そよかぜから-映画

見てきた映画の記録です
ネタばれあるかも、気をつけて

ダンサーの純情

2007年04月30日 | ラブロマンス/青春

2005年 韓国 111分
■原題「Innocent Steps」
■2007.4.18 wowow
■監督 パク・ヨンフン
■出演
   ムン・グニョン( チャン・チェリン)
   パク・コニョン(ナ・ヨンセ)
   ユン・チャン(チョン・ヒョンス)
   パク・ウォンサン(マ・サンドゥ)
   キム・ギス(イ・チョルヨン)
   チョン・ユミ(オ・ミス)

 《story》

「この世で最も純情な<天使>と奏でる。“愛と希望のステップ”」

「どんな朽ち果てた現実にも、きっと<天使>は舞い降りる」

パートナーをライバルに奪われ、足をけがして、絶望に明け暮れるヨンセ。そのダンサーとしての力は群を抜いていて、彼を心配したマ先輩が、中国から新しいパートナー呼び寄せる。しかし、中国からやってきた女性は、身代わりのダンスが踊れないチェリンという少女だった。一時は彼女を追い出したが、世間知らずのチェリンを放ってはおけず、パートナーとして訓練することを決意する。ダンスの猛特訓が始まった。次第に二人の心は通い合っていった。チェリンのダンスの技術は見る見る向上していった。3ヶ月後のダンス会場。受付で、ライバルのパートナーにチェリンの名があり、またしてもヨンセはパートナーを奪われるのだった。

公式サイト「ダンサーの純情」

 ほんとうにこんなことがあるの
パートナーを奪われるって本当にあるのだろうかと思った。初めのパートナーは自分の意志でヨンセを捨てたんだ。人の心があったら、気持ちよく踊れないよね。案の定ダンスをやめていく。さまざまな技術をともなうものがあるけど、練習すればある程度力はあつく。でも、最期は心の問題にぶつかるんだと思う。だから、こんな形でパートナーを手に入れても、心から満足できるダンスはできない。人ってやっぱり心のある生き物なんだなと思う。何を見ても、心を伝え心を感じる。自分の才能におぼれている姿は、どんなに力があっても、響いてこないものだ。
悲しい映画だと思った。それは、ヨンセが踊れなくなったからだ。それを許しているまわりや社会があることが悲しいと思った。純粋にダンスを愛し、一生懸命に練習してきたのに、踊れなくさせられてしまう。そんな社会が恐ろしい。それがまかり通る社会が悲しい。確かにチェリンは純情で天使のようだ。その心の悲しみは、社会のひずみに壊されていく悲しみだ。そんな涙ではなく、そのひずみで支え合う喜びに感動したいものだ。

 Dr.コトー診療所
たまたまネットで見つけた日本のドラマ。韓国のサイトで、韓国の字幕で日本のドラマを動画としてあげていた。違法なのかどうなのかわからない。最初にコマーシャルが流れ、ドラマが始まるから、日本の無料動画と同じだ。でも、昨日あったドラマもすぐにあがるからやっぱり・・・
2004年に放映されたドラマを見た。あのときは最期の2~3話しか見ていなかった。いいドラマだとわからなかった。それまで見ていなくても最終話で涙がいっぱいあふれた。その後のスペシャルで、おおよそのあらすじはわかった。2006年も見ることができた。2004年のドラマを見たいなあといつも思っていた。これは素晴らしい。現実にはありえない理想の話だと思うけど、どの話も涙がいっぱいあふれてしまう。こんな先生に出会いたいものだ。こんな島に行きたいものだ。DVDボックスがほしいけど、3万近いからダメ。テレビでやらないかなあ。永久保存版のドラマです。

あかね空

2007年04月28日 | 人間/社会派ドラマ

2006年 日本 120分
2007.4.14 シネツイン1
■監督 浜本正機
■出演
   内野聖陽(永吉/傳蔵)  中谷美紀(おふみ)
   中村梅雀[2代目](平田屋) 勝村政信(嘉次郎)
   泉谷しげる(源治)  角替和枝(おみつ)
   武田航平(栄太郎)  細田よしひこ(悟郎)
   柳生みゆ(おきみ)  石橋蓮司(清兵衛)
   岩下志麻(おしの)

