去年秋にヒョーロンパブリッシャーズに寄稿した論考が、
順番待ちでようやく今月20日に発刊された歯科評論3月号に掲載された。
(この号には私と懇意にある須崎明先生の論文も掲載されている)
スピーについて掘り下げた内容の論文は、おそらく国内ではなかったと考える。
それゆえスピーカーブについてのレビューを行った。
元々、古ドイツ語で書かれた原著は、国内で保有している人は私を含め数人しかおらず、ネットでもまず入手できない。
そして、この原著を1980年に英語で忠実にリプリントしたヒッチコックらの論文も、国内で入手することはできない。
この英語版のスピーの原著を、日本語に全文が翻訳されたものは、
とある歯科医師がされたものだけであり、これは歯科界に出ていない。
そして、この原著の内容は、我々の知るスピーカーブとは大きく違っていた。つまり、
学会等で講演者が、スピーについて引用するときに「G,Spee.1890」と記していることが散見されるが、
そもそもの我々の知るスピーの概念で、「G,Spee.1890」を引用しているため、これは大きな間違いである。
付け加えて、内容を知らないで引用していることが容易に分かる。
「引用」という言葉を使用する場合、その内容に目を通して理解してから使用するものである。
2年ほど前に私は、自分自身でもこのスピー英語訳論文の全文和訳と私見をまとめていた。その結果、
日本で最初にこの論文を翻訳されたある歯科医師の方と、須崎明先生から歯科界に提示すべき論考であると推され、
スピーの論文に対して私の考察も記述した論考が今回の掲載内容である。
よって参考までに、今後もスピーの原著に関して参考文献として引用している場合
「G,Spee.1890 や G,Spee(Hitchcock)1980」というような表記をしている者がいれば
原著や英訳文は手に入らないはずなので、内容を閲覧してないで引用していることになる。
つまりスピーに関する概念を参考文献として引用する場合、私のこの論考を引用することになる。
近年の私は、歯学史を見つめ直すことに多くの時間を費やし、多くの事柄において、自分の知識の整理を行っている。
それゆえ例えば今回のように、一般的に周知されていたスピー彎曲の概念を学生時代から素直に学んでいたが
G,Speeの本来述べたかった内容が我々の知るものとは違っていたことに気づかされた。
他の事柄でも同様のことが多い。
因みに私は学術の世界に煩悶としている事柄も多い。
公に提言することが好ましくないため、あえて多くは語らないでおくが…
ただ、今回の内容にからめて一つ例を挙げるのであれば
論文や講演において、引用する文献が何のための引用であるか、という本質を我々は考えなければならないであろう。
我説を補強するためだけの都合に合わせた引用でよいものか。
引用文献の本質とはどうあるべきか、私の見解はここでは述べないが、
今回掲載されたレビューを通して、皆も慎重に考えてもらいたい。
追伸:このブログを閲覧されてる方で、Speeの日本語訳全文を閲覧希望がある場合はメールください。
匿名などでの連絡はご遠慮ください
(本来、全文は学術誌に載せるつもりだったが、紙幅の関係上できなかった)