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半農半漁、自給自足生活への挑戦

自給自足生活をめざす釣り、家庭菜園、養蜂の話です。
趣味のギターや三線のことも少しづつ。

水戸城その2(日本100名城14番)

2013年01月17日 | 日本100名城スタンプラリー


弘道館から徒歩10分、本丸方面を目指します。
水戸城で現存している城郭遺構、実は薬医門しかありません。
現在は水戸一高校の敷地内にあります。
屋根は茅葺であったものを銅葺きに変えられていますが、その他は江戸期のままとなっています。





弘道館から薬医門に行く途中の中学校の敷地に彰考館があります。
水戸光圀が大日本史を編纂したところです。
大日本史は明治になってやっと完成を見たのです。





水戸城のもう一つの見どころ、三の丸の空堀です。
水戸城には石垣がありません。そのかわり素晴らしい土塁と堀があります。
かなり立派な空堀です。
水戸の街は水戸城の堀に鉄道や道路が走っていたり、城郭を利用した街つくりになっています。
偕楽園とあわせてゆっくり回ってみてはいかがでしょうか?。
100名城スタンプは弘道館の入り口で押すことができます。



水戸城その1(日本100名城14番)

2013年01月17日 | 日本100名城スタンプラリー



正月休みを利用して茨城県は水戸城に行って参りました。
水戸城は徳川家康が11男、徳川頼房が徳川御三家として入城しました。
二代の徳川光圀(義公)は水戸黄門のドラマで知られた名君。
御三家の城は作家の名古屋城に続いて2つ目です。

まず第9代藩主、徳川斉昭(烈公)が1841年に三の丸に建てた弘道館を見学しました。
徳川斉昭は第15代将軍徳川慶喜の実父です。義信も幼少時に弘道館で学問を学んだと言います。
水戸学は天皇を崇める尊王を光圀の時代より受け継いでいます。





東日本大震災の被害を弘道館も免れぬことはできませんでした。
建造物の内部には入ることができないので入館料は無料でした。
生々しいほどに土塀は崩れたままです。







弘道館の広い庭は剣や槍の訓練場として使用され、文武両道をモットーに水戸精神が鍛え上げられたのです。





徳川斉昭公の書の扁額。「芸に遊ぶ」の意。







三つ葉葵のお宝?。


八王子城(日本100名城22番)

2012年11月23日 | 日本100名城スタンプラリー



八王子城は後北条氏三代目、北条氏康が三男、北条氏照が築いた山城です。
関東を制した後北条氏が北の武田、上杉への備えとして重要な拠点であったと思われます。
城山川を跨ぐ曳橋を渡ると虎口と呼ばれる曲輪の出入り口があります。







虎口を抜けると400坪あまりの御主殿という北条氏照の居館跡が現れます。
現在は遺構の保存のために工事中であり、数年後には復元遺構が見れると思います。







八王子城は1590年、豊臣秀吉による小田原攻めの際に前田利家、上杉景勝の軍によって攻撃され、半日で城は落ちたと言われます。
城主北条氏照は小田原城に援軍に行っていたため、残されたわずかな兵と女、子供では為すすべもなかったのでしょう。
城が落ちる時に自刃して、女、子供が飛び込んだといわれる御主殿の滝、城が落ちて3日間は川が赤い血で染まったと言う。。。。

八王子城の落城がきっかけとなり小田原城も開城、北条氏照は小田原城下で切腹します。
北条氏照と家臣の墓は八王子城下にあります。

余談ですが八王子城は評判の心霊スポットらしいですね。
まあ、惨状の歴史があったわけですから無理もないですね。

八王子城は小田原攻め以降、城としての役割を終えます。
明治以降も国有林として開発なく、保存されていたので意外なほどに発掘作業によって城郭の全体感がつかめたのです。





これで16個目のスタンプゲットとなりました。
東京都の城は江戸城と八王子城ですので東京都は終了です。



川越城本丸御殿(日本100名城19番)

2012年08月28日 | 日本100名城スタンプラリー





ちょっと埼玉に行く用事があり、川越城に行ってきました。
神奈川を朝6時に出発、高尾山インターから圏央道を入間インターで降りて行きました。
2時間半ほどのドライブ。開館前に並びます。

藩政時代には、酒井忠勝・松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など幕府の要職についた歴代藩主が多く、幕閣の老中数7名は全国でも最多の藩の1つだそうです。









川越城は残念なことに城の石垣や水堀などは見るかげなく、市街化に伴って城を想像するのが大変難しいのです。
そんな川越城が100名城に選定されたのには本丸御殿が現存していることです。

御殿が現存しているお城は実に4つしかありません。天守閣の現存が12に比べていかにも少ない。
川越城、高知城が本丸御殿現存。掛川城、二条城が二の丸御殿現存です。









川越城の本丸御殿は全体面積の7~8分の1が現存しています。夏休みに訪れた掛川城の二の丸御殿より大きいように感じました。現存している部分だけで大きく感じるのですから、実際は相当大きかったんですね。

スタンプは本丸御殿入り口で押すことができます。
入場料100円ですからぜひ中に入って見てみましょう。

関西から来たらしい年配の夫婦、本丸御殿にたった100円の金を払って入るのが嫌らしく、スタンプだけ押して帰りたいらしいのです。
渋々払って中に入って押してましたが押してすぐ帰ったようです。

『100名城なんていっても、石垣しかない城があるんだよ』

なんてほざいています。

100名城は遺構の保存状態もありますが、歴史的に重要な役割をした城も選定されています。
そのオヤジは栃木の足利氏館(現:鑁阿寺) のことを『ただの寺』とけなしてました。
きっと城を廻ってスタンプ押してるだけの自己満足なのでしょう。
少しでも歴史的背景や建築的な要素を学んで欲しいところです。

いつも城に関する切り抜きを送ってくれるAさんがタイムリーに川越城の新聞スクラップを持ってきてくれました。
ありがとうね。










掛川城(日本100名城42番)

2012年08月22日 | 日本100名城スタンプラリー





長篠城を見学することができて、時間が余ったので次の城を攻めることにしました。
距離50キロあまり、新東名ができたおかげで掛川城までスイスイ移動です。

掛川城は山内一豊の城でした。徳川家康の上杉討伐に従い、その時に石田三成が挙兵します。
関ヶ原戦前の小山評定と呼ばれる軍議で山内一豊は自らの居城の掛川城を東軍に差し出すことを提案します。
関ヶ原の戦いではさしたる軍功もない一豊ですが、この時の働きが認められ土佐一国の太守となるのです。
















掛川城の見所は二の丸御殿です。お城といえば天守閣ですが居住空間ではありません。
天守閣だけ残されて御殿が無い城がいかに多いことか。
御殿が残されてるのは高知城、二条城、川越城など。
山内一豊の関わる城が高知城、掛川城と二つとも御殿が現存しているのは面白いですね。
掛川城の二の丸御殿は1854年の安政東海地震で倒壊、1861年までに再建されたものです。





掛川城の天守閣は江戸時代に倒壊していまして、現在の天守閣は平成になってから再建したものです。
しかし木造で再建されており、日本初の木造再建天守閣になります。
天守閣のデザインは山内一豊が高知城を造らせた時に『天守閣は掛川城を模すこと』と言っていることから現存天守閣である高知城を模して建造されています。
よく見ると似てますね。







8月11日~15日にかけて9つの城をめぐり日本100名城スタンプラリーで観光してきました。
大々的なお城観光はまた来年になるかと思いますがコツコツと積み上げていきたいと思います。
現在14城クリアです。