 《story》

「明けない夜がないように
     つらいことも悲しいことも
           あかね色の空が包んでくれる」

京の由緒ある豆腐屋で修行し、江戸で店を出すためにやってきた永吉。おふみが住む長屋の井戸の水のおいしさを味わい、ここで店を出すことを決意する。おふみも永吉のために協力する。開店した「京や」の豆腐は、江戸の腰のある豆腐に慣れた庶民の口には合わず、なかなか売れなかった。永吉は、この豆腐のおいしさがわかるときが来ると信じてがんばり続けた。近くにあった老舗の豆腐屋である相州屋は、昔一人息子を行方不明にし、夫婦二人で家業を続けていた。妻のおしのは、永吉がその息子のように思われ、夫の清兵衛と、永代寺に余った豆腐の寄付を受け入れるように頼む。そして、様態のよくない清兵衛は、家業が続けられなくなり、店を永吉に貸し、今までの得意先をも譲るのだった。
それから18年、おふみと結婚した永吉は、二人の息子と一人の娘と豆腐屋を営んでいた。飢饉で苦しむ庶民に豆腐を食べてもらおうと、値上げをしない京やをまわりの豆腐屋はよくは思わなかった。豆腐組合の中心にいた平田屋は、やくざの傳蔵と組んで、京やをつぶしにかかる。

 人はいつもだれかに支えられている
心のあたたかな人のまわりには、やはり心のあたたかな人が集まる。永吉が出会ったおふみさんなしでは、江戸での永吉の人生はありえない。それに子どもを失った相州屋さんだってそうだ。おしのさんが豆腐を買わなければ、清兵衛たちが店を譲る気持ちにならなければ、傳蔵は永吉を助けなければ・・・・・もしかしたら、栄太郎が平田屋にだまされなければ、家族の愛に気づかなかったかもしれない。いつもどこかでだれかが、支えようとしていたり、結果的に支えることになったり、人はそれをどう受け取るかで、未来を切り開くことができる。最期の場面で、店を渡さなければならなくなったとき、あわてふためくことなく、冷静に、店の権利書を渡すおふみ。たとえ、店がなくなっても、きっと新しい道を切り開くだろう。結果的には、傳蔵が味方になったが、それも、豆腐を買いに来たやくざの傳蔵に、やさしく器まで貸したおふみの心だったのだと思う。人の支えを感じる心こそ、自分の道を切り開くのだ。

公式サイト「あかね空」

 あっという間の一週間
映画もなかなか見られなくなった。気の休まる時間のない毎日。それでも笑顔でいられるだけ幸せだ。「おはよう」と、声が返ろうが返るまいが、自分から笑顔であいさつできる。じっと顔を見て、その表情から相手の気持ちを察しようとする余裕さえ感じられた。でも、毎朝のドキドキは続いた。あいさつの言葉も話も冗談ひとつも、先にもあとからも、じわじわと胃を焼き付ける。今朝は、胃痛で目が覚めた。休日だというのに。・・・それでも、今までよりも幸せな一週間、かな。だいたいが生きることに不器用なんだよな。優越感で生きていたり、コンプレックスでどん底に落ちたり。
休日は、映画を見たい。本を読みたい。天気のいい日は山にも登りたい。散歩をしたい。

ロッキー・ザ・ファイナル

2007年04月21日 | 人間/社会派ドラマ

2006年 アメリカ 103分
■原題「ROCKY BALBOA」
2007.4.11 TOHOシネマズ緑井 試写会
■監督 シルヴェスター・スタローン
■出演
  シルヴェスター・スタローン(ロッキー・バルボア)
  バート・ヤング(ポーリー)
  アントニオ・ターヴァー(ディクソン)
  ジェラルディン・ヒューズ(マリー)
  マイロ・ヴィンティミリア(ロバート-息子)
  トニー・バートン(デューク)
  ジェームズ・フランシス・ケリー三世(ステップ)
  マイク・タイソン

 《story》

「自分をあきらめない」

ボクシング界で頂点に登りつめたロッキーも引退して30年。息子は、有名人の影を背負い、父から離れ生活していた。ロッキーは、最愛の妻のエイドリアンを亡くしていた。地元のフィラデルフィアでイタリアン料理の店を経営し、その店の名前に彼女の名前をつけていた。
妻の墓の前でたたずむロッキー。離れていく息子。孤独が彼を苛んでいた。ある日、昔通ったことのあるバーに寄ったロッキーは、30年前不良少女で彼が関わったことがあるマリーと出会う。そこで彼女や息子のステップとも交流が始まる。そんなとき無敵のボクサーとかつてのチャンピオン、ロッキーとのシュミレーションによる試合が話題となる。いつまでも夢を追い続けることが自分を輝かせることだと信じ、再びライセンスの申請を行い、そして、それが認められ、無敵のボクサーディクソンとの試合が実現するのだった。

