そよかぜから-映画

見てきた映画の記録です
ネタばれあるかも、気をつけて

第三の男

2007年02月26日 | サスペンス/ミステリー


1949 年 イギリス 105分
■原題「The Third Man」
■2007.2.20 BS2
■監督 キャロル・リード
■出演
   ジョセフ・コットン(ホリー・マーチンス)
   オーソン・ウェルズ(ハリー・ライム)
   アリダ・ヴァリ(アンナ)
   トレヴァー・ハワード(カロウェイ少佐)
   バーナード・リー(ペイン軍曹)
   エルンスト・ドイッチュ(クルツ男爵)

《story》
アメリカの作家マーチンスは、友人のハリーの呼ばれて、戦後の連合国の支配下にあったドイツのウィーンにやってきた。しかし、ハリーは自動車事故で死亡し、その葬儀が行われていた。その夜、カロウェイン少佐にハリーが闇の商人として悪事を働いていたと聞かされる。マーチンスは、ハリーが犯罪に手を染めていたことが信じられず、ハリーと恋仲にあったアンナとの出会いもあって、事故の詳細を調べ始める。すると、管理人の目撃から、事故当時三人の男がハリーの事故と関わっていることがわかった。二人の男の身元はわかったが、第三の男の正体がつかめない。そうこうしているうち、管理人が殺され、アンナの旅券が偽造であることが発覚する。そして、アンナの家から出たマーチンスは、死んだはずのハリーを見かけるのだった。

 それほどでもなかったなあ
期待して見たんだけど。あの有名な音楽はよかった。影のシーンもまあまあだった。白黒で古い映画だけど、原題まで語り継がれている名画だけに、一度は見たいと思っていた。寅さんの映画だったかな、「第三の男」を思わせるような場面があり、ぜひいつか見てやろうと楽しみにしていたんだけど、何となくたいくつだった。昔の映画の良さがわからないのかもしれない。現代風に慣れてしまって、映画の原点に違和感を感じるのかも・・・。でも、機会あるごとに古い映画も見ようと思う。
「第三の男」って何だろうと、見る前は思わぬ秘密がそこにあるのだろうと思っていた。しかし、少し見ただけでわかってしまった。あの下水道のシーンは、1940年代にしてはすごいものがあるものだと感心した。同じ年代だと日本では考えられない。下水道を使った逃走の原点かもしれない。

 今年の花粉はすごい
頭が痛く鈍痛が続く。目が痛くて涙目になる。頭や首周りがかゆい。鼻もこそばゆい。アトピーも傷こそすくないけど、あちらこちらがかゆい。腰痛も花粉のせいかも。倦怠感、鬱の症状もここからきているのかも。もう少ししたら、下痢腹痛と、すべてを花粉のせいにして、体の不調を訴えるのだ。仕事がうまくいかないのも花粉のせいだ。責任をなすりつけてばかりだが、この時期は毎年こんなものだ。
学生時代には「花粉症」「鼻炎」なんて言葉を聞いたことがなかった。でも、私は最先端を走っていたから、ハンカチが鼻水でびしょびしょになるくらいひどかった。風邪薬を飲むくらいで、特効薬を知らなかった。アレルギーの一種だなんてわからなかった。このアレルギーには一生苦しめられている。そのためか人と会うことにためらいがある。自分に自信がなく、引け目を感じてしまう。いつも頭を掻きむしり、鼻をむずむずさせ、目は涙目で充血している。頭はぼーっとしていて、うまく働かない。
今日は安定剤を朝と昼に飲んだ。昼にはドリンク剤も飲んだ。頭痛薬も飲んだ。なんとか、午後の苦手な仕事を片づけた。あとはもう考えない。花粉なんかに負けるものか・・・。


フライトプラン

2007年02月25日 | アクション
 
2005年 アメリカ 98分 スカラ座  
2006.1.19 試写会
 2007.2.19 wowow (日本語吹き替え)
■監督 ロベルト・シュヴェンケ
■出演 
   ジョディ・フォスター(カイル・プラット) 
   ピーター・サースガード(カーソン) 
   ショーン・ビーン(リッチ機長)
   マーリーン・ローストン(ジュリア)
   エリカ・クリステンセン(フィオナ)
   ケイト・ビーハン(シテファニー)

《story》
夫が事故死。その夫の亡骸と娘とともに、カイルは、アメリカに向け、旅客機で飛び立った。飛行機の中で数時間眠った。目を覚ましたカイルのそばに、娘の姿はなかった。機長の許可を得て、飛行機の中を探すが、娘は見つからなかった。調べていくうちに、乗客名簿に娘の名がないことがわかった。また、遺体安置所からの死んだのは夫と娘の二人であると連絡が入った。娘は本当に飛行機に乗ったのか。肉親の死という悲しみから、現実を受け入れられずに幻を追いかけているのか。真実は・・・。

「彼女は、航空機設計士。
そして、一人の母。 
高度1万メートルの上空で、
幼い娘が失踪した・・・。 
その時、最新鋭の旅客機は、 
史上最悪の《戦場》に変わる--!」

