※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第5章 内存在そのもの」「【B】現の日常的存在と現存在の頽落」「第36節 好奇心(Die Neugier)」(その2)
(3)配慮が「休息」する!配視は自由になる!「解放された配視」!
G 「ただ単に覚知しようとする傾向」が「好奇心」である。(172頁)
G-2 さて「世界内存在は、さしあたっては、配慮される世界のなかへ溶け込んでいる。」「配慮は配視にみちびかれ、配視は用具的存在者を発見する。」そして「配視は、ものごとを取り寄せたり処理したりする。」(172頁)
H 「配慮は、休息して仕事を中断するとか、仕事がかたづくという意味で、落ち着くことがある。」(172頁)
H-2 このとき「配慮が消え去るわけではないが、配視は自由になる。」「解放された配視」!(172頁)
(3)-2 解放された配視の「開離」(Ent-fernen)!
H-3 配慮が「休息しているとき、われわれの関心は、解放された配視のうちに居すわる。」(172頁)
I 「仕事世界の配慮的発見」は、「開離」(※どんどん遠く先へ進んでいく!)という性格を持つ。(172頁)
I-2 「解放された配視」には、「心懸けて近づけなければならないようなもの」はもう何もない。しかし「配視」は本質上「開離的」なので、「開離の新しい可能性を自分に提供する。」(172頁)
I-3 すなわち解放された「配視」は「身近な用に具わっているものごと」から出て、「遥かな見知らぬ世界」へ向かおうとする。(172頁)
(3)-3 「世界」をその《形相》だけについて眺める!
I-4 かくて「関心は、休暇の時を過ごしながら、『世界』をその《形相》(※用具的存在者でない!)だけについて眺める可能性をいろいろと配慮する。」(172頁)
I-5 「現存在は遠く離れたものごとを、ただその形相において近よせたいばかりに、遠いものを求める。」「現存在はひとえに世界の形相だけに惹かれる。」(172頁)
(4)「仕事世界」から解放された「好奇心」!「落ち着きのなさ」!
J 「仕事世界」から解放された「好奇心」はものごとを見ようと配慮するが・・・・「そのものと関わり合う存在」へ立ち入らんがためではない。(172頁)
J-2 「仕事世界」から解放された「好奇心」は、「ただ見んがために見ようと配慮する。」(172頁)
J-3 それは「新奇なものを求め」、さらに「新たにまた別の新奇なものへとび移る」。(172頁)
J-4 それの「関心事」は、「ものごとを把握して知のありさまで真理のうちに存在すること」でない。(172頁)
J-5 かくて好奇心は「落ち着きのなさ」(滞留しないこと)(Unverweilen)によって性格づけられる。つまりそれは「めまぐるしく移り替わる新奇と変化による活動と興奮」を求める。(172頁)
J-6 こうして好奇心は「気ばらし」(気散じ)(Zerstreuung)の機会を工夫する。(172頁)
(5)《所在なさ》:好奇心はいたるところに居るが、実はどこにも居ない!
K 「好奇心は知ることを気遣うけれども、それはただ一応知っておく(※日常的な既成的解意つまり世間話にとどまる!)ためにすぎない。」(172頁)
K-2 好奇心の構成的な3つの契機:(1)「配慮される環境世界のなかでの《落着きのなさ》」(※「めまぐるしく移り替わる新奇と変化による活動と興奮」を求める)。(2)《気ばらし》。(3)《所在なさ》(居所喪失)(Aufenthaltlosigkeit)。(172-3頁)
K-3 《所在なさ》とは、「好奇心はいたるところに居るが、実はどこにも居ない」ことを意味する。(173頁)
K-4 「このありかた(※《落着きのなさ》《気ばらし》《所在なさ》)において、日常的現存在がたえまなくその根源を喪失していく」。(173頁)
(6)「話」と「視」のふたつの日常的な存在様態である①「世間話」と②「好奇心」における「根源喪失」!
L 「いたるところに居ながら実はどこにも居ないという好奇心の所在なさは、世間話に浮き身をやつしている」。(173頁)
L-2 「話と視のこのふたつの日常的な存在様態」(※世間話と好奇心)はともに「根源喪失」の傾向を示す。そして両者(※世間話と好奇心)は、並存するのでなく、「一方のあり方が他方をひきさらっていく。」(173頁)
L-3 「①なにごともつつみ隠しておくことのない好奇心(※あらゆる秘密を暴く!)と②なにごとも理解せずにいない世間話(※日常的な既成的解意のうちであらゆる出来事を解釈する!)とは、これこそ本物の『生き生きした生活』だという保証を互いに与え合う」。(173頁)
L-4 「この思いこみ(※①世間話と②好奇心)とともに、日常的現存在の開示態の特徴をなす第3の現象(※③曖昧さ)が現れてくる。」(173頁)
(3)配慮が「休息」する!配視は自由になる!「解放された配視」!
