ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

洲崎神社(江東区)

2016年10月06日 22時26分02秒 | 江戸名所図会めぐり

久しぶりの晴天に誘われて、歩くことにストレスがたまっていることもあり、リハビリのサイクリングをしてきました。2013年4月にも散策したことのある洲崎神社を江戸名所図会めぐりとして再確認してきました。こちらは13年4月の写真です。今回は

鉄パイプで囲われていました。

★ランドマーク洲崎神社州崎神社神社由緒より、当州崎神社神社は元弁天社と称し厳島神社の御分霊を祭神市杵島比売命を斎祀しております。創立は徳川五大将軍綱吉公の生母桂昌院の守り神として崇敬するところとなり、元禄13年、江戸城中紅葉山より此の地に遷して宮居を建立してより代々徳川家の守護神となっていた。当時は海岸にして絶景、珠に弥生の潮時には城下の貴賎袖を連ねて真砂の蛤を捜り楼船を浮べて妓婦の絃歌に興を催すとあり、文人墨客杖を引くという絶佳な所であったという。浮弁天の名の如く海中の島に祀られてありました。
明治5年御由緒により村社に列せられ世間より崇敬厚かった。大正の震災、昭和の戦災に社殿は焼失されたが弘法大師作の御神体は幸にして難を免れ、当時は仮社殿に奉斎して居りましたが昭和43年現在の社殿を造営し斎祀して現在に至っております。

江戸切絵図を見ると海に面しているのがわかります。

そして広重のこの絵は有名です。名所江戸百景 深川洲崎十万坪

こちらも広重の江都名所 洲崎弁天境内の絵です。

 同じく広重の東都三十六景 洲さき汐干狩

いずれも錦絵で楽しむ江戸の名所より

洲崎神社 弁天社が海の近くだったことがわかります。

江戸名所図会より

わたし彩(いろ)「江戸名所図会」 大人の塗り絵より

津波警告の碑「波除碑」があるので有名です。

寛政3年(1791)9月4日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者が出た。
幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯の東西285間、南北30余間、総坪数5,467坪(約1万8000平方メートル)を買い上げて空き地としこれより海側に人が住むことを禁じた。そして空地の東北地点(洲崎神社)と西南地点(平久橋の袂)に波除碑を建てた。当時の碑は地上6尺、角1尺であったという。
石碑は砂岩で脆く、震災と戦災によって破損が著しい。現在地は原位置から若干移動しているものと思われる。
建設は寛政6年(1794)頃で碑文は屋代弘賢によるものと言われている。(東京都教育委員会掲示より)今回見たものは修理してありましたが

前回は壊れたままのものが建っていました。

拝殿です。

狛犬

境内内

於六稲荷神社

豊川稲荷神社

こんなものがありました。弁天さんです。前回は拝殿の後ろに弁天池があったのですが、現在は駐車場になっていました。前回の写真です。

その他にも石碑がありましたが由緒がわかりませんでした。調べて見ました。これは「川連虎一郎の碑」で、彼は下野出身、水戸学を学ぶ攘夷派の志士、ここで斬殺されたそうです。

 コトバンク によると「川連虎一郎 かわつら-とらいちろう」

1841-1864 幕末の尊攘(そんじょう)運動家。
天保12年生まれ。家は代々大庄屋。江戸で藤森弘庵にまなび,また水戸に遊学する。さらに大橋訥庵に師事し,坂下門外の変に参加。元治元年水戸天狗党の藤田小四郎らの挙兵を支援して捕らえられ,同年8月3日処刑された。24歳。下野(栃木県)出身。名は義路。とかかれていました。

こちらの石碑は調べられませんでした。

 

コメント
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