千葉県最北端を見に行ったときに茨城・千葉・埼玉3県が隣接していることを記念していると思われる「三県鶏鳴之地」なる碑を見たのですが、3県境はそこまで歩いて行くのが面倒なので見に行きませんでした。ところがその後で埼玉・栃木・群馬3県境を見に行って帰ったらなんとなく引っ掛かるものが残ります。どうせただの江戸川を見るだけなんだろうなあと思いつつも気になっては仕方ないので改めて茨城・千葉・埼玉3県境を見に行くことにしました。
今回の足は東武日光線幸手駅前の井草自転車預り所で借りられる幸手市観光協会のレンタサイクルです。(7時頃~17時/第2・3日曜休み/1日400円)埼玉県幸手市は3県境の一角を占めていて幸手駅から3県境までの道のりは7km程度ありますが、この辺りは起伏がないので自転車ならそこまで大した距離でもありません。
3県境に向かってペダルをこいで行くと途中でTOKYUとだけ書かれたよくわからない店らしきものや(幸手)ひばりが丘(工業)団地などを通ったので東武沿線なのに急に東急や西武を思い出しました。
中川と江戸川をつなぐ幸手放水路まで来たら間もなく3県境です。
江戸川の土手に上がりそろそろ3県境かなというところまで来ると棒出しという昔の治水設備があった場所にその旨の案内板がありました。
案内板には1883年と2000年の地形図が並べて掲示されているので3県境とも絡んできます。現在の3県境付近の茨城・埼玉県境は昔は江戸川にそそぐ権現堂川でしたが、権現堂川は1928年に廃川され周辺の河川は流路が大きく変わり、3県境付近の茨城・埼玉県境は現在地続きになっているのでなかなか昔の様子の想像がつきません。
土手の上や河川敷を見ても県境がよくわからないので土手を下りてみると茨城県側に五霞町のコミュニティバスの折返場がありいかにも境界線という感じでした。幸手市側にもバス停があれば面白いところですが残念なことに幸手市のコミュニティバスは廃止されています。
右の画像の左の住宅が茨城県、右が埼玉県で間の側溝が県境です。土手から先はわからないのでこの辺りから類推してだいたいの見当で改めて土手から川面まで見てみることにしました。
茨城・埼玉県境が江戸川にぶつかったら対岸は千葉県、ということでこの辺の川面が3県境だと思います。埼玉・群馬・栃木の3県境のように直接立てるわけではないので岸に3県の旗でも立てたら名所になるかななどと思ったりです。
ちなみに県境付近の土手下には関宿関所の跡を示す碑や高瀬船が描かれた案内板もあったりで先の棒出しの案内板と併せ3県境以外のことでは既に名所というか古跡ではあります。
辺りの古そうな建物を見たら幸手市が市になる前の北葛飾郡幸手町西関宿、さらに幸手町になる前の北葛飾郡豊岡村大字西関宿という字が見られました。幸手町が幸手市になったのが1986年、豊岡村西関宿が幸手町に編入されたのが1955年ですからそれ以前からの名残ということになります。またさらにさかのぼると1895年までこの西関宿地域は埼玉県ではなく千葉県東葛飾郡関宿町だったのでかつては県境の位置も違っていたわけです。
ぱっと見るとあっさりしているような江戸川べりもなかなかややこしい来歴があるなあと感心しながら自転車をこぎ対岸の千葉県側の野田市からも3県境を見てみました。関宿関所跡の碑が立つバス通り沿いから土手に上がると草ぼうぼうの河川敷とさっき行ったばかりの対岸が見えるだけでかつては船がたくさん行き来していたというのが信じられない、というのは近所の茨城県境町での感想と似たようなものになってしまいますが交通の栄枯盛衰もまた世の習いだなあと思うばかりです。
今回の足は東武日光線幸手駅前の井草自転車預り所で借りられる幸手市観光協会のレンタサイクルです。(7時頃~17時/第2・3日曜休み/1日400円)埼玉県幸手市は3県境の一角を占めていて幸手駅から3県境までの道のりは7km程度ありますが、この辺りは起伏がないので自転車ならそこまで大した距離でもありません。
3県境に向かってペダルをこいで行くと途中でTOKYUとだけ書かれたよくわからない店らしきものや(幸手)ひばりが丘(工業)団地などを通ったので東武沿線なのに急に東急や西武を思い出しました。
中川と江戸川をつなぐ幸手放水路まで来たら間もなく3県境です。
江戸川の土手に上がりそろそろ3県境かなというところまで来ると棒出しという昔の治水設備があった場所にその旨の案内板がありました。
案内板には1883年と2000年の地形図が並べて掲示されているので3県境とも絡んできます。現在の3県境付近の茨城・埼玉県境は昔は江戸川にそそぐ権現堂川でしたが、権現堂川は1928年に廃川され周辺の河川は流路が大きく変わり、3県境付近の茨城・埼玉県境は現在地続きになっているのでなかなか昔の様子の想像がつきません。
土手の上や河川敷を見ても県境がよくわからないので土手を下りてみると茨城県側に五霞町のコミュニティバスの折返場がありいかにも境界線という感じでした。幸手市側にもバス停があれば面白いところですが残念なことに幸手市のコミュニティバスは廃止されています。
右の画像の左の住宅が茨城県、右が埼玉県で間の側溝が県境です。土手から先はわからないのでこの辺りから類推してだいたいの見当で改めて土手から川面まで見てみることにしました。
茨城・埼玉県境が江戸川にぶつかったら対岸は千葉県、ということでこの辺の川面が3県境だと思います。埼玉・群馬・栃木の3県境のように直接立てるわけではないので岸に3県の旗でも立てたら名所になるかななどと思ったりです。
ちなみに県境付近の土手下には関宿関所の跡を示す碑や高瀬船が描かれた案内板もあったりで先の棒出しの案内板と併せ3県境以外のことでは既に名所というか古跡ではあります。
辺りの古そうな建物を見たら幸手市が市になる前の北葛飾郡幸手町西関宿、さらに幸手町になる前の北葛飾郡豊岡村大字西関宿という字が見られました。幸手町が幸手市になったのが1986年、豊岡村西関宿が幸手町に編入されたのが1955年ですからそれ以前からの名残ということになります。またさらにさかのぼると1895年までこの西関宿地域は埼玉県ではなく千葉県東葛飾郡関宿町だったのでかつては県境の位置も違っていたわけです。
ぱっと見るとあっさりしているような江戸川べりもなかなかややこしい来歴があるなあと感心しながら自転車をこぎ対岸の千葉県側の野田市からも3県境を見てみました。関宿関所跡の碑が立つバス通り沿いから土手に上がると草ぼうぼうの河川敷とさっき行ったばかりの対岸が見えるだけでかつては船がたくさん行き来していたというのが信じられない、というのは近所の茨城県境町での感想と似たようなものになってしまいますが交通の栄枯盛衰もまた世の習いだなあと思うばかりです。