@幕末から明治、大正、昭和へと動く世の中で持丸長者になる経緯はほぼ同じことをしていることに驚く。それは「死の商人」になり影で大儲けしている人物、組織だ。 また中には頭脳明晰でなくても「口八丁手八丁」(今で言う詐欺まがい)で巧みに富を得た大物も多くいるとある。今も昔も変わらないやり方で金儲け、莫大な資産を生み、そして資産隠しへと人の欲は変わっていない。 この著書によると ”三井、三菱、住友、安田財閥”はこの影で大儲け、今に至るとある。日清、日露、第一次、第二次世界大戦等戦争で必要な武器、物資を調達、資金は全て国民の税金。それも財閥と内閣、官僚との縁組から切ってもきれない関係で金が動き、国の一部上層部の思いだけで動かされた国民は悲しい。政治と企業との密着は今も変わらないのは国民がしっかり見る目を持って居ないからだろうか。
現代、ほとんど知らない内にいろいろな新規税が出てきているが「取れるところから取れ」式一辺倒ではこの先日本は不安ばかりになる。これだけ世の中変わっているのに50年−70年経ってもいくつか廃止税あっても不思議ではないはずだが。 「減るもの失くして暮らしはよくならない!」
- 持丸長者『持丸とは』
- 素封家、分限者、金満家、金庫持ち、豪商、豪農、豪家、富商、お大尽様、長者様、多額納税者、資本家、財産家、資産家、大富豪、財閥、百万長者、億万長者、ブルジョア、キャピタリスト、大地主、蓄財家、リッチ、遺産相続人、大慈善家
- 慶応年間徳川幕府の持丸藩
- 加賀藩、鹿児島藩、仙台藩、名古屋藩、和歌山藩、熊本藩
- 1848年(寛永元年)の持丸者
- 天王寺屋、鹿児島屋、銭谷、鴻池、加島屋、住友、辰巳屋
- 1875年(明治8年)
- 三井、鴻池、天王寺屋、下村、茶屋、三谷、住友、白木屋
- 1908年(明治41年)
- 岩崎、住友、三井、鴻池、渋沢、大倉、三井、井上、山縣、松方、島津、毛利、山内、黑田、細川、酒井、浅野、前田、池田、徳川
- 1933年(昭和8年)
- 岩崎、三井、住友、大倉、安田、辰馬、根津、中野、山口
- 明治からの『財閥』
- 三井財閥15億6950万円
- 三菱財閥岩崎家11億9000万円
- 安田財閥5億7500万円
- 住友財閥3億2150万円
- 関西海運財閥2億2300万円
- 大倉財閥2億0600万円
- 古河財閥1億5000万円
- 『武田信晴・信玄と徳川家康』
- 武田信玄が最初に貨幣制度を設け、家康、その後中央政府による公的貨幣を流通させた。
- 三方ヶ原の戦いで家康を大敗させた後、金山の開発に着手(1541年)石見銀山で金銀銅を採掘、甲州金の制度化で1両=16gの4進法を定め貨幣制度を構築した、現在の山梨中央銀行である
- 武田勝頼の武将穴山梅雪(武田を裏切り家康に仕える)はその後家康(武田の家臣、大久保長安)が佐渡金山含め金山等を生産、貨幣政策を担った
- 武田の子孫は柳沢吉保、板垣退助で、三菱の岩崎彌太郎も武田七郎信隆が先祖だ。
- 大東合気術は戊辰戦争の白虎隊を生み出し、その会津の家老西郷四郎はのちの講道館柔道を警視庁に採用させ、三島通庸(姿三四郎)である
- 『浅井長政と豪商』
- 高山藩藩主金森は木曽木材商となり京都で白木屋を、その後江戸でも呉服屋を開業、江戸で開業した三井高利(越後屋)ものちに大丸として江戸の3大呉服商となった
- 浅井の子孫、浅井藤右衛門は土佐に移り造船業、和紙、醬油で持丸長者になり、その後ジョン万次郎、坂本龍馬、岩崎弥太郎、後藤象二郎、板垣退助らの隠れた巨大支援する黒幕になった。
- 浅井長政のお市の方側からは茶々、お初、お江与は信長、秀吉、家康に継いだ
- 幕府の大奥では歳出70万両のうち20万両も傍若無人の浪費(大奥の衣装、芝居、飲食等)でいくつか豪商が生まれた
- 荻生徂徠は、赤穂浪士への切腹をさせ「忠臣蔵」となる、徂徠は「貨幣は信用である。幕府の保証があれば瓦でも石でもよい」と言った(貨幣の経済原理を喝破していた)により貨幣の品を落とし元文小判で1700万両鋳造し通貨量を増やし米価の回復、経済を安定させた
- 徂徠の思想「南総里見八犬伝」にある孟子8つの徳
- 仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌
- 江戸時代末期には両替商、三井と鴻池が農業・林業・漁業・製造加工(酒、醬油、みそ)、運送・卸売で富を得た
- 明治では1両=1円=1ドルのレート、1945年日本の敗戦後1ドル=360円に、1971年ニクソンショックで金本位制が廃止、変動相場性に変更された。
- 『ペリー来航の衝撃』
- 1842年イギリスは中国とアヘン戦争、中国は賠償金として銀2100万両と香港島、広東、廈門、福州、寧波、上海の開港を認めることになる
- 1851年、ジョン万次郎、アヘン貿易をしていた大商人ウオーレン・デノラ船長(孫がルーズベルト大統領)に助けられアメリカで数学、航海術、造船技術を学び、幕末藩主島津斉彬、伊達宗城、松平慶永、山内容堂らに認められ、紡績建設、造船建造等を開始した
- ペリーはインド経由で戦艦サスケハナ号、サラトガ号、プリマス号3隻を伴い那覇との通商から江戸に入った。それはアメリカ大統領からの新書を携えていた。阿部ら幕臣は戦艦からの砲撃で江戸城、江戸の町が危機的状況になると察し、中国の敗北(賠償、植民地化と奴隷制度)を知って4年後に通商を認めた。その時相談したのは近代情報に詳しかった肥前佐賀藩の鍋島と薩摩藩の島津であった。
- 当時の家老首座阿部正弘の妹の縁戚が千葉醬油産地でヒゲタ醬油、ヤマサ醬油、野田醬油の富豪を支えた。また長野県信州生糸を生み出した上田藩も栄えた
- 幕府はペリー来航後3ヶ月で造船に着手、最初の洋式軍艦「鳳凰丸」を完成。それを機に製鉄業が伸び、銀行(両替商)ができた。初代の両替商は株式会社嚆矢(こうし)で天王寺屋、平野、米屋(のちの三井)、住友、北風が参入した。
- 豊田佐吉の機織り機の発明者は長野県松本市北、臥雲辰致であり、元は寺の住職であった。
- 生糸貿易は横浜を中心に豪商が富を築いた、原善三郎。
- 1896年紡績業が日本の製造業の7割を作り出し、上位100社のうち57社が入った。(1970年代鉄鋼業が17%、電気産業が22%を見ると7割を占める産業はかつてない)
- 製糸工場の生糸は天蚕で一つの繭から1000−1500mの糸が作れた。その後真綿など紬が茨城の結城紬、鹿児島の大島紬、上杉鷹山が手がけた山形の米沢紬、岐阜郡上八幡の郡上紬、新潟の塩澤紬が有名となり日本一の生産を長野県上田地方の上田紬が作り出した。
- 松代藩佐久間象山は吉田松陰、河合継之助、坂本龍馬、橋本左内を育てた思想家は、大砲の鋳造、ガラスの製造、種痘の導入、電信機の制作を手がけた科学者であった
- 岩倉具視、公卿は日米通商を抗議し、開国を反対した。これは民衆のことなど眼中になく、京都公家と朝廷の権威を保身するため、外國人排斥、鎖国運動であった。その後明治政府が設立すると日米通商の特命全権大使となり髷を落とし文明開化だと名乗った。これといった功績もない岩倉が紙幣の顔になった理由が見つからない。
- 腐敗した幕府上層部と井伊直弼、新撰組、尊王攘夷の志士はいずれも農民、職人、商人、医師の生活が眼中になく刀を振り回し、鉄砲の威力を誇示し無用の戦いを展開しており、美化された武士のストーリーだった。
- 小栗上野介忠順、三井の大番頭三野村左衛門と組んだ秀才、8歳から漢学を学び剣術、柔術、砲術、馬術、弓術を習得、貿易開国論者で初代外国奉行米国での貨幣鋳造所を訪問した時に日本との金銀交換率を4倍に正した。その後金銀の日本からの流出は止まった。その後横浜造船所(横須賀製鉄所)を建設、自由貿易を認めて近代化の道具を購入する。フランスの海軍技師を招聘し、蒸気機関から機械工作、精密機械等を手がけ、工場建設では鹿島建設を作り上げた。兵庫商社を通じて郵便制度、鉄道計画を作り、造船王国の生みの親はこの小栗だ。
- 『財閥続々と台頭する』
- 倒幕に関わった人材
- 薩摩藩=西郷隆盛、大久保利通、黒田清隆、松方正義、西郷従道、大山巌、寺島宗則、五代友厚、森有礼、樺山資紀
- 長州藩=木戸孝允、伊藤博文、井上馨、大村益次郎、山県有朋、広沢まおみ、香取素彦、前原一誠、品川弥二郎
- 土佐藩=後藤象二郎、板垣退助、岩村道俊
- 佐賀藩=大隈重信、副島種臣、江藤新平、佐野常民、大木喬任、中牟田倉之助
- 福井藩=由利公正
- 熊本藩=横井小楠
- 高田藩=前島密
- 幕臣=勝海舟、榎本武揚
- 公家=三条実美、岩倉具視
- 大名=島津久光、毛利元徳、山内容堂、鍋島閑叟、松平春嶽
- 高杉晋作を擁護した豪商白石正一郎が唯一命をかけ助けた商人で他の豪商はほとんど金だけの支援で済ませた
- 財閥は敵同士の婚姻で維持し財力を持ち耐えた。それは初代総理大臣となった松方正義の政略的な婚姻で親族に持丸長者を増やし続けた
- 福沢諭吉も歴史的に誤りのある人物であり、江戸幕府は耳朶遅れだと罵って居たが自身で巨大な財閥を作り上げ、金をもっているものが社会を支配すると言った人物だ。勝海舟は咸臨丸では船酔い艦長としてなんの役割を果たせず、口が上手い詐欺師的な人物だった。長崎の艦長養成でも成績不良で落第、卒業できず、航海で恥を描いた。江戸無血では江戸市民を考えての交渉ではなく、朝廷側に立った立場を利用した人物である。
- 『井上馨・山県有朋と三井財閥』
- 井上(貧乏侍)は初代造幣頭として就任、紙幣を三井組で発行
- 井上は尾去沢鉱山で金銭を搾取、横領している
- 山県有朋と組んで江藤新平を殺戮、犯罪を重ねた
- 三菱財閥—岩崎弥太郎は坂本龍馬が受けるはずの7万両と後藤象二郎が受けた樟脳代金16万両を着服(殺害されたことを理由に)その後開成館、長崎土佐商会、大阪土佐藩邸、西長堀商会、大阪商会、九十九商会、三川商会、三菱商会へと変名している
- 伊藤博文や井上馨は明治政府の集めた膨大な徴税を留学や女郎に費やし、背任行為を繰り返していた
- 岩倉具視、自分の金儲けだけで息子具定は全く実業していない内宮大臣、財閥の安田と組んで東京資産家1位となっていた。その安田は紙幣両替で暴落した額面から大儲けし資産を得た。その後銀行の買収を続け井上馨の要請で損な役回りもしたが安田銀行から富士銀行となりみずほファイナンシャルへとなっている。
- 復興の起因は生糸と並んだ綿紡績であり大阪復活となった
- 『呉服店』創業者たち
- 大村彦右衛門の大丸、飯田新七の高島屋、十合伊兵衛のそごう、伊藤裕道の松坂屋、古屋徳兵衛の松屋、小菅丹治の伊勢丹がある
- 『島津斉彬の知恵と遺産』
- 1853年のペリー来航で知った金鉱労働者衣服で過酷な作業に耐えられるデニム、リーバイスを知り、生地を広島福山で綿織物を始めた。
- 蜜貿易商から、溶鉱炉、反射炉、その後製鉄業から造船業へとつながった
- 『江戸は四度の生まれ変わり』
- 太田道灌の江戸城が築かれた八百八町時代
- 明治維新の江戸・東京遷都
- 第二次世界大戦後、東京オリンピック経済加速時代
- 1980年代の首都圏膨張時代
- 『政党と財閥の力関係』
- 明治18年(1885)初代伊藤博文内閣では長州藩の大臣4名、薩摩藩5名、土佐藩1名となり全てがこの薩長関係が豪商を生み出し、縦横に血縁関係をつくった。それは三井、三菱、住友、安田、古河、大倉、浅野、川崎、藤田等の財閥商人集団となった
- 特に富を独占したのは西南の役での武器、物資調達で「死の商人」となった三井、三菱、大倉、藤田で国の会計の軍事支出は4,171万円となり、明治10年度が単年度で4,843万円予算のほぼ100%がこの「死の商人」への支出で、富豪を巨大化させた
- 一部の政府選りの富豪等に対して、富を得ることに反対したのは佐賀藩の副島種臣等、土佐藩の板垣退助、古田、岡本、徳島藩の小室、福井藩の百合公正、佐賀藩の江藤新平、土佐藩の後藤象二郎たちであった
- 1894年には日清戦争(日本人犠牲者13,825名)、その10年後には日露戦争(85,082名)、そのまた10年後には欧州大戦(第一次世界大戦)となり、軍需財閥が大儲けした。
- 明治38年(1905年)島根県が一方的に竹島を宣言、日露戦争後には満州権益が日本に譲渡された。1910年陸軍大臣寺内正毅が韓国統監となり韓国は日韓条約で日本の植民地となった。第27代朝鮮王李拓が退位し5百年続いた朝鮮李王朝が消滅した。
- 『日本のファシズム台頭』
- 寺内内閣の日韓併合の1906年以降、満州侵略へと進む
- ヨーロッパ、アメリカに負けてはならないと明治政府要人は殺伐な精神で軍事思想化していった
- 国民は米価の暴騰などで工場のストライキ、暴動なとを起こしたが1945年の敗戦まで三井、三菱、住友、安田が日本の全産業の4分の1以上を占め独占していた。