乗った後の景色

電車・気動車・バスに乗ることが好きな乗りマニアによる旅行雑ネタブログです。

茨城・千葉・埼玉3県境

2018-10-27 | 埼玉県
 千葉県最北端を見に行ったときに茨城・千葉・埼玉3県が隣接していることを記念していると思われる「三県鶏鳴之地」なる碑を見たのですが、3県境はそこまで歩いて行くのが面倒なので見に行きませんでした。ところがその後で埼玉・栃木・群馬3県境を見に行って帰ったらなんとなく引っ掛かるものが残ります。どうせただの江戸川を見るだけなんだろうなあと思いつつも気になっては仕方ないので改めて茨城・千葉・埼玉3県境を見に行くことにしました。

 今回の足は東武日光線幸手駅前の井草自転車預り所で借りられる幸手市観光協会のレンタサイクルです。(7時頃~17時/第2・3日曜休み/1日400円)埼玉県幸手市は3県境の一角を占めていて幸手駅から3県境までの道のりは7km程度ありますが、この辺りは起伏がないので自転車ならそこまで大した距離でもありません。


 3県境に向かってペダルをこいで行くと途中でTOKYUとだけ書かれたよくわからない店らしきものや(幸手)ひばりが丘(工業)団地などを通ったので東武沿線なのに急に東急や西武を思い出しました。


 中川と江戸川をつなぐ幸手放水路まで来たら間もなく3県境です。


 江戸川の土手に上がりそろそろ3県境かなというところまで来ると棒出しという昔の治水設備があった場所にその旨の案内板がありました。

 案内板には1883年と2000年の地形図が並べて掲示されているので3県境とも絡んできます。現在の3県境付近の茨城・埼玉県境は昔は江戸川にそそぐ権現堂川でしたが、権現堂川は1928年に廃川され周辺の河川は流路が大きく変わり、3県境付近の茨城・埼玉県境は現在地続きになっているのでなかなか昔の様子の想像がつきません。


 土手の上や河川敷を見ても県境がよくわからないので土手を下りてみると茨城県側に五霞町のコミュニティバスの折返場がありいかにも境界線という感じでした。幸手市側にもバス停があれば面白いところですが残念なことに幸手市のコミュニティバスは廃止されています。
 右の画像の左の住宅が茨城県、右が埼玉県で間の側溝が県境です。土手から先はわからないのでこの辺りから類推してだいたいの見当で改めて土手から川面まで見てみることにしました。


 茨城・埼玉県境が江戸川にぶつかったら対岸は千葉県、ということでこの辺の川面が3県境だと思います。埼玉・群馬・栃木の3県境のように直接立てるわけではないので岸に3県の旗でも立てたら名所になるかななどと思ったりです。


 ちなみに県境付近の土手下には関宿関所の跡を示す碑や高瀬船が描かれた案内板もあったりで先の棒出しの案内板と併せ3県境以外のことでは既に名所というか古跡ではあります。


 辺りの古そうな建物を見たら幸手市が市になる前の北葛飾郡幸手町西関宿、さらに幸手町になる前の北葛飾郡豊岡村大字西関宿という字が見られました。幸手町が幸手市になったのが1986年、豊岡村西関宿が幸手町に編入されたのが1955年ですからそれ以前からの名残ということになります。またさらにさかのぼると1895年までこの西関宿地域は埼玉県ではなく千葉県東葛飾郡関宿町だったのでかつては県境の位置も違っていたわけです。


 ぱっと見るとあっさりしているような江戸川べりもなかなかややこしい来歴があるなあと感心しながら自転車をこぎ対岸の千葉県側の野田市からも3県境を見てみました。関宿関所跡の碑が立つバス通り沿いから土手に上がると草ぼうぼうの河川敷とさっき行ったばかりの対岸が見えるだけでかつては船がたくさん行き来していたというのが信じられない、というのは近所の茨城県境町での感想と似たようなものになってしまいますが交通の栄枯盛衰もまた世の習いだなあと思うばかりです。

