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半農半漁、自給自足生活への挑戦

自給自足生活をめざす釣り、家庭菜園、養蜂の話です。
趣味のギターや三線のことも少しづつ。

長篠城(日本100名城46番)

2012年08月20日 | 日本100名城スタンプラリー





8月15日、早朝の伊勢神宮参拝から高速を走らせ200キロ、愛知県新城市にある長篠城に向かいました。
新城市はこの日、バケツをひっくり返したような大雨でした。

長篠城はあの有名な長篠の戦で脚光を浴びます。
甲斐の武田勝頼15000の兵は奥平信昌と500の兵が守る長篠城を囲みます。

力の差は歴然、落城寸前まで追い込まれた長篠城から水泳に長けた鳥居強右衛門という男が川に潜り、幾多の武田群の囲いを突破、徳川家康のいる岡崎城まで走り援軍を求めます。
そのとき岡崎城には家康が要請していた織田信長軍30000の兵がちょうど入城しており徳川の兵8000と合わせ出陣の準備はできていました。
強右衛門は早く長篠城の仲間に援軍が来ることを知らせたいと思い、長篠城に戻る途中で武田軍に捕まってしまうのです。

織田・徳川連合軍が攻めてくることを知った武田勝頼は早く城を落としたいと強右衛門に援軍は来ないと城に向かって叫べと命じます。ところが強右衛門は数日の後に援軍は来ると逆のことを叫ぶのです。
怒った勝頼は強右衛門をその場で磔にしてしまいます。強右衛門のフンドシ姿の磔姿は有名な図柄です。







スタンプは長篠城址史跡保存館で押すことができます。




松阪城(日本100名城48番)

2012年08月20日 | 日本100名城スタンプラリー





松阪城は蒲生氏郷が築城した城です。
蒲生氏郷は織田信長の安土城建設に携わった武将として知られ、松阪城の石垣にも安土城の工法を用いたと考えられています。
氏郷転封後、江戸時代には紀州藩の直轄地として紀州藩の城代が城を守ることになるのです。

城内は石垣しかありませんが、2011年(平成23年)2月7日、約4.7haの城跡が「近世の政治・軍事を知る上で貴重」であるとして、松坂城跡として国の史跡に指定されました。
つい最近の話なんですねえ。












石垣も崩れるところがあるらしく、近寄るなの看板も多いです。
スタンプは城内の歴史民俗資料館か本居宣長記念館で押すことができます。

初めてやっちゃいました。
入館料払わずに入り口で『スタンプ貸してください!』
もちろん館内は見ませんよ。





近くには三井財閥発祥の地もあるのでよろしかったらどうぞ。





岩村城(日本100名城38番)

2012年08月18日 | 日本100名城スタンプラリー





8月13日(月)の午後、岐阜県恵那市にある岩村城を訪れました。
本当は翌日に来る予定でしたが時間が余ったのです。
岩村城なんてマイナーな城、知らない方がほとんどだと思います。
岩村城は本丸が諸藩の居城中最も高い海抜717mに位置しているため、日本三大山城(備中松山城・高取城・岩村城)の一つに数えられています。







女城主の悲哀物語


代々遠山氏が治めていましたが、遠山景任の妻に織田信長の叔母にあたる おつやの方 という女性が嫁いでおりました。(年齢は織田信長より年下)
景任が病死すると跡継ぎがいなかったために信長は幼少の5男(織田勝長)を養子にさせます。
おつやの方は幼少の子に替わり、女城主として領地を治めたのです。

1572年、武田信玄が京を目指し、徳川家康を討ちに攻め上がった際に、秋山信友に命じてこの岩村城を攻撃させています。
城は堅固な地形もあってかなかなか落ちません。そこで秋山信友はおつやの方の婿になるという奇策を思いつき、おつやの方もそれを受け入れ降伏、戦いは終了したのです。
秋山信友は城を手に入れ、幼い織田勝長は甲州に人質として送られました。

長篠の戦の後、弱体化した武田氏を滅ぼすため織田信長が動きます。
岩村城を息子の信忠に攻めさせ、5ヵ月後にやっと落城しました。
秋山信友の命と引き換えに他の命は助けるという約束ができていましたが、信長はそれを翻し、おつやの方も逆さ磔の刑に処されたのでした。
織田家を裏切った恨みを信長は忘れてはいなかったのです。









100名城スタンプマンの悲哀


スタンプを押す岩村歴史資料館が月曜日に休館だったのでした。
仕方がないので30キロ離れたキャンプ場まで戻り、明朝押しに来ることにしました。

明朝、資料館前に会館1時間前の8時にスタンバイすると玄関に何やら書いてありました。
資料館が休館の時は教育委員会でスタンプ押せますと!。
うぅ、昨日押せたんだ。。。

