とっても興味があってDVD買っちゃいました。
今年は昨日で終わったんですよね。
FUJI ROCK FESTIVAL、100以上のアーティスト。
山の中のフェスティバル。
何というか、もう・・・とてつもなく大きな学園祭みたいな。
もちろん、ロックコンサート(たぶんジャンルは問わない)が主体だけど、
音楽が鳴っている空間で、いろいろな試みが形になってる。
数箇所あるステージからステージへの移動は、歩いて10分とか15分とか・・・
その間、食堂や休憩所はもちろん、アートの制作や展示、小さな遊園地、
サーカスみたいなことやる人、バンド演奏する人・・・
「FUJI ROCKはドラッグ」とある外人さんが言っていたのもわかる気がします。
DVDを見ただけでも、その世界に入りたい気持ちになります。
♪ ♪ ♪
仕掛け人の
日高正博氏(株式会社スマッシュ代表取締役)ってすごいかも。
「どう考えてもカッコイイ名前じゃないよね”フジロック”なんて」
という日高氏。
へぇ、そういう感覚だったんですね。
♪ ♪ ♪
1997年、第1回目。富士山麓の天神山スキー場で2日間の開催予定。
台風による悪天候、それでも、盛り上がりはすごかったらしい。
日高氏みずから、ステージに押し寄せるオーディエンスに、
「演奏できないから少し下がって」と伝えたりする場面も。
雨と熱気で湯気が立ち真っ白だったとか。
反省点。
アクセスが悪かった。
予想できなかった車の駐車違反による大渋滞。
寒さ対策や屋根のある施設が少な過ぎた。
山であることへの知識や経験がなく、みな軽装だった。
けが人、病人、失神する人・・・(他の年でも多少あると思うけど)
97年の問題点を反省し、その教訓をみごとに次に生かした。
オーディエンス側も学んでいった。
あの失敗(?)がなかったら、今のFUJI ROCKはなかったかも。
1997年終わったあと。
2日目、天気は回復したが、グランドコンディションが悪いことと、
疲れきった客と元気な客が合流することで起き得る
事故を防ぐため、中止に。
「次の年やらないなんてことは全然思わなかった」と日高氏。
♪ ♪ ♪
2年目の1998年、場所を東京ベイサイドスクエアに変え、2日間開催。
最初に日高氏がステージで、
「去年も来た人は?」「ごめんねー」と何度も頭を下げたのはとても印象的。
この年、日高氏の頭の中の99%が「暑さ対策」だったそうです。
♪ ♪ ♪
1999年からは、苗場スキー場で3日間にして開催。
ごみ対策に本腰。
トラブルもなく、この年がFUJIROCK元年とも言える、と。
苗場の地元のおばさんが、
「最初悪い噂しかなくて怖かったけど、始まってみるとそんなことはなくて、
ステージから聞こえる音に胸が躍った」というようなことを笑顔で言ってました。
ごみ対策は、オーディエンス側の協力がとても大きかったそうです。
広い範囲にわたって作られた、ステージや施設。
基本的にみんな歩いて移動します。とにかくすごい人の数・・・
・・・何度か行かないと、広くて何がなんだかわからないでしょうねえ。
♪ ♪ ♪
FUJI ROCKの顔、今年も出演予定だった清志郎さん、
約8分間、ステージとインタビューのシーンがありました。
「月夜野インターで車を降りて、三国峠を越えて苗場まで自転車で行ったんだ」・・・。
病気に負けないで帰ってきてとみんなが思っていると思います。
今ならたぶん見られる
メッセージ(忌野清志郎 offical site
地味変)
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みな口々に言うのは「日本じゃないみたい」。
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日高氏のアーティストへの出演のアプローチ。
プロモーションに新しい形を。
「新曲がなくても、まだCDが出てなくても、
何万人という人たちの前で歌うことに意義があり可能性が広がるはずだ。」
ほんとすごい人かもです、日高正博っていう人。
連載↓
▼フジロックの目指すもの…「大型野外コンサート」ではなく「フェスティバル」を!
♪ ♪ ♪
メッセージをくれたアーティストのひとり、
反ブッシュという噂のアメリカ人、パティ・スミス氏のことばです。
「戦争の悲劇を日本ほど理解している国は世界に無いかもしれない
全世界の見本となってほしい
彼らは忘れている
ヒロシマとナガサキの恐怖を
我々の両親や祖父母が経験したことを
ここで私は、先祖に代わって謝ります
あなたたちの国で起きたこと、原爆を作ったこと
今世界に必要なのは、世界中の人々が立ち上がり、反戦運動をすること
世界中の政府を人々を起こして戦争の残虐さを訴えないといけない」
もうすぐ8月です。
FUJIROCKERS~THE HISTORY OF THE FUJIROCK FESTIVAL
ここの過去ログ
元祖夏フェス?FUJI ROCK FESTIVALの歴史
FUJI ROCK FESTIVAL ’05