 懐かしむだけの映画
初めて見た「ロッキー」のあの感動はない。社会の片隅に追いやられ、貧困の中でもがき苦しみ、心の底からわき起こるエネルギーをリングで爆発させる。まるで、「あしたのジョー」のような魅力。それがあの「ロッキー」にはあった。続編というものは、多くは前作を越えられない。ロッキーもそうだった。かろうじて、続きだから見てもいいかなという程度だった。だから、その延長上にこの映画はある。闘わなければというわき上がる闘志はない。「できるんだぞ」という意思表示みたいな、なんとかやったねというなだらかなゴールみたいな、スローのさわやかな風を心地よく感じる映画だと思った。昔のロッキーを知っているからこそであって、そうでなければ、初めてロッキーを見るひとはどう感じるだろうか。試写会はペアーで当たって、みんなに声をかけたけど、ロッキーはいいって言われた。息子たちはロッキーを知らない。たぶん、見たとしても大きな感動は得られないと思った。

公式サイト「ロッキー・ザ・ファイナル」

 タロットカードの死神
参観日の朝、ヤフーのタロット占いで死神出た。いつも自信がなく、ミスばかり連発して、終わったあと後悔ばかりしているから、大きなショックだった。事前学習はやった。理科室の準備はOK。シュミレーションもイメージ練習も繰り返した。それでも、視野がせばまる私は思わぬ失言失敗をする。今日1日不吉なことが・・・朝を乗り切れば、あとは忙しく動き回っているから、忘れてしまう。ドリンク剤に安定剤もあるし。
さて、どんな1日だったでしょうか。中身はともかく、目に見えるミスがなく終えたことに安堵。ミスは今は見えなくていい。もうちょっと休んでから。死神が去ったことが確認できてから。

ゴースト ニューヨークの幻

2007年04月15日 | ラブロマンス/青春


1990年 アメリカ 127分
■原題「GHOST」
◎アカデミー賞 / 第63回(1991年)助演女優賞/脚本賞/
■2007.4.9 BS2
■監督 ジェリー・ザッカー
■出演
  パトリック・スウェイジ(サム・ウィート)
  デミ・ムーア(モリー・ジャンセン)
  ウーピー・ゴールドバーグ(オダ・メイ・ブラウン)
  トニー・ゴールドウィン(カール・ブルーナー)
  スーザン・ブレスロウ 、
  マルティーナ・デグナン 、
  リック・エイヴィルス 、
  ヴィンセント・スキャヴェリ

  《story》
サムはモリーと幸せな共同生活を始めようとしていた。しかし、観劇後に暴漢に襲われ、サムは命を落としてしまう。サムは天国に行くことを拒否し、モリーをいつまでも見守る。ある日、サムを襲った暴漢が家に入り込み物色をする。モリーがねらわれていると思ったサムは、霊媒師のオダ・メイに頼み、モリーに危機を伝えようとする。しかし、なかなか信じてもらえない。サムとモリーしか知らない話にモリーは耳を傾け始める。サムの友人だったカールがモリー慰めに家を訪れ、モリーはそのことを相談した。その後、カールについていったサムは、その暴漢とカールがつながっていたことを知る。カールの銀行での不正操作を知り、共謀して自分を殺し、さらにモリーにもその穂先が向いたのだった。

 死んでいく者の悲しみ、残された者の悲しみ
愛する者が居れば、自分が死んでいなくなることが信じられないはずだ。死にたくないとしがみつくかもしれない。でも、実際にはどうしようもない。そこに居座っても何にもならない。今回は、自分が殺されたことに友人が関わり、愛するモリーにも危機があったから、そこにとどまったことが功を奏した。しかし、そうでなかったら、残されたものがいつまでも悲しみを引きずる、人生を奪われてしまうかもしれない。残された者が幸せに生きていくことをのぞみたいものだ。生きているものの人生を壊したくないものだ。サムは事件を解決して天国に行った。モリーはどうなるのだろうか。新しい出会いを素直に受け止めることができるだろうか。それとも、一生サムを思い生きていくのだろうか。映画を見ている時は素直に感動する。でも、見終わったあと、うがった見方をしてしまう。現実はどうだと考えてしまう。

