@チンギス・カンの謎はまだまだ数多くあると言う。当時の宮殿と言われるアウラガ宮殿(ウランバートルから東へ数十km)も我々が想像する物(豪華絢爛)とは相当違うらしいが現在も発掘中らしい。 世界で一番寒い地域(平均気温がマイナス1度)とあるがどんな人間、動物がどのように暮らせるのだろうか。それに1206年から1259年の広大な領土(東は現在の北朝鮮から西はトルコ近辺まで)をどのように管理監督していたのか諸書書物は多いが謎はまだまだ多く、解決されていない。だが、チンギス・カンの史跡で読めることは厳しい自然環境を生き抜く為、良質の家畜(5畜)と鉄を手に入れ道路網を整備、質素倹約・質実剛健でユーラシア大陸を制覇している。様々な 領主と自由交易をしながら異文化をうまく取り入れている(今の中国「一体一路」と似ている部分もある)
人間の生命力、5畜との共生、人間欲がこの時代どのようなものだったのか、これからのさらなる発掘に期待したい。
チンギス・カンのモンゴル帝国
- 「実像を追う」=尽きない謎
- 「転機を読む」=チンギスの誕生
- 「寒さに克つ」=モンゴルの自然環境
- 「馬を育む」=圧倒的な機動力
- 「鉄を求める」=資源を巡る争い
- 「道を拓く」=首都とネットワーク
- 「故郷を慈しむ」=国つくりのビジョン
- 考古学とは過去の歴史、古代から昨日(過去)起きたことでも考古学に入る、史料より物質資料に基ずく復元から分析
- チンギスの首都「アウラガ宮殿」800年前の遺跡、モンゴルの中東部ヘンティー県の草原=東京ドーム13個分、1片が17mの天幕(ゲル)の跡が集中している場所、宝石等は見つかっていない、遊牧民で人工遺物と食物種子、動物骨、貝殻等が発見されているのみ
- 乾燥地帯で、年間降水量は平均で200ミリ、多くても400ミリ、首都のウランバートル「世界でもっとも寒い都市」で平均気温はマイナス1度前後、ロシアモスクワは6度、アイスランドでも4度
- 近郊は群雄割拠で金、西遼、西夏の強国が狙っていた
- 父イエスゲイはチンギスが9歳(1162年生まれとされる)で亡くなりその直前にチンギスは婚約した。父の友好関係トオリルに頼り、庇護をうけた、敵はタタル、真の敵は金、だが血で血を洗う戦いから金に加勢することになる
- チンギスの兄弟は4人、テムジン(チンギス)、カサル、カチウン、オッチギン
- 1206年に成立モンゴル帝国「イエケ・モンゴル・ウルス」
- 10個以上の千戸数(95の千戸数)が1227年チンギス死去には129戸数あった
- 大量の人と物資が行き交いしていた時代、関税を低率で均一し、簡素化、知識や技術の交流、天文学や医学、印刷技術の伝播、絵画などの芸術の融合なども活発だった
- モンゴル帝国の崩壊理由の一つはペストの蔓延とされる
- モンゴル帝国はチンギスを含め16人の君主がいた、チンギスが生まれたのは1162年という説、死亡時期は1227年という説がある
- チンギスを支えた8人の武将「四駿四狗」がいたとされる
- 自然環境・崩壊・干ばつの例として世界ではマヤ文明やアンコールワットがある
- モンゴル高原(乾燥地帯)は「極限環境」のなか、匈奴、鮮卑、柔然、突欣、ウイグル、モンゴルの政権が誕生している
- 遊牧民にとって大切なのは放牧用の草の育成で、馬を肥やして騎馬軍団にすることだった。
- 中国では平均気温が2度上がると米の収穫が5〜12%減るという、モンゴル高原では2度下がると草の生育が40日間短くなる
- チンギスはこの豊富な場所、ヘンティー山地、ヘルレン川を占領、その後、ジュルキンの本営を攻めバヤン・オラーン山地域を占領
- 馬牧民は騎馬軍団の基礎(馬の育て方、地域)を知った調教師であった
- モンゴルは5畜=羊、牛、山羊、ラクダ、馬を飼育、現在3600万頭の家畜、2百万頭(約6%)が馬である(2015年のモンゴル人口は3百万人)、15歳になるとモンゴルでは馬に乗り兵士となる
- モンゴル馬(モウコ種)は小柄で体高は1.3m(サラブレッドは1.6m)2歳馬で12km、6歳以上で25〜35km走行(時速15km)できるがサラブレッド等は1200〜2300m(時速60km)、馬は全体に汗をかき、皮膚呼吸するので拭き取ることが必要、4歳でのオスは去勢する(戦闘時に相手にメス馬がいると暴走する危険があった)、餌の与え方は疾走後鞍を外し呼吸が穏やかになり、足の照りも治まった時点で水と草を与える。出征前には食事制限し、余分な脂肪を落とす。そうすることで長距離をかけても汗が出ず遠征に耐えることができる、疲れている時には水や草を控えることで病気を抑えた。遠征には替え馬を用意、武将となれば3−4頭連れて行った。現在遊牧民族はウラチの出身でイスラム系3割、中国系7割となっている。モウコ種は「側対歩」(前右足と同時に右後ろ足を出す)により揺れが少なく的が狙いやすくなった、馬本来は「斜対歩」(右と左が交互に出す)である。モンゴル馬の鎧、甲冑含め1頭あたりの総重量は12kg、中国では30kgだった。神襞弓の距離は300歩(460m)飛んだ
- チンギス・カンの優位
- 自然の立地(バヤン・オラーン)、交通の要衝、金のインゴットという鉄資源、アウラガでの鉄工房・鉄器生産、移動生活に適合した機動性の高い住居(ゲルそのままで運ぶ)、移動は1日20kmほどで多くの家畜を連れての移動なので草原で休息、緩やかな移動であった(季節に応じて年3箇所を家族、奴隷、家畜等と一緒に移動)
- チンギスの帝国成立時の軍は総勢10万5千人、楔だけでも472トン必要でその鉄は700−800トン入手、インゴットの入手先は金嶺鎮鉄山(中国山東省)その他一局集中ではなく西夏や謙謙州等からも入手した。騎馬軍隊は鉄資源の安定で武装した(馬、鉄、道)特に道は補給等を含めて力をいれ開拓した
- アウラガ遺跡(ウランバートルから東に車で4時間)ヘンティー県、でリゲルハーン郡、広大な高原
- 主要な后妃は5名、ボルテ、クラン、イエスイ、イエスケン、金皇帝の公主、それぞれ万戸数を抱え、自給自足を原則としていた、移動は3箇所=カラコルム、サアリケエル、大オルド
- 長男ジョチはカザフ平原金山北路、次男チャガタイはシルクロード天山北路、3男ウゲディはジュンガル盆地金山中道等で各々「騎馬軍団の機動力向上」「鉄資源の安定確保」「高原内生産の活性化」遊牧リテラシーに基ずく「シフト」「コストダウン」「モバイル」「リスク回避」「ネットワーク」の戦術を駆逐した
- チンギスは1227年初秋、中国寧夏の六盤山で西夏攻撃の陣中で病死、その後乾燥による食料不足でペストが発生、政権の腐敗、内乱、経済の停滞、疫病の蔓延、そして自然の猛威にモンゴル帝国は滅びた
- チンギスの戒め
- 「草原を掘り起こすな」「川の水を汚すな」
- 天然資源の採掘、道路の建設、地球の温暖化、乾燥化から砂漠
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