CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

ムーディーじゃなくハッピーじゃないの、ムーディー・ブルース

2015年05月13日 | BRITISH ROCK
和製英語ではムーディーと言う言葉は”ムードのある”とか”雰囲気のある”などの意味でよく使用するが、英語の場合、MOODYは不機嫌なという意味である。あのムーディー勝山が、ムードのある(ムード歌謡の)勝山なのか、 憂鬱な勝山かどうかは、デビュー当時と今の彼の置かれている状況からすると、どちらとでも解釈できそうではありますが。

さて、MOODY BLUESというバンド名は不機嫌なブルース(日常の出来事を感情表現を込めて歌われる楽曲)となるのであるが、実際彼らはそのような歌を歌っていない。英米では、れっきとしたプログレッシブ・ロックバンドとして認識されている。あのジミーペイジが、本当のプログレッシブ・バンドとはピンク・フロイドとムーディー・ブルースのことだと語っている。

では何故、日本に於いて彼らがイエス、クリムゾン、フロイドやELPと肩を並べるような人気プログレッシブ・ロックバンドに成れなかったのか? 彼らは、プログレ・バンドにふさわしい哲学的な尖った印象の歌詞や メロトロンによるオーケストレーションを採用しているが、やはりスローで甘めのメロディーの楽曲が多く、派手な曲の展開や、超技巧的な演奏を好む日本のプログレ・ファンには受け入れられなかったのだろうか? 

というわけで、いちムーディー・ブルース・ファンとして、彼らの実力を再評価してもらうべく、彼らがメンバーチェンジを行い再出発してからの4枚目のオリジナル・アルバム、“子供たちの子供たちの子供たちへ”を今回紹介します。

初期の7枚の重要アルバム(コア・セブン)の4枚目で、1969年11月に彼らが設立したスレッショルド・レーベルからの第1弾の発売となりました。レコードの内容だけでなくジャケットのデザインなど全てをプロデュースしたいため、自主レーベルを立ち上げたとのこと。内容は、当時のアポロ11号の月面着陸にインスパイヤされたことからアルバム制作に取り掛かり、1曲目の、アポロに使用されたサターンVロケットのエンジン音を再現した プログレ度全開のHIGHER AND HIGHERから始まり、メロディアスな曲に次々と繋がり、最後の曲WACTHING AND WAITING で静かに終わります。

コンセプト・アルバムなので、全曲を通して聴いてみてください。派手目の音が好みのロック少年なら、少し物足りなさを感じるかもしれませんが、年を重ねるにつれて、この手のサウンドがじんわりと心に響きます。

今回個人的に好きな曲、CANDLE OF LIFE をこのアルバムから紹介します。間奏で登場するピアノの音が非常に印象的です。非常に良い曲と思っているのですが、どうゆうわけか、私の知っている範囲では、この曲はライブで演奏されたことがないみたいです。1974年のキーボードのマイク・ピンダーの最後にあたる来日公演でも残念ながらセット・リストから外れました。

日本人が持つイメージのプログレ・バンドでもなく、かと言ってポップ・バンドでもないという、位置付けがはっきりとしていなかったことが、焦点をぼやけさせ日本でさほど人気出なかったのではないかと思います。反対に英米では今でも非常に評価が高く、1978年のマイク・ピンダー脱退や2002年のレイ・トーマス(ボーカル、フルート)のツアーからのリタイヤなどがありましたが、残りの3人のメンバー、ジャスティン・ヘイワード(ボーカル、ギター)、ジョン・ロッジ(ボーカル、ベース)そしてグレアム・エッジ(ドラムス)は意気盛んで、現在もサポート・メンバーを引き連れ、英米で精力的なコンサート・ツアーを行っています。このアルバムの中の曲に、100年も生きられるとは思わなかったと歌う一節がありますが、まさか彼らも、50年以上もバンドを続けられるとは思ってもいなかったでしょう。完全にハッピー・ブルースですね。