「高度1万メートルの密室、 
跡形もなく消えたひとりの少女・・・。 
容疑者=全乗客425名。 
--それは、史上最悪の飛行計画。」


久しぶりに行ったスカラ座、元朝日会館。エレベーターに乗って7階で降りる。そこに大きな映画館がある。小学生のときに、ここで「チャップリンの街の灯」を見た。視力が悪かったので、かなり前で見た。巨大スクリーンで、見上げてみた。懐かし映画館だ。今は、近郊にシネマコンプレックスがあり、駐車場も無料で、豪華なイスのお気に入りの映画館があるので、街中の映画館に来ることはほとんどなかった。今回は試写会に当たったので、思い切って出てきた。

映画館で見ると、ほとんどの映画がよく見えてくる。迫力があるからだ。大きな映像、そして音響。私はこの映画はおもしろかったと思う。途中あっけなく答えが出てくるが、何となくわかってくるので、ここら辺で後半のアクションに移ってもいいかなと思う。ジョディ・フォスターが好きなので、疑問点はよしとして、楽しんで見ることができた。最後はすっきりさっぱりかな。

フライトプラン公式サイト

 2007.2.19 wowow (日本語吹き替え)

 何が真実か見極めること
人に何か言われたら、「そうかなあ」と、それを信じて自分を疑うことが多い。でも、彼女はちがった。何が自分をそこまで駆り立てるのだろうか。目覚めたとき、娘がいたことが真実なのか、それともこの飛行機には乗り込んでいなかったのか、搭乗券も荷物もない、記録も残っていない。見た人もいない。私でなくとも、自分を疑うだろう。あの窓のハートがなかったら、彼女も自分を疑ったことだろう。何が真実なのか見極めることは難しい。目に見えるもの、耳に聞こえるものが真実であるとは限らないのだ。みんなが言うことが正しいとは言い切れないのだ。自分をも信じることができないなんて、つらく悲しいにちがいない。たとえ結果的にまちがっていても、自分を信じる勇気がいることがわかった。まちがいはこわい。本当は子どもはいなかったとしたら、飛行機から降りる自分は世界中を敵にまわしてしまったような挫折感を感じることだろう。それでも、どんな結果が訪れようとも、1%の可能性を信じて守らなければならないものが現れることがある。自分のためでない。もし、子どもがいなかったらそれでいい。でも、もしいたなら、救い出せるのは信じている自分だけなのだから。

集団左遷

2007年02月25日 | 人間/社会派ドラマ

1994年 日本 107分
■2007.2.18 GyaO
■監督 梶間俊一
■出演
   柴田恭兵(滝川晃司)  中村敦夫(篠田洋)
   津川雅彦(横山輝生)  小坂一也(花沢浩平)
   河原崎建三(柳町敏夫)  湯江健幸(南野晴彦)
   萬田久子(原俊子)  高島礼子(今村春子)
   河原さぶ(赤倉志郎)  丹波義隆(久保昭彦)
   北村総一朗(若松一博) 江波杏子(高杉文世)
   伊東四朗(藤尾三郎)

《story》
バブルが去り、多くの未売却の物件と余剰人員を抱えた大手の不動産会社。その対策としてリストラ計画が持ち上がった。50人をリストアップして、過大なノルマを与え、達成しなければ辞めさせるというものだった。かつて会社に不正抗議をして左遷させられた篠田、そしてトラブルで左遷させられていた滝川が中心となって、新しい集団左遷の部門として特別販売部門が立ち上げられた。彼らは、このまま会社の思うように辞めさせられてはなるものかと、必死に物件の販売セールスを行うのだった。しかし、内部に情報を漏らす者や、会社の副社長の妨害などがあり、苦戦するのだった。

 世の中裏の裏があるんだよね
「理想だけじゃ生きられない」いろんなところに顔を向けて、建前の表情と、したくもない行動を取り、自分の保身をはかる。いつの間にかそんな社会に飲み込まれている。純粋に一生懸命に働く人は損をする。どこかで駆け引きをしながら生きていく。不器用な私は、お金持ちにはなれないし、出世などできるわけない。でも、映画の中の力を合わせてがんばる姿は感動を呼ぶ。やっぱり人は力を合わせて初めて大きな力と感動と満足感を得ることができるんだと思う。個人の成果主義は、人の結びつきをなくす。努力して得たものは、みんなで分配する方がいい。そりゃあ、力を発揮できなくて大きな成果につながらない人もいるかもしれない。でも、一生懸命にがんばる姿勢を支えようとするみんながいることが大切だと思う。「集団」だからこそ、大きな力となったのだと思う。もし。個人個人なら、会社の思惑通り、辞めさせることができただろう。

 献血ができなかった
21回目にして、初めて献血ができなかった。アトピーの傷があることが原因だそうだ。そんなにひどいのかなと落ち込んでしまった。あっさり言われたからだ。今まではどうだったのか、心配になった。今までもきちんとアレルギー疾患でアトピーありと書いてきた。過去20回はOKだった。確かに、今年は花粉がたくさん飛んでいて、目や鼻だけでなくかゆい。傷も多少ある。そこからばい菌は入るからだめなのだろう。かなりのショックだった。あっさり言われたこともあるし、気にしているアトピーで蹴られたこと。もう献血はできないのだろうか。

