■2004年 イギリス 105分
■原題「Dear Frankie」
■2006.7.31 wowow
■監督 ショーナ・オーバック
■出演 ジェラルド・バトラー(ストレンジャー) エミリー・モーティマー(リジー) ジャック・マケルホーン(フランキー) メアリー・リガンズ(ネル) シャロン・スモール(マリー) ショーン・ブラウン(リッキー) ジェイド・ジョンソン(カトリオーナ)
《story》
「パパからの手紙だけが、ぼくの心の支えだった」
「ディアー、フランキー。ママはあなたを守る為だけに生きてきた。でも、それは私の思い過ごしだったの。むしろ守られているのはママだったのかもしれない。」
9才の少年フランキーは、難聴であまり話さない。まだ見ぬ父に手紙を書き、船乗りの父に憧れていた。しかし、その手紙に返事を書いていたのは母だった。フランキーの父は、家族に暴力をふるい、母とフランキーは逃げ出したのだった。フランキーの難聴も父の暴力のためだった。
ある日、手紙に書いてあった船が港に入るという知らせがあった。父は彼に会いに来てくれるのか、フランキーは友だちと賭けをしてしまう。そのことを知った母、1日だけの父親役を探す。そして、友だちの紹介である男性と会い、1日だけの父親役の契約をする。その男性とフランキーは本当の親子のように過ごすのだった。1日のはずがもう1日いっしょに過ごすこととなり、母も一緒に3人で食事に出かける。そしてダンスを踊るなど、母も楽しいひとときを送ることができた。そして、父親役の男性は、受け取ったお金を返し、別れるのだった。そんなとき本当の父の死亡の知らせがくる。再び、フランキーが書いた手紙には・・・。
◎「ニライカナイの手紙」を思わせる手紙だった。ただ、フランキーは手紙のやりとりができている。ニライカナイの手紙は、1年に1度だったし、気の遠くなるような長い年月があった。フランキーの手紙は、もしかしたらすべてを知っててやっていたのかもしれない。お母さんもえらいもんだ。第3者となって、彼の心と話している。彼もわかっていて母と心から話しているのかもしれない。そうでなければ、本当の父ではないということをいつ知ったのだろうか。
良き出会い、ただの男性でないことはすぐにわかった。そうでなければ気軽に紹介はしないだろう。それに、ただのお金目的でもないこともわかった。初めはその気がなくて次第に・・・そうではないような気がした。初めからそのつもりで、フランキーとも、彼の母とも接してきたのではないだろうか。お金はきっと返すぞ・・そう思いながら、つい見てしまった。そして最後はきっと真実を証して、3人は結ばれるんだ。そのためには、本当の父親は最後まで悪役でなければね。最後の手紙の中に、真実がさらりと書いてあったところが、まるで雲をはらって視界をくっきりさせてくれたみたいだった。
公式サイト「Dear フランキー」
■2005年 日本 102分
■2006.7.31 シネツイン1
■監督 荻上直子
■出演 小林聡美(サチエ) 片桐はいり(ミドリ) もたいまさこ(マサコ) マルック・ベルトア(マッティ) ヤルッコ・ニエミ(青年トンミ) タリア・マルクス
《story》
「ruokala lokki」
「かもめ食堂、それはフィンランドのヘルシンキにありました」
「ハラゴシラエして歩くのだ」
フィンランドのヘルシンキという小さな街に「かもめ食堂」という小さな店がオープンした。日本からやってきたマサエの店だった。メインはおにぎり。しかし、なかなかお客は来てくれなかった。そこに、日本オタクの青年がやってきた。初めての客だった。マサエはコーヒーをごちそうするのだった。その青年からガッチャマンの歌詞を聞かれるが、出だしだけでそのあとが思い出せず、マサエは気になってしょうがなかった。そこで本屋にふらっと出かけてみた。本屋のカフェでムーミンの本を読んでいる日本の女性がいた。思い切ってガッチャマンの歌を聞いてみたら、すらすら歌うではないか。マサエはこのミドリと名乗る女性を家に招待する。そこから、この女性はかもめ食堂を手伝うようになる。
のぞくばかりの3人のフィンランドのおばさんが、焼きたてのパンの香りにつられ店に入ってくる。そして、かばんをなくした日本の女性が入ってくる。マサコと名乗るこの女性もかもめ食堂を手伝うことになる。次第に店は繁盛していく。