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茨城・千葉・埼玉3県を通るバス

2018-10-24 | 埼玉県
(前回のつづきです。)
 東武動物公園駅と境車庫を結ぶ朝日自動車のバスは茨城・千葉・埼玉の3県を通るというなかなかスゴい路線です。茨城県守谷市の守谷駅から常総市・坂東市を経て境町の境車庫に着いたあとはこの東武動物公園駅行きのバスに乗ることにしました。


 境車庫を出ると境町の中心部を抜け利根川の土手に突き当たったところの境町停留所にまず寄ります。境町停留所は折返場内にあるのでここを一周し境大橋までが茨城県、橋で利根川を渡ると千葉県野田市です。


 千葉県最北部をかすめたあとは関宿橋で江戸川を渡って埼玉県に入り幸手市、杉戸町と走って行きます。そこそこ道が狭くなって田んぼの中を走ったりでなかなか楽しいものがありました。


 大落古利根川を渡るとちょっとだけ宮代町を走って東武動物公園駅に着きます。


 着いた東武動物公園駅東口(左)はロータリーはあるもののやや手狭ですが脇に朝日自動車のバス折返場がある雰囲気はなかなか好ましく感じました。駅を渡った西口(右)は駅名の由来の東武動物公園や宮代町の役場がある側で広いロータリーに東武動物公園駅行きのバス停もあったりですが再開発中でがらんとしているのでやや裏口っぽさがあります。


 西口の少し先で路地に入り一茶宮代という手打ちそば屋でもりそばを食べました。すいとんぽいというのか噛みごたえがあるかなり変わった面白いそばです。面白さだけでなく380円という値段もありがたいものです。


 噛みごたえがあるくらいなので食べごたえもありそこそこお腹にたまるそばですが、そこはそばなのでもり一枚ではやや物足りないものもあり改めて西口を見ると駅前の地味な建物にカレーのカフェ、南イタリア・シチリア島料理のレストラン、本格的に台湾風な台湾軽食店、インド料理となかなか個性的な飲食店が並んでいるのでびっくりしました。再開発中で店などはまばらな駅前なのにありがちなチェーン店が多い駅前より面白く意外にも悪くない雰囲気です。


 どれにするか迷いつつ南イタリア・シチリア島料理のラ・グリーリアという店に入ることにしました。さすがにそばのあとだったので一番軽いパスタだけのセットとしなかなかかわいらしい前菜から始まります。こうなるとなんか飲みたくなったりもするのですが昼なので自重します。


 パスタはタリアテッレ、ニョッキ、リゾットがひと口ふた口分くらいずつ出て来るというものなのでそばのあとでも無理なくお腹に入りました。そばもパスタみたいなものと考えると4種類続けてパスタを食べたような気分になります。


 そば、パスタと済ませたら最後にフォルモサというわかりやすい名前の台湾軽食店でスノーアイス、台湾でいうところの雪花氷を食べてデザートにしました。


 3軒ハシゴというだいぶ欲張った昼食になりましたが、茨城・千葉・埼玉3県を通るバスに乗った後にふさわしいのではなかろうかというわけでこれをオチということにします。
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坂東市バス乗り継ぎ

2018-10-23 | 茨城県
 千葉県最北端を見物したついでで茨城県猿島郡境町に行ったとき、隣に坂東市なる市ができていることに遅まきながら気づきました。坂東市は2005年に岩井市と猿島町が合併してできたもので、岩井市には行ったことがあるものの坂東市になってからは行ったことがありません。ということは十数年行っていないことになります。そこで日を改めて行ってみることにしました。

 坂東市は千葉県野田市に接していて東京からそこまで遠くはありません。ただ坂東市内には鉄道が通っていないためやや行きづらいものがあります。今回はつくばエクスプレスを利用し守谷からバスで行くことにしました。つくばエクスプレスは運賃が高いので首都圏のJRの4扉車両のものよりはやや広めのボックスシートに陣取ることで少しでもモトをとった気分になろうとします。


 守谷駅で関東鉄道バスに乗って40分ほどで旧岩井市の中心部にある岩井局前停留所に着きました。前回来たときは東京駅から高速バスだったのですが2016年に廃止にされてしまったのでちょっと寂しいものがあります。バス停の標柱は関東鉄道、関鉄パープルバス、コミュニティバス坂東号、茨城急行自動車、昭和観光自動車と5本もありますがどれも便数は少なく、なまじ多く立っているととよけいに寂しくなったりです。


 辺りを見るといかにもクルマ社会という感じであまり歩いて楽しそうな雰囲気ではありません。とは言えせっかく来たので少し見物したくはありどうしようかなとなるとここは平将門ゆかりの地ということでその関係のものを見て歩くことになります。


 まず国王神社というすごい名前の平将門が祀られている神社に行ってみました。名前はすごいもののごく静かで地味な境内です。


 国王神社の近くには平将門の拠点があったという島広山・石井営所跡や石井の井戸跡という古跡があるのですが基本的に碑くらいでやはり地味です。


 さらに延命寺という薬師堂のあるお寺を見たらそろそろ次に乗るバスの時間が近づきました。レタスやキャベツが目立ちやや高原っぽくも見える畑の中を歩いて国王神社に戻ります。


 国王神社のすぐ前に立つ国王神社停留所でコミュニティバス坂東号庁舎間シャトルバスに乗りました。旧岩井市中心部と旧猿島町中心部を結ぶいかにも合併してできた坂東市らしい路線です。これに15分ほど乗って猿島バスターミナルに出ました。


 猿島バスターミナルは猿島さしま窓口センター(旧猿島町役場)の近くにあります。ターミナルと言ってもあまりらしい感じはなく待合所がある折返場というくらいの雰囲気でした。昭和観光自動車の標柱にまだ猿島町役場という字が残っているのはちょっとうれしいところです。


 猿島バスターミナルからは昭和観光自動車の西坪生子線で境町に向かいます。猿島は猿島茶の産地だけあり車窓に茶畑が見えました。


 30分ほどで境町内の境クリニック停留所です。ここは朝日自動車境車庫のすぐそばなのに違う停留所名なのでちょっとわかりにくいものがありました。事業者ごとに停留所名が違うというのは全国あちこちでありふれていることですがやはり統一して欲しいなあと改めて思うところです。


 という具合に鉄道のない坂東市を路線バスで通り抜け前回来て間がない境町に着いたらなんだかホッとしました。
(こちらにつづきます。)
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埼玉・栃木・群馬3県境

2018-10-21 | 埼玉県
(前回のつづきです。)
 千葉県最北端の対岸、茨城県境町停留所からは東武野田線川間駅、東武伊勢崎線東武動物公園駅、JR東北本線古河駅の3方向に行くバスが出ています。せっかく川間駅からのバスで千葉県から茨城県に渡って来たので、千葉県に戻らず茨城県側に抜ける路線に乗り継ごうと古河駅行きに出ることにしました。
 30分弱乗って降りたのは古河の街中にある古河一丁目です。私鉄の方が好みなのでJRの古河駅ではなく東武日光線の新古河駅に出ようと考えたらこの停留所辺りが新古河駅に近そうなのでこうなりました。バス通りの日光街道から新古河駅に向けて西に入ると古河文学館や古河歴史博物館といった名所に近いためか道路の舗装が観光地っぽい雰囲気になっています。


 西に向って歩いて行くとほどなく渡良瀬川を渡る三国橋に着きました。橋の途中に茨城県と埼玉県の県境があり、新古河駅は渡った先なので茨城県古河市ではなく埼玉県加須市になります。所在地ではなく近くの別の地名をとった駅名は結構あるものですが隣県からとるとは大胆ですね。新古河のように県までは違わないものの旧杉戸駅の東武動物公園駅は杉戸町から川を渡った宮代町だったり足利市駅は足利市内ではあっても中心とは川を隔てていたりと微妙な川向うの位置の東武の駅というのを他にも思い出したらなんだか面白く感じました。


 渡良瀬川を渡り終えるとすぐに新古河駅が見えます。所在地は加須市向古河なので一応所在地名にも古河とはついていることにはなりますが、それなら新古河よりも向古河の方がそのままな響きというのかもっと面白い感じになるかもとも思ったりです。


 新古河駅からは東武日光線にひと駅だけ乗って北隣の柳生で降りました。静かな駅前には駅前食堂ならぬ駅前肉店がありなんとなく頼もしいものがあります。


 柳生駅での目当ては近所の埼玉・栃木・群馬の3県境です。ただの田んぼの端でもよく整備されちゃんと名所らしくなっているので感心しました。


 千葉県最北端近くで千葉・埼玉・茨城の3県境を記念した「三県鶏鳴之地」の碑を見た後に古河まで出ることになったので気になって足を運んだというわけですが、比較すると川の中で足を運べない千葉県最北端や千葉・埼玉・茨城県境に対し直接足を運べる埼玉・栃木・群馬県境の方が名所にしやすくはあるなあと思うところです。


 埼玉・栃木・群馬の三県境は渡良瀬遊水地の近く、となるとどうしても足尾鉱毒事件や犠牲になって消えた谷中村を思い出してしまい物見遊山気分だけというわけにもいかず田中正造翁の墓に足をのばしました。埼玉・栃木・群馬の3県境がある北川辺地域は田中正造が反対運動に立たなかったら遊水地にされていたかもしれませんから今3県境見物ができるのは田中正造のおかげということにもなりそうです。


 また北川辺地域には田中正造の墓のほかに田中正造翁之霊と書かれた小さな祠もあり肖像なども飾られていました。


 考えてみれば田中正造没後もう100年以上が経ちますが近年も福島原発事故が起こったりで公害が絶えることはなく加害企業はぬけぬけと生き延びクニも加害側に寄り添い被害者がひたすら苦しめられ続けるという構図が繰り返されていますからあまり進歩がないなあと改めてあきれたりです。
 という具合で千葉県最北端見物から3県境見物に続き最後は田中正造と思わぬ方に流れたら秋のつるべ落としで暗くなったので東武に乗って東京に帰りました。
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千葉県最北端

2018-10-20 | 千葉県
 サンキュー千葉フリーパスを使って2日続きで千葉県の鉄道・バスに乗ったらふと千葉県の東西南北端が気になりました。
 思い出して見ると東の犬吠埼・西の洲崎・南の野島崎には行ったことがあるのに北端の関宿(野田市)だけ未踏です。東西南端は別に端を目指して行ったわけではなく観光で寄ったのが長年積み重なった結果ですが、北端は内陸で地味なので特に行く機会がないままでした。北端だけ内陸とはさすが半島の県らしいなあと改めて思ったりです。ともあれ関宿は東京から大して遠くないので思い立ったが吉日で行ってみることにしました。

 千葉県最北端に行く朝日自動車のバスは東武野田線の川間駅から出ています。かつて千葉県最北端は鉄道が通っていない関宿町だったのがいつの間にか合併で野田市内になっていて東京の近郊っぽさが増した感じですが、アーバンパークライナーができたとはいえ料金払わないと東京から直接行けない東武野田線の駅からさらにバスに乗り換えて行ったらそれなりに最果て感っぽいものが出てきました。川間駅から30分ちょっとで着いた関宿城博物館停留所は城っぽくした建物の関宿城博物館の真ん前にあります。


 関宿城博物館停留所には朝日自動車の他に野田市のコミュニティバスも来ているので2本標柱が立っていて、朝日自動車の方には親切にも「千葉県最北端のバス停です。」とあり「北緯36度6分0秒東経139度46分57秒」と緯度経度まで貼ってありました。おかげで気分が盛り上がってきます。