公共の敵

2007年02月24日 | 人間/社会派ドラマ

2002年 韓国 139分
■原題「Public Enemy」
■2007.2.17 wowow
■監督 カン・ウソク
■出演
   ソル・ギョング(カン・チョルジュン)
   イ・ソンジェ(チョ・ギュファン)
   カン・シニル
   キム・ジョンハク
   イ・ムンシク
   ソン・ジル

《story》
まるでヤクザのようなチョルジュン刑事、力があることから強制捜査に配属されていた。ある日、張り込み中に用をすませにいったあと、レインコートの男とぶつかり喧嘩になる。そのレインコートの男はナイフを持っていて切りかかってきた。格闘後にその男はナイフを落として逃走した。1週間後、その付近で老夫婦の惨殺死体が発見される。チョルジュンが保管していたナイフの切り傷と一致。チョルジュンは、その老夫婦の息子が犯人だと確証し、彼を追う。しかし、チョルジュンの行動は行き過ぎ、日頃の行動がよくないために、信じてもらえない。そんな中で、再び惨殺事件が起きた。

 こんなのでいいの?
「暴力」というものに、つい目が言ってしまって、これでいいのかと考えてしまう。刑事としても、日頃の行動は、やっぱり納得できない。麻薬を持っていたり、お金をせびるようじゃあヤクザと同じ。暴力を暴力で押さえる仕事なんておかしい。不器用な刑事が正義に目覚めて、悪を追いつめるなら大歓迎だ。しかし、いつもは同じような他人を苦しめることをしていて、正義に目覚めたなんて、おかしすぎる。暴力で暴力はさばけないことが見えていない。最後は、犯人と同じ行動で倒してしまったじゃないか。犯人はやっつけても、彼が再び同じ犯人に変わってしまったみたいな気がした。最後まで見たけど、好きになれない主人公だった。あの犯人と同じ雰囲気を漂わしていた。

  『東京』 重松 清 【BOOK】
新潮文庫『きよしこ』の最後の短編だ。この本は、作者の「はげましてほしい」と送ってきた手紙を無視して、その後その子のために書いた短編だそうだ。でも、正直言って、すっきりしなかった。その子にとっては、その場の励ましが何より心に残るんじゃないかと思った。この本を読んで、心が活かされるだろうか。活かすために書いたものじゃないかもしれない。作者の思いはそんなところにはないのかもしれない。
『東京』は明らかに卑屈さが少なくなっていった。でも、理解者になろうとした彼女が可哀想でならなかった。確かに思いこみはあった。わかったつもりで、結局は何もわかろうとしていなかったのかもしれない。それでも、彼女の気持ちを蔑ろにしてしまうことが引っかかった。あなたは東京に行きたかったのかもしれない。東京に夢があるのかもしれない。本心を見ようとしない彼女が悪いのかもしれない。表面だけでなく、もっと奥底の思いを見抜けないでいる私がそこにいるのかもしれない。ただ、すっkしりしなかったのは確かだ。よし、自分もがんばろうと思えない。自分の卑屈さだけが浮き出ていやな気持ちになってしまった。

風のファイター

2007年02月20日 | アクション


2004年 韓国 122分
■原題「Fighter in the Wind」
■2007.2.14 wowow
■監督 ヤン・ユノ
■出演
  ヤン・ドングン(チェ・ペダル(崔倍達))
  平山あや(陽子)  加藤雅也(加藤)
  チョン・テウ(チュンベ)
  チョン・ドゥホン(ボムス)
  パク・ソンミン(龍馬)
  国分佐智子(龍馬夫人)
  真樹日佐夫(武術協会元老)

《story》

「正義なき力は無能なり、力なき正義も無能なり」

1939年、日本の統治下にあった朝鮮。チェ・ペダルは、パイロットになるために日本に密航する。航空学校に入ることはできたが、戦時下の日本では朝鮮人は差別されひどい仕打ちを受けるだけだった。あるとき、ペダルは教官と争い、加藤大尉との戦いで負けてしまう。戦争が終わり、日本に残ったペダルはチェンベと小さなパチンコ店を開くが、やくざに襲われてしまう。そのとき、幼い頃に武道を教わったボムスと出会い、武道を習った。そのボトムがヤクザに殺され、ペダルは山奥に入り、厳しい修練を行った。そして、その後、日本の道場を巡り、武闘家たちとの試合に挑むのだった。

こんな人もいたんだ
こうして日本で活躍している朝鮮の人は多いんだなと思った。どの国であっても、優しさをもって、人を大切にしようとする人は立派だと思う。対戦相手を殺してしまい、その奥さんと子どものために、できることをしようとする気持ちは、尊いものだ。それは日本人だからとか朝鮮人だからとかではないのだ。日本人でも、いい人はいいぱいいるし、悪い人もいっぱいいる。ヤクザは日本の恥だ。国の名前をあげてひとくくりにしたくない。このペダルという人間が、ただ強さだけを持とうとしたのではなく、精神をも強く優しく鍛え上げているからすばらしいのだと思った。そういえば、最近見た「SOIRIT」も同じようなストーリーだった。初めは強さだけを求めていたけど、本当の人間の強さとは力ではなく、心であることを見せてくれた。アクションではあるが、見せるだけのアクションではなかった。