 1リットルの涙
本を読んだ。涙を流しながら読んだ。こんな病気もあるんだと怖くもなり、必死で生きようとしているあやさんの姿が目に浮かび、私自身の生き方をも考えさせられた。彼女の声は、多くの人の心に届き、生きる力を与えてくれている。
ドラマになったときには、毎回涙を流しながら見た。現実にはない人物もあったが、彼女の気持ちはこめられていたと思う。支え合う家族、彼女をとりまく冷たい現実。すべては否定できない。自分だってその現実を作り出している一人なのだから。最終回は、忙しい時期と重なって見損なってしまった。ある日、インターネットでその最終回がYou_tubuであげられていた。ラッキーだった。だから、最終回は最近見た。そして、今回の特別編・・・何かつながりがあるような気がして、自分自身の暗示になった。この特別編も涙を流しながら見た。わかっているのに涙が出るのは、年のせいだろうか。それとも、そんな人とのつながりに飢えているからなのだろうか。私自身も1リットルの涙を流し、そして生きていく力を得ることができた。映画は見逃したので、いつか機会があれば見たい。


ルワンダ 流血の4月

2007年04月14日 | 人間/社会派ドラマ

2005年 フランス/アメリカ/ルワンダ 141分
■原題「Sometimes in April」
■2007.4.5 wowow
■監督 ラウール・ペック
■出演
  アイドリス・エルバ(オーガスタン)
  オリス・アーヒューロ(オノレ)
  デブラ・ウィンガー(プルーデンス・ブッシュネル)
  キャロル・カレメラ(ジャンヌ)
  フレイザー・ジェームズ(グザヴィエ)

 《story》
1994年、アフリカのルワンダで内戦が起きる。それはフツ族大統領の暗殺から始まった。フツ族過激派は、ツチ族の虐殺を始めた。かくまう穏健派のフツ族も同じように殺され、10日間で100万人が殺されたという。
ツチ族の妻を持つフツ族のオーがスタンは、妻子を逃そうと弟のオノレに検問を越えるように頼む。しかし、最期の検問で・・・・。

 理性というものはもろい
煽られれば気持ちが高揚し、本能のままに動く人間。理性を持つことが人間だけに許され、その力を使うことの感動を知った人間は、その理性を失うときの悲しみも同時に知った。人を守る正義も、人を傷つける快感も、同じように求めている。ルワンダの悲劇は、いつでもどこでも起こりうる。それは国という大きな場所だけでなく、教室という小さな場所でも起こる。人はいじめを見てかわいそうだと思うし、別な目では興味津々でのぞき見てはせせら笑う。この両極端な感情をだれもが持っている。今の日本のように弱い立場の人間切り捨てるような流れは、ルワンダのような虐殺は起こらなくとも、餓死や殺人や、格差社会の中でのいじめや、さまざまな形できっと表れてくる。

 『卒業』 重松 清 新潮文庫 【BOOK】
涙がにじみ出る話だった。彼はなぜ自殺したのかは最期までわからなかった。きっと追いつめられた何かがあったにちがいない。かかえきれない悲しみあったにちがいない。まだ見ぬ子どものことを考えないはずがない。子どものことを思いながらも、のしかかる重圧にたえられなかったのだろう。それを理解することはできない。許すとか共感するとかではなく、それをひきずる残されたものが、どうやって乗り越えるかだと思った。自殺にしろ、殺人にしろ、それはその人だけの問題じゃない。『うつくしいこども』や『手紙』もそれを繰り返し訴えていた。残されたものに、姿形を変えて重圧としてのしかかってくる。自殺した人は、その重圧から逃れられるかもしれない。でも、その重圧はなくなるのではなく、残された人たちを苦しめ続けるのだ。亜弥も香織さんも野口さんも・・・彼が残した課題・・・その課題を終えて卒業していく家族。もしかしたら、そんな強くあたたかい家族を作ることを目指した課題だったのかもしれない。これから何もかも乗り越えていける。大きな力を得て卒業したのだから。

心のままに

2007年04月14日 | 人間/社会派ドラマ

1993年 アメリカ 115分
■原題「Mr.Jones」
■2007.4.1 wowow
■監督 マイク・フィッギス
■出演
   リチャード・ギア(ジョーンズ)
   レナ・オリン(リビー)
   アン・バンクロフト(ホランド)
   デルロイ・リンド(ハワード)
   トム・アーウィン(シェイ)
   ブルース・アルトマン(デビッド)
   リサ・マルキーウィッツ(スーザン)

