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「お辞儀」が意味するもの

2011年03月09日 | 雑感 -

昨日の動画サイトは、インテルの長友佑都選手の初ゴールがすごいヒットして、
同じ映像がいくつもアップされ、相当の数の人が観ていたようだ。
マスコミのニュースも、同様で・・・ かなりの注目度だった。

長友選手が、ゴール後に パフォーマンスのようにした「お辞儀」が、
日本の慣習を表わしているようで、和やかな雰囲気で受け取られていたようだ。
チームの仲間とも打ち解け、長友選手への期待が膨らむ動画だった。



「びわ湖マラソン」でのゴール後、私が応援している今井正人選手は、
疲れた身体を折り曲げ、ゆっくりとトラックにお辞儀をした。
それは箱根駅伝の頃からの“彼のやり方”だけれども、日本人選手は、
レース終了後に、一礼する“日本古来の行為”で終える人も多い。

精一杯走り切った後の「トラックへのお辞儀」は、その人の心根が伝わって、
観ている側にも、スポーツマンシップに則った清浄な気持ちが感じられる。
もちろん、全てのランナーがそうではないが・・・
時々みかけるレース終了後の一礼は、“競技者としての神々しい意識”が
伝わってきて、私の“大好きな行為”の一つだ。

柔道や剣道などの日本のスポーツにおいては、お辞儀は一つの動作として
組み込まれている。
挨拶だけではない、武士道精神をも含んだ“大切な行為”なのだろう。



思い起こせば、日本人は「お辞儀」を重要視してきた国民だ。
「お辞儀」は、人としての“礼儀”であり、社会の規範となるものである。
また、言葉では伝わらない「敬意」や「尊敬」をあらわす行為であり、
日本人が大切にしてきた行動様式でもある。
心からの謝罪をするときにも、深々とお辞儀をするのが慣わしだ。

社会生活や秩序を守り、敬意を表しながら、厳かに生きてきた日本人―。
そういう国民性を、「お辞儀」一つで、表現しているようにも思う。


たとえば、選挙期間中の政治家が、丁寧に深々とお辞儀をすると、
ちゃんとした人なのかと勘違いしてしまう・・・ほど、実のところは、
この行為一つで「刷り込みされる“何か”がある」のも事実である。


営業を生業とする人や、自分をわかってもらいたいときなど、
相手の警戒心をとるためにも、腰を低くすることは第一条件だと思う。
まるで、動物が「自分のおなかをみせる行為」と同じように、
心を開き、「あなたを尊重しています」ということを伝える手段として、
お辞儀は有効な動作だ。
礼節を重んじて、しっかりと社会人としての自覚があることが解れば、
あらゆる場面において、自分のマイナスになることもない。
そのため、ビジネスの世界では、初歩的なマナーとして位置づけられ、
まずクリアしなければいけない接遇という認識がある。

しかし・・・・
単なるポーズではなく、真摯な気持ちから派生した行為でなければ、
いつかメッキは剥がれてしまうしまうだろう・・・とは感じるけれど、
常識の範疇で行われる限り、何ら問題のない行為だと思う。




日本人といえば、“お辞儀ばかりしている背の低い黒髪の人”という
諸外国のイメージは、数十年前の映画でのワンシーンだったが・・・
今も「日本人=お辞儀」という感覚は、そう変わらないのかもしれない。
成長期の日本経済の象徴のような「何度もお辞儀をするサラリーマン」は、
まだ世界の人々の意識の中に、残像のようにあるのだろうか。
長友選手のパフォーマンスを観ながら、そんなことを(ぼんやりと)感じた。