◎取り立てて大きな事件があるわけでなく、多くが店の中での場面。コーヒーを入れる。おむすびをつくる。パンをつくる。何気ない会話がある。でも、それだけでほんわかしてくるのはなぜだろう。日本から遠く離れた国の街の片隅にある小さな食堂。でも、なぜか違和感がなく、懐かしささえ感じるのはなぜだろう。「かもめ」という名前さえ駄作でもなく、かっこいい名前でもなく、それでいて新鮮さがある。「食堂」でもそうだ。これが日本だったら、さびれたおんぼろの大衆食堂だけど、フィンランドにあるというところに、新鮮さがあるのだろう。それに、お客がいなくても、落ち着いて堂々と自信を持って、コップをきれいにしている姿が清潔で新しいイメージを作っている。さらに「おむすび」という日本ではありふれた一般家庭で作られるものを大事にしているところがいい。日本の米の、ごはんのおいしさは、わかっているようで感じていない。
不思議なことがある。この食堂の片側の壁は鏡だった。通りに面しているところは大きなガラスでよく反射していた。それなのに、カメラが写らないようによく撮影できたものだと思う。どこにカメラがあってスタッフがいるのか、不思議でならなかった。
ラストの「いらっしゃい」では、よし行こう、とつい思ってしまう。フィンランドに行きたくなる。本当にカモメ食堂があって、おいしいコーヒーとおむすびを食べたくなる。
公式サイト「かもめ食堂」
■2005年 日本 99分
■2006.7.30 wowow
■監督 内田けんじ
■出演 中村靖日(宮田武) 霧島れいか(桑田真紀) 山下規介(浅井志信) 板谷由夏(倉田あゆみ) 山中聡(神田勇介)
《story》
「バラバラになった時間がすべてそろった時、
幸せがやってくる」
「この日、ボクの家のドアは3回開いた」
婚約が破棄となり、指輪も質屋では3500円、悲嘆に暮れる桑田真紀は、レストランで今にも大泣きしそうだった。そこに居合わせた宮田と神田、神田は「いっしょにご飯を食べないか」と声をかける。それは失恋した宮田に女性との出会いの機会を作るためだった。神田はトイレに行くと行って席を立つ。宮田と真紀は、レストランを出たあと、泊まるところのない真紀をさそって宮田の家に向かう。
神田は、実はヤクザに追いかけられ、宮田を家から出すために、さそったのだった。しかし、レストランでつかまる。そして組事務所に連れていかれる。
宮田の前から姿を消したあゆみは詐欺師で、宮田が金がないのを理由に宮田から去り、ヤクザの金2000万に手をつけていた。その事で神田に相談したのだが・・。
ヤクザのボスは、実は組の経営が厳しく、金庫にはほとんどお金がない。そこで、紙の紙幣を用意し、お金があるように見せかけていた。何としても、そのことがばれる前にあゆみをつかまえなければいけない。
宮田、神田、真紀、あゆみ、ヤクザのボス、が2000万円を巡って交錯していく。タイムスパイラルムービー。
◎同じ場面が、視点を変えて何度も出てくる。あのときの車はこういう意味があったんだ、ということがあとでわかる。それぞれの登場人物の視点から見ると、実におもしろい。みんな人のことを考えているようで、自分のことで精一杯だったりする。一番純粋なのは宮田だった。あゆみのことも信じていて、神田の忠告を素直に聞いて、真紀をいたわり親切にして。彼の家に2000万円があるなんて夢にも思っていない。神田が、あゆみが、ヤクザのボスが忍び込んでいるなんて。そして真紀がその2000万円を持ち出したなんて。そんな純粋な宮田だからこそ、きっと宮田を中心に幸せがやってくる。そんな楽しく見ることができる映画だった。私も頭の中にある、きっとだれもが思っているアイデアだけど、こんなにうまくできあがっているとうれしくなる。しかし、終わったあと、宮田のうれしそうな顔と困惑した顔が見えてくるのはどうしてだろうか。
公式サイト「運命じゃない人」
■1976年 イタリア/日本 94分
■原題「The Last Concert」
■2006.7.29 BS2
■監督 ルイジ・コッツィ
■出演 リチャード・ジョンソン(リチャード) パメラ・ヴィロレッジ(ステラ) リカルド・クッチョーラ(ステラの父) マリア・アントニエッタ(シモーン)
《story》
「だれかに生きる勇気を与えたとき
天使って涙を流すのですね」
イタリアのプルターニュ、サンミッシェルの病院。待合い室で憂鬱な顔で座っているリチャードがいた。診察室から出てきた少女ステラは、明るい表情で彼に話しかける。リチャードが診察室に入ったとき、医師は父親と間違え、彼女が白血病であることや、余命少ないことを告げる。
バス停で再び出会った二人。相変わらずリチャードは暗い顔。かつては名ピアニストだった彼は、今では落ちぶれて、仕事をさがしている日々だった。ステラは、そんな沈んだリチャードに明るく話しかけ、ともにバスに乗り、惹かれていった。ステラは、母を捨てて逃げた父を捜す旅をしていた。
無邪気に甘えるステラにリチャードも次第に好感を持つようにんる。そして、ステラの父親探しに力を貸す。あるとき二人はケンカして、ステラは一人でつかんだ手がかりをもとに父親の家に行く。そこでは父は新しい家庭を築き幸せに暮らしていた。悲しみの帰り道、リチャードが待っていた。二人は結婚して新しい生活を築くことにした。リチャードは再びピアノの練習を始め、ステラに捧げる曲の制作にあたった。そしてコンサートを開くことができるようになった。しかし、隠していたステラの病状が悪化していった。
コンサートの日、リチャードからプレゼントされたドレスを着て、ステージの袖からリチャードの演奏を見ているステラ。ステラの目は閉じられていった。
◎思い出の映画だ。この映画を見にいったのではなく、もう一本の「カサンドラクロス」だったような気がする、を見に行って、同時上映されていたものだ。昔はだいたい2本上映だったのが普通だ。もう一本の方をメインに見に行って、こちらの方が心に残った映画というわけだ。友だちと一緒に見に行って、その友だちはLPレコードまで買った。そのレコードは今でも家にある。音楽が素晴らしく、脳裏に焼き付いている。こんなにいい映画なのに、テレビで放映されることはなかった。気が付かなかっただけかも。それにレンタルビデオの店でもけっこうさがした。が、なかった。みつけられなかっただけかも。今回、BS2で放映されると聞いてDVDに録画して永久保存にした。高校時代に見た心に残る映画の一つだ。
ステラの無邪気さが、見る人の心を揺さぶる。あたたかくしてくれる。命つきると知っていて、リチャードが生きる希望を持てるように尽くすところに感動があった。それに自分も素直に人を愛し、愛される喜びを感じることができた。ステージの袖で死んでいくステラだけど、幸せだったと思う。リチャードも、彼女は死んでしまったけれど、再び悲嘆に暮れることなく、前向きに生きてほしい。そう願う映画であった。
■2005年 アメリカ 145分
■原題「Kingdom of Heaven」
■2006.7.29 wowow
■監督 リドリー・スコット
■出演 オーランド・ブルーム(バリアン) リーアム・ニーソン(ゴッドフリー) ジェレミー・アイアンズ(ティベリアス) エドワード・ノートン(ボードワン4世) エヴァ・グリーン(シビラ) ブレンダン・グリーソン(ルノー) マートン・ソーカス(ギー・ド・リュジニャン)
《story》
「恐れず、敵に立ち向かえ
勇気を示せ
死を恐れず、真実を語れ
弱きを守り、正義に生きよ」
子どもを亡くし、妻も悲しみに耐えられず自殺、生きる目的を失った鍛冶屋のバリアン。彼の元に、実の父親と名のる騎士が現れた。その騎士は、イベリンの領主であり、エルサレム王に仕えていた。共にエルサレムへ旅立ったが、道中、事件にまきこまれ、父は負傷する。父は、息子に騎士の称号を譲り亡くなってしまう。バリアンは、一人エルサレムに生きる意味を求めて旅立つ。そこでは、キリスト教徒とイスラム教徒の対立が激化していた。エルサレムの王は、エルサレムの民を守るために、前面に出て交渉する。その王の力で戦争を回避できていた。しかし王が病で死に、王位についた妹の夫は、すぐに戦争をしかけ、負けてしまう。サラセンの指導者サラディンの軍隊は、エルサレムの街めざして押し寄せてきた。バリアンは街の住民を守るために、抗戦するのだった。
◎詳しい流れはよくわからない。ただ、現代も続いているパレスチナとイスラエルの争いと深い関係がある。聖地エルサレムは、3つの宗教の聖地であり、その主導権を握る戦いの歴史があった。どちらにしろ、人を殺して天国に行けると説く宗教なんていんちきだ。どんな神でも、命を大切にすることを説かなかったら、それはだれか個人の利益のためにある宗教だ。たとえ違う宗教でも、心を広く持って愛しなさいと言える神はすばらしいと思う。しかし、神も人間がいいように変えてしまう。弱き者を助けること、それこそ神の願いだろう。バリアンがそう信じて、自分の信念を貫いたことは立派だと思う。でも、たくさんの命が奪われ、たくさんの命を奪った。もし、王の妹と結婚して王になっていたら、もっと変わったかもしれない。失わなくてすんだ命がいっぱいあったかもしれない。そう単純に考えてはいけないのだろうか。
公式サイト「キングダム・オブ・ヘブン」
■1931年 アメリカ 83分
■原題「City Lights」
■2006.7.27 BS2
■監督 チャールズ・チャップリン
■出演 チャールズ・チャップリン(放浪紳士) ヴァージニア・チェリル(盲目の少女) ハリー・マイヤーズ(富豪) フローレンス・リー アラン・ガルシア ヘンリー・バーグマン
《story》
街の平和を願って作られたモニュメントの除幕式。幕を取れば、そこには放浪者チャップリンがいた。街を歩いていたら、盲目の娘が花を売っていた。チャップリンはなけなしのお金で花を買う。夜、酔っぱらいの金持ち紳士が、川に飛び込んで自殺しようとしていた。そこに出くわしたチャップリンは、彼を止め、二人は意気投合し、彼の家で飲んだり、バーに飲みに出かけたりした。しかし、その紳士は、酔いが醒めると、チャップリンのことを忘れているのだった。チャップリンは、盲目の娘のために、働き出したが、遅刻ばかりするので首になる。娘は家賃をためていて、20ドルないと家を追い出されることがわかった。また、新聞に、盲目を治す、画期的な治療が発見されたことが報じられた。チャップリンは何としてもお金がほしかった。ボクシングをするが負けてしまう。街をうろうろしていたところに、酔っぱらったあのお金持ちの紳士が現れる。酔っているときは、気前がよく、チャップリンに自動車をあげたり、娘のために1000ドルもお金を渡すのだった。しかし、そのあと酔いがさめたとき、チャップリンのことを忘れてしまう。逃げるチャップリン、お金だけは娘に渡し、彼は窃盗の罪でつかまってしまう。月日は流れ、盲目だった娘は、視力を取り戻し、街角で花屋をしていた。そこに釈放されて通りかかったチャップリン。娘は哀れな放浪者に花とお金を渡す。手を握ったとき、大金をくれたのが彼であることがわかる。
◎映画っておもしろいなあ、と思ったのが、この映画を劇場で見たときだった。中学生のときだった。映画は人の心を感動させてくれる。映画が好きな理由は2つ。「街の灯」のように、さわやかな涙を流せる感動があるから。私はハッピーエンドでなければ、わざわざ映画を見に来たかいがないと思う。2つ目は、映画ならではの特撮、今ではCG。ウルトラマンやゴジラを代表するように、夢を実現してくれる。SFでもホラーでもいい。もう1つあげるなら、世の中の知らない現実を知ること。これは悲しい結末で終わるかもしれない。でも、見なければ、と思ってしまう。
チャップリンとの出会いは、最初の「感動」を与えてくれる映画のすばらしさだ。ちょうどチャップリンの映画のリバイバルが流行っていたときで、映画館に足を運んだ。テレビよりやっぱり映画館だ。特撮は「ドリトル先生」「エクソシスト」
言葉がなく、動きがつながっておもしろさや楽しさを表現してくれる。まるでマンガみたいだけど、それを実際にしているところがすごいところ。ロープをつけて川に落ちるシーン、ボクシングのシーン、スパゲティーと一緒に紙テープを食べるシーン、毛糸のシーンなどいっぱいあげられる。ただ笑いだけなく、必ずメッセージがある。そして感動がある。ラストの「あなたでしたか」という場面は何度見ても涙が出てくる。しかし、あのあとどうなったのか、それは見ている人次第で変わる。歪んでいたら、どうせ女は彼を突き放すにちがいないと思う。純粋だったら、きっと二人は幸せに暮らすだろうと思う。街の灯(あかり)は見ている人の心によって変わるから。
■2004年 アメリカ 105分
■原題「Catwoman」
■2006.7.27 wowow
■監督 ピトフ
■出演 :ハリー・ベリー(ペイシェンス・フィリップス/キャットウーマン) シャロン・ストーン(ローレル・ヘデア) ベンジャミン・ブラット(トム・ローン) ランベール・ウィルソン(ジョージ・ヘデア) フランセス・コンロイ(オフィーリア) アレックス・ボースタイン(サリー)