ということは、、、役場は8時半始業だろうからと教育委員会に移動して押してきました。

岩村城、とにかく苔むした石垣が見所です。
行った者にしかわからない物悲しさが漂うお城です。
岩村の街は女城主モード全開で女城主という酒も売っています。
旅は一路、伊勢路の松阪城へ向かいます。






彦根城(日本100名城50番)

2012年08月18日 | 日本100名城スタンプラリー





旅の3日目の城です。

関ヶ原の戦いの軍功で石田三成の領地、佐和山18万石を与えられた徳川四天王の一人、井伊直政は石田三成のことが嫌いであったため、佐和山の城を廃し、近くに新たに築城することを望んでいました。
直政自身も関ヶ原の銃創が元で破傷風に苦しみ、関ヶ原の2年後に死亡します。

その後、井伊家家臣が徳川家康に相談して直政の遺志を継いで建てられたのが彦根城です。
彦根城は徳川家譜代大名の城にもかかわらず、7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請で建てられました。
これは異例中の異例で、井伊直政に対する家康の信頼感、かつての奉公が為せたといって過言は無いでしょう。
井伊家はのちに35万石まで加増され、代々幕府を支える要職を担うことになります。

彦根城の築城はコストとスピード重視ということで近隣の観音寺、佐和山、長浜、大津城などの廃城から資材を集めたり、移築したりして建てられたといわれています。築城は最終的には20年かかりました。

彦根周辺は戦略的にもとても重要な拠点で、過去に壬申の乱、関ヶ原の戦い、姉川の戦い、賤ヶ岳の戦いなど大きな戦が起きており、また東国の入り口にあたる地を井伊家に守らせたのは西国の豊臣、毛利、島津などの大大名に備えた布陣となります。





今回は入った駐車場の関係で大手門口から登城しました。
スタンプは別の門、表門の入場券売り場にあるのですが帰りに押すことにしまして大手門から。
そのおかげで長~い坂を登る羽目になりました。暑さ厳しき体に堪えます。
彦根城では竹の杖を貸してくれるので利用しても良いでしょう。





天秤櫓は軍事上の重要な備え、コの字型の櫓は他に類を見ないものです。
門のように見えますが入口は橋のみでつながっており、有事の時は橋を落とせば敵が入ってこれない仕組みになっています。
嘉永年間の改修時に左部分だけ石垣を積み替えており、右と左の石垣の積み方が違うところが見所と言って良いでしょう。
天秤櫓は内部も見学でき、重要文化財に指定されています。

















彦根城といえば、、ひこにゃんなんですが1日3回現れるようです。
今回は時間の都合で会えませんでした。
井伊の赤備えと言われる赤い鎧兜をかぶったひこにゃんに会いにいくのもいいですね。

スタンプは表門でゲットです。手押しのスタンプでした。
これで国宝4城(姫路、松本、犬山、彦根)は回ったことになります。
ただし、姫路、松本はスタンプがありません。旅は続くのです。





岐阜城(日本100名城39番)

2012年08月18日 | 日本100名城スタンプラリー





岐阜城は岐阜市の金華山(稲葉山)にある山城跡です。
国盗り物語で有名になった斉藤道山、織田信長の居城として知られています。

『美濃を制するものは天下を制す』と言われた岐阜城、信長の楽市楽座の制度で城下町は繁栄しました。
しかし信長の孫、秀信(三法師)が関ヶ原で西軍に付いたため、その役目を近世まで続けることなく、1601年、徳川家康によって廃城が決定されたのです。

現在の天守閣は図面や古写真がないため、岐阜城を移築したとされる加納城の1728年に描かれたとされる御三階櫓の図を元に想像した復興天守ということになり、鉄筋コンクリートつくりのものです。
きつい坂を登り、高いロープウェイ代や入館料を払って、、、と思うと少しガッカリします。
日本100名城スタンプを押しに行った・・・・というのが正直なところです。

険しい岩盤でできた金華山では飲み水の確保が重要になります。
井戸を掘っても水が湧くような地形ではないので、井戸は岩盤からしみでた水を貯める役目があったようです。





山の麓の岐阜公園には織田信長の居館の発掘調査が行われており、こちらのほうが面白いです。
険しい山上(標高329メートル)の天守閣で生活するのではなく、麓の居館で政務を執るのは日本三大山城の備中松山城も同じです。
発掘現場からは金箔を貼った瓦なども出土しており。信長の威光がうかがえるのではないでしょうか?。
岐阜という地名は信長が中国の故事に習い、信長が定めたものです。







スタンプは山上の岐阜城資料館で押せます。
ひとつ感じたのは山城、平山城は若いうちに回ったほうがいいですね。
非常に疲れました。