第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第5章 内存在そのもの」「【B】現の日常的存在と現存在の頽落」「第38節 頽落と被投性」(das Verfallen und die Geworfenheit)(その1)
(1)「①世間話(空談)、②好奇心、③曖昧さ」から「現存在の頽落」が現れてくる!
A 「①世間話(空談)(das Gerede)、②好奇心(die Neugier)、③曖昧さ(die Zweideutigkeit)は、現存在(※自分のこと!)が日常的におのれの『現』を――世界内存在の開示態を――存在しているありさまの性格である。」(175頁)
A-2 かくて「日常性の存在の根本的様相」として「現存在の頽落(Verfallen)」が現れてくる。(175頁)
《感想1》ハイデガーは「①世間話」は、「平均的理解」、「世間並みの理解」、「日常的な既成的解意」(169頁)だと言う。
《感想1-2》「②好奇心」についてハイデガーは言う。「仕事世界」から解放された「好奇心」はものごとを見ようと配慮するが、「そのものと関わり合う存在」へ立ち入らんがためではない。(172頁)
《感想1-2》「③曖昧さ」についてハイデガーは言う。「日常的な相互存在(※多くの人間たちの関係)において、・・・・接することのできるものについて、だれでもが一応のことを言えるようになると(※これは①世間話と②好奇心による)、何が真正な了解において開示されたものなのか・・・・決定できなくなる。」(※①世間話と②好奇心のなんという無責任!)これが「曖昧さ」だ!(※誰もが、勝手なことを好きに言い、しかも何が本当か、事実か、解明しない!)(173頁)
(2)現存在は、「本来的な自己存在可能としてのおのれ自身」から脱落し、「世界」に頽落している!
B「頽落(Verfallen)」とは、「現存在は、本来的な自己存在可能としてのおのれ自身から・・・・すでに脱落していて、『世界』に頽落している」ことだ。(175頁)
B-2 「『世界』へ頽落しているということは、①世間話や②好奇心や③曖昧さによってみちびかれているかぎりでの相互存在(※多くの人間たちの関係)のなかへ融けこんでいるということである。」(175頁)
《感想2》ハイデガーは次のように言っている。「非本来的な(uneigentlich)了解」は「世界」の方から自己を了解することだ。これに対し「本来的(eigentlich)了解」は「おのれの存在の主旨(目的)に身を投じ」実存することだ。(146頁)
《感想2-2》ハイデガーは「本質的な実存現象」として「良心、死、負い目」をあげる。(『序にかえて』)また、現存在が、「関わり合いうる存在そのもの」(※自分自身!)そして「関わり合っている存在そのもの」(※自分自身!)を、「実存」(Existenz)と名付ける。(12頁)
(3)現存在の非本来性:「世界」と「世間」(Man)によってまったく気をうばわれること!
C 「現存在の非本来性」とは、「『世界』と世間(Man)におけるほかの人びととの共同現存在とによってまったく気をうばわれている世界内存在」ということだ。(176頁)
《感想3》ハイデガーは言う。「ほかの人びと」とは、「日常的な相互存在」において、「『そこに居る』人びと」だが、「その誰か」は、「特にだれということもできない中性的なもの、世間(世人)(das Man)」である。(126頁)「われわれは、①ひともするような享楽や娯楽を求め、②ひともするように『大衆』から身をひき、③ひとが慨嘆するものを、やはり慨嘆している。」「この『ひと』が・・・・世間(世人)(das Man)である。この世間(世人)(das Man)が、日常性のありかたに指令を与えている。」(127頁)
《感想3-2》さらにハイデガーは言う。「日常的現存在の自己は、『世間的自己』(世人自己)(das Man-selbst)(※ミードの「me」)であるから、われわれはこれを『本来的(eigentlich)自己』(※ミードの「I」)、すなわちみずから選びとられた自己(※類型的でない自己)から区別しておく。」(129頁)
《感想3-3》またハイデガーによれば、「現存在の日常性」の問題とは、「世間」(das Man)のあり方に住みついているかぎりでの世界内存在(現存在)を問題にすることである。(167頁)
(4)現存在自身が、「根なしの状態に頽落する可能性を現存在に提供する」:現存在(世界内存在)は自身に対し「誘惑的」だ!
