DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(120) 百田氏の誤り:「ダッカ日航機ハイジャック事件」で日本は身代金を払ったが、各国も同様に「人命最優先」の対応を実行している!

2021-11-22 21:24:24 | 日記
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「日本の復興」の章(385-455頁)  

(120)百田氏の誤り:「ダッカ日航機ハイジャック事件」で日本は身代金を払ったが、各国も同様に「人命最優先」の対応を実行している!(453-455頁)
R  1977年「ダッカ日航機ハイジャック事件」について、百田尚樹『日本国紀』は、次のように述べる。「日本政府は『超法規的措置』で法律を捻じ曲げて、犯人の要求通りに多額の身代金を払い、さらに日本に拘留中の凶悪犯(一般刑法犯)を釈放して、ハイジャック犯を逃がしてしまった。この時、首相の福田赳夫は自らのとった措置を正当化する理由として(※人質の)『一人の命は地球より重い』と言って、世界中から失笑を買った。」(百田484頁)
R-2  百田氏の誤り①:百田氏は「世界中から失笑を買った」と言うが、それは誤りだ。大部分の国は、日本の対応をあざ笑ったりしていない。当時、テロリストから人質を解放する条件として身代金を支払ったり、要求を呑んだりするのは、むしろ普通のことだった。(454頁)
R-2-2  各国は次の諸事件について、いずれも犯人の要求を呑んで対応している。(a)1970年のエル・アル航空、スイス航空、トランスワールド航空、パンアメリカン航空など5機の旅客機がハイジャックされた「PFLP旅客機同時ハイジャック事件」。(b)1972年のルフトハンザ航空615便事件。(c)1974年に日本赤軍が起こしたハーグ事件。(454頁)
R-2-3  そもそも他国の空港(Ex. バングラデッシュのダッカ)において日本が強硬手段を用いることは難しい。またバングラデシュ政府の許可を得たとしても(この事件の最中にバングラデッシュではクーデターが発生しており、普通の状況ではなかった)、日本は「テロ事件に対処する人質救出を専門とする部隊」を日本は持っていなかった。(454頁)
R-2-4  当時、各国は、非難を受けても「人命最優先」をする、という対応をまずは考え、そして実行している。百田氏が、当時の段階でできもしないことを、「平和ボケ」と断定して、対応を批判するのは早計で誤りだ。(454-455頁)

(120)-2 1977年、西ドイツの特殊部隊GSG-9(ゲーエスゲーノイン)による「ルフトハンザ航空181便事件」の人質救出成功以後、各国は「テロの要求に屈せずに人質救出」という方針に転換!
R-3  西ドイツは、1972年「ルフトハンザ航空615便事件」以後、特殊部隊GSG-9(ゲーエスゲーノイン)を創設・訓練し、1977年ダッカ事件を参考に救出訓練を重ねていた。その成果が、ダッカ事件の終結から10日後に起こっ「ルフトハンザ航空181便事件」に活かされ、人質の救出に成功した。(454頁)
R-3-2  これ以後、各国は「テロの要求に屈せずに人質救出」という方針に転換した。(454頁)
R-3-3  後年ふりかえって後付け的に、1977年「ダッカ日航機ハイジャック事件」の日本の対応を、後の西ドイツの対応に比べ、批判的に言及するようになった。百田氏がこの事件を「平和ボケ」の象徴的事件と説明するのは、的外れで誤りだ。(454-455頁)

R-4  日本も1977年「ダッカ事件」以後、人質救出の専門部隊を用意し、1995年の「全日空857便事件」で人質救出、犯人逮捕の実績を挙げた。これは後に「SAT」(特殊急襲部隊)に発展した。(455頁)
R-5  アメリカは「ダッカ事件」および「GSG-9」(ゲーエスゲーノイン)を参考に、陸軍に「デルタフォース」を創設した。(455頁)

R-6  「ダッカ日航機ハイジャック事件」(1977年)に対する日本政府の対応に一定の批判があったのは確かだが、当時の他国の事件の対応にも同様の批判はあり、日本だけのことではなかった。(455頁)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする