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中西進『古代史で楽しむ万葉集』「八 百花繚乱」(その1):美しい風景に「うつろ」を感じる山部赤人!「人間的不安」を示す笠金村!大伴旅人の心はつねに現実にはない!

2021-08-05 15:18:35 | 日記
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(8)-1 宮廷歌人の山部赤人:美しい風景のゆえに「うつろ」を感じ、悲しみがますという天平歌人の心情!(167-171頁)
H 柿本人麻呂が歌を作ったのは持統3年(689年)から文武4年(700年)までの間だ。つまり彼は藤原京(694-710)の時代の宮廷歌人で、持統と命運を共にした歌人だった。(118-119頁)。
H-2  続く平城京の時代は、「一般の世情はけっして明るくはなかったけれども、都城の繁栄そのままに、この時代には絢爛たる文学の花がひらいた。」(167頁)
H-2-2  宮廷歌人の群れの内、最も優れた作者は山部赤人だ。彼は神亀年間(724-729)から天平(729-749)初年にかけて宮廷に仕えた微官だ。彼は叙景歌人と呼ばれる。ただし「美しい風景のゆえにうつろを感じ、悲しみがますという心情」は明らかに「人麻呂から遠い、天平歌人のもの」だった。(167-168頁)
H-2-3  また「長歌の対句的表現を短歌に応用した」のも赤人独自の境地だった。
「大夫(マスラオ)は 御猟(ミカリ)に立たし 少女(ヲトメ)らは 赤裳裾(モスソ)引く 清き浜廻(ハマビ)を」(巻6、1001)
(廷臣たちは狩に獲物を求め、宮女たちは赤いスカートを濡らして清らかな海岸で海の物を求める。)(170頁)

(8)-2 笠金村(カサノカナムラ):「人麻呂的世界」に帰着しえない「人間的不安」!(173-176頁)
H-3  同じ宮廷歌人に笠金村(カサノカナムラ)がいる。金村は霊亀元年(715)から天平5年(733)までの作歌が知られている。(173頁)
H-3-2  柿本人麻呂には「天皇が神として永遠である」ということは疑いのない信念だった。だが金村にとっては天皇の「万代」は神に祈られるべきものであった。つまり「祈るという人為を超えて、天皇は絶対ではなかった」。かくて金村は「人麻呂的世界」に帰着しえない「人間的不安」を示す。彼の歌は「なまなましく人間的な面」を有している。(174-175頁)
「皆人の 命(イノチ)も我も み吉野の 滝(タギ)の常磐(トキハ)の 常(ツネ)ならぬかも」
(みんなの命も私の命も、吉野の滝の岩のように、永遠であってくれないものか。)

(8)-3 大伴旅人:旅人の心はつねに現実にはない!「目に見えない藤原氏の圧迫」と「明らかな敗北感」!(176-180頁)
H-4  万葉集について大まかに言えば、(a)「壬申の乱以前」は比較的儀礼に結び付いた歌や内廷の女性たちの歌が多い。(b)「壬申の乱後、白鳳期」は歌が儀礼性に縛られることは少なくなったが、なお宮廷における歌が多い。(c)「8世紀」に入ると、いっそう一般の生活の場における歌が増大する。(d)「天平」を迎えると生活の中に歌が拡散してしまう。(176頁)
H-4-2 かくて「奈良時代」の和歌(万葉集)は、宮廷歌人以外に、多くの歌人を持つことが特色だ。ここではまず大伴旅人(665-731)を取り上げる。大伴旅人は旧大豪族大伴氏の氏上だった。これに対抗するのは律令貴族たる藤原氏だ。8世紀初頭は藤原氏の徐(オモム)ろにして逞しい勢力伸長の時期だった。この大旧族・大伴氏の凋落の時期に、旅人は生まれ合わせた。(176-177頁)
H-4-4  720年、征隼人大将軍として九州に下向したあと、京に戻った旅人は、726-727年頃、藤原氏の策略で太宰帥(ダザイノソチ)に任じられ筑紫(チクシ)に赴く。旅人は既に60歳を越えていた。「目に見えない藤原氏の圧迫」と「明らかな敗北感」の中で、旅人の現実感は乏しい。常に望京の念に苛まれる。その上、旅人は同行した妻をその地で失う。(177-178頁)
「愛(ウツク)しき 人の纏(マ)きてし 敷栲(シキタヘ)のわが手枕(タマクラ)を纏(マ)く人のあらめや」(巻3、438)
旅人の心はつねに現実にはない。「亡き妻をしのぶ」という過去の回想も、その一つだ。「愛しい人が枕にした私の手枕を、他に枕とする人はいない。」(178頁)

H-4-5 旅人には「酒を讃(ホ)むるの歌」13首がある。その内の1首は次の通り。
「験(シルシ)なき 物を思(オホ)はずは 一坏(ヒトツキ)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし」(巻3、338)
旅人は「思ってもかいない物思いをやめて、酒を飲むのがよい」と歌う。彼の本心である。(179-180頁)
(※旅人は730年、大納言に任ぜられようやく帰京するが、731年病没した。)

H-4-6  大伴旅人をとりまく大宰府の官人たちのひとりに小野老(オノノオユ)がいる。彼は729年に大宰少弐(次官)として万葉集に歌を残す。
「あをによし 寧楽(ナラ)の京師(ミヤコ)は 咲く花の 薫(ニホ)ふがごとく 今盛りなり」(巻3、328)
まぶしいような都讃美だ。「青丹が美しい奈良の都は満開の花のようにいま繁栄している。」望京の歌である。(181頁)(※大宰帥大伴旅人邸での小野老着任の宴にて。)(※小野老は、政治的には藤原四兄弟に近い立場にあったと考えられている。)(181頁)
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