 単に千葉県最北端目当てで着いたので関宿城博物館におカネ払って入るのはもったいないからやめとこうかなどとも迷ったのですがせっかくだからという気持ちが勝ち見物してみたところ水運と治水の展示がなかなか面白くケチってはいけないなあと反省しました。天守に登って北を見ると利根川の先の茨城県が見えます。西には利根川から分かれた江戸川が流れ東西南北広々とした眺めです。
 関宿城博物館の敷地には千葉と茨城の県境がはしり裏手の千葉県最北端へと続いているのですが県境の目印になるものがなかなか見当たりません。せっかく最北端に観光名所があるのならもっと最北端を強調すればよさそうに思うのですが。裏手に行くと遊歩道に大きく千葉県茨城県と書かれた県境の表示があったのでとりあえずほっとします。


 遊歩道の表示からあたりをつけてこの辺に県境がのびているはずと利根川の河川敷を見るのですがどうもよく判りません。もっとも県境の最北端は利根川のどこかなので船でもないと行けませんからたぶんあの辺が千葉県最北端だろうと川面を見て思ったところでよしとします。


 千葉県最北端という目的を一応果たしたら西の江戸川側を見物することにしました。まず気になったのが関宿町長名入りの「三県鶏鳴之地」なる碑です。千葉県最北端で接するのは茨城県だけで3県境ではないのですが旧関宿町は茨城・埼玉との3県境の一角を占めていて3県境の位置はここからそう遠くないのでこういうものが作られたのでしょう。関宿町がなくなった今見るとちょっと関宿町の墓標のようにも見えたりです。この辺りから茨城県五霞町側の中の島公園に橋で渡れるので足をのばすことにします。

(※その後千葉・茨城・埼玉の3県境を見に行きました。そのときの話はこちらです。)

 中の島公園内には元総武鉄道の江戸川橋梁がありました。さらに横浜の生糸検査所引込線大岡川橋梁を経たものとかで今は江戸川に縁がある地とはいえ鉄道から遠いここで保存されているのですからなかなかすごい経歴ですね。公園の西側には利根川から分かれたばかりの江戸川の水を調整する関宿水門があり東京湾へと向かう水がざばざば流れています。


 公園内には利根川治水に使われた工事用トロッコのレールで作られたという藤棚も目につき、だいぶ大きさが違う断面のレールが組み合わされているのが気になるところです。関宿あたりは鉄道から遠い元水運の地だと思っていたら鉄道関係のモノが見られ意外でした。


 ひと回りして気が済んだら関宿城博物館停留所でまた朝日自動車のバスに乗り茨城県境町へと利根川を渡ります。終点の境町停留所は利根川の堤防のすぐ下にある折返場です。元は車庫だった場所なのでそこそこ広く結構存在感があります。辺りは寂れた雰囲気ではあるものの商店街があり境町は鉄道がないのでなんだか境町の中央駅のような感じがしました。
 境町駅と言えば東武伊勢崎線にありそこも利根川に近く最近渡船に乗りに行きましたが、駅名の由来の群馬県境町は伊勢崎市になってしまったので、茨城県の境町には駅がなく群馬県の境町駅には町がないということになります。


 境町停留所の前には船町というおそば屋さんが見えなんだか飯田線を思い出しました。ちょっと駅前食堂っぽく見えうれしいものを感じたのでここでもりそばを食べて行きます。


 利根川の堤防に上がると千葉県最北端が見え境の渡しの跡があり、ここから「高瀬舟さかい丸」という遊覧船が運行されているとのことです。ただ利根川の水位が低く運休中で堤防に上げられていましたが。水運が盛んな時代は渡船に高瀬舟に汽船と多くの船が行き来しそれこそ駅みたいなものだったでしょうが今は静かでなんだか想像もつきません。

(こちらにつづきます。)
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