The Moody Blues - Candle of Life

LET IT BLEED、ローリング・ストーンズ

2015年05月11日 | ROLLING STONES関連

ストーンズが ビートルズのLET IT BEを意識して LET IT BLEEDというタイトルのアルバムを出したと思われている方もいるかもしれません。しかし、実際はLET IT BLEEDはLET IT BEより5ヶ月以上早い1969年12月発売されています。LET IT BE がビートルズの最後のアルバムとして大きな話題となり印象に残っていますので、オン・タイムで双方のアルバムを聴いていない限りそのような感じを持つかもしれません。

当時はストーンズにしろ、その他のバンドにしろ、大なり小なりなんらかの影響はビートルズから受けていましたが、ストーンズは、1968年頃からブルースをさらに煮詰めた原点回帰を図り、独自のサウンドで BEGGAR’S BANQUETや LET IT BLEEDを制作し、唯一無二の最強のロック・バンドへと進化しました。

今回紹介するLET IT BLEEDは、ビートルズの後追いからは完全に抜け出し、他の誰もが真似出来ないようなユニークなサウンドを作り出しています。
その頃ブライアン・ジョーンズが解雇されて手が足りなかったのも一因と思いますが、今までになくこのアルバムには曲ごとに多彩なゲストを迎えています。ライ・クーダー、ニッキー・ホプキンス、レオン・ラッセル、アル・クーパーなど豪華メンバーが参加しそれぞれの曲に厚みを加えています。特にR&Bシンガーのメリー・クレイトンがギミー・シェルターでミックと対等にボーカルを分け合い、迫力のあるボーカルで聴くものを圧倒させます。

この辺りがストーンズの懐の深いところであって、ゲストに自由に個性発揮させ、それをうまく取り込みストーンズのサウンドを完成させています。

ビートルズの場合はこうはいきません。ストリングスやホーン、それにジョージのインド音楽関連のミュージシャンなどの起用以外は、ほとんどの場合自前で演奏していました。そのためビートルズの後期のアルバムに参加したエリック・クラプトンやビリー・プレストンのように確たる音楽的才能を持ちかつバンド内での緩衝役を果たすことが出来なければ、ビートルズのセッションにはお呼びがかからないでしょう。まあ、当時ジョンとポールの間に入ってビビらないで自身を主張しロックを演奏できる人はそう多くいなかったのもありますが。

ストーンズのABKCOレーベル時代の集大成のLET IT BLEED、相変わらず彼ららしく物議を醸し出す言葉があちこちに散りばめられていますが、それらが溶け込みメロディーと一体化したヘビーなブルース一度聴いてみてください。

Let it Bleed_Rolling Stones



暇つぶしにはホワイトアルバム

2015年05月09日 | BEATLES-BADFINGER関連
ビートルズ・アンソロジーというハードカバーの分厚い本を読みますと、ホワイト・アルバムのところでジョージ・マーチンがこのように述べていました。

”サージャント・ペパーのレコーディングは限界を超える(OVER THE TOP)くらいの大変な作業で、その反動かマジカル・ミステリーの頃は少し自由な雰囲気で、制作における精神的な鍛錬(MENTAL DISCIPLINE)が足りなかったのでは。特にその後のホワイト・アルバムのレコーディング・セッションでは完璧でないものが散見された。それ故、全体を少し短縮し内容を凝縮することによって、シングル・アルバムとして発表すればものすごく素晴らしいものになったのでは。” とビートルズに意見したそうです。結果は、ビートルズの意志通り2枚組で発売されました。

ではジョージ・マーチンに成り代わり、トータルの収録が47-8分程度のシングル・アルバムで出すとすれば、どのように曲を絞れば良いのでしょうか? 
この手の遊びはインターネットなどでもよく見受けられます。今回、私も試しにやってみたいと思います。

SIDE 1
BACK IN THE USSR 2:41
DEAR PRUDENCE 3:35
GLASS ONION 2:13
OB-LA-DI, OB-LA-DA 3:06
WILD HONEY PIE 0:53
THE CONTINUING STORY OF BUNGALOW BILL 3:12
WHILE MY GUITAR GENTLY WEEPS 4:41
HAPPINESS IS A WARM GUN 2:40

SIDE 2
MARTHA MY DEAR 2:27
I’M SO TIRED 2:02
BLACKBIRD 2:18
PIGGIES 2:03
ROCKY RACCOON 3:32
DON'T PASS ME BY 3:48
WHY DON'T WE DO IT IN THE ROAD 1:39
I WILL 1:43
JULIA 2.52

