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広島県医師会史

2008年12月16日 | 読書日記など
『広島県医師会史』
   広島県医師会・編/広島県医師会1966年

原爆のために出版されたのではなく、江戸時代からの歴史が書かれてある……。
ABCC批判はない!



■目次・主なものだけ■
発刊の辞

第一章 江戸時代に活躍した芸備二州の医人  1
第二章 明治初年の広島県医界  15
第三章 広島県医師会の変遷  37
第四章 広島県医師会の諸活動と事業  553
第五章 原爆と広島県医師会  755
広島県医師会歴代役員  881
日本医師会代議員・同予備代議員  896
各郡市地区医師会正副会長  902
年表  923
編集後記  969

医師会……。下「」引用。

「明治四十二年十一月十六日、呉市医師会を中心として御調、豊田、-略-の各郡医師会は、広島県医師会の設立をはかるべく、呉市四番町呉医師倶楽部に代表を出席させて「広島県医師会発企会」を開催したのである。-略-」

医師会はGHQとも対立できたようだ……。下「」引用。

「占領軍の示唆に端を発して、医薬分業問題が大きくクローズアップされ、六月には田宮日医会長以下役員が詰腹をきらされるまでに紛糾したのであるが、谷口会長以下を選任したあとも医薬分業時期尚早の論は圧倒的で、サムス准将に反駁の意見書を提出するところまできた。」

そして、医薬分業は長期間、なされることはなかったという……。

原爆時の医師会……。下「」引用。

「広島市医師会は約半数の会員が死亡及至重傷を被りながら、直ちに救護活動に立上ったことは忘れてはならない。就中当時の広島市医師会長吉田寛一博士の如きは急性放射能症の身でありながら救護所勤務を続けり、遂に殉職され、他の役員も京極一久理事を残して全部殉職されたことは医師会の歴史中最大の悲劇として記憶されなければなるまい。
 大原博夫広島県医師会長は、八月六日は河内の自宅にいた。翌日広島へ出て、徒歩で、三日目からはトラックで救護所などをかけめぐり、地方の県医師会員招集によって直ちに救護大勢をたてた。
 ただここでもあまりにも、医療関係者の大きい犠牲と努力とのあったことをつけ加えて、左に原爆によって死亡された方々の芳名をかかげて冥福を祈りたい。-略-」

ABCCについても書かれてあったが、非難などはまったく書かれてない。下「」引用。

「こうしてこれらの研究調査のためにアメリカ側の原爆傷害調査委員会(ABCC)が日本赤十字社広島病院内昭和二十二年に置かれ、次いで厚生省も国立予防衛生研に(*ママ)究所(予研)の支所、広島原爆影響研究所をABCC内に併設した。
 原爆被爆者対策協議会(原対協)が広島外科会の主唱により、昭和二十八年に広島市長を会長として発足した。
 昭和三十一年には、被爆者の治療施設として広島原爆病院が誕生した。さらに、昭和三十六年には広島大学原爆放射能医学研究所(原医研)の開設を見た。
 現在広島県医師会ゝ員はこうした機関を通じ、またはその各々の部署において、原爆による後遺症の研究調査に精進しつつある。-略-」

ABCCと予研、そして医師会は一体のようだ……。下「」引用。

「即ち国立予防衛生研究所とABCCが対等の立場で共同研究を行なっているのである。-略-
 諮問機関--これは日本側と米国側とに別々にあって、ABCC所長に対して助言や勧告を行なうのが使命である。日本側評議会は予防衛生研究所所長を委員長として、関係官庁の代表者、学術会議会長、原子力委員会委員、放医研究所、現地における大学長、原医研所長、県医師会長の学識経験者に委員を委嘱している。-略-ABCCにおける学術関係の報告書は、すべて日英両語の業績報告書として作成し、日米両国の関係官公庁、関係研究者にひろく配布されている。また、研究論文として専門雑誌に発表される。特に明記したいことは、ABCCの業績報告書およびその他全ての論文は『広島医学』に掲載されている。」

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しかし、東京よりは、いいように思える……。








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