公式サイト「風のファイター」

 『交差点』 重松 清 【BOOK】
だんだんとただの思い出ではなく、吃音と人間関係の葛藤とが重なり、悲しくなったりうれしくなったり、「生きている」って感じがしてきた。今までの短編は、どこか卑屈で、自分が世界の不幸の中心なんだと言わんばかりで、まるで自分の姿を見ているようでいやだった。直接は吃音と関係ないが、間接的に人生に一こまを見せてくれ、言葉にでくても、そこに何らかの意味や主張を、自分なりに作ることができた。作者は、そんな大袈裟なものはないと言っているが、ただ見るだけじゃあつまらないものだ。見て、動いた自分の感情を何らかの方法で表現したいものなんだと思う。だから、つたない言葉で、えらそうに込められた主張を推理する。映画も本も、私は同じ気持ちで見る。感情が動かないのっぺりしたものや、頭の中で意味を言葉にできないものは不可なんだ。
少年の人を思う気持ちが、最後は思われる気持ちに変わっていく。ベンチに無理に入って来た人、押し出された人、見ていた人、どの心もそれなりにしんどい。交差点は人と人とが別れる場所。初めは、少年がつきあって通り過ぎた交差点が、いつの間にか付き添われる交差点に変わってしまった。だれを恨めばいいのだろう。初めに少年が言っていたように、実力の世界だ。最後に少年がはじき出され、これでチームはまとまるなんて、なんて皮肉なものなのか。「がん・・・」  それは本当は自分が「がんばる」と言うことで、耐えることだったなんて。そんな立場の逆転ってあるよなあ。


女優霊

2007年02月18日 | ホラー

1996 年 日本 76分
■2007.2.12 GyaO
■監督 中田秀夫
■出演 
   柳ユーレイ(村井俊男)   白島靖代(黒川ひとみ)
   石橋けい(村上沙織)   大杉漣(大谷)
   高橋明(六さん)   菊池孝典(葉山勝)
   サブ(関川)   小島なおみ(フィルムの中の女優)
   芹沢礼多(定岡)   
   日比野玲(フィルムの中の男優)
   小林宏史(望月しげる)   飯島大介(刑事)
   染谷勝則(友保)    吉田祐健(粕谷)

《story》
初監督の村井は、この映画作りに意欲をふくらませていた。しかし、カメラテストで撮影したフィルムを見てから、異変が起こり始めた。それは未現像のフィルムで、以前の撮影が残っていた。そこには、女優の後ろに長い髪の女が映っていたのだ。村井は、この場面を子どものときに見たような記憶があるのだが思い出せない。撮影は順調に進んでいたが、沙織の収録を終えたあと、三重に登った彼女が転落死するという事故が起きた。そして、以前にも同じ事故がこの撮影スタジオで起こって起こっていたことがわかった。それから、その髪の長い女の影が、その姿を現し始めた。

よくわからんホラーだった
何かありそうで、それほど深い意味がない。インパクトに欠ける映画だった。残された執念、現世にしがみつきたい理由がよく見えない。だれもが死んだからと言って、いつまでも恨みを抱えているわけではない。悲惨な死に方や、誰かに残酷な殺され方をしたとか、夢や希望が断ち切られたとか、そんな可哀想に思う理由が見えない。人の横に移る姿は怖い。けれども、何か訴えたいことがあるからこそ、受け入れられる。怖さに意味がある。そうでなければ、ただのモンスターになってしまう。
ネットで見ることができると聞いて、初めて見た映画だった。できるなら映画館がいい。そうでなければ普通のテレビがいい。これくらいなら、パソコンの画面でもいいかあ、というくらいの無料映画だった。

  適当に
時々、何かはわからないけど息づまる。まるで生きていても仕方の無いような感覚、何をしてもうまくいかない予感、だから何もしたくなくなる倦怠感、自分が信じられなくなる自己矛盾。そんな、鬱の状態に陥る。特に、休日や休日開け。月曜日がそうなるのはわかるけど、なぜ休日にそうなるのだろうか。心の落ち着く場所がない。休日は人に会うこともないからいいけど、平日は安定剤が必要だ。朝の缶コーヒーもそのひとつだ。飲まずに行ければOK。ドリンク剤も必要な時がある。頭痛薬、胃腸薬と薬は手放せない。最近は「おまじない」自己暗示で乗り切ろうとやってみているところ。その言葉が「適当に」・・・。なんと思われようと、力を抜く。感情的にならない。適当にやり過ごす。そんな気持ちでいようとすると、意欲が効果的に持続する。時間も有効に使える。そんな気がする。一生懸命にやるまい。いつも空回りしていた。どうせうまくいかないのなら、好きなことに残り時間を使おう。適当、適当・・・。

  『ゲルマ』 重松 清 【BOOK】
「ゲルマ」とはニックネームのこと。吃音のある少年に関わってきたゲルマ。みんなから嫌われているけど、彼なりに友だちのことを考えていた。それがその友だちにとってはマイナスの効果にしかならなかったけど、その他人のことを自分のことのように考えていたことは確かだ。人間の関係ってだいたいがこうなんだろうなあ。自分が考えるその人のことは、きっとその人にとってはいい迷惑なんだろうなあ、と思うと行動は起こせない。私はその一人だ。でも、みんなに受け入れられないニックネームをつけて、一人騒いで明るくしているのか、めちゃくちゃにしているのか、わからないゲルマ。彼にも彼なりの苦しみがあった。兄の存在は、彼を引きずりおろしていた。主人公の少年にとって、目障りな存在でもあり、ある意味自分のことをわかろうとしている存在でもあった。電子工学などの道に進み、活躍しているゲルマに出会えたらどんなにいいか、きっと少年もそんなことを思っていると信じている。