《story》
「すべての女には野生の猫が棲む」
ペイシェンスは、屋根に登った猫を助けようと、命がけになるほど、心が純粋で、シャイな女性だった。ある日、会社の化粧品の宣伝資料を届けに行って、新製品の驚くべき秘密を知ってしまう。見つかったペイシェンスは、逃げ込んだ配管の中で廃液とともに流されてしまう。そこに、いつか助けた猫が現れ、ペイシェンスは助けられる。そして、小悪魔的な行動を取るようになり、さらに瞬発力、スピードなど、超人的な力を持つようになる。自分がなぜやられたのか調査にのりだし、化粧品会社から、殺人の汚名を着せられる。恋人の刑事の協力も得て、真相解明していく。
◎心優しいけど、権力に押しつぶされていく弱者に、その権力をはねとばし、正義をしっかりと見せつけることができるとき、すがすがしい気持ちになる。世の中、お金儲けのためには人の命や心など、どうでもいいと思う人がいる。アメリカ産牛肉輸入再開もそうだと思う。安全よりは、どこかのだれかの利益優先のために行われる。正義を掲げられず、ちゃかしていつの間にか進んでいく日本はどうかしている。「デスノート」の世界に入ってしまいそうだけど、今、世の中に求められているのは、そんな権力に立ち向かう人だと思う。非暴力で、正々堂々と、正しいことを呼びかけられる人がほしいものだ。この映画では「小悪魔」的な猫が売り物かもしれないけど、反対にそこがいい加減に見えて、中途半端な感じがした。スーパーマンやスパイーダーマンなど、正義には悩みも必要だ。これでいいのかと悩みながらも、人と人とのつながりの中で愛が力となって、正義を通すことができる。キャットウーマンも恋人がいたからこそなのに、最後に見捨ててしまうところはいやな終わり方だった。
公式サイト「キャットウーマン」
■1996 年 アメリカ 110分
■2006.7.25 T.V
■監督 ブライアン・デ・パルマ
■出演 トム・クルーズ(イーサン・ハント) ジョン・ヴォイト(ジム・フェルプス) エマニュエル・ベアール(クレア・フェルプス) ヘンリー・ツェーニー(ユージーン) ジャン・レノ(フランツ)
《story》
IMFのリーダージムの元に、指令が入った。CIAのメンバー情報を盗み出そうとしている者の証拠をつかみ、捕まえることだった。大使館に張り込んでいたIMFの仲間が次々に殺されていった。生き残ったイーサンは、情報を漏らした内通者として疑われてしまう。イーサンはアジトに戻った。そこに死んだと思われていた仲間のクレアが現れた。そこで大使館にあった情報は偽物であったことを知る。イーサンらは、情報をほしがっていた組織のボスと接触する。そして、情報と1000万ドルの交換取引を約束する。CIAに忍び込んだイーサンの仲間達は見事に情報を盗み出した。それから、死んだはずのIMFのリーダージムが、イーサンの前に現れた。彼は内通者だったのか、それとも。
◎懐かしいメロディとともに始まる。指令も同じ。台詞も同じ。ただ、もっと現代的で、複雑で込み入っていて、さびしいのは仲間が裏切り者だということ。「スパイ大作戦」ではチームワークが売り物。ひとりひとりが大事な存在だったけど、今回はイーサンだけがかっこよく、イーサンだけに目を向ければいいという映画になっている。昔の「スパイ大作戦」が好きだった人にとっては物足らないだろう。トム・クルーズが好きな人にしてみれば、最高におもしろいだろう。じゃあ、私はどうかな。私は、映画であって、ある程度のストーリーが理解できて、楽しく見れればそれでいい。自分の家に忍び込むアイデアはよかったし、最新のセキュリティーも破られることがよくわかった。ジャン・レノの活躍がもっとほしかった。最近「チャンプ」を見ただけに、ジョン・ボイドは懐かしかった。
■2004年 日本 119分
■2006.7.24 T.V 2005.1.1 ワイナーマイカル with h/t
■監督 宮崎駿
■出演 倍賞千恵子(ソフィー) 木村拓哉(ハウル) 美輪明宏(荒れ地の魔女) 我修院達也(カルシファー) 神木隆之介(マルクル)
《story》
イギリスの児童文学作家、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの『魔法使いハウルと火の悪魔』を原作とする。