G 「ただ単に覚知しようとする傾向」が「好奇心」である。(172頁)
G-2 さて「世界内存在は、さしあたっては、配慮される世界のなかへ溶け込んでいる。」「配慮は配視にみちびかれ、配視は用具的存在者を発見する。」そして「配視は、ものごとを取り寄せたり処理したりする。」(172頁)
H 「配慮は、休息して仕事を中断するとか、仕事がかたづくという意味で、落ち着くことがある。」(172頁)
H-2 このとき「配慮が消え去るわけではないが、配視は自由になる。」「解放された配視」!(172頁)
(3)-2 解放された配視の「開離」(Ent-fernen)!
H-3 配慮が「休息しているとき、われわれの関心は、解放された配視のうちに居すわる。」(172頁)
I 「仕事世界の配慮的発見」は、「開離」(※どんどん遠く先へ進んでいく!)という性格を持つ。(172頁)
I-2 「解放された配視」には、「心懸けて近づけなければならないようなもの」はもう何もない。しかし「配視」は本質上「開離的」なので、「開離の新しい可能性を自分に提供する。」(172頁)
I-3 すなわち解放された「配視」は「身近な用に具わっているものごと」から出て、「遥かな見知らぬ世界」へ向かおうとする。(172頁)
(3)-3 「世界」をその《形相》だけについて眺める!
I-4 かくて「関心は、休暇の時を過ごしながら、『世界』をその《形相》(※用具的存在者でない!)だけについて眺める可能性をいろいろと配慮する。」(172頁)
I-5 「現存在は遠く離れたものごとを、ただその形相において近よせたいばかりに、遠いものを求める。」「現存在はひとえに世界の形相だけに惹かれる。」(172頁)
(4)「仕事世界」から解放された「好奇心」!「落ち着きのなさ」!
J 「仕事世界」から解放された「好奇心」はものごとを見ようと配慮するが・・・・「そのものと関わり合う存在」へ立ち入らんがためではない。(172頁)
J-2 「仕事世界」から解放された「好奇心」は、「ただ見んがために見ようと配慮する。」(172頁)
J-3 それは「新奇なものを求め」、さらに「新たにまた別の新奇なものへとび移る」。(172頁)
J-4 それの「関心事」は、「ものごとを把握して知のありさまで真理のうちに存在すること」でない。(172頁)
J-5 かくて好奇心は「落ち着きのなさ」(滞留しないこと)(Unverweilen)によって性格づけられる。つまりそれは「めまぐるしく移り替わる新奇と変化による活動と興奮」を求める。(172頁)
J-6 こうして好奇心は「気ばらし」(気散じ)(Zerstreuung)の機会を工夫する。(172頁)
(5)《所在なさ》:好奇心はいたるところに居るが、実はどこにも居ない!
K 「好奇心は知ることを気遣うけれども、それはただ一応知っておく(※日常的な既成的解意つまり世間話にとどまる!)ためにすぎない。」(172頁)
K-2 好奇心の構成的な3つの契機:(1)「配慮される環境世界のなかでの《落着きのなさ》」(※「めまぐるしく移り替わる新奇と変化による活動と興奮」を求める)。(2)《気ばらし》。(3)《所在なさ》(居所喪失)(Aufenthaltlosigkeit)。(172-3頁)
K-3 《所在なさ》とは、「好奇心はいたるところに居るが、実はどこにも居ない」ことを意味する。(173頁)
K-4 「このありかた(※《落着きのなさ》《気ばらし》《所在なさ》)において、日常的現存在がたえまなくその根源を喪失していく」。(173頁)
(6)「話」と「視」のふたつの日常的な存在様態である①「世間話」と②「好奇心」における「根源喪失」!
L 「いたるところに居ながら実はどこにも居ないという好奇心の所在なさは、世間話に浮き身をやつしている」。(173頁)
L-2 「話と視のこのふたつの日常的な存在様態」(※世間話と好奇心)はともに「根源喪失」の傾向を示す。そして両者(※世間話と好奇心)は、並存するのでなく、「一方のあり方が他方をひきさらっていく。」(173頁)
L-3 「①なにごともつつみ隠しておくことのない好奇心(※あらゆる秘密を暴く!)と②なにごとも理解せずにいない世間話(※日常的な既成的解意のうちであらゆる出来事を解釈する!)とは、これこそ本物の『生き生きした生活』だという保証を互いに与え合う」。(173頁)
L-4 「この思いこみ(※①世間話と②好奇心)とともに、日常的現存在の開示態の特徴をなす第3の現象(※③曖昧さ)が現れてくる。」(173頁)