僕が9歳だったころ

2007年02月18日 | ラブロマンス/青春


2004年 韓国 105分
■原題「When I Turned Nine」
■2007.2.11 wowow
■監督 ユン・イノ
■出演
  キム・ソク(ヨミン)  イ・セヨン(ウリム)
  チョン・ソンギョン(ヨミンの母)
  チュ・ドンムン(ヨミンの父)
  キム・ミョンジェ(ギジョン)
  ナ・アヒョン(クムボク)

《story》

「会いに行こう、あのころのあなたに」

1970年代、田舎の小学校に通うヨミン。彼は9才でありながら、5年生をも負かすガキ大将。でも、不良少年から友だちを守り、母を亡くした友だちと弁当を分け合い、片目を失った母のためにサングラスを買おうと、密かに小遣い稼ぎの仕事をしている優しい少年だった。ある時、アメリカ育ちの女の子ウリムが転校してきた。気になるヨミンは彼女に手紙を送るが、それを先生に告げ口されてしまう。ヨミンに好意を寄せるクムボクは、ついついウリムと対立してしまう。ヨミンの周りではさまざまな出来事が起こる。そして、ついにウリムとの別れの日が・・・。

9才とは思えない堂々とした心の成長
小学校3年生か4年生だ。ギャングエイジの雰囲気を漂わす仲間たち。でもその中で、冷静に周りを見つめ、淡い恋心で混沌とする自分の心をとらえようと、正面から突き進む少年の純朴さに心惹かれる。なぜにあんなに堂々とできるのか、もうそこから大人の世界に足を踏み込まざるを得ないものがあった。貧しさや偏見を乗り越えようとする強さと優しさがあった。それが善のガキ大将となり、昔の良き時代を思わせるのかもしれない。今の苦しみはいびつに心を壊してしまう。けなげに生き抜く姿が失われていく時代のような気がする。町並みだけでなく、そんな子どもの存在さえ懐かしく感じてしまうのは、さみしいことかもしれない。
「けなげ」言えば、父親の死を隠していたウリムもだけど、ヨミンのことを一途に思うクムボクも、とてもかわいく思う。今まで自分のそばに自然にいたヨミンが、離れていくさみしさを感じ、ついついウリムに当たってしまう。でも、クムボクも心の中には純朴な優しさがいっぱい。ウリムとの別れの日は涙がいっぱい出てきた。
そんな、さまざまな出来事の中で、それらを通して葛藤しながらも、心の奥底には優しさを気づいていく子ども時代、どうしてそれが今懐かしいと思うのだろう。

あんな学校が日本にもあったんだ
1970年代の韓国。そのころの日本も、先生は悪いことに対してはあんなにたたいていたのだろう。ちょっとひどいたたき方だった。あの上靴をくわえさせ、廊下に正座させるのも、今では考えられない。ちょっとこづいたりしただけで、今の学校は大問題だ。体罰がいいとは思わないけど、何もかも学校に押しつけて、学校を不満のはけぐちにするのはやめてほしい。
私が小学生の頃は、教室でタバコを吸う先生がいた。反面、放課後残った人たちにアイスクリームをおごってくれる先生もいた。今は、放課後なんてないようなものだ。時間がゆっくり、それでいて濃く深く、あたたかく流れていたような気がする。そんな時代はもうやってこない。これからの学校はよくなる見通しはない。もっと人間関係がバラバラになり、希薄なる政策が次々とやられる。教育基本法の改正がその第一歩。いじめは増える。自殺者も増える。みんな精神を病む。これではいけないのだけど。

公式サイト「僕が9歳だったころ」

 かばんを忘れた
大きな仕事道具を入れたかばんを無くした。家にたどり着いて、車をおりようと助手席を見たら、あの大きなかばんがない。えーっと驚いて記憶をたぐる。レストランで会議があった。駐車場が狭くて、助手席側から乗った。そのとき落としたまま帰ってしまったのか。でも、あの大きな重いかばんが落ちたら気づくだろうに。あわてて、また車でそのレストランに向かった。駐車場にはなかった。一応、レジのおじさんにも伝えて、見つけたら連絡をしてもらえるように頼んだ。もしかして職場に・・・。そんなことあるかなあ。いや、職場の駐車場から、車に乗り込むときに、その場に置き忘れたかもしれない。いやいや、元から車に積んでなくて、職場の部屋にそのままあるかも・・・。まさかそんな忘れ方をするはずがない。と、思いながら戻ってみたら、私の椅子のところにあった。駐車場に置き忘れたのか、元から持ってでなかったのかわからないけど、まずはひと安心。と同時に物忘れの激しさに落胆。大きな、取り返しのつかない忘れ方をしなければいいが、と明日からが不安になった。

 『メリーゴーランド』 萩原 浩 【BOOK】
腹が立つやら、おかしいやら。どちらかというと腹が立った。税金はこんな風に使われているんだ思うと、公務員にバッシングがいくのもわかる気がする。しべての公務員がそうなのではないと思う。啓一のように、必死にその仕事をまっとうしようとがんばっている人もいる。でも、同じ役所でありながら、足を引っ張り合ったり、連携したつながりがもてないところは、役所の体質なのだろう。あまくだりの人たちの、あからさまな自己中は何なんだ。よくしようという意欲のかけらもない。保身あるのみ。お金のかからない天下りならいいけど、対して何もしていなのに、給料や退職金だけは多いなんてやめてほしい。税金をいかに私服に入れるかの組織作りがいっぱいだ。成果主義や勤務評定による賃金格差が、こういった体質をよくするとは思わない。むしろますますひどくさせてしまうだろう。人と人との関わりを希薄にさせる取り組みは、結局逆効果になるものだ。むなしくなるけど、一人でも喜ばせることができたら、前進だと思うことも大切かもしれない。来宮たちのふたこぶ座や鉄騎隊たちの、ともにひとつの夢に向けて動くときの心のつながりができた。柳井や徳永だってそうだった。何より、家族で乗った最後のメリーゴーランドこそ、最大の収穫だったのかもしれない。大きなものだけを見ようとすると、小さなものがしょうもなく見えたり、視界にさえ入らなくなったりする。いつも、小さなものに目を向ける姿勢が大事なんだと思った。大きくなりたいとは思わないけど、足下の雑草に目を向ける気持ちは持ち続けたい。それこそが本当の役所の仕事と成り得るのではないだろうか。


どろろ

2007年02月14日 | ファンタジー/アドベンチャー


2007年 日本 138分
2007.2.9 TOHOシネマズ緑井
■監督 塩田明彦
■出演
   妻夫木聡(百鬼丸)  柴咲コウ(どろろ)
   瑛太(多宝丸)  中井貴一(醍醐景光)
   原田美枝子(百合-百鬼丸の母)
   杉本哲太(鯖目)
   土屋アンナ(鯖目の奥方-妖怪)
   麻生久美子(お自夜-どろろの母)
   劇団ひとり(チンピラ)
   中村嘉葎雄(琵琶法師)
   原田芳雄(寿海)

《story》

「運命を越える旅へ」
「父の野望のため体を奪われし者-。
   時の権力に両親を奪われし者-。
   失われた体と心を取り戻すために、今こそ運命に挑め」

ある戦乱の世。醍醐は天下を統する野望を果たすために、魔物と契りをかわす。それは、力を得るかわりに、生まれくる我が子の体を48の魔物に分け与えた。生まれた子は肉の固まりでありながら生きていた。母の百合は殺すことができす、たらいに乗せ川に流す。その子を拾った寿海は、医術の限りを尽くし、仮の肉体と両腕に魔物から守るための妖刀をつけた。やがて寿海は死に、その子百鬼丸は、魔物退治の旅をする。魔物をしとめるごとに奪われた体が戻ってくるのだった。ある時、その妖刀を見た盗人が、自分の両親を殺した敵をとるため、百鬼丸の妖刀ほしさに、ともに旅をするようになる。名は、「どろろ」・・・・そして敵の名は・・・。

期待していた通りで良かった
実写版ってあまりよくないイメージがある。昔の「鉄腕アトム」最近も「鉄人28号」など。でも、この映画は予告からして期待できた。CGもうまく使っていたし、あまりボロが目立たなかった。映画館で見る価値は十分あった。まだ、この続きを見たい気持ちで映画が終わった。百鬼丸は、だんだん人間の体に近づいているのだから、命の危険が大きくなるということだ。今まで見たいに傷を再生するなんてできない。だから、この続きはむずかしくなると思う。よっぽどのストーリーを考えないと、おもしろくなくなってしまう。私は、マンガ本を全部読んだわけではないので、この続きはあるのか、最後はどうなるのか、わからない。どろろも女性として登場する場面があるのかどうなのか。「リボンの騎士」のような場面もあるのだろうか。ただ、柴咲コウのどろろがいいものやらどうなのやら、判断しかねる。もっと小柄な少女というイメージが強いからだ。違和感があるわけではない。柴咲コウの今までのイメージをぬぐい去るのに、少し時間がかかっただけだ。

公式サイト「どろろ」

 鉄腕アトムを見たのが最初かな
テレビで白黒のマンガを見た覚えがある。リバイバルだったと思うけど。ジャングル大帝、 ビッグX、ワンダー3、不思議なメルモなどを見たものだ。マンガ本はあまり見なかった。ジャンプとかマガジンとか、あの頃はキングなんてのもあった。でも、買ったのは「キング」1冊だけ。マンガ本に出会うことがなかった。高校時代になって初めて「火の鳥」に出会った。同じクラブの同級生が貸してくれた。渋々という雰囲気で貸してくれた。おもしろくて読みふけった。「どろろ」全部読んだわけじゃない。断片的に、機会があるごとに読んだだけ。でも、魅力的だった。マンガってのは、そこにテーマがあるんだとわかった。その後、熱中したのは、大学時代にあだち充の「みゆき」など。あだち作品をいっぱい読んだ。そして数年前、「コナン」と「ワンピース」だった。今はもう読むことはない。「ワンピース」は意味がわからなくなった。「コナン」は読んでもいいけど積極的でなくなった。

 再び研修に出た息子
土曜日に帰ったと思ったのに、火曜日には福岡に出かけていった。そのために、なんと4時30分に起きて、駅に向かい、6時発の新幹線に乗るのだった。大変なものだ。学生とはちがうことはわかっているけど、もう少し余裕は持てないものか。午後7時頃からメールを送ったり、電話をかけたりしても、いっこうに返事がない。無事についたものやら、どうなのか親としては心配だ。結局10時過ぎに電話がかかり、泊まるはずのところに行けなくて、会社に泊まるそうだ。そんなことってありんあのか。まだ正式な社員ではなにのにね。世の中厳しいというべきか。世の中おかしいというべきか。人権が守られていない不当な行為については断固声に出して訴えるべきだ・・・・と事情がわかるのまま、叫んでます。しばらくは、心配でたまらないことでしょう。特に母親はね。


ラストサマー

2007年02月12日 | ホラー

1997年 アメリカ 102分
■原題「I Know What You Did Last Summer」
■2007.2.7 wowow
■監督 ジム・ギレスピー
■出演
   ジェニファー・ラヴ・ヒューイット(ジュリー)
   サラ・ミシェル・ゲラー(ヘレン)
   ライアン・フィリップ(バリー)
   フレディ・プリンゼ・ジュニア(レイ)
   ブリジット・ウィルソン=サンプラス(アン・ヘッシュ)
   ジョニー・ガレッキー(ミューズ・ワトソン)

《story》

「気絶してたら、謎は解けない」

ジュリーとレイ、ヘレンとバリーの2組のカップルは、高校卒業を祝って、車で海岸に行った。その帰りに一人の男を車ではねた。彼らは、その男は死んだものと思い、見つかるのを恐れ、海に投げ捨てようとした。そのとき、息を吹き返しのだが、そのまま海に沈めてしまった。4人は、このことを誰にも話さないと誓い、別れた。1年後、町にもどったジュリーの家に、差出人のない手紙が届いた。その中には、「知ってるぞ」と、1年前の事故を思わせることが書かれていた。そして、4人のまわりには、不気味なかぎ爪の男の影が・・・。

普通の人間だったら悩むよな
もし事故にせよ人を殺してしまったら、夜も眠れないくらい悩むと思う。小心者だから、見えない影に怯え、精神状態は不安定になって、怒りっぽくなったりひどく悲しくなったり、まともには生きていけないと思う。4人で共有しているだけましかもしれない。責任が4分の1になるように感じるからね。もし一人だったら、きっとこの町には帰らないだろうな。

最近「ひき逃げ」事件ってのがあとを絶たない。人を轢いて、ニュースなんかで報道され、そのままのうのうと生きることができるなんて信じられない。殺人なんておこしたら、たとえ自首しても、ずっと苦しんで生きていくことになると思う。
そんな人を殺めた苦しみが、このかぎ爪の男だったのだと思う。それがモンスター化してしまったところから、殺人の影が薄くなってしまったけど。

トランクにあったカニだらけの死体が、一瞬のうちに無くなったあたりからおかしくなった。罪の意識の亡霊がモンスターに変わった。ジェイソン見たいに。人間の心の闇から生まれる恐怖には、筋が通る。でも、モンスター化してしまったら、襲われる恐怖しかない。

この「1」の方も、昔見た覚えがある。「ラストサマー2」を見かけたけどやめた。昔見たような気がする。おもしろくない。無理して見ても仕方ない。

 蝶が飛んでた
裏山に散歩に出かけた。暖冬と叫ばれているように、ほんとうにあたたかい。4月、5月の陽気だ。農家の庭先にピンクの梅が満開になっていた。野鳥がさえずっている。春先に咲くような花は見あたらないが、黄色い蝶が飛んでいた。冬を越そうと眠っていた蝶が、勘違いして目を覚ましたみたいだ。辺りを飛んでも、花はどこにもない。確かに異常だ。しかし、寒い冬が嫌いな私は、こうして気持ちよく散歩できることを喜んでいる。身勝手なものだ。後に、大異変が起こることを、頭の片隅では思っていても、実際に起こるまでは知らないふりをしているのだ。時折寒波がやってくる、これくらいの暖かさがいいなあと、自分のことしか考えていないのだ。どうせ何もできなのだからとあきらめて、開き直っているのだ。

アメノナカノ青空

2007年02月11日 | ラブロマンス/青春

2003年 韓国 104分 
■原題「...ing」
2006.1.9 シネツイン1
   2007.2.6 wowow  
■監督 イ・オニ
■出演 イム・スジョン(ミナ) キム・レウォン(ヨンジェ) イ・ミスク

《story》

 「アナタにとって最高の贈りものは何ですか?」 

幼い頃から入退院を繰り返してきたミナ。ミナの左手は誰にも見せられない。だからいつも手袋をしていた。人は好奇な目で見る。友だちはいない。学校では絵を描いている。唯一の友だちはママ、ミスク。ある日同じアパートの階下に引っ越してきた、ヨンジェ。
   