町は戦争に巻き込まれようとしている時代。ソフィーは、帽子屋の店を受け継ぎ、地道に帽子を作って暮らしていた。世の中は戦争への動きと、荒れ地の魔女が心臓を食うという話や動く城のうわさがはびこっていた。ある日、ソフィーが町に出たとき、兵隊に襲われハウルに助けられる。その夜、帽子屋に荒れ地の魔女が現れ、ソフィーに呪いをかけ、90才のおばあさんにしてしまう。ここで暮らしていけないと思ったソフィーは、田舎に行こうと荒れ地を進む。そこでかかしのかぶに出会い、そのかぶがハウルの動く城を連れてきて、ソフィーは城の中に潜り込む。そこには、城を動かす火の悪魔カルシファーや少年のマルクルがいた。城の中は荒れ放題で、ソフィーは片づけに性を出す。城の中で、ハウルとマルクル、カルシファーの愉快な生活が始まる。しかし、戦争はハウルを巻き込み傷つけていった。ハウルとカルシファーの関係を解き明かせば、ソフィーの呪いも解ける。荒れ地の魔女や犬も交え、謎の解明へと進んでいく。
◎劇場で見たときは、何がなんやらよくわからなかった。早送りで見ているようで、「どうしてこうなるの」「これはどんな意味があるの」と思うことがいっぱいあった。でも、今回2回目をじっくり見てみて、それほど早回しでもないんだと感じた。そういう世界なんだから、不思議に思う必要はない。おばあさんになったソフィーは、ある意味開き直っていて、自信を持って生きていけたのだと思う。全面に優しさと行動力を出すことができた。だから、何より魔法以上の展開ができたのだと思う。マルクルもカルシファーもそんなソフィーに惹かれていく。荒れ地の魔女にさえ、憎しみもなく、いたわることができるソフィーの心の広さが、世の中を動かしていくんだ。武力でもない、魔力でもない、何もかも包むことができる、寛容な心こそ、世界を作る。
今でもよくわからない場面がある。ソフィーたちがカルシファーと共に、城から出たのはなぜ。雨が降っていたし、そのあと、城の残骸を小型の乗り物にして、またカルシファーの力を借りて逃げるよね。あれは、城が大きすぎて逃げられないからかなあ。
■2004年 アメリカ 80分
■原題「Open Water」
■2006.7.24 wowow
■監督 クリス・ケンティス
■出演 ブランチャード・ライアン(スーザン) ダニエル・トラヴィス(ダニエル) ソウル・スタイン エステル・ラウ マイケル・E・ウィリアムソン
《story》
「最も怖い実話」
「取り残される 気付かない 誰も」
「海に呑み込まれる」
スーザンとダニエルは、結婚していたが忙しい日々を送っていた。ようやくおたがいの休暇が取れ、カリブ海に出かけることになった。しかし、なかなか頭から仕事のことが離れず、二人の気持ちがすれちがっていた。バカンス日目、二人はダイビングツアーに参加し、船に乗り込んだ。約35分間の海底遊泳だった。船の世話係は、人数を目で数えてチェックしていた。二人は、海底で少し離れたところでうつぼなどの観察をして、ぎりぎり3分間楽しんだ後、海面に出た。すると、船は遠ざかっていってるところで、声も届かず、二人は広い海の真ん中で置き去りにされたのだった。クラゲがやってきてさしたり、鮫もときおり数匹群れをなしてやってきた。二人は救出されるのだろうか。
◎「気づいてくれない」というところが怖い。いなかったものと考えられているところが恐ろしい。まわりからすれば、わざと置き去りにしたわけではないのだから、悪気はなく、ただ頭の中に二人の存在がなかっただけ。影がうすいわたしなんか、「え、昨日いたかいねえ」といつも言われ、まさしく、忘れ去られている。
乗務員のずさんな管理が問題だ。目で人数確認をするだけなんて、そりゃあ数え間違いもあるよ。名前をしっかりチェックするべきだ。船に乗り込む前の確認、名簿チェック、酸素ボンベの数の確認・・・公園に置き忘れたり、サービスエリアに置き忘れるのとはわけがちがう。自力でもどれないところだけに、船会社の責任は重大だ。
二人とも鮫に食われてしまうんなて、ショックだった。では、だれがこの真実を伝えたのだろうか。最後に、鮫の腹から出てきたカメラだろうか。「これは真実である」というのは、置き去りにして死んでしまったことが真実であり、その場でどうなったかについては推測にすぎず、映画としての脚色がなされているのだろう。
公式サイト「オープン・ウォーター」