SIDE 3
BIRTHDAY 2:41
YER BLUES 3:59
MOTHER NATURE’S SON 2:46
EVERYBODY’S GOT SOMETHING TO HIDE EXCEPT ME AND MY MONKEY 2:25
SEXY SADIE 3:13
HELTER SKELTER 4:28
LONG, LONG. LONG 3:04

SIDE 4
REVOLUTION 1 4:13
HONEY PIE 2:38
SAVOY TRUFFLE 2:52
CRY BABY CRY 3:00
REVOLUTION 9 8:15
GOOD NIGHT 3:09

上記がホワイトアルバムの曲目です。

私案としまして、
SIDE 1
BACK IN THE USSR 2:41
GLASS ONION 2:13
OB-LA-DI, OB-LA-DA 3:06
REVOLUTION 3:35 (REVOLUTION 1ではなくシングルカットされたバージョン)
HELTER SKELTER 4:28
WHILE MY GUITAR GENTLY WEEPS 4:41
HAPPINESS IS A WARM GUN 2:40

SIDE 2
BIRTHDAY 2:41
JULIA 2.52
BLACKBIRD 2:18
SAVOY TRUFFLE 2:52
THE CONTINUING STORY OF BUNGALOW BILL 3:12
I WILL 1:43
YER BLUES 3:59
CRY BABY CRY 3:00
GOOD NIGHT 3:09

やっぱり、REVOLUTION 9は革新的な曲ですが、8分以上の長さがありますのでシングル・アルバムの構成では収録のスペースが取れないのでオミット。またシングルのレボリューションに差し替えたことで締まった感じが出ると思います。

いかがでしょうか? まあ、暇つぶしにはもってこいの作業です。

The Beatles - Revolution (1968)

シングルのレボリューション


ビートルズ・アンソロジーというハードカバーの分厚い本

KINKSとSTONES

2015年05月08日 | BRITISH ROCK
英ロックバンドのTHE KINKSは、1964年10月にセルフ・タイトルでのファースト・アルバムを発表しました。1964年といえば、ビートルズが7月にA HARD DAY’S NIGHTそして12月にFOR SALESを出しており、ストーンズは4月にセカンド・アルバムを出しています。いずれのバンドも当時の流行していたビート・サウンド中心でアルバムを制作しています。

特にキンクスのリーダーであるレイ・デイビスは、ストーンズに対してライバル心があったのか、サウンドをストーンズのアルバムよりハードな仕上げ、さらに14曲中6曲を自作曲で構成するという力の入ったファースト・アルバムとなりました。その中の1曲がディストーションのかかった特徴あるエレキギターのリフで有名なYOU REALLY GOT MEです。

当時は、ビートルズが最先端をいっており、シタールや弦楽器を入れた曲、バラード系の曲、コンセプト・アルバムなど、ビートルズの出した最新のシングルやアルバムを参考に音作りが行われていたと思います。

その後ストーンズは、1968年にビートルズがホワイト・アルバムを出しバンドが分解の様相を示し始めた頃、彼らは反対にグループとして団結し、彼らの原点であったブルースに回帰することを目指します。それによって、BEGGAR’S BANQUETや LET IT BLEEDなどの名盤を世に出し最強のロック・バンドへと進化していくのです。

一方キンクスは、4人組のバンドでしたが、実体はボーカル、ギタリスト兼作詞作曲家であったレイのワンマン・バンドでした。すなわちレコード会社が却下しない限り彼のやりたいサウンドがキンクスのサウンドになってしまったのです。

革新的で、ユーモアがあり、また時には捻くれた彼の曲作りは、聴く人がついてこれるかどうかにかかっています。 専門家やキンクス・マニアには受ける内容だったのかもしれませんが、一般受けしないとバンドの存続に関わります。アルバムは不評でもシングル曲がある程度ヒットしたから、なんとかやってこれたのが実情で、1968年に出したアルバムTHE KINKS ARE VILLAGE GREEN PRESERVATION SOCIETYから以降は、英チャートに入ることはなくなりました。日本で人気がなかったのも、このような理由からだと思います。そして彼らの再ブレークは1977年のアリスタ・レーベル移籍まで待たなければなりませんでした。

