そよかぜから-映画

見てきた映画の記録です
ネタばれあるかも、気をつけて

ウォーリー

2008年12月23日 | アニメ

2008年 アメリカ 103分
■原題「WALL・E」
2008.12.14 with t
■監督 アンドリュー・スタントン
■声の出演
   ベン・バート(ウォーリー)  エリサ・ナイト(イヴ)

  《story》

「それは700年の孤独が生んだ『奇跡』」
「700年もの間、たったひとりで働いてきた。
          ゴミ処理ロボットのウォーリー。
 ある日、ピカピカの『天使』が彼の前に現れた。
  地球の未来を変える、
             驚くべき『秘密』と共に・・・」

人間達が見捨てた29世紀の地球で、ただ一人黙々と掃除をやり続けるロボットのウォーリー。長い年月の間に、彼に感情が生まれ、人間達が残した思い出を拾い集めていた。ウォーリーの友達はゴキブリだけ。ウォーリーは孤独だった。ある日、ウォーリーの前にピカピカのロボットのイブが現れた。イブは、ウォーリーが見つけた植物を大事に抱えたまま、宇宙船に連れ込まれた。ウォーリーも、イブから離れまいと慌ててその宇宙船に乗り込んだ。到着したところは、ぶくぶく太った人間達が暮らす宇宙ステーション。イブが持ち帰った植物で、地球に戻るはずだったのに。メインのコンピューターには秘密の指令が隠されていた。イブとウォーリーを抹殺するために捕まえようとするコンピューター。自分の意思で歩き始めた艦長が、暴走するコンピューターに挑む。みんなに迎えられたイブとウォーリー、船を取り戻した人間は、地球に帰還。

 人間らしさは優しさ

ウォーリーやイブが人間らしく感じるのは、優しさを表現したとき。虫や仲間に優しい言動を示したとき。孤独や哀しみも人間らしさの中に入ると思う。無表情なロボットが、何かを壊したり襲ったりしているとき、そこには人間らしさはなく、ただの冷たい機械があるだけ。人間って何だろうと考えてしまう。冷酷な残酷な、暖かさのない人間は人間として成り立たない。人間は、人や生き物や身の回りのさまざまなものに、気持ちを傾け大事に守ろうとするとき人間に成り得るのだと思う。性善説とでも言えるかな。ウォーリーが持った感情が優しさであり、何かを守ろうとするものであり、愛することだからこそ、感動を与えてくれる。イブもそんな感情を持つことができた。ぶくぶく太った人間は、恥ずかしささえ感じた。動こうとしない人間、便利さだけを求めた人間の姿があった。でも、人間はきっと自分を取り戻す。そう信じ、冷酷なプログラムでしか動かない機械のロボットさえも、そんなあたたかな人間の感情を持つようになればいいなと願う気持ちを感じた。

 公式サイト「ウォーリー」

 腰痛と風邪で一日中家の中。散歩に行ったり本屋に行きたかったけど、今日はお休み。風邪は、喉の痛みが中心。今までほとんど熱が出たことがない。37度を超えることは稀だ。だらだらとのどの痛みと気怠さが続く。風邪薬を飲んでも効いているのやらよくわからない。腰痛も、寒気の影響だろう。冬はいやだ。
『さよならバースデー』をやっと読み終えた。ここのところ、読むペースが遅くなっていた。なんだか長く集中できなかった。今日は一気に半分読んだ。久しぶりに止められなくなった。荻原浩の作品はおもしろい。読みやすい。ピグミーチンパンジーのバースデーを通して、愛を確かめる真と由貴。頭の中のイメージは感動のラストだった。あの教授たちは許せないけど、どうなったかは書いていなかった。神田という記者もその後のことはわからない。悪い奴らはつかまり、良き助っ人となった記者は、世間にこの悪事を知らしめる。なんて終わり方を予想していたのだけど。