D 「現存在が頽落している」ことは、「堕落」ではない。(176頁)
E 「現存在は頽落するものとして、事実的な世界内存在としての《おのれ自身》からいつもすでに脱落している。」(176頁)
F 「頽落」は、「劣等な嘆かわしい存在的属性」という意味ではない。(176頁)
G 「頽落」は、「存在構成(Seinsverfassung)」でなく、「Seinsart」(「存在様相」あるいは「存在様態」)だ。(176頁)
G-2 「頽落」は「世界内存在の実存論的様態(ein existenzialer Modus)」の一つだ。(176頁)
H 「世間話と公開的な既成的解意とにおいて、世間(Man)のなかでわれを忘れて根なしの状態に頽落する可能性を現存在に提供するものは現存在自身だ」。つまり現存在(世界内存在)は、「おのずからにして誘惑的だ」。(177頁)
《感想4》ハイデガーは「公開性」について次のように述べる。①「疎隔性」(※他者との差異を意識すること!)、②「平均性」(※他者と同じようであることを求める!人並み!)、③「均等化」が、「世間(das Man)の存在様相」としての「公開性」(※自明として受け取られること)をなす!(127頁)
(5)頽落する世界内存在(現存在)は「鎮静的」で「本来的な心境的了解」を欲しなくなる!
I 頽落する世界内存在(現存在)は「鎮静的」だ。(177頁)
I-2 「世間話」と「曖昧さ」、「なにもかもすでに見てわかっているという態度」、つまり「世間(das Man)の自信と断定性」のために、「本来的な心境的了解」を欲しなくなる。(177頁)
I-3 「充実した真価のある『生』を供給し指導しているという世間の臆断(die Vermeindlichkeit des Man)が、現存在に一種の《鎮静》をもたらす。」(177頁)
《感想5》「本来的な心境的了解」なるものがありうるのか?「世間話」・「好奇心」・「曖昧さ」から、人が逃れることなどありうるのか?人は「既成的解意」(※既成の類型への包摂)の外へ出られるのか?言葉の使用は「既成的解意」(※既成の類型への包摂)だ。もし「本来的な心境的了解」が言葉で表現されたら、それは「世間話」になることであり、世界への「頽落」である。なお、それは現存在(※人間)に「鎮静」をもたらす。
(1)「①世間話(空談)、②好奇心、③曖昧さ」から「現存在の頽落」が現れてくる!
A 「①世間話(空談)(das Gerede)、②好奇心(die Neugier)、③曖昧さ(die Zweideutigkeit)は、現存在(※自分のこと!)が日常的におのれの『現』を――世界内存在の開示態を――存在しているありさまの性格である。」(175頁)
A-2 かくて「日常性の存在の根本的様相」として「現存在の頽落(Verfallen)」が現れてくる。(175頁)
《感想1》ハイデガーは「①世間話」は、「平均的理解」、「世間並みの理解」、「日常的な既成的解意」(169頁)だと言う。
《感想1-2》「②好奇心」についてハイデガーは言う。「仕事世界」から解放された「好奇心」はものごとを見ようと配慮するが、「そのものと関わり合う存在」へ立ち入らんがためではない。(172頁)
《感想1-2》「③曖昧さ」についてハイデガーは言う。「日常的な相互存在(※多くの人間たちの関係)において、・・・・接することのできるものについて、だれでもが一応のことを言えるようになると(※これは①世間話と②好奇心による)、何が真正な了解において開示されたものなのか・・・・決定できなくなる。」(※①世間話と②好奇心のなんという無責任!)これが「曖昧さ」だ!(※誰もが、勝手なことを好きに言い、しかも何が本当か、事実か、解明しない!)(173頁)
(2)現存在は、「本来的な自己存在可能としてのおのれ自身」から脱落し、「世界」に頽落している!