このデビューアルバムには、幾らかのキンクス=レイ・デイビスらしいユーモアが見受けられます。例えば、彼らのファースト・シングルはLONG TALL SALLY(のっぽのサリー)でしたが、このアルバムではLONG TALL SHORTY(のっぽのチビ助)をいう曲をカバーしたり、BOLD HEAD WOMAN(禿げ頭の女)という曲で“禿げ頭の女に用はない、俺を惨めな気分にする”なんて歌っています。ファースト・アルバムでこれですから先が思いやられると感じるのは当然です。

レイ自身の感性を優先し次々とアルバムを出して行ったため、不人気の時代もありました。しかし前回書きましたのロックンロール・ファンタジーという曲に、“俺たちは長きにわたりバンドをやってこれた。それを続けていくことは奇跡かもしれないけど、まだまだやれると思う。”という行がありますが、実際デイビス兄弟は、1978年の歌の通りその後も長きに渡って音楽活動を続け、今現在でもキンクスの復活を目論んでいる奇跡のような人たちです。

それでは、このアルバムからYOU REALLY GOT ME とシングルで出されたALL DAY AND ALL OF THE NIGHTを聴いてください。このような才能のあるレイが周りに合わせたキャッチーな曲作りを続けたとしたら、ストーンズのような最強のバンドになるチャンスもあったかもしれません。しかし人気はストーンズに及ばないものの、好きなようにやってきて未だ現役という奇跡のような人生も彼らにとっては悪くはなかったでしょう。

The kinks- You Really Got Me


The Kinks - All Day And All Of The Night

この曲は、少し前に車のコマーシャルに使われていました。また1968年にアメリカのDOORSが出した曲がそれにそっくりだったので、レイは盗作だとクレームをつけたとのことです。

The Doors - Hello, I Love You

DOORSの曲です。

社会派バンドのアメリカ・ルーツ・ミュージック探訪の旅、U2

2015年05月06日 | BRITISH ROCK
海外の会社との商談に関わる場合は、絶対に政治的もしくは宗教に関する発言は控えよとよく言われたものです。

八百万の神様から、仏様、そして海外からイエス・キリスト様など、多くの神が存在することから比較的穏やかな多神信仰心を持ち、 一般庶民の参政への意識が非常に低く、また一国の首相を罵倒したとしても警察のお世話にならないような我が国では、あまりピンとこない話ではありますが。

今回紹介するのは、アイルランドで結成された4人組のロックバンドU2です。1978年U2としてパンク・ロック全盛時にデビューしたのですが、他のバンドより目立ってヨーロッパの島国アイルランドから社会問題や宗教観などを取り上げた曲を歌っていました。

次々とアルバムを出し知名度が上がるにつれて、視点を変えてもう少し広い視野から、世界を眺めてみようではないかということで、アメリカでのツアーを通し、ルーツ・ミュージックの探訪の旅が始まりました。

その後完成したのが、彼らの5作目にあたる1987年発表の“ヨシュア・ツリーは世界的にも大ヒットし、アルバムが1位を獲得またシングルカットされた2曲もそれぞれ1位を獲得するなど累計2500万枚を売りあげ、アメリカを視点にして一躍世界のトップ・バンドとなりました。

今回ベースになる音はアメリカのルーツ・ミュージックであるブルース、フォークやゴスペルですが、前回と同じプロデューサー、ブライアン・イーノ(英国人)とダニエル・ラノワ(カナダ人)らによってヨーロッパと北米のサウンドが程よくブレンドされたような音になりました。彼らにとって新しい音に乗せて、アメリカを視点にして政治・社会・宗教などについて歌っています。

ここまでブレークすれば、それらの対象者からのバンドに対する抗議や圧力に対して屈するようなこともなく, 後にオピニオン・リーダーとして一目置かれるようになった稀有のロックバンドです。

もちろん前述しましたように、一般の人が海外で商売する場合は、政治・社会・宗教などの話題に関してたとえジョークにしても余計なこと言うのは一切御法度となります。郷に入れば郷に従えということですね。

くれぐれも、気ぃ~つけなはれや~(かなり古いフレーズ)