 《stoey》
ジョ-ンズは、建築現場の屋根の上で、空を飛ぼうとして病院に担ぎ込まれる。彼は重度の躁鬱患者だった。彼の主治医となったのがリビー。リビーは彼の治療に当たりながらも、彼の天真爛漫さに惹かれていく。しかし、患者との深い関係はタブーだった。ある日、リビーは、ジョ-ンズが死んだと言っていた恋人のエレンがまだ生きていることをつきとめる。ジョ-ンズは、自分の前から人が離れていく現実から逃避してきたのだ。そのことを指摘されたジョーンズは激怒し病院を飛び出す。追いかけるリビーとジョ-ンズはお互いが惹かれ合う気持ちを確かめるように結ばれるのだった。しかし、リビーはその一夜を後悔し、彼を別の病院に転院させてしまう。

 心のままにいけば
きっと大きな壁にぶち当たるような気がする。ジョーンズは確かに「心のままに」だ。彼の人生はきっとそれしかできないものなのだろう。心のままにいかないとき、逃避していまう。そうじゃないんだと思いこむことしか道がない。現実を受け入れたってつらいだけ。エレンを死んだことにしてもいいんじゃないかと思う。ただ、誇大妄想に陥って空を飛ぼうとしたり、指揮をしたりすると、他人に迷惑になる。心のままに自然にはできない。リビーはどうだろうか。リビーは、ジョーンズへの思いを断ち切れず、心のままにジョ-ンズを愛した。二人の未来を決めるのはリビーだと思う。これからも彼の奇行を受け入れ、彼のすべてを愛することができるだろうか。
心のままに生きること。それは素晴らしいことのように見えたが、でも現実の中では障害がいくつも待ちかまえている。心のなかに何が浮かび、何がイメージされるのか、白とも黒とも、それは心のままにと言える。心のままに人を愛する気持ちであってもすべてがすばらしい愛といえない。

 あっという間の一週間
長かったようで短く感じる一週間。毎日ドキドキしながら家を出るけど、じゃあなかなか家から出られなくて遅れるかといえばそうじゃない。今までより早く家を出て、職場に早く着く。そして少しでも仕事を済ませる。行けば順調に事が進むから不思議なものだ。準備していったものがうまくいくかどうか不安がいっぱいであっても、新しい発見もあってけっこう充実している。あの朝のドキドキ感って何なんだ。自信のなさが出てくるのだろうか。今年は、司会をしたり、世話をする仕事が増えた。うまくはできないけど、過ぎてはいく。あまる高望みせず、無難に終わればいい。

ナイト ミュージアム

2007年04月08日 | ファンタジー/アドベンチャー


2006年 アメリカ 108分
■原題「Night at the Museum」
2007.4.1 TOHOシネマズ緑井 with h/t
■監督 ショーン・レヴィ
■出演
   ベン・スティラー(ラリー・ダリー)
   カーラ・グギーノ (レベッカ-受付)
   ディック・ヴァン・ダイク(セシル・フレデリックス)
   ミッキー・ルーニー
   ビル・コッブス(レジナルド)
   ジェイク・チェリー(ニック-息子)
   ロビン・ウィリアムズ(テディ・ルーズヴェルト)
   ミズオ・ペック(サカジャウェア)
   ラミ・マレック(アクメンラ)
   リッキー・ジャーヴェイス
   アン・メアラ(デビー-仕事紹介所)
   キム・レイヴァー(エリカ・ダリー-博物館館長)
   スティーヴ・クーガン(オクダヴィウス)
   ポール・ラッド
   オーウェン・ウィルソン
   パトリック・ギャラガー(アッティラ・ザ・フン)
   リック・ガーヴェス(ドクター・マクフィー)

  《story》

「みんなみんな動き出す」

ニューヨークで暮らすラリーは、離婚して失業中。元妻は再婚することになり、息子のニックの心をつかむために、安定した就職をしようと、自然史博物館の警備を始める。初日の夜、警備を任されたラリーは、真夜中に展示物が動き始め驚く。ニックの信頼を得るため、次の日も奮闘する。そして、3日目にニックを驚かそうと、博物館に招待するのだが、真夜中になっても、展示物が動かない。元警備員たちが、展示物を動かしていた原動力の金の石版をねらっていたのだった。

公式サイト「ナイトミュージアム」

 大騒ぎのあとは
少しずつ展示物が動き出す。そして、町の真ん中でこんなことが起こっているとはだれも知らないという快感。朝になれば何もなかったかのように元に戻り静まる。そんな不思議さな世界は、昔からだれもが憧れる。真夜中に動き出すおもちゃたちの世界のように。彼らといろんな話ができたらどんなに楽しいだろう。夜の博物館は現実はきっと怖いだろう。暗闇の中にたたずむ恐竜や蝋人形たちを思うとぞっとする。でも、彼らが楽しく会話できたら、昼のにぎやかさ以上に、盛り上がるだろう。そんな夢を実現させてくれた映画だ。ただ、最後のダンスパーティーはやりすぎだと思った。大きな出来事があったあとも、何もなかったかのように静まる博物館。外から見れば、ちょっとした音や影が恐怖に感じられ、でも実は中ではみんなで大騒ぎ。特定の人にしか、それは体験できなかったら、もっと不思議さは増したかもしれない。不思議な世界は、不思議なままで残した方がいい。体験できるのは、映画を見る人だけの特権にしておきたかった。

 キャッチボール
久しぶりに子どもとキャッチボールをした。やりたいと思っていたのに、なかなかできなかった。いろんなことしたいと思っていたのに、実現したのは本の少しだけ。キャンプだって、ワゴンで寝る旅行だって、山登りだって、さまざまなプランはあった。でも、そのほとんどは実現していない。言い出すこともできないものもある。すぐに却下されたり、いつの間にか消えてなくなったり。
自分というものは変えられないものだとつくづく思う。ならばこの哀しみは最期まで続くのか。それはもっとつらいことだ。最期はひとりのたれ死ぬことはわかっているけど、少しでも花をそえたいものだ。自分は変えられなくとも、気分は変えられる。いやなことを180度反対のことに考え、気持ちを変えることはできる。
  『親指さがし』 山田悠介 幻冬舎文庫 【BOOK】
解説者が述べているように、修学旅行の怪談話止まりかなと思った。最初は引き込まれていくんだけど、だんだんモンスター化していき、落胆していく。クライマックスがまさに落胆そのもの。映画を見ようかと迷い、結局見なかった。もし同じストーリーだったら、幻滅しているかもしれない。発想はおもしろいんだけど、最後の詰めががっかりだ。もっとちがった展開で、不思議さが最後まで持続して、偶然の偶然がもたらす恐怖、そして哀しみのどん底にあった悲劇の少女の存在。親指に隠された秘密、明らかになる謎と、さらに深まる謎。自分では書けないけど、そんなホラーに出会いたい。後半にモンスター化するパターンは味気ない。


小さな中国のお針子

2007年04月07日 | 人間/社会派ドラマ


2002年 フランス 110分
■2007.3.25 GyaO
■監督 ダイ・シージエ
■出演
   ジョウ・シュン(お針子)  リィウ・イエ(マー)
   チェン・クン(ルオ)  ツォン・チーチュン(仕立屋)

  《story》
中国文化大革命の真っ只中の1971年、マーとルオは、反革命分子として再教育のため、山奥の鳳凰山に送り込まれる。村人たちは、読み書きができず、文明とかけ離れた生活をしていた。村長を中心に規律を守る村で、二人は過酷な労働に従事した。村人はバイオリンを知らず、時計を知らず、しかしながら二人のもたらす文明に興味を抱き、映画などの話に耳を傾けた。唯一の機械として大切にされたミシン、それを扱う仕立屋は大事にされた。その孫娘のお針子と二人の青年たちは親しくなり、彼女にお話を聞かせたたり、文字を教えた。そしてルオと彼女は愛しあうようになる。マーも密かに恋心を抱いていたが、二人をそっと見守るのだった。ある日、ルオの父親が病気だという知らせが入る。ルオは一時、その村を後にする。しかし、彼女のお腹の中には子どもがいた。マーは密かに堕胎の手伝いをする。その後、彼女も自分をためしたいと村を出る。それから27年後、その村はダム建設のため水の底に沈むことになる。

 かけ離れた世界
懐かしい風景の中で、都会と田舎のかけ離れた世界があった。そして、現代ではその風景も水の中に沈み、飲み込まれようとしている。都会の文明の波ではなく、都会のしわ寄せが押し寄せているようで寂しさを感じる。文明の波だとしても、歓迎されるものではなきけど、都会に生きる人々の犠牲になっているようでいい感じがしない。昔の遮断された都会と田舎、これほど大きな違いがあるのかと驚いた。文字が読めない人、時計を知らない人・・・・しかし、政治の人々を抑圧する思想はしっかり根付いているからもっと驚きだ。現代では、中国の個々の格差は激しいという。貧富の差だけでなく、学力の差もきっと激しいのだろう。格差は心の荒れを生む。平和とはかけ離れていく。

