磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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広島原爆戦災誌 第四巻 第二編各説-

2008年12月16日 | 読書日記など
『広島原爆戦災誌 第四巻 第二編各説-』
   広島市役所・編/広島市役所1971年

第三章広島市内各学校の被爆状況
第四章広島市内主要神社・寺院・教会の被爆
第五章関連市町村の状況



団体訓練が学校であったという……。下「」引用。

「団体訓練は、体力錬磨と共に重視され、歩行訓練・防空訓練・乾布摩擦・水泳指導・耐寒訓練などが、強力に実施された。」

青空教室というのが戦後あったという。

「焼跡の青空教室(幟町小学校)(昭和21年頃、佐々木雄一郎提供)」という写真もありました。

海軍も公務員のようだったようだ……。下「」引用。

「七月初め、海軍の設営隊(海兵隊)が二○○人ばかり、戸河内町本郷の国民学校へ来た。一教室二○人で、一○教室を使ったから、勉強できなくなり、疎開児童は寮で勉強することになった。設営隊は、松根を掘ったり、木炭を焼いたり、発電所の仕事だという河原砂揚げをしたりしていたが、軍隊は充分な食糧・衣類その他、軍務遂行上に必要なすべての物資を、教室に積みあげていて、その生活内容は、民間人とくらべて格段の差であった。しかし、何事も軍優先の時代であったから、誰も何もいうことはなく、そのはかばかしくない作業ぶりにも、ただ傍観しているばかりであった。」

今西さんも、海軍の一員でしたね……。

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チフスにかかった先生……。下「」引用。

「八月初め、戸河内町松原の班で、集団チフスが発生した。児童約四○人のうち、師範学校を出たばかりの若い守山瑛子訓導と、児童六人がわずらった。病院は一四キロメートルも離れた本郷にしかなく、そこへ七人が入院した。原因は、面会にきた父兄のおみやげのビワということであったが、ふだんは元気そうに見えても、一度病気に罹ると、身体に抵抗力がなかった。たちまち栄養失調の障害があらわれて、急激に症状が悪化した。その上、医薬品もひどく欠乏していた。
 守山訓導の父親は連絡を受けて、すぐ見舞いきたが、医薬品を買いに広島へ引返した日に、原子爆弾にあって死亡した。そんなこととはつゆ知らぬ守山訓導は、心細い病床で、父のくるのが遅いことを恨みながら、八月十一日ついに死んでいった。守山訓導の葬儀がやっと終ったところへ、父の遺骨を持った母親がたずねて来た。」

「比治山孤児収容所の記録」河元きくの(当時・広島市保母)・著。下「」引用。

「-略-市役所は外郭だけを残してマル焼けに鳴っていたが、生残りの職員の幾人かの顔があった。
 私の顔をみると、被爆以来負傷しながらも庁舎に泊って、救援活動をしておられた谷山源睦部長が、「保母の出勤第一号だ。」と言って褒めてくださった。
 そして、比治山国民学校に孤児が六○人ばかり収容されているが世話をする者がいない、すぐに行ってくれと言われる。-略-ある日、黒瀬収入役が乳児を背負って来られた。その子は耳が口まで切れており、乳を吸収することができなかったから、スプンで一滴ずつ吸わせ、何とかして救ってやりたいと努力してみたが、とうとう生き残ることができなかった。-略-」

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土方頼己(当時軍医、中国電気通信局保健課長)の記録もありました。下「」引用。

「わたしは当時、大竹の陸軍びょういんの軍医として勤めていました。八月六日、下士官がオートバイで、休暇で休んでいたわたしのところへ連絡に参りまして「広島がたいへんです。車(トラック)の用意がしてありますから、すぐ行って下さい。」というので、そっそくシャツとズボンにのすこぶる軽装で下士官二人、看護婦五人を連れて広島へ参りました。-略-わたしのほうは軍隊関係者であったので、衛生材料はたくさんもっていました。-略-九日に下士官が調べたところによりますと、治療した患者の数は万を下らないのではないかと申していました。火傷は当時治療方針が立たないので、ただチンクオイルのみ塗って治療していたというだけでありました。」

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軍部からの命令……。下「」引用。

「しかし戦局は緊迫して、軍部から「軍服より弾丸の生産が第一である」と命令されるに至り、学校としても、その事態に即応し、学校工場における軍服生産を中止して、急ぎ軍需生産工場へ出動した。そのため、昭和二十年三月末に、良策と考えられた学校工場も閉鎖され、大半の生徒が日本製鋼所で昼夜四交替の弾丸生産に努力したのであった。」

「警備隊員被爆記」田原正人・(談)。下「」引用。

「私は、移動演劇さくら隊の俳優丸山定夫と同室であった。彼は背すじから腰にひどく打撲を受けたらしく、横たわっているのさえ苦痛のようであった。「兵隊さん、起してください」、「兵隊さん、寝かせてください」と、幾度も力のない小さな声でたのんでいた。人手を借りなければ、自分の身体を動かすことができなかったが、私が去るまでは、生きていた。」

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「第四章広島市内主要神社・寺院・教会の被爆」
--神様や仏様関連というわれる建物もみんは被災……。

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第四巻 第二編各説 【PDF】








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