題名のない子守唄

2008年12月23日 | サスペンス/ミステリー


2006年 イタリア 121分
■原題「LA SCONOSCIUTA/THE UNKNOWN WOMAN」
■2008.12.14 DVD
■監督 ジュゼッペ・トルナトーレ
■出演
   クセニア・ラパポルト(イレーナ)
    ミケーレ・プラチド(ムッファ“黒カビ”)
   クラウディア・ジェリーニ(ヴァレリア・アダケル)
   ピエラ・デッリ・エスポスティ(ジーナ)
   アレッサンドロ・ヘイベル(マッテオ)
   クララ・ドッセーナ(テア・アダルケ)
   アンヘラ・モリーナ(ルクレッツァ)
   マルゲリータ・ブイ(弁護士)
   ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ
             (ドナート・アダルケ)

 《story》

「女は哀しみを食べて生きている」
「母の愛は、いつどんなときも 強く揺るぎのないものなのです」


イタリアのトリエステ。長距離バスから降り立ったイレーナ。高級レジデンスの管理人に、ここで仕事がないか尋ねる。「ないね」とそっけなく答えたものの、悲哀のこもった背中に「階段の共通部分なら」と答える。イレーナは、向かいのボロアパートに部屋を借り、このレジデンスを監視し、ある家族を見つめる。貴金属商を営むアダケル夫妻と4才の娘テア。イレーナはその家庭に入り込まなければならない理由があった。イレーナは、階段を清掃中、アダケル夫妻のメイドのジーナが降りていくときに足を引っかける。ジーナは重度の障害を負い寝たきりとなる。メイドとして新しく入ったイレーナは、テアが自分の娘である証拠を捜す。そして、自己防衛本能に障害のあるテアを密かに見守り鍛えていく。厳しい練習をしながらもテアはイレーナを受け入れていく。かつてイレーナを奴隷として妊娠させ生まれた赤ん坊を売るという商売をしていた黒カビが、イレーナの前に現れる。イレーナは、黒カビを刺して逃げたのだが、彼は生きていて、イレーナが盗んだ金を要求した。そして、阻むイレーナを陥れようと、テアの母親の運転する車に細工し、殺してしまう。警察に捕まったイレーナは、黒カビを殺し埋めたことを白状する。そして今までの過酷な体験、テアを自分の娘として愛おしんできたことを告白する。しかし、テアは自分の娘ではなかった。数年が経ち、刑務所から出所するイレーナ、そこには大きく成長したテアの姿があった。

 娘を必死で思う気持ち

自分のお腹をいためて生んだ子どもだから、きっとどの子も大切な存在にちがいない。男にはわからない、命のつながりがそこにある。ただの商売の道具にしか考えない黒カビのような男もいる。こんなことが現実に行われているとしたら、あの『闇の子供たち』と同じ、命の売買だ。それでも子どもを買う人間が存在する。売り手と買い手がかみ合っているのだ。しかし、母親は涙をかみ殺しながらも、やはり自分が生んだ子どもへの思いは強く深く刻まれているにちがいない。イレーナも、子どもに会いたいが一心で、多くの犯罪に手を染めてしまった。自分が生んだ子どものそばにいたいという思いから。結果的に、テアは自分の子どもではなかった。しかし、愛した。愛したという事実は、たとえ自分の子どもではなくても、子どもを愛する母親の気持ちと同じだった。自分の子どもじゃないから愛せなくなったのではないところに、人は関わることで心をつなぐのだということがわかる。それも、イレーナだからかもしれない。イレーナが、深く関わったからかもしれない。

 宴会があった。口べたな私が結構話ができたことに満足。中にはすごい芸人がいるものだと思う。日頃はそれほどおもしろいことを言うわけでもないのに、密かに練習して芸を披露する。たとえ、順番が来てやらなければいけないから仕方なく準備したにすても、会場を湧かせるだけの芸達者ぶり。もし自分にやれと言われたら、きっとずっと悩み続けて、当日欠席するかも。演技力は、人生を楽しく明るくしてくれる。人を傷つけることを心配するあまり、黙り込んでしまったらおもしろくない。傷つけないように気をつけることは必要。でも、思い切ってちょっと冗談を言い、少し羽目を外して何かをしてみれば・・・・あとで後悔するかな。