一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
がん晴る
今日、知り合いのお宅に訪問しました。彼女はもうすぐ88歳。長年、がんを患っていますが病院では治療していません。本人の感で一切治療をうけずに何年も過ごしています。病院の先生がどうして進行が遅いのか、悪くならないのか不思議に思い経過だけを報告してほしいということで通院しているみたいです。
先生曰く。治療しなかったからよかったのよ。
だということです。病院の先生ががんは抗がん剤では治らないと言っていたのを聞いたことがあります。
なんだか複雑な気分です。私がお葬儀でお経をあげる人の中にはがんでお亡くなりになった方が多数います。皆、闘病の末旅立っていくのです。本当に頑張って。
その頑張りが本当の意味でがんが晴れる未来を願ってやみません。
私の知り合いにはもう家族はいません。自慢の娘さんを20年前に亡くし、旦那さんも10年前に見送られました。
死ぬのは怖くないのよ。早く娘に会いたいと思っているわ。心配なのは周りに迷惑をかけないでどう死んでいけるか。それだけが心配なのよ。
本人はだいぶ身体もきつくなり、もう死期が近いとおっしゃっています。しかし私が見る限りでは眼力があり、頭の回転も速く、弱っていく様子はありません。
彼女のようにこの世に未練がないと心の底から思える人は本当にまれです。
苦労をしてきたぶん、たどり着いた境地でしょう。まだ長生きしてほしい、そう思います。
環境
私を堕落させるのは簡単です。そのような環境、そのような場所、そのような相手とずーと居させればいいのです。そうすれば自然とそれに染められていき、どんなに意志を強固にしたとしてもなかなかそれは敵いません。
それを知っているからこそ、自分がずれやすくなる環境には近づきません。そうすると気持ちがつかれるし、自分ではなくなるのです。
遠くの親戚より、近くの他人。
もちろん血のつながりはとても大切です。家族は昨日も話したように理屈抜きなのです。
しかしその環境でなければわからないことがあります。どんなに血がつながっていてもいつもいる環境が違うとやはり考え方も違うのだと思うのです。
私は私が生活し、そして仕事をこなし、家族を養うのに最善な環境を自分で整えます。何よりも一番それが大切だからです。
人はそれほど強いものではないと思います。もし自分を変えるのなら環境を変えればいいのです。
弘法大師様は嵯峨天皇に京都にとどまることを促されても晩年は高野山に入りました。都から離れて標高の高い寒さ厳しいところです。丈夫でなければ生活するのに適していません。しかしそこにいかなければ自分の求めている境地に達しないという確信があるからこそ高野山での生活を選びました。そして最後は食を断ちながら入定されたのです。
どこにいても気持ち次第ともいいますが自分の欲する場所での生活を選ぶのも大切だと思います。
人は人、自分は自分
人は見た目と実際はわからないものです。こちら側から見れば非の打ちどころのない人物でも人知れず悩みを抱えて苦しんでいます。
ただ悩みからどう行動するかが重要です。何かに逃げるのか。言い訳を重ねるのか。また逆に立ち向かうのか。
よく一日を過ごしながら考えるのは自分の行動の一つ一つです。時には悩み、時には元気になり、なかなか一定ということはありません。しかしこれだけは言えるのは自分に正直であろうということ。
どこかこんなもんでいいかと思ってしまうといつかそのほころびは取返しのつかないものになってしまうように思えるのです。少しの勇気でいくらでも正直になれます。大切なのはやはり逃げないことです。
言いたいことが言えない。相手のことを考えて自分が我慢してしまう。
それはよくあることかもしれません。しかし相手はどれだけ自分の人生を保証してくれると思いますか。
兄弟や親子ですら自分に害が及ぶと思ったら距離を置きます。それが他人ならなおさらです。私の知り合いがこんなことを言っていたのを思い出します。
「あなたが罪を犯したときに家族はどうしてと思う前に心で心配する。たとえ犯罪者であろうと。しかし家族でなければその理由を確かめなければと最初に思うだろう。それが家族と他人の違い」
人はそんな他人の意見にいちいち悩まされ、胃をきりきりさせるのです。
だからもっと堂々とすべきです。そしてはっきりと自分は自分という意識を持つべきなのです。
人間関係はそれの方がお互いうまくいきます。弱弱しいところを見せれば助長するだけです。
それでもやはり難しいことだと思います。自分の人生を振り返っても結局、以上記したことで悩んでばかりでしたから。
ただ言えるのは人は人。自分は自分です。自分がなくならないように気を付けましょう。
もう少し
今日は午後からずーと草刈りをしていました。私の会社の亡くなった会長が畑仕事が好きであちらこちらに土地があるのです。
現在は雑草だらけの為、やらなくてはボウボウになってしまいます。2時間くらいしたら辞めようかと思っていたら結局は5時間半、みっちり刈っていました。
お寺に勤めていたころから草刈りをよくしていました。草刈り機で広い場所をもくもくと刈っていくわけですが夢中になるのであっという間に時間が過ぎます。今日は蔦がたくさんあったので疲れてしまいました。
人間の身体は不思議なものです。朝、起きた時はあーだるい。何もしたくない。身体が疲れていて、これはダメだな。
なんて考えながら神棚と仏壇を拝んでから走り出します。足があがらず、なんでこんなことをしているのか、なんて思うわけです。
しかし30分もすれば快調に駆け抜けていき、10キロを走り終えます。
今日も午前中が合同供養祭があり、またやることも他にもあったので午後少しだけ草刈りをしようかな、と思ってはじめてみるのですがいつのまにかもう少しやろうという気持ちになり結局暗くなるまで草刈り機をふっていました。
だいたい、人生もこんな感じなのかもしれません。自分でいろいろあれこれ考えるよりもその時その時を精一杯すればそのままでいい。そんな気がします。
過ぎ去った日々を後悔するなかれ。まだ来ぬ未来に悩むなかれ。今を生きなさい。
今日一日、お疲れ様でした。
ライバル
娘の小説があまりにもうまくて感動しました。
親ばかですが才能があります。私よりもぜんぜん。
昨日ふと見たら自作の小冊子が置いてありました。娘が書いたお手製の小説です。内容はとてもドラマチックで小学四年生が書いたものとは思えません。また情景もとても詩的でどこからそんな言葉が思いつくのか。
娘曰く。本を読んでいると同じような言い回しのフレーズがあるのでそれが頭の中に残っているんじゃないかな。
それにしてもスラスラと文章が浮かんでくるらしく、親としては成長が楽しみで仕方ありません。
私の小学四年生の頃から急に作文がうなくなりました。よくコンクールで入賞した思い出があります。
それから別にたいして何もなかったのですがお世話になった信仰の先生から言われたことがあったのです。
あなた、文章書くのが上手ね。手相にそう出ているわ。
そんなことを思い出してこうして何年もブログを書いているわけです。
昨日も大人げなく娘にライバル心をいだきました。
負けないように頑張ります。
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