「自己観察と気づき」
先日、奥さんが腕時計の調子が悪くなったので時計屋に持っていった。
電池交換するつもりで行ったが、電池が切れる場合は止まったり動いたりをくりかえしたり
徐々に遅れるとかするのではなく完全に止まるものなので、おそらく電池交換をしても
解決にはならないような説明をされた。
解決にはメンテナンスをかねた修理に出す必要があるが、費用は安くないし
遅れたら合わせ・・で付き合っていくのも選択としてはありということで
どうするかを保留にして帰ってきた。
この時には院長は付いていかなかったので、こんな説明を奥さんから聞いた。
まぁ奥さんが非常に大切にしている時計だったので、修理費は院長がもつので
修理に出しなさいよ、と言った。
翌日、院長も同行し同じ時計屋に持っていったが、店員が違う人だったので
昨日の経緯をざっと説明したのだが、その際気になったことが。
店員は奥さんの時計をいじりながら説明を聞いているのだが、全然こっちの顔を見ない。
特に内向的な人にも見えないのだが、やっぱり時計をいじって下を見たまま
一切こちらの顔を見ない。
カルテを書きながら、患者の顔を一切見ない医者と同じだ。
こういうケースでの彼らの心理はよくわかる。
人と正対してコミュニケーションを取るのは多かれ少なかれ、ストレスを伴うものであって
それが馴染みでない客であったり、新規の患者であったりすればなおさらだ。
そこへ目の前に口実として、相手の顔を見ずにすむ格好の仕事があるわけだ。
カルテをつけるとか、時計をいじるとか。
出来れば避けたい事を避ける為の格好の逃げ場が、目の前の仕事であるわけね。
ただ、それが無意識なのです。
客や患者の顔を見ずに目の前のカルテを書くとか時計をいじるとか、そういった事に
意識を向けてしまうのは仕事を重視するからではなく、コミュニケーションを避けたいから。
自分への言い訳です。
これはよほど自分の意識に自覚的でないと気が付かないことが多い。
だから、そういう人に「相手が話している時には相手の顔を見なさい」と言っても
「いや、でもカルテつけなきゃいけないし」とか
「まずは客の時計を具合を確かめないと・・」とか、そういう言い訳が帰ってくるはずです。
本当はどうすることが適当なのか知っているのに、それに反したようなことを
自分がしてしまっている。
で、なぜそうしているか、根っこにある動機に気づかずに自分に対しても言い訳をして
納得をしている。
まぁ、自分もとても身に覚えがあるので、そうなんだろうな~と思うわけなんですが、
大きいことから小さいことまで含めるとこういった事が普段の生活、仕事の中では本当に
山ほどある。
「こうするべきなのに出来ない」ということを「自分はできていない」と認識するのではなく
「出来ないのではなく、こういう理由でやってないだけだ」と認識を変えてしまう。
そのほうが、ご立派な自我が保てるから。
今までを振り返ると、こんなことだらけだった。
自分の心に常時監視役をつけて、自分の行動を見つめ続けないといけない。
自分に課す、今後の人生の命題です。
伝わったかどうかわからないが今回の話は「客相手のサービス業たるものは・・」という
ことを言いたかったわけでは全然ありません。
電池交換するつもりで行ったが、電池が切れる場合は止まったり動いたりをくりかえしたり
徐々に遅れるとかするのではなく完全に止まるものなので、おそらく電池交換をしても
解決にはならないような説明をされた。
解決にはメンテナンスをかねた修理に出す必要があるが、費用は安くないし
遅れたら合わせ・・で付き合っていくのも選択としてはありということで
どうするかを保留にして帰ってきた。
この時には院長は付いていかなかったので、こんな説明を奥さんから聞いた。
まぁ奥さんが非常に大切にしている時計だったので、修理費は院長がもつので
修理に出しなさいよ、と言った。
翌日、院長も同行し同じ時計屋に持っていったが、店員が違う人だったので
昨日の経緯をざっと説明したのだが、その際気になったことが。
店員は奥さんの時計をいじりながら説明を聞いているのだが、全然こっちの顔を見ない。
特に内向的な人にも見えないのだが、やっぱり時計をいじって下を見たまま
一切こちらの顔を見ない。
カルテを書きながら、患者の顔を一切見ない医者と同じだ。
こういうケースでの彼らの心理はよくわかる。