二人の青年は、結果的にお針子の人生をもてあそんだのだ。何も知らなければ幸せに暮らせることもある。後から考えてみたらそういうことになる。27年後に、その村は沈むことになるけれども、もっとさわやかな雰囲気の中で彼女と再会できたかもしれない。自然を愛し、村を大切に考え、しきたりを守ってきた純粋だった彼女の心に、もっと何かを求めて歩こうとする外への目が開いた。そのときは、きっとそういう未来を見ようとする人間が必要だった。彼女の力が、彼女自身の人生を輝かせることができたら、それを二人が未来で見ることができたら、もっとちがった終わりかただっただろう。

公式サイト「小さな中国のお針子」

 楽観的に考えよう
うまくいかないことがあったとき、いつまでもいつまでも心に残る。深い考えもなしに、自分がそれをすることが合っているのか考えることもなく、やってしまうと失敗する。自分は他人とはちがう。自分の中で何度も熟慮し、先を見通してやらなければ行けない。結局感情に身を任せてしまう形になった。しかし、今度はそれを裏返しに考えていくことが大切だ。そうすることが良かったんだと考える自分をつくらなければいけない。そうしたことを生かすことを考えるのだ。さあ、ゆっくり反応を見てみようじゃないか。その反応をじっくり分析して、これからの細かな動きを考えるのだ。
今朝、夢を見た。これから葬式があることを忘れ、礼服を用意していなかったのだ。今から帰ったら間に合わない。近くの店に駆け込んで、店員のおばさんに話したら、何とかしてくれるという。何てラッキーなんだと思った。失敗が幸運に変わった。まさしくそのことを暗示しているのだろう。


バッテリー

2007年04月02日 | ラブロマンス/青春


2006年 日本 119分
2007.2.27 TOHOシネマズ緑井 試写会  with h
  2007.3.23  TOHOシネマズ緑井 with t
■監督 滝田洋二郎
■出演
   林遣都(原田巧)  山田健太(永倉豪)
   鎗田晟裕(原田青波)  蓮佛美沙子(矢島繭)
   萩原聖人(戸村真)  上原美佐(小野薫子)
   濱田マリ(永倉節子)  米谷真一(沢口文人)
   太賀(東谷啓太)  山田辰夫(草薙)
   塩見三省(阿藤監督)  岸部一徳(校長)
   天海祐希(原田真紀子-母)
   岸谷五朗(原田広-父)  
   菅原文太(井岡洋三-祖父)

《story》
原田一家は、巧の弟の青波の静養のために、母の実家の岡山県新田に引っ越した。巧が中学に入る直前だった。さっそくランニングをしていた巧は、神社だ永倉豪に出会う。次の日、巧の球を数球で受け取るほどのキャッチャーだった。中学の野球部に入部したが、規則を無視する巧の言動にいらだった3年生が、巧を倉庫でリンチする。そのことがばれて、野球部はしばらく活動停止となる。顧問の戸村は、引退試合を3年生にさせてやりたいと、横手の4番打者門脇と巧を勝負させる。巧は門脇を三振に打ち取り、横手との練習試合をものにする。しかし、その練習試合で巧と豪の息が合わず、門脇に打たれるのだった。その後、二人のバッテリーは顔を合わすことができなくなってしまった。そして試合直前青波が倒れ病院にかつぎこまれる。母から、巧の野球のせいで青葉を苦しめていると攻められる。巧は、再び豪とバッテリー組み、試合に出ることができるのだろうか。

 これはこれでよし
というのは、原作のイメージとはちがうからだ。もし原作通りの巧だったら、こんなにさわやかにはいかないだろう。もっとどろどろとした、自分勝手な孤立した人間だから、人の気持ちがわかっても自分を変えるなんて考えられない。だから、子ども向けのさわやかな映画にはならない。この映画の巧は好きだ。自分中心に見えて、心の奥底には優しさがある。その優しさは単に傷をなめるようなものではなく、他人も自分をも突き放せる優しさだ。スポーツの勝負にはやさしさは無用。自分を惑わせるだけ。ここにある優しさは、他人をけ落とすのではなく、真っ向から正々堂々と直球勝負できる強い優しさだと思う。そんな青春ドラマの巧にしたくないとあさのあつこさんは言っていたような気がするが、まさしくその青春ドラマの巧だ。

公式サイト「バッテリー」

  試写会当たった息子は試験
このペアー試写会が当たった息子は、この日から試験だった。仕方ないので、上の息子と二人で行った。最近、試写会が当たらない。1度当たったら何年間か当たらないのだろうか。下の息子には悪いけど、この映画はおもしろかった。最初の舞台あいさつで、監督と永倉豪の役の子が来て、あいさつした。「神様の宿題」のアナウンサーが司会をしていた。それらもラッキーなことだ。上の息子とも、この映画はおもしろいと意見が一致した。下の息子が行きたければ、もう一度見てもいいと思える映画だ。ちなみに、私はまだ6巻を読んでいない。4月に文庫本が出るらしい。楽しみにしている。