「仕組まれた恋」

しかし、本当に恋したのはヨンジュだった。そして、恋を仕組んだ理由とは・・・恋の行方は・・・

仕組まれた恋だけど、だれもがピュアだった。そして、それは人を思うが故に、人を愛するが故に、人と人が深く心で結ばれるからこそ、別れの悲しみがあった。この悲しみは幸せをいっぱい持って去らなければならない悲しみだから、見る人の心を打つ。 母親の愛、それはかけだったかもしれない。いや、しっかり人を見定めた、本当に未来を見定めた、母親の愛。仕組む相手はだれでもいいはずはない。ミナの幸せを思い、仕組んだのは母だったけれど、恋に導いたのは自然な運命だったのかもしれない。 ヨンジュのユーモアあふれる人柄はだれをも虜にするだろう。頼まれたとはいえ、ミナを楽しませようとする行動にはやさしさがいっぱいあった。だからこそ、それが本当の愛に変わっていったのだと思う。 ミナは、大きく感情を出さないけれど、母にもヨンジュにも愛をいっぱい感じ、そしてミナなりの表し方で愛を伝えていた。それがとてもいじらしく感じられた。 イム・スジョンは当時23才、とても幼く見える。たばこを吸うシーンは中学生が吸っているみたいで、ヨンジュが言うように不良少女に見えた。ヨンジュ役のキム・レウォンの方が1才年下なのは驚きだ。 

「アメノナカ」の意味は何だろう。なぜカタカナなんだろう。漢字だと固いイメージ、ひらがなだとしらけた感じ、カタカナは少し距離を置いた感じかな。カタカナのイメージは冷たさなんだけど、その後にくる「青空」が暖かさをにじませてくれる。塩辛さの中の甘さのようなもの。原題の意味はよくわからないけど、この日本語の題はよく考えてあると思う。映画の中で、実際に雨が降り、ヨンジュが傘を届ける場面がある。その傘は、外側が黒く、内側が青空の絵になっている。たとえ悲しい現実があろうとも、心の中は青空のように幸せだよって語っているみたいに。そして、二人で腕を組んで歩く場面は、心に残る。

アメノナカノ青空 公式サイト

 2007.2.6 wowow 

あの手を美しく感じるとき
3本の指。つい見てしまうだろうなあ。それも当たり前。目がいくのは自然なこと。でも、彼女にしてみれば、道を歩くとそんな人がいっぱいいて、じろじろ興味本位で見ていることと同じ。毎日毎日ひとりの私といっぱい出会う。興味本位からその手を愛おしく思えるヨンジュのような心に変わったとき、ミナはきっと手袋をはずすことができるんだと思う。ラストの写真の個展で、その手を母が握りしめている写真が展示されていた。見てほしい、でも見られたくない、そんな二つの気持ちを感じた。見る人の多くは、私みたいに興味本位で見るだろう。だから白黒なんだと思う。でも、ヨンジュは愛する人の手を見てほしいという気持ちが写真にあふれている。この映画を見終えた人は、きっと壁をひとつ乗り越え、この手を愛おしく思うにちがいない。なぜなら私もその一人だから。

 同じ気持ちになれたうれしさ
「この映画おもしろいよ」・・「この本は感動するよ」・・・今までどんなに紹介しても、その答えが返ってくることはめったにない。ほとんどない。だから映画もいっしょに見に行くことはない。いっしょに行こうと言ってほしいけど、映画自体だけでなく私自身と行くことに抵抗があるのだろう。本もおもしろい本を紹介するけど、読んで良かったよという返事はない。読んでいるのか読んでいないのかもわからない。いつの間にか本だなに戻ってきている。「夜のピクニック」も進めたひとつ。最近次男が、この映画の主題歌「ふたり」をギターで弾いている。同じ気持ちになれたのかな。だったら、いつか映画をみてほしい。「バッテリー」も読んだみたいだ。映画や本や、同じ気持ちで語れたらどんなにいいだろう。今までほとんどその分野では相手にされなかったかったから、子どもの成長をうれしく思う。

 『バッテリー』 著/あさのあつこ 角川文庫
岡山から県北の広島との県境にある新田に引っ越す一家。病弱な青波や仕事で体を壊した広のことを考えての事だった。巧は4月からその地元の新田中学校に通うことになる。今までともに野球をしてきた仲間と別れてのことだった。巧は決して自分のペースを崩さない。自分一人で進む力と自信があった。そしてプライドがあった。みんなで肩を組み和を重んじた野球をやってきたわけではない。それを望んでいるわけではない。ただ、自分の球をしっかり捕球してしてくれる捕手は必要だった。そして、この街でその捕手にふさわしい豪に出会うのだった。

この主人公は好きになれない。嫌悪感さえ感じてしまう。しかし、読み進めてしまう。不思議な魅力のある作品だ。これが児童書だから、なおさら不思議だ。ある意味こんなだれとも交わらない孤独な戦うボクサーのような雰囲気を持つ。気怠い心の中に、大きな自分だけの夢を持ち、まっしぐらに進もうとする。自分中心なわがままな巧。もっと青波たちに優しくしてやれよ、言いたくなってくる。とことんそうなのか、ただ不器用なのかわからない。ただ、一人で進んでいるようで、多くの人の支えがあるからこそだということは言える。
今現在、文庫本Ⅴまで読んでいる。