人と正対してコミュニケーションを取るのは多かれ少なかれ、ストレスを伴うものであって
それが馴染みでない客であったり、新規の患者であったりすればなおさらだ。
そこへ目の前に口実として、相手の顔を見ずにすむ格好の仕事があるわけだ。
カルテをつけるとか、時計をいじるとか。
出来れば避けたい事を避ける為の格好の逃げ場が、目の前の仕事であるわけね。
ただ、それが無意識なのです。
客や患者の顔を見ずに目の前のカルテを書くとか時計をいじるとか、そういった事に
意識を向けてしまうのは仕事を重視するからではなく、コミュニケーションを避けたいから。
自分への言い訳です。
これはよほど自分の意識に自覚的でないと気が付かないことが多い。
だから、そういう人に「相手が話している時には相手の顔を見なさい」と言っても
「いや、でもカルテつけなきゃいけないし」とか
「まずは客の時計を具合を確かめないと・・」とか、そういう言い訳が帰ってくるはずです。
本当はどうすることが適当なのか知っているのに、それに反したようなことを
自分がしてしまっている。
で、なぜそうしているか、根っこにある動機に気づかずに自分に対しても言い訳をして
納得をしている。
まぁ、自分もとても身に覚えがあるので、そうなんだろうな~と思うわけなんですが、
大きいことから小さいことまで含めるとこういった事が普段の生活、仕事の中では本当に
山ほどある。
「こうするべきなのに出来ない」ということを「自分はできていない」と認識するのではなく
「出来ないのではなく、こういう理由でやってないだけだ」と認識を変えてしまう。
そのほうが、ご立派な自我が保てるから。
今までを振り返ると、こんなことだらけだった。
自分の心に常時監視役をつけて、自分の行動を見つめ続けないといけない。
自分に課す、今後の人生の命題です。
伝わったかどうかわからないが今回の話は「客相手のサービス業たるものは・・」という
ことを言いたかったわけでは全然ありません。
自分はどうだかよく分からないところがありますが、お医者さんはカルテ見つめるタイプ多いですね。
良く話を聞いてくれるって評判の名医って腕だけが評価されている訳ではないっていうのが本当のところのような気がします。
腕を向上させるのも重要だけど、その部分なら今からでも自分の意識で変えられますもんね。
私も実行してみます♪
簡単なことが出来てない人が世の中に溢れかえってくれているおかげで、抜けがけが出来るのです。
医者を含む接客業を志すなら「受容・共感・傾聴」くらい習ってるハズなんだが・・
自分のこともそうですが、
我が子と接する時も、『今の発言は自我を保とうとしているんだな』というのが分かるようになってきて、ちょっと面白いです。
僕が叱って、長男が泣いてしまい、そこへ奥さんがやってきて、
「どうして泣いてるの?」と聞くと、
「目が痛いから~!」と言ってたりします(笑)
それを、『故意(意識的)に嘘をついている』と考える人が多いのでしょうが、
きっと、本人は嘘をついてるつもりもなく、
自我を保つために「叱られたから」ではなく「目が痛いから」という理由を、無意識にでっち上げたんでしょう。
大人も、同じ様なことをしてますよね。
子供との違いは、"理由作り" が上手い、ということくらいですよね。
そういう僕も「あ、今、理由をでっち上げてしまったよ」ということが多々ありますが(笑)
僕も、今後の人生の課題です。
P.S 『ことよろ。』の画像、うちの奥さんと「無邪気だな~!」と言って大爆笑しました。
その瞬間ごとに自分の情動がどう動いたのか、一歩引いて客観視出来たら、その根っこにあるものが分かったりするね。たいていは、そう認めたくないほど不恰好なものだけど。
例えば「このかけがえの無い私という立派な人間に対してずいぶん失礼ではないかーー」という怒りだね。
歩行中に後ろから来たチャリンコにチリンチリンと鳴らされ、抜かされざまに「チッ」と舌打ちされたら瞬間的に「ムカーー」と来るけどそれを素早く客観視して「あぁ、ご立派な自我が、ないがしろに扱われて怒ってるな~」と観察できるようになりました。
毎回でもないけど(笑)
けいじが言うように大人になって理由作りが上手くなると、それにどんどん気付けなくなっていくんだよね。自分に無知になっていく。
やっぱりね、心の監視役をおく訓練は一生ものの課題ですよ。