  •             心底、神仏を敬う敬虔な姿勢の持ち主、領土欲、権勢欲がなかった、朝廷・幕府への思慕の情がことのほか強かった
  •             合戦のうまかった武将のひとり(小田原城の合戦)鬼謀神算
  •             「上策には下策をもってあたるが最高の良策である」
  • 上杉謙信没後の越後は家臣直江兼続が主となり4分の1に減封された領土の経営に専念した(人口6千に5千の家臣と家族が増えた)
  • 倹約を旨にし、漆、青芋、桑、紅花を奨励、実質30万石の米沢上杉家は実収51万7千石をあげていた、(所得倍増計画)兼続は私財を投じて漢籍を収集、文化事業に貢献、論語なども出版、禅林寺(法泉寺)を建立、教育に力を入れた、60歳にて没
  • 上杉家は4代目守綱の後、前の藩主綱勝は吉良上野介による毒殺説があり、保科正之をたより吉良の長子(綱憲)を藩主にしたが、吉良への献金、藩主の贅沢な振る舞いなど借金を負うことになり、財政をどん底に陥れることとなった。当時御囲金は14−5万両あった
  • 1745年には上杉家の家臣数は5086名、1793年には5339名となり武将の人口比率は23%となり他の藩では6.94%(南部藩)、秋田藩では9.8%であったにもかかわらず財政はみるみる緊迫状態となった、綱憲の年間衣食住費は2千両、「嵐山」の興行に1千両、米沢の江戸屋敷に2万5千両(今の10億円余り)、吉良への新居、衣食住の費用等を上杉家から出資していた
  • 鷹山の前藩主重定の家臣森平右衛門は藩政を一手に握って変革を実行した、藩士の借知を増やし、町人や農民の人別銭を課し藩士たちの副業も商いとして課した。だが大庄屋・加賀商人金子調達の公金乱用で、藩政半ばで刺殺された(権力を持つと箍が緩んでしまう)
  • 竹俣当綱(当時35歳)ら3名の重臣が森平右衛門を竹俣家で殺戮したが、最上位家臣の竹俣は江戸へ帰り、お咎めがなかった。
  • 鷹山の師である藁科松柏はその経緯を教え、のちに藩主となる鷹山が竹俣を帰り咲かせる
  • 上杉重定は版籍奉還を願い出て、上杉家の存続を保った。米沢藩の婿を九州日向国高鍋藩の藩主秋月家からの養子を向かい入れた。それが直松、のちの鷹山となる。
  • 秋月家の老臣三好善太夫が鷹山を教育「贅沢を禁じ、倹約を心がけ、人に差し上げたことは忘れてもいいが他人から受けた恩は決して忘れず良い事は例えささいなことでも進んで行い、悪い事はどんな小さな事でも決してしてはならない。」『我が身をつねって、人の痛さを知れ』、決して他人に仕掛けないように全てに対して思いやりを持つ事が大切。愚かな者も、人の事を謗り、責めとがめる事はできるものの、賢く優れた者でも、自分の悪いところはわかりにくい者です。人を責める心を持って、我が身を責め、我が身を許す心をもって人をお許しになれば万事うまくいく。」と説いた。
  • 高鍋藩秋月家は8代でようやく成功した、鷹山の生まれた藩で三好の訓戒は後々鷹山の知恵となった
  • 江戸における鷹山の師、松柏は「原理原則」を教えた、その後細井平洲が鷹山の師の役割を追う 原理原則=行動哲学
  • 鷹山は家臣のぼろい長屋とその家族を見て「これらはお上の責任でございます」と佐藤文四郎に言われ財政難を直感した。
  • 鷹山の家臣、木村丈八と志賀八右衛門がおり、竹俣当綱とともに平右衛門を殺戮した信頼をおいた家臣はその後財政改革で推進役となる
  • 財政難を超えるには「モラル」「やる気」が基本だと其の向上に勤めた、大倹約の誓詞は上杉謙信を祀る春日神社に奉納され、この奉納文が公開されたのは98年後の1865年だった
  • これまでの江戸での仕切り金は年間1500両だったものを209両2分と銀5匁6分とした、日常の食事も1汁1菜で衣服も木綿とし節約を実行。50人いた奥女中を尾張藩に引き取ってもらい9人にする。「聖域」に対しても一切妥協せず断行「為さずんば胡ぞならん」(書経)行動に移さなければ何事も出来るものではない
  • 上杉鷹山自らが大倹約令の先頭に立って、保守派も感情レベルでは受け入れざるをいなかった
  • 「罪の疑わしきはこれを軽く、功の疑わしきはこれを重く」藁科松柏
  • 人にはそれぞれ定まった才能が天から与えられている。分相応の事を望んでも成功しないというが藁科の信念で適材適所を説いた
  • 鷹山は藩の財政難の現状を家臣に率直に手紙で伝えた
  • 保守派を納得させるにはまず鷹山の先代重定の後ろ盾が必要で周りを固めていた、焦りは禁物である事も理解していた
  • 3つの困難、見識を養い、実行し、成し遂げる事を覚悟していた
  • 鷹山の初入国の時のエピソードは11月寒さ厳しいおり宿もなく野宿をした、其の時の囲炉裏の灯火でタバコを吸う。わずかな灯火でも時間がかかるが火を灯す事ができると実感した
  • 藩主治憲(鷹山)は藩内で孤立した、それは習慣的なことを破り民心の事を考えたやり方を取った。また城の1里先から馬に乗り入場する習慣も4里先から乗り込んだ、結局忍耐強くひたすら藩士たちを説き続けることであった
  • 徳島藩の藩主蜂須賀重喜は力押しで「役席役高の制」(格式や身分にかかわらない合理的な役職制度)を実行、反対派を武力で抑え独裁体制を敷いた、だが幕府は認めず藩主を「押し込み隠居」させた
  • 鷹山は師の平洲を多額の報酬と待遇で呼び寄せ「松桜館」を設立、武士の教育に力をいれた、それは保守派の反対はさらに厳しくんなった
  • 江戸表の屋敷が大火で焼失、武士には慣例がない50騎組の奉仕活動でようやく建築(鷹山に味方するものが漸く理解し始めた)、がその後大凶作で農民にそのしわ寄せが集中した
  • 保守派の限界から7家の家臣が騒動を起こすが重定の後ろ盾で難を流れる事ができた、その後鷹山は広く意見を聞き7家の処分をした。その2年後には7家も再興させた
  • 竹俣当綱の漆、桑、楮(こうぞ)百万本栽培計画を立て途中、豪商からの契約で資金を確保したが、成果が出ていないことで竹俣等の人材の失脚、鷹山も隠居、民集の声もあり鷹山、竹俣等が再興、復活させ収益回復をはかった。
  • 鷹山は藩主として19年、その後2代の藩主を後見し、72歳で没。疲労と老衰が原因「人の一生は勤める事、努力する事に尽きる。努力し勤めてさえいれば生活に乏しい事などあり得ない」
  • 徳川吉宗の「享保の改革」を尾張藩主宗春が無視して派手な祭礼、盆踊りなどをした結果、世間の倹約ムードがたち消え尾張領内は人、ものが集まり活気が戻り回復へと繋がった、よって財政も回復、城下が潤い消費文化の華を咲かせる事に成功した。「民とともに楽しむ」が宗春の目指した政治であった
  • 徳島藩の藩主蜂須賀重喜は力押しで「役席役高の制」(格式や身分にかかわらない合理的な役職制度)を実行、反対派を武力で抑え独裁体制を敷いた、だが幕府は認めず藩主を「押し込み隠居」させた