U2- With Or Without You


U2- I Still Haven't Found What I'm Looking For


まったりとした休日の過ごし方とマーク・ノップラー

2015年05月04日 | BRITISH ROCK
ゴールデン・ウィークの真っ只中、皆さんはどうお過ごしですか?
人がたくさん集まるところに行くのが苦手なのと、家族や友人たちと特に遠出をする予定もないので、PCに向かって若干の仕事のメイルを返信したり、ブログの原稿を書いたりのんびりしています。

そのような時に聴く音楽が、今日紹介しますマーク・ノップラーのこの3月に発売された新譜トラッカーです。彼は1977年ダイヤー・ストレイツというバンドを結成、翌年に発売したデビュー・アルバムが大ヒットし、1988年に活動停止、そして1995年に解散しました。世界中で売れたレコードの累計は1億2千万枚とも言われ、最も成功したロック・バンドに一つです。解散後の1996年にソロを出し、今回のトラッカーは8枚目のオリジナル・アルバムとなります。

ダイヤー・ストレイツというバンドの縛りもなく、ソロになってからは、本当に自分のやりたい音楽を自由にやるという感じで、あの独特の早弾きのギターソロもなく、“全体的に地味に聴こえる”と言われれば、確かにそのような印象もなくはないのですが、まったりした時間を楽しむ為のバック・グラウンド・ミュージックとしてはうってつけだと思います。このアルバムは発売早々注目を集め、全英3位、アメリカでも14位とチャートインしています。

アルバムは11曲で、ほとんどが5-6分の比較的長めの曲で構成されていますが、特にそれらが長いとは感じずあっという間に終わります。

1曲目LAUGHS AND JOKES AND DRINKS AND SMOKES は、ジャズ・タッチ のイントロで始まったかと思いきや、なつかしいスコットランドの民謡のようなサウンドに変わり曲が進行します。3曲目のRIVER TOWN や5曲目のMIGHTY MANなどは親しみやすいメロディーで好感が持て、8曲目のLIGHTS OF TAORMINAはなんかは最近のボブ・ディランが歌いそうな曲と思っていたら、CDのブックレット内のその曲の歌詞が書いてあるところに80年代に2人でデュエットしている写真があり、なるほどと思いました。

ネット・サーフィンしたり、あるいは本や雑誌などを読みながら、音を少し絞って特に集中して聴くこともなく、親しみのあるメロディーが不意に聴きこえたら一緒に口ずさみ、 たとえ少しの間小用やトイレで部屋を開けるようなことがあってもそのまま音楽をかけ続け、全曲終了すればまた一から聴き始めます。そうこうしている内に、マーク・ノップラーのこのシンプルな音楽にどっぷりと浸かってしまうこととなります。

まったりとした休日を楽しむには、一番の方法ではないでしょうか。

世の中、シンプルとか地味とか形容されるものが案外長続きし、後々まで残っていくことはよくありますよね。

Mark Knopfler - Beryl (new single from tracker 2015)

このアルバムで唯一3分台の短い曲で、他の曲と比べるとアップテンポの曲で、ダイヤー・ストレイツの香りがします。なるほどそれでシングルカットされるのか。
出来れば、これ以外の曲を聴いてまったりしてもらえればと思います。


ブックレットの中のディランとデュエットしている写真

モダンポップの教科書、エヤープレイ

2015年05月03日 | AMERICAN ROCK/POPS
TOTOのようでTOTOでない、HALL&OATESのようでHALL&OATESでない、E,W&FのようでE,W&Fでない、それは誰かと尋ねたら、AIR PLAY、AIR PLAY、AIR PLAY…と関西スタイルの大喜利で始まりました。

今回紹介するのは、AIR PLAYが1980年にセルフタイトルで発売した彼らの唯一のアルバムを紹介します。唯一のアルバムという事で、マイナーなバンドと思われるかもしれませんが、AOR(アダルトオリエンテッドロック)というジャンルではモダンポップの教科書と称されるくらい有名なアルバムで、彼らのファンとしては、”あんたの表現力に乏しい駄文による曲の解説は不愉快だ”との指摘を受けるかもしれませんので、さらっと流して書いていきます。

