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現存在の根本的諸構造は《時間的》であり、時間性の時熟の諸様態として理解さるべきものである!ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第3章」「第61節」

2020-02-19 21:14:55 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第3章 現存在の本来的な全体存在可能と、関心の存在論的意味としての時間性」「第61節 現存在の本来的な全体存在の画定から、時間性の現象的打開へいたる方法的進路の素描」

(1)本来的な《死へ臨む存在》は「先駆」であり、現存在の本来的な存在可能は「覚悟性」である! 実存的に可能な本来的全体存在可能としての「先駆的覚悟性」!
A 「本来的な《死へ臨む存在》は先駆(Vorlaufen)である。」(302頁)
A-2 「現存在の本来的な存在可能は・・・・覚悟性(Entschlossnheit)として実存論的に解釈された。」(302頁)
A-3 「実存的に可能な本来的全体存在可能」としての「先駆的覚悟性」!(303頁)
《参考1》「先駆(※「死へ臨む存在」として可能性へむかう存在)は現存在に世間的-自己(Man-selbst)への自己喪失を暴露し、現存在を引きだして・・・・自己自身として存在することの可能性へ臨ませるが、その自己とは、世間(das Man、世人)のもろもろの幻想から解かれた、情熱的な、事実的な、おのれ自身を確承せる、不安にさらされている《死へ臨む自由》における自己なのである。」(266頁)
《参考2》「《良心を持とうとする意志》に含まれている・・・・開示態(※自己意識)は、ひとごとでないおのれ自身の負い目ある存在へむかって、③沈黙のうちに、②不安を辞せずに、①おのれを投企することである。」この際立った開示態が「覚悟性」である。(297頁)

(2)現存在として実存する自己の存在は、関心(気遣い、die Sorge)である!
B 「現存在の《存立》は、なんらかの実体の実体性にもとづくものではなく、実存する自己の《自立性》(Selbstandigkeit)にもとづくものである。そしてその自己の存在を、われわれは関心(気遣い、die Sorge)として把握した。」(303頁)
B-2 「関心(気遣い)のうちに含蓄されている自己という現象は・・・・根源的なかつ本来的な実存論的画定を受ける必要がある。」(303頁)

(3)現存在の根本的諸構造は・・・・《時間的》であり、時間性の時熟の諸様態として理解さるべきものである!
C 「関心の現象の存在論的意味を規定することはおのずから時間性の露呈となる。」(303頁)
C-2 「時間性が現象的な根源性をもって経験されるのは、現存在の本来的な全体存在にそくして、すなわち先駆的な覚悟性の現象にそくしてである。」(304頁)
C-3 「頽落的な存在了解(存在=客体性)」の下では、「現存在の存在の根源的基礎」は捉ええない。(304頁)
C-4 「われわれがこの基礎として示す時間性」、つまり「時間性の根源的現象にもとづいて、通俗的な時間了解を・・・・解明することができる。」(304頁)
C-5 「現存在の根本的諸構造は・・・・《時間的》であり、時間性の時熟の諸様態として理解さるべきものである。」(304頁)
《参考3》「世界の内部に存在するものは『時間のなかで』出現するといわれる。」この意味での「時間」が「内時性(die Innerzeitigkeit)」としての時間である。「内時性」としての時間の根源は「時熟(Zeitigung)」である。「現存在の存在を構成する存在了解は、この根源的な時熟(Zeitigung)にもとづく」。(235頁)

(4)「第3章」の区分(第62,63,64,65,66節)
D 本章(「第3章 現存在の本来的な全体存在可能と、関心の存在論的意味としての時間性」)は、次のように区分される。
一、先駆的覚悟性としての現存在の実存的=本来的な全体存在可能(第62節)
二、関心(気遣い、die Sorge)の存在意味の解釈のために得られた解釈学的状況と、実存論的分析論全般の方法的性格(第63節)
三、関心と自己性(第64節)
四、関心の存在論的意味としての時間性(第65節)
五、現存在の時間性と、そこから生ずる実存論的分析の根源的反復の課題(第66節)
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鴨長明『発心集』(1214頃)「第五」:「二」女の絶望は深く、救済を法華経に求めるしかなかった!絶望が女を悪霊にし、男に復讐しても、女が責められる理由はない!

2020-02-19 10:49:17 | 日記
※鴨長明(1155頃-1216)。 ※現代語訳は角川ソフィア文庫を参照。

「発心集 第五」「二 伊家(コレイエ)並びに妾、頓死往生の事」       
男(藤原伊家)がある優美な女性に言い寄り、長年通っていたが、だんだん途絶え、とうとう通わなくなった。女は嘆きながら年月を送った。ある日、男が牛車で女の家の近くを通った。女は「申し上げたいことがございます。お立ちより下さい」と告げた。男は車を留め、邸に入る。しかし以前と違い、庭はすっかり荒れていて、男は自分の罪深さを知った。女は少し面やつれしていたが依然と同じように美しく、肘掛けにもたれ法華経を読んでいた。女は法華経の「この命終に、即ち安楽世界の阿弥陀仏のもとに往く」という部分を、二度三度繰り返し読み、そのまま眠るように、座りながら息絶えた。鴨長明の意見:男に捨てられ苦しさから悪霊になった女の例などと較べれば、この女は、その苦しさを極楽往生の機縁にした点で大変立派な心の持主だ。
《感想》鴨長明は、男に都合の良い綺麗ごとを述べている。女は悪霊にならなかったが、絶望は深く救済を法華経に求めるしかなかった。絶望が女を悪霊にし、男に復讐したとしても、女が責められる理由はない。
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