   2007.3.23 

 試験で行けなかった息子と再び
何度見てもいいと思う映画、映画館なら何度も見たくなる映画。バッテリーはその両方をもっている。お金を出しても、映画館ならもう一度見てもいい映画だった。だから、三男と再び見に行った。見ているようで見ていない、覚えていないことがいっぱいあった。きっと何度見ても新しい発見があるにちがいない。特に私は、人の名前も顔も、風景も、細かいところを記憶に留めることが苦手だ。だから、後からどんな内容だったか語ることが苦手だ。できるだけ記録に残したいと思って始めたのがこのブログだ。やっぱり本とちがう。巧が不器用ながら、人との関わりを模索しているように見える。そして、何かがつながった感動があった。本は、なんだか絶望的な孤独な人間。自分勝手で、自分の思うとおりにならない人はいらないといった感じがした。本の6巻で、映画のようなラストが訪れるのだろうか。

 新年度が始まった
昨年は転勤で、「何もわかりません」が通用したが、今年はそうはいかない。不器用さを全面に出さなければならないだろう。うまくいかなくても、精一杯自分から進んで行動し、努力しなければいけないだろう。『できるだけ早めに』『ジョークを言えるゆとりを』『謙遜し相手を讃える』この3つをモットーにがんばろうと思う。問題は体力ではなく、心の落ち着きだ。鬱にならないように、楽観的に考える。自分を責めない。他人も責めない。楽しいことだけを考える。新しい上司に代わり、職場全体が変化する。できる自分ではなく、できないけどがんばる自分であることが大切だと思う。


えんがわの犬

2007年04月01日 | 人間/社会派ドラマ

2001年 日本 57分
■2007.3.11 GayO
■監督 行定勲
■出演
   邑野未亜(高校生の麦子)  伊藤淳史(光太郎)
   松重豊(盲目の老人)
   坂本長利(老人の勘当した息子/雄一郎)

 《story》
女子高生の麦子が起きたとき、すでに登校時間が過ぎていて、あきらめて欠席。母は、自分が世話していた盲目の老人の世話を頼むと書き置きして旅行に出ていた。仕方なく麦子は老人の家に行く。あさりのみそ汁を作るが、まずいと言われる。幼なじみの光太郎もどういうわけか一緒になり、麦子はあきらめずに食事の準備にチャレンジする。そうこうしているうち、次第に和やかな雰囲気に包まれていく。その老人には、昔勘当した息子がいた。ある日、その息子の友人と名乗る男が現れる。

 短編ながらほのぼの
インターネットで、ちょっと時間があるときに見るのだったらいいかなと思った。基本原則、映画は巨大スクリーンで大音響で、スクリーンの中に吸い込まれる感覚で見るのが一番。最近インターネット見る機会が多いが本道ではない。ただ見ることが目的ではない。たとえ一人でも、映画館に行って、あの吸い込まれる感覚を感じたい。
この映画は、ちょっと時間があるときにテレビでみるようなドラマだ。ほのぼのとしていて、後味のいいドラマだ。現代にはもういないだろう女子高生や男子学生の、人を思いやる光景がさわやかだ。あの男こそ、息子だとすぐにわかった。多分あの老人もそうだと思う。でも、盲目であることで、素直に語ることができたと言えるかもしれない。そして語れたからこそ、角膜の移植の決意ができたような気がする。それも、女子高生や男子学生のあたたかな触れ合いがなければなかっただろうな。この子たちを見てみたいと思ったのかもしれない。

 『あおげば尊し』 重松 清 新潮文庫 【BOOK】
今の私にぐいぐいと押し迫ってくる題材だ。自分の生き方を問われた。悩んでいる自分の上にのしかかってくる。それはだれからも愛されず死を迎える父自身であり、それを見つめる息子自身でもある。私はいつも怖がっている。自分の死も、他人の死も。できれば目をつむって通り過ぎたいと思っている。そんな弱い自分はいやだけれども、強くなった自分は見えてこない。死を見るより、だれよりも早く簡単に死に包まれたい。だれからも看取られることなく、消えてなくなりたい。これほどまでの、尊い死なんて考えられない。醜く、恥ずかしく、右往左往してただうずくまる、ぶるぶる震えるだけの場面。それが死。そして、それが私にとって生きているということ。