凄腕セッション・ギタリスト、作詞作曲家、兼音楽プロデューサーであるジェイ・グレイドンと凄腕セッション・キーボーデスト、作詞作曲家、兼音楽プロデューサーであるデビッド・フォースターのコンビにパワフル・ハイートーン・ボイスの持ち主のトミー ・ファンダーバーグが合体してできたバンドです。バックを固めるのがTOTOのメンバー、ギタリストのレイ・パーカー・ジュニア、そしてコーラスにビル・チャンプリンやトム・ケリーなどが参加しているといえば、聴かなくともこのアルバムが駄作ではないとわかるのではないかと思います

ジェイ・グレイドンについては、スティーリー・ダンのセッションに参加していたぐらいで当時あまり詳しく知りませんでした。一方のデビッド・フォスターは、1978年に彼がプロデュースしたHALL&OATESの“赤い断層”というアルバムで非常にモダンな音作りをしていたとの印象があり注目していました。彼はHALL&OATESの次のアルバムもプロデュースを手掛け、後年彼らが大ブレークする道筋をつけました。またその後シカゴが彼のプロデュース(CHICAGO 16, 17, 18を担当)によって生きを吹き返したのも有名な話です。

まあ、とりあえず聴いてみてください。

Stranded - Airplay (1980)

出だしの高音でのコーラスに驚かされます。

After The Love Is Gone - Airplay (1980)

E,W&Fにこの曲は提供され、大ヒットしました。

助手:博士! なんとか担当者と交渉し、電気、ガスと水道はとりあえず1ヶ月継続できることになりました。。

博士:でかしたぞ。1ヶ月以内に金策をなんとかすれば良いのじゃな?

助手:その代わり、向こう30日は毎日カップ麺で凌がなくてはなりません。

博士:カップ麺は宇宙食のようなものじゃ。問題はない。これぞ”原始からモダンへの回帰”と言えるのう。

と1日で笑顔を取り戻すことができた博士でした。続く

注;ジャケットの写真はジェイ・グレイドンとデビッド・フォースターの二人だけで、トミー ・ファンダーバーグは写っていません。


幻想への回帰、ユーライア・ヒープ

2015年05月02日 | URIAH HEEP
一部の大物バンドやシンガーを除いては、アメリカとイギリスのマーケット両方で同じようにヒットを出すのは、それぞれの音楽嗜好が異なるので中々難しいことです。

アメリカのアーチストは、アメリカ自体が最大のマーケットであるので、わざわざ他のマーケットで受け入れられるようなサウンド作りは特に意識しなくてもいいわけですが、イギリスのアーチストにとっては、イギリスのマーケット自体が小さいので、他のマーケット、特にアメリカのマーケットで売り上げを伸ばしたいのであれば、彼の地の嗜好を意識してサウンド作りをすることは重要なポイントだと思います。

とは言え、それに従って大幅にサウンドを変えてしまうと、今までのイギリスのファンを失う恐れもあるので、通常それまでのバンドのイメージを残しつつ新しい取り組みをサウンド作りに入れていくことなります。

今回紹介するのは、1975年発売のユーライア・ヒープのスタジオ・アルバム8作目のRETURN TO FANTASYです。前作までベースを担当していたゲーリー・セインはドラッグ中毒になりバンドから解雇され、キング・クリムゾンにいた、ベーシストのジョン・ウェットンが新たに加入しました。彼の加入した段階ですでにアルバムに収録する曲は出来上がっていたので、このアルバムではベースの演奏に専念し、よってクリムゾン時代の存在感はあまり感じられません。

ヒープは前々作のSWEET FREEDOMや前作のWONDERWORLDなどの制作においても、アメリカのマーケットを意識した曲作りが所々に見られましたが、それぞれアメリカ・チャートと33位と38位と大ブレークには至りませんでした。

そのため今回はもう少し踏み込んで、全体的に暗くおどろおどろしいアレンジは無くし、比較的すっきりした感じで仕上がっています。

1曲目のRETURN TO FANTASY(邦題 幻想への回帰)は以前のヒット曲の安息の日々のような曲調、続く2曲目もミック・ボックスのギーターが唸るハードロック調といつも通りのイメージではありますが、5曲目のアップテンポのPRIMA DONNAはなんとブラスが入りコーラスもビーチ・ボーイズのような明るいアレンジ、そして6曲目のYOUR TURN TO REMEMBERはブルージーなバラードでここでも明るい感じのコーラスを採用し完全にアメリカ嗜好の曲となっています。