B「頽落(Verfallen)」とは、「現存在は、本来的な自己存在可能としてのおのれ自身から・・・・すでに脱落していて、『世界』に頽落している」ことだ。(175頁)
B-2 「『世界』へ頽落しているということは、①世間話や②好奇心や③曖昧さによってみちびかれているかぎりでの相互存在(※多くの人間たちの関係)のなかへ融けこんでいるということである。」(175頁)
《感想2》ハイデガーは次のように言っている。「非本来的な(uneigentlich)了解」は「世界」の方から自己を了解することだ。これに対し「本来的(eigentlich)了解」は「おのれの存在の主旨(目的)に身を投じ」実存することだ。(146頁)
《感想2-2》ハイデガーは「本質的な実存現象」として「良心、死、負い目」をあげる。(『序にかえて』)また、現存在が、「関わり合いうる存在そのもの」(※自分自身!)そして「関わり合っている存在そのもの」(※自分自身!)を、「実存」(Existenz)と名付ける。(12頁)
(3)現存在の非本来性:「世界」と「世間」(Man)によってまったく気をうばわれること!
C 「現存在の非本来性」とは、「『世界』と世間(Man)におけるほかの人びととの共同現存在とによってまったく気をうばわれている世界内存在」ということだ。(176頁)
《感想3》ハイデガーは言う。「ほかの人びと」とは、「日常的な相互存在」において、「『そこに居る』人びと」だが、「その誰か」は、「特にだれということもできない中性的なもの、世間(世人)(das Man)」である。(126頁)「われわれは、①ひともするような享楽や娯楽を求め、②ひともするように『大衆』から身をひき、③ひとが慨嘆するものを、やはり慨嘆している。」「この『ひと』が・・・・世間(世人)(das Man)である。この世間(世人)(das Man)が、日常性のありかたに指令を与えている。」(127頁)
《感想3-2》さらにハイデガーは言う。「日常的現存在の自己は、『世間的自己』(世人自己)(das Man-selbst)(※ミードの「me」)であるから、われわれはこれを『本来的(eigentlich)自己』(※ミードの「I」)、すなわちみずから選びとられた自己(※類型的でない自己)から区別しておく。」(129頁)
《感想3-3》またハイデガーによれば、「現存在の日常性」の問題とは、「世間」(das Man)のあり方に住みついているかぎりでの世界内存在(現存在)を問題にすることである。(167頁)
(4)現存在自身が、「根なしの状態に頽落する可能性を現存在に提供する」:現存在(世界内存在)は自身に対し「誘惑的」だ!
D 「現存在が頽落している」ことは、「堕落」ではない。(176頁)
E 「現存在は頽落するものとして、事実的な世界内存在としての《おのれ自身》からいつもすでに脱落している。」(176頁)
F 「頽落」は、「劣等な嘆かわしい存在的属性」という意味ではない。(176頁)
G 「頽落」は、「存在構成(Seinsverfassung)」でなく、「Seinsart」(「存在様相」あるいは「存在様態」)だ。(176頁)
G-2 「頽落」は「世界内存在の実存論的様態(ein existenzialer Modus)」の一つだ。(176頁)
H 「世間話と公開的な既成的解意とにおいて、世間(Man)のなかでわれを忘れて根なしの状態に頽落する可能性を現存在に提供するものは現存在自身だ」。つまり現存在(世界内存在)は、「おのずからにして誘惑的だ」。(177頁)
《感想4》ハイデガーは「公開性」について次のように述べる。①「疎隔性」(※他者との差異を意識すること!)、②「平均性」(※他者と同じようであることを求める!人並み!)、③「均等化」が、「世間(das Man)の存在様相」としての「公開性」(※自明として受け取られること)をなす!(127頁)
(5)頽落する世界内存在(現存在)は「鎮静的」で「本来的な心境的了解」を欲しなくなる!
I 頽落する世界内存在(現存在)は「鎮静的」だ。(177頁)
I-2 「世間話」と「曖昧さ」、「なにもかもすでに見てわかっているという態度」、つまり「世間(das Man)の自信と断定性」のために、「本来的な心境的了解」を欲しなくなる。(177頁)
I-3 「充実した真価のある『生』を供給し指導しているという世間の臆断(die Vermeindlichkeit des Man)が、現存在に一種の《鎮静》をもたらす。」(177頁)
《感想5》「本来的な心境的了解」なるものがありうるのか?「世間話」・「好奇心」・「曖昧さ」から、人が逃れることなどありうるのか?人は「既成的解意」(※既成の類型への包摂)の外へ出られるのか?言葉の使用は「既成的解意」(※既成の類型への包摂)だ。もし「本来的な心境的了解」が言葉で表現されたら、それは「世間話」になることであり、世界への「頽落」である。なお、それは現存在(※人間)に「鎮静」をもたらす。