このアルバムのチャートは本国イギリスでは7位で、彼らの歴代一位のヒットとなりましたが、反対にアメリカでは85位と大幅に売り上げが落ちるなど思ってもみなかった結果となりました。アメリカ嗜好のサウンドに転換したことで、イギリスでは新たなヒープ・サウンドとして受け入れられ、反対にアメリカでは今までのヒープの魅力が薄れてしまったという事だったのでしょうか? マーケットの心を掴むのは計算した通りにはいかないですね~

ビートルズ、ストーンズ、ZEPやマイケルジャクソンなどは、新譜を出すたびに、いとも簡単に欧米1位を連発。彼ら、メガ・スターはマーケットに合わせるのではなく、強引にマーケットを従わせる大きな魅力を持つ唯一無二の存在であったと今更ながら思います。

URIAH HEEP - PRIMA DONNA

ブラスサウンド炸裂の新しいヒープ

私:このアルバムで、ヒープは英チャート過去最高の7位を獲得したことから、かって成功を収めた頃の創作力を取り戻し、文字通り幻想への回帰を果たしたということですね。

博士;その通りじゃ。

助手:博士! 大変です。料金滞納のため、電気、ガスと水道が明日から止められることになりました。

博士:何! 明日から、原始への回帰となってしまうじゃと~!


ミシェル・ポルナレフの巻

2015年05月01日 | EURO ROCK
この2月に、発作的に当ブログを立ち上げたのですが、昨日ふと気付いたのですが、100回記事をアップしたと解りました。個人的な駄文の備忘録とは言え、ネットで文章をアップする以上、やっぱり誰かが覗いてくれると分かれば嬉しいものです。 これからもよろしく。

と言うことで、101回目はフレンチ・ポップスのミシェル・ポルナレフについて書いてみます。

1944年、将来何らかの芸術家になるかのような遺伝子を持って、ウクライナ人である音楽家の父とフランス人でダンサーだった母の間に生まれたました。そしてその通りに、親から受け継いだ感性もあり、彼はフランスでポップ・スターとなります。

1966年にシングルの“ノンノン人形”や“愛の願い”をフランスでヒットさせました。興味深いことに、その年のアルバムやシングルの製作に、ツェペリン結成前のジョン・ポール・ジョーンズやジミー・ペイジらが録音参加していたと言われています。

その後はご存知の通り、1971年に“シェリーに口づけ”が 、1972年には“愛の休日(HOLIDAYS)”が日本では大ヒットしました。彼が作るメロディアスな曲は日本人の感性にすごく合っていたのですね。特に“愛の休日”は深夜のラジオでよく聴いたものです。フランス語は鼻に抜ける発音が多いので、英語の歌より柔らかく聞こえて幻想的なイメージが浮かび、深夜に一人ぼっちで聴くには本当に適した歌でした。しかし、“シェリーに口づけ”や “愛の休日”の訳詞を読んでみると、シェリーに口づけするところは出てこず、何が愛の休日なのかもよく解らない。まあ、よくある日本人向けのメロディーの雰囲気から付けられた邦題でしょう。

ウエーブのかかった長髪で、四角い特徴のあるサングラス、引き締まった体、そして少し女性ぽい感じの衣装など、当時の日本人じゃ誰も真似できないユニークでかっこよかったですね。 強いて言えば、当時の沢田研二が同じような感じでしたっけ。

Tout, Tout Pour Ma Cherie シェリーに口づけ ミッシェル・ポルナレフ


Holidays 愛の休日 ミッシェル・ポルナレフ




ポルナレフ曰く、“シェリーに口づけ”はフランスではシングルカットされなかったように、日本でヒットした曲とフランスのそれらとでは必ずしも同じでないのが興味深いとのことです。
1974年に発売したアルバムポルナレフ革命のジャケットを見ても、日本とあちらでは感性が異なります。(左が日本のキンキラキンのデザインで